本を読むときの、本に対する態度

風呂場でお気に入りの本を読みながら、ああそうか、本を読むことはそういうことなのか、と妙なところで安堵した。最後の「静寂」のページは空欄だ。そこに自分なりの静寂を思い描く。その直前のページは「静けさを理解し、世界を遮断する悦びを得る方法」とある。世界を遮断して、静かなところで、自分の頭で自分のことを考える。考えるにあたって本は参考にはなるけれど、それがすべてではない。そう教えられた気がした。

 

世界には無数の書物があるが、あなたが体験したことに勝る知識を与えてくれるものは一冊もない。

 

私が本を読むときの、本に対する態度は大きく3つ。

 

①この世のすべての本を読み終えるということは不可能だと自覚すること

ゴールを期待しない。このラインまで読めば、満足できるくらいの知恵を得られる、という到達点はない。誰よりもたくさん読もうと意気込んだところで、全ての本を読むことは物理的に不可能だ。読めば読むほど、読むべき本はどんどん増えていく。

 

②自分がどれだけ成長するかは気にせず、読んでいる時間そのものが快適であればそれでよしとすること

自分の成長を期待しない。読んだ後に情報を覚えていなくても(あまり)気にしない。読んでいる時間が楽しければそれでいいじゃん、と考える。読書なんて、そんなものだ。読んでいる時間に身をおくこと自体が快楽だから読んでいるんだ。

 

③自分の体験に勝る本はこの世に一冊もないのだと気づくこと

本に崇高であることを期待しない。本を読むことは崇高なことでもなんでもない。呼吸をするのと同じで、当たり前にするものだ。本を読んで、そこから学んで活かすのはあくまでも自分である。学んで活かした結果、経験したことは自分のオリジナルであり、どんな本よりも有益である。

 

この3つだけ意識さえすれば、本のある暮らしはきっと楽しい。

 

静寂とは

静寂とは

 

 

写真集

写真集専門の書店に行った。吉祥寺駅を降りて、井の頭公園をつっきるように歩く。住宅街の先にあるその小さな書店に入るには、まず呼び鈴を押して店主に扉を開けてもらうことから始まる。消毒をして、静かに店内に入った。あっという間に見尽くしてしまいそうな小さな棚に、ゆったりと写真集が並んでいて、これまで経験したことのない本屋の風景に、息をのんだ。

 

恥ずかしながら、写真集を買ったことがほとんどない。高校生くらいの時に、当時テレビで観て大好きだったアイドルの水着写真集を、かなり勇気を出して本屋で買った。それが多分最後だ。写真集という本を買ったというより、そのアイドルの、肌の露出度の高い水着姿を見る権利を買ったにすぎない。

 

そんなだから、棚に並ぶ写真集を見ながら、正直どう楽しんだらよいのだろう、と迷っていた。ピンと来ないまま店をあとにしなければならなかったらどうしよう、と臆病な自分は不安になる。一冊の厚めの本が目に入り、それが気になったのは、大きな岩を撮ったモノクロ写真がそのまま貼られたシンプルな表紙に、潔さを感じたからだと思う。そしてなんとなく事前にSNSで見ていた風景とリンクして、これは良さそうという予感を感じた。タイトルは「Ehime」。愛媛県だからEhime?

 

ページをめくり、それが愛媛県の風景写真であることを知る。何でもない風景を切り取った写真が、均整のとれたアートのように見えた。ただの家。ただの擁壁。ただの海。ただの木。もし自分がその場にいて同じ写真を撮ったとしたら、きっとこういう気持ちにならないだろう。どうしてこの写真からは清らかな空気を感じるのだろう。実際に行っていない場所に自分があたかもいるかのような幻想を味わえるから?それとも、この風景を気に入ってシャッターを押した写真家に自分を重ねて自らを写真家化するから?

 

写真集の魅力を熱を持って伝える店主のように、私はこの写真を見て興奮し、「この写真のここが良いんですよ!特にこれ!観てください!」と他人に伝えたいと思う、とまではいかないけれど、風景を見てきれいだと感じ、またそう感じるのに色は必ずしも要らないのだということに気づけたから、一歩先に進めたのだと思う。単なる風景にアートを感じるのはなんでだろう。ただ写真を見せられているだけじゃないか、と本を床に叩きつけることなく、その風景のなかに飲み込まれる感覚をちょっとでも感じるのは、なんでだろう。どういう撮影技術がそうさせているのだろう。写真についてこれから勉強してみよう、と強く思わせてくれる写真集に出会った。

 

レジで「あぁ、ありがとうございます。Gerry Johansson、お好きなんですか?」と聞かれ、「いや。初めてです」と打ち明けた写真集初心者に対し、店主は別の写真集も織り交ぜながら写真家を紹介してくれた。写真集の良さを伝えたい、という熱意を持つ店主と、Gerry Johanssonの写真について会話を楽しめるくらい、勉強したいなぁと思った。

 

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Ehime

Ehime

 

  

東京の美しい本屋さん

東京の美しい本屋さん

  • 作者:田村 美葉
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

メモすることと、丁寧に伝えること

管理組合の理事会に出席しているときのこと。大規模修繕工事の流れについて質問されたので、こたえていたら、それを熱心にメモをとっている理事の方がいらっしゃった。

 

もう何度も言われ続けているし、自分もその重要性はしっかり認識しているはずなのだけれど、改めてメモをとることって大事なんだなぁと感じた。

 

自分が話をしていることに対してメモをとっている他人を見ると、自分も発言に気をつけなければならない、と感じる。不用意な発言はできないし、(いつも注意はしているけれど)いつも以上に言葉を選んで、慎重に、かつ簡潔に説明しなければ、と思う。

 

そうやって、自分が他人に対してどう説明するかを客観的に観ようとすることが、自分の説明の正確さ、分かりやすさを磨くために必要なのだと感じた。ただ頭に浮かんだ言葉を口にして、かっこいい語彙が口をついて出たことに酔って、「けっこういいこと言ったじゃん、自分」なんて思っている限りは、伝えるべきことの大半は伝わっていないだろう。言葉にする自分と、その言葉を聞いて理解しようとする自分。二人の自分が一緒にいるようなイメージだ。言葉を聞いて理解しようとする自分がいるから、いま言う必要のない無駄な言葉はそぎ落として、重要なことだけをつまもうとすることができるのだ。

 

メモの魔力 -The Magic of Memos- (NewsPicks Book)

メモの魔力 -The Magic of Memos- (NewsPicks Book)

  • 作者:前田裕二
  • 発売日: 2018/12/24
  • メディア: Kindle版
 

 

マザーリーフ

植物をいただいた。どうぞ、ぜひ育ててみてください、と手渡されたのは、大きな葉っぱのギザギザした先に小さな葉っぱがびっしりついた植物。なんでも「マザーリーフ」というらしい。

 

自らの葉を栄養分にして、その表面から葉がさらに育っていく。そんな「つながり」を連想させる。自らの葉を犠牲にして次の命を育てている、ともいえるかもしれない。生命の神秘を感じる瞬間だ。

 

植物を育てるのは決して得意ではないけれど、こういうものを育てていく中できっと、心は豊かになっていくんだろうなぁ、という期待はある。ハーブ類をドライエリアに置き、1か月ももたないくらいで枯らせてしまった私としては、こんなことでくじけてはいけない、と自らを叱咤する。

文喫

本屋の本で知って興味を持った「入場料制という新しい形態をとっている本屋」に行くために六本木へ。

 

本を買う買わないによらずお金がかかるという点では、これまで体験したことはあるけれど(滞在時間に比例して席料がかかる喫茶店など(※))、最初に一定額を払って入る入場料制は初めてだ。きっと居心地の良い場所なのだろうという期待があった。そしてその期待は、お店に入って確信に変わった。六本木駅を降りてすぐのビル。「文喫」は予期せぬ本に出会うための本屋だ。

 

他のお客さん全員が、自分と同じように入場料を払って入ってきている。だから純粋に本を読みたい、という人だけがいるということになる。自分と同じ志をもって本棚と向き合い、席に座って黙々と本を読んでいる。そういうお客さんと空間を共にすることが、快適でないわけがない。入場料というフィルターがかかっているからか、日曜日の昼間にもかかわらず、ゆったりと席に座ることができた。コーヒーやお茶を飲みながら、じっくり本を読み、2冊選んで持ち帰った。他のお客さんがなんだか皆美しく見えた。

 

大きな発見が2つあった。1つ目は、本屋を自分にとっての「自宅の本棚の延長」として捉えることができたこと。いままでは気に入った本を買って、自分の本棚に置いて蔵書化することがひとつのあこがれだった。しかし、「すぐ近くに本屋があって、気になる本があったらそこで買う。つまりその本屋が自分の本棚を拡張したものなのだと思えれば、別に自宅にたくさんの本を置ける本棚がなくたって良い」という考えを何かで知り、そういう考え方もあるのか、と感動した。買うだけが選択肢じゃないんだ、と思えた。ただ、自分はまだ本屋に対してそのように見ることができないでいた。なんとなく、違うんだよな、買わなきゃダメなんだよな。買って、毎日ご飯を食べながらふと本棚を見たときに背表紙と目が合う、そういうのが大事なんだよな、なんて思っていた。その思いが今日、なんとなく覆った気がした。あぁ、こうやってそう遠くないところに来て、入場料は決して安くはないけれど、払えば、時間を気にせず本が読める。買わないでじっくり読むだけ読んで帰っても別に罪悪感(お店にお金を落とさずに退席することに対する負い目感)を感じることがない。だったらここへ来て本を読むことを一つの習慣にしたら、ここが自分の本棚と言うことだってできるじゃないか。そう思えた。

 

2つ目は、先に書いた「買わずに帰ることに対して負い目感がない」のがいかに快適か、ということ。これまで本屋に行くときは、なんとなく買わずに帰るのが忍びなくて、なんとしても「これだ」という一冊を探そうとしていた。もちろんその本屋に残ってほしい、売り上げに貢献したい、という積極的理由があってのことなのだけれど、でもどうしてもこれだという本が見つからないときに、罪の意識にさいなまれながら店を出るのもなんか違う気がしていた。その罪悪感が、まったくない。この快感に気づけただけでも、ここへ来た甲斐があったと思った。

 

 

柳宗理 エッセイ (平凡社ライブラリー)

柳宗理 エッセイ (平凡社ライブラリー)

  • 作者:柳 宗理
  • 発売日: 2011/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

(※)

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糸電話

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文房具屋が好きだ。別にこだわり文具を使っているわけでもなく、また、ないからといって特別困ることもいまはあまりないけれど、小さな文房具屋に入り、店に並ぶ文房具を見ていると、どうやって使おうか、とわくわくしてくる。

 

将来、例えば何らかの理由で仕事ができなくなったり、新しいことを始めるタイミングが訪れたりしたら。企てたいことの一つに、文房具屋がある。自分自身、文房具をもつことでなんだか気分があがるということがある。冷静に考えたら使いみちなんてないのに、どうやってつかってやろうかとあれこれ想像することがある。そういうことって、なにも自分だけじゃないでしょう。みなさんもどうぞ、想像してみては。そんな単純な動機だ。あとは、スマホとか、インターネットとか、SNSとか、あくまでもそういうツールではなく、アナログな道具を使って想いを伝えたり、気持ちを文字にしたり、消したりしたいのだ、という、いわゆるテクノロジーへの反抗心もある。

 

お店の名前は、実はもう決めている。以前大好きな本屋さん主催の、店の名前を考えるというワークショップに参加して、つくったものだ。「売る商品のテーマは『愛』」。このキーワードから、あれこれとブレインストーミングを繰り返し、出てきた言葉が「ミエナイイト」だった。見えない糸。想いを伝える人と人との間には糸があって、それでしっかりと結ばれている。だから想いは伝わるのだ。そんな、言葉にするとちょっとクサイけれど、ストーリーが頭のなかにあった。

 

小さいころ、糸電話で遊んだ記憶がある。二つの紙コップの裏に糸をくっつけて結ぶ。少し離れたところには一方の紙コップを耳につけた友達が。その友達に向かって、紙コップを口にあててしゃべる。交代すると、肉声よりもはっきりと、友達の声が耳に届き、驚いた。

 

声が糸を通って相手に届く。とするならば、遠く離れた友人に手紙を書いて送るのも、友人との間を結ぶ見えない糸を通って手紙が行き来しているということなのではないか。現実的には郵便屋さんが届けてくれるそれも、見えない糸が実はあって、その糸のおかげなのだと思うと、ちょっとロマンチックだ。世の中にはきっと無数の見えない糸がある。他人に情報を知らせ、想いを伝え、志を残す。その糸の役割を、世の文房具屋は担っている。だとしたら、自分もその役割を担う一人でありたい。そう思った。

 

詩人のウチダゴウさんに書いてもらった店の名前の紙。それは自分の机の見やすい場所に貼っている。なんとなく眺めていると、別に何の根拠もないのに、その名前のお店を開くことをいつか実現できそうになるから不思議だ。

  

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FUGLEN 浅草(再度)

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田原町~谷中~小石川と、本屋巡りで歩いた一日。

 

田原町は「Readin' Writin'」。谷中は「ひるねこBOOKS」。弥生坂の上にある「緑の本棚」を通って、最後に小石川の「Pebbles Books」へ。けっこう歩いた。

 

Readin’ Writin'のあと、浅草寺の方へ向かって歩く。以前満席で入れなくて、何としても一度入ってコーヒーを飲みたいと思っていたカフェがある。花やしきの近く、カプセルホテル「9 hours」の1階。ノルウェーのコーヒーが飲めるカフェ「FUGLEN」は、その北欧風のインテリアがかっこよくて、外から見とれていた。今日こそはとも思ったけれど、でも日曜日だし、やっぱり座れないかなと半分あきらめていた。窓際の席が空いていることに気づき、安心し、まだ飲んでもいないのに目的を達成したような気分になった。

 

板張りの天井。カウンターテーブルはリノリウムか。足元は、一転して無機質さを感じるモルタルの床。そして鉄骨のらせん階段。暖かさと冷たさが違和感なく混じりあっている。定番の北欧スタイルを思わせるソファや棚もシンプルですっきりしている。コーヒーや食事も良いけれど、こういう空間に身を置いているだけでも気持ちが良いと思えた。

 

コーヒーは、ややすっぱめ。いつも飲んでいるコーヒーと違ったテイストで、こういう感じなのか、と驚いた。大好き!という感じではなかったけれど、でも味を知ることができて良かった。

 

浅草の、人通りの多い中で外を見ながらしばらくぼんやりしていた。目の前の外の席に座ったカップルのかばんの中には小さなパグちゃんが。以前FUGLENを知ったきっかけの雑誌の写真にフレンチブルが映っていたのを思い出し、なんだかほほえましかった。ここは犬に愛されるカフェなのか?

 

 

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・・・ワッフルを食べるのを忘れた!

 

 

寛容になること

「行けたら行く」という言葉は、「行けない」という意味でほぼ間違いない。そういう意見もいまは多いと思う。飲み会に誘われた人が「行けたら行くよ」と答えたら、それは行きたくないということだと思ってよい、だから期待するな、というように。そのような言葉がなんとなく自分にインプットされたからか、「行けたら行くよ」と言われるということは、拒否の意向をオブラートに包まれた形で示されたも同然なんだ、というように思え、マイナスの感情が生まれる。けれど、必ずしもマイナスじゃないんじゃないか、ということに、あるエッセイを読んで気づいた。何度も紹介しているけれど、大好きな人の、特に好きなエッセイ「ベリーベリーグッド」。

 

ベリーベリーグッド: レターエッセイ集

ベリーベリーグッド: レターエッセイ集

 

  

伝わるちから (小学館文庫)

伝わるちから (小学館文庫)

 

 

「会えたら会いたい」という言葉が好き、だという。私なんかはこの字面だけ見ると、「会えたら会いたい」=「でも会えないかもしれない」「予定があるから会えなかった」というように、会うことをやんわり断る言い訳にも聞こえなくもない。でも、著者の感じ方はまったく逆だ。なるほどそういう感じ方もあるのか、と結構驚いた。

 

「会えたら会いたい」は、普通に「会いたい」と言うよりも強い言葉だなあと思っている。控えめなようで積極的というあいまいさが、相手からすると、返事をしやすいという雰囲気も含んでいる。だから使いやすいんだ。

 

僕なんかは「会えたら会いたい」と言われたら、ものすごく嬉しい。「えー、ほんとにー」と。「会えたら」という部分に思いやりも感じるし。

 

そう考えると、「行けたら行くよ」というのも、「あぁ、じゃぁ来られないんだな。というか、来たくないんだな」と嫌な気分になるのではなく、「そうか、じゃぁ来られたら来てよ」とこちらが返事しやすいように言ってくれたんだな、と感じることもできる。感じ方はひとそれぞれ、とはこのことなのか。

 

結局、相手の言葉に対してイライラしたり、嫌な気分になったりすることから自分の身を護る最適な方法は、「寛容になること」なのだと思う。相手はこう言っている。そこにはこういう意図がなんとなく含まれているのだけれど、そう思うのもまた仕方のないこと。というように、まず自分に受け入れることが、大事なのだろう。そしてこれは、暮らし全般において、大事なキーワードだなと、改めて感じた。

 

カルテット

テレビドラマ「カルテット」をまとめて観た。リアルタイムでは観ておらず知らなかったけれど、面白いよと紹介されて観たら、これがすごい面白かった。それぞれ境遇の異なる4人が、それぞれ隠し事をしながら弦楽四重奏「カルテット」を結成する。こういう「メンバーそれぞれが個性を発揮しながら共同体を動かしていく」ストーリーには昔からあこがれがあった。その典型だと思いながら観始めた。そこにはそれ以上の面白さ、刺激があったように思う。

 

ところどころで展開されるコミカルな会話に心を奪われがち。でも、ところどころにもっと刺激的な言葉がある。観ているとストーリーに飲み込まれてしまうから、おっと思ったらすぐメモしなければならない。でないと忘れてしまう。メモして、糧にしたいと思う。ちょっとでもそう思わせてくれる言葉に出会えるのが、ドラマの良いところだ。

 

真紀「ずっとここでいいかなって気がします。それじゃ向上心なさすぎるかな」

別府「みんながみんな、向上心もつ必要ないと思いますよ。みんながみんな、お金持ち目指してるわけじゃないし。みんながみんな、競争しているわけじゃないし。ひとりひとり、ちょうどいい場所って、あるんだと思います」

 

すずめ「行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか」

諭高「意味が分からないね」

 

真紀「このままみんなと、一緒にいたいんです。死ぬなら今かなってくらい、今が好きです」

  

真紀「咲いても咲かなくても花は花ですよ」

すずめ「起きても、寝てても、生きてる」

別府「つらくても、苦しくても、心」

技術の蓄積が欲しい

いまこの本を読んでいる。タイトルで気になって手にしたものの、しばらく本棚に置いたままにしていた。

 

ぼくは蒸留家になることにした

ぼくは蒸留家になることにした

  • 作者:江口 宏志
  • 発売日: 2019/12/10
  • メディア: 単行本
 

 

20年近く本を扱う仕事をしてた著者が「蒸留家」になるまでの話。著者はあくまで「自然な流れ」だったと言うけれど、その決断に至るまでには何かカギとなる思考があるのだろう。これまでの仕事に対してどのように考え、そして全く異なる世界に飛び込もうと決意したのか。それを知りたかった。それを知って、自分の仕事への活力に変えたいと思った。

 

その好奇心は、「はじめに」を読んでおおよそ満たされたように感じた。

 

ほかの店との差別化に頭を使うことへの疑問、先の見えない疲れとでも言うべきか、一生懸命考え抜いたからこそ、自分ができることの限界が見えてしまった。

 

他人と同じことをやっても仕方ない。違うこと、ニッチなことを何としても探さなければならない。自分もそう考えていた。それが自分の仕事に価値を見出すための近道だと思っていた。だからこの言葉を読んで、差別化に頭を使うことに何の疑問も抱かずに来た自分は単細胞なだけなのかもしれない、とはっとした。なんで狭い隙間にある小さい穴をこじあけるようにして進まなければならないのか。誰かと一緒でも、それに価値があることならいいじゃないか。そう気づいた瞬間、視界がぱっと広がった気がした。まだ「はじめに」しか読んでいないのに・・・。

 

そして第1章の序盤で、そういうことか、自分の心の中でなんとなく燻っている想いを言葉にするとこういうことなのかもしれない、と妙に納得できた。

 

本当に洗練されたものって(中略)それぞれの独自の背景があってこそなのだと思う。そうした背景をすっとばして、表面だけをなぞったような「ライフスタイル」があっという間に世を席巻するのに、ぼくは食傷気味だった。

うわべだけの「ライフスタイル」が消費されていくのを横目で見ながら、ますます表現の下にあるしっかりした「技術」の蓄積が自分にも欲しくなった。

そう考えたときに、漠然と、自然と関わりながら、ものをつくりたいという気持ちが湧いてきた。自然は普遍的であるがゆえ、簡単に消費されることなく長く関わっていけそうな気がする。

 

アイデアを出す。企画をつくる。そしてプロデュースする。一緒に仕事をする仲間を動かす。それらももちろん仕事の一つであり、立派な技術だ。けれど、そうしたことよりも、自身の体を動かしてゼロからなにかものを作りたいと思った、と著者は言う。きちんとした「技術」が欲しかった、と。その言葉が、「技術」と堂々と呼べるものを何一つもっていない自分と重なった。そうなんだ、私は技術が欲しいんだ。職人になりたいとは言わない。自分が思う理想の職人には、もうなれない。けれど、例え環境が変わっても、身一つで稼げるような「技術」は、もてるはずだし、もたなければならないと思う。

 

蒸留家になるまでの道のりのことを読むのは、これから。楽しみ。

 

小さな庭を

地下1階のドライエリアから1階のテラス(と呼んでいる小さなバルコニー)に植物を移した。ユーカリの鉢植えは、一度は地下に降ろした重い鉢をもう一度上にあげるのに苦労したけれど、前よりも日の当たる場所に置くことができた。また、枯れてしまったハーブ類の代わりに新しい花を買って植えた。今日、日光に当たっている彼らを見て、やはり1階がふさわしい場所だったのだ、と思った。寝室に面している場所なので、リビングにいて頻繁に目に入るというわけではない。けれど、水をやるときなど、一日のうちほんのわずかであっても、彼らを楽しむ時間をもてると、それだけで有意義なんじゃないかと思った。

 

鉢植えを移したことで逆にガランとしたドライエリア。ではここに何を置こう、と考える。事務所のスタッフからは、地下でも育つよとシダ植物をすすめてもらった。それも良いだろう。けれど、いまはこの「前はあったけれどそれがなくなってできた空白、余白」を楽しみたいと思った。潔く、植物のないドライエリアも良いだろう。リビングは、急成長中のポトスと一輪挿し。それだけで良しとしよう。その代わり、1階のテラスを小さな庭にみたてて、ガーデニングを楽しむのが良いだろう。4連休を経て、また新しい楽しみができた。

 

鳥の目

リフォームの打合せでクライアントのお宅へ。一緒に行った設計のスタッフが事前に素案を出していて、その詳細の説明とそれに対する要望の確認、現地状況チェックが主な目的。正直、設計スタッフが主に説明を行い、自分が主導権を持って説明をすることはほとんどない。そう思っていた。打合せが終わる直前までは。

 

違った。もちろん要望のヒアリングは設計スタッフが主に行うけれど、自分は別の視点で、進めるべき話があった。具体的な設計のことではなく、リフォームというひとつのプロジェクトをお互いに安心して、安全に進めるための取り決め、契約についてのことだ。そのことをすっかり忘れていたことに気づいたのは、打合せをほぼ終えて、次回までにこちらが対応することの最終確認をしていたときだった。

 

打合せのすべての内容について、自分が主体的になる必要はないのかもしれない。けれど、コーディネーターという役割をもつ自分が今日提示しなければならないことはなにか?重要なことを忘れていないだろうか?それを点検するという作業を、おろそかにしてはいけないと思った。もっとプロジェクトを鳥の目で見て、いまこのタイミングではどの話をする必要があるのかを確かめること。もし話が停滞していたり、違う方向に行っていたりしたら、きちんと軌道修正すること。その視点をもって仕事に取り組むべきだということを、もっと意識する。

 

植物を育てる場所

ドライエリアで育てていた植栽を枯らせてしまった。失敗しながらでもいい、試行錯誤していこう、と気軽に始めたものだったけれど、やはりショックだ。思った以上にドライエリアの日当たりは良くないらしい。ちょうど日光があたる時間帯があるからと、鉢植えの位置を微妙にずらしたけれど、それもよくなかったのかもしれない。壁際では風もあたらず、じめじめした空気をもろに受けたのかもしれない。ユーカリに関しては、葉の色が薄い緑から茶色っぽく変わってきた。これはまずいと思った。今朝、鉢植えを地下1階のドライエリアから1階の小さなバルコニーに移動した。光と風がよくあたる場所で、もう少し頑張って育てようと思う。

 

東林間に遊びに行くときに、よく立ち寄るカフェがある。大通りに面したマンションの1階、敷地内に入り込んでからアプローチするそのカフェは、入口前にびっしりと並ぶ鉢植えの植栽が豊かで、いつも清々しい気持ちで店内に入る。今日、コーヒーを飲みながらアイビーやワイヤープランツなんかを眺めていたら、それらの植栽がちゃんと日光を浴びて、風を受けてなびいていることに気づいた。それはそうだ。光と風。あともちろん水。それのどれが欠けても丈夫には育たないであろう。こうやって育ててあげなければ、と思った。

 

部屋にいる自分が目で楽しめる位置か、ということを優先するのではなく、あくまでも植物目線で。そこまでは意識していた。だから、窓越しによく見える場所ではなく、室外機からも離し(室外機の風を浴びるのは良くないだろうから)、ドライエリアに出なければ眺めにくい場所に、置いた。でも、大前提としてダイニングのある地下1階に置きたいという自分の中のちょっとしたわがままがあって、日当たりがあまり良くないという悪条件から目を逸らしていた。そのことに今日気づいた。

 

SNSへの祈り

昨晩huluで「3年A組」を観だしたら、止まらなくなって、結局最終話まで一気に観てしまった。終わったのは夜中の4時頃。寝て電気を消してしばらくしたら、外が明るくなってきて驚いた。

 

ストーリーは衝撃に次ぐ衝撃。クラスメイトの自殺の真相がはっきりした瞬間、「そういうことなのか!」と叫んでしまった。いまの世の中を真正面から描写しているようで、胸が詰まった。

 

これがテレビで放送されたのが去年。ここでSNSに対する警鐘が鳴らされて、いまに至るのだとすると、現状はまだまだ改善されているとは思えない。誹謗中傷が行き交うギスギスしたSNSとは距離を置いて付き合いたい。それでも、主人公の教師が言うように、大半は行動を変えなくても、たった一人でも、冷静に考えて、思いとどまる人がいれば、それは一歩前進なのかもしれない。ラスト、エンターキーを押さなかった男に、作者の祈りのようなものが凝縮されていると思った。そうやって祈り、強く伝えようとする作者のような人が、いてくれて良かった。

hulu

ひょんなきっかけでhuluに登録したので眺めていたら、ちょっと気になって頭の片隅にあったのだけれど観ていなかったコンテンツを発見した。せっかくの休みだし、と何の気なしに第一話を観たら、飲み込まれてしまい、続きの観たさにうずうずする。最終話まで通して観ることができるのに、もうこんな時間。続きは明日にしようか。いや、全10話のうち5話まで観終わり、第一部完結!第二部へ!!新展開にドキドキする。

リアルタイムだったら民放で、1週間に一度の放送で、続きが気になっても1週間待たなければならず、放送もコマーシャルがあったりして、と、気が気じゃない。それがコマーシャル抜きで、観たいときに観たいタイミングで観ることができる。なんて贅沢なことなんだろうと、いまさらながら思った。これがいままで実現できなかったから、テレビというメディアの受動性に嫌気がさし、テレビから離れていたのだった。この能動性こそが、欲していたものだったんだ。自分にとって必要だから観る、という能動性があれば、たとえ有料でも構わない。有益な情報を得る対価を払うのは、当たり前だと思えるようになった。

 

一方で、垂れ流されるコマーシャルを無理やり見させられることと引き換えに、無償でコンテンツを味わうことができるというテレビ放送の構造は画期的だとも思う。小さい頃はそのテレビのおかげで豊かさを得て、学校での友達との話題が尽きることもなかった。だから昔はテレビが自分にとって最高のメディアだった。しかし、毎日画面をなんとなく観て、日曜日はこれ、月曜日はあまり面白いのがないけどまぁこの選択肢だったらこれかな、水曜日は毎週待ち遠しいこれをなんとしても観なければ、という「番組をつくる側の都合」に寄せなければならない受動性に、時間の経過とともにイライラするようになったのだと思う。これは心の成長なのか。退化なのか。

 

いずれにせよ、世間からやや遅れた感はあるけれど、観たいコンテンツに気づき、時間を限定して、集中して観る。これも休日ならではの贅沢だと思った。

 

その番組は「3年A組」。湊かなえ「告白」に通じるようなスリル、ドキドキ感、非現実的なのだけれど、いまの時代の嫌な部分があぶり出ているようで心がギュッと縮むよう。そしてヒロインの茅野さん(永野芽郁ちゃん)がかわいくて、純粋で、素敵。やはり今夜は眠れそうにない。