奇跡を確かめる勇気を

日曜日。場所は松陰神社前。買い物ついでに立ち寄ったのは、3年前に一度入ったきりだった小さなカフェ(※1)。居心地こそ良いものの、座席数の少なさに入って長居するのもためらわれて、しばらく遠のいていた。久しぶりに入ったら、大きいテーブルがあいていて、座ることができた。途中で土砂降りの雨が降り出して、雨宿りもかねてちょっと長居した。贅沢な時間だった。ただ満席状態のカフェにいると、そんなこと本当は気にしなくてよいのだろうけれど、どうしてもすぐ退散したくなる。

 

別の席に座っている女の子がなんとなく気になったのは、彼女が自分より後に店に入ってきて、しばらく経ってからだった。女子ひとり、さっそうとカフェにやってきて、彼女なりのひとり時間を楽しんでいるようだった。なんとなく見覚えがあった。薄い緑に染めた髪。ひとりでも堂々としたふるまい。どこかで会ったことがないだろうか。そこで、今年の1月に参加したワークショップで一緒だった女の子がふと頭に浮かんだ。

 

とはいえ、ワークショップで一緒だった彼女の顔をはっきり覚えているかというと、そんなことはなかった。だから確信が持てず、というよりそうでない可能性の方が圧倒的に高いと思った。たぶん街ですれ違っても、「ああ、あの時の」と声をかけることはできないだろう。それでも、もしかしたら・・・というちょっとしたひっかかりがあったのは、すごく似ていたとかそういうことよりも、「こんなところで偶然会うなんて。あの時はワークショップ、楽しかったですね。あの時に考えたお店の名前(※2)、私はいまも自分の机に貼っていて、眺めているんです。空想と言われればそうかもしれないけれど、実現したらいいなぁ、なんてぼんやり考えているんですよ」と会話が弾むような、そんな奇遇な再会が、あったらいいなぁ、と期待していたからかもしれない。

 

雨がちょうど降りだすタイミングで席を立ち、さっと会計をして、店を出ようとした彼女は、「降ってきちゃいましたね。この空模様だとやむのに20分くらいかかるかも。どうぞゆっくりしていって」という店主の厚意に甘えてふたたび席についた。たぶん席を立ったのも、次にやってくるであろうお客さんに席をあけようと気遣ったんじゃないかと推測する。その直前に、席があいたら電話しますから、ということで入れなかったお客さんがいたからだ。私のただの勘繰りすぎかもしれないけれど、そうだとしたら優しい女の子だなぁ、なんて思った。席をあけようとしたのも、店主の厚意に甘えたのも、彼女の優しさ、上品さがそうさせたのではないか。ワークショップで彼女が考えていた店の名前に滲むセンスと、重なった気がした。

 

99パーセント、人違いだろう。ただもし、ほんの1パーセントの奇跡が起きるとしたら。残念ながら、「ひょっとしてあの時の・・・」と話しかける勇気を私はもっていない。1パーセントの奇跡が起きたのかどうか、いまはもう確かめようもない。

 

(※1)3年前の記憶 

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(※2)お店の名前を考えるワークショップ 

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ボナペティ

THE YELLOW MONKEYの名古屋ドーム公演配信を、待っている。

 

ドームツアー最終日の東京ドーム公演が中止になったのが4月。それから5か月が経とうとするいまも、まだまだライブだ!という空気が戻らない。そんな社会になってしまったことに愕然とする。でもただ愕然としているだけでは前に進まないので、彼らのサービス精神を胸で受け止めながら、アツい夜にしたい。夕飯も済ませた。風呂にも入った。そろそろ準備ALRIGHT。

 

「どうぞ召し上がれ」そうさらっと言ってくれているようにも感じる。最高においしい料理だ。ナーナナナーナーナーナーナナナーナーボナペティ♪なんて言ったらいいんだろう、言葉で言い表せないこの躍動感。サクサク感。トコトコ感。9999ツアーのオープニングの「ボナペティ」には、そんな不思議な浮遊感がある。今回、東京ドームで音を聴くことができなかった、でも誰のせいでもないから誰のせいにもできない、この憂さを晴らす機会を、「どうぞ召し上がれ」の一言を添えて与えてくれたのだと思うと、なんだか泣けてくる。

 

DVDで映像を観るのとやっていることは同じなのに、こうも興奮度が違うのはなんでだろう。それはきっと、待ち望んでいる時間を他人と共有しているからではないか。DVDを買った場合は、いつでも観ることができる。巻き戻しも早送りもできるし、一時停止もできる。続きは明日、ということもできる。でもそれだと「ライブを楽しんでいる今」という瞬間のありがたみが薄れてしまうのかもしれない。いまさらながらそう感じた。

 

本を買ってプラマイゼロ

昨日、本棚からあふれた本を手放そうと思って古本屋に本を売ったのに、昨日今日とまた新刊書店で気になる本を買ったので、結果プラマイゼロになった。しかもこのところ気になる本はたいてい単行本で、大きい。どう考えても単行本より文庫本、新書の方がたくさん納まるし、手にもって読みやすいし、カバンにも入れやすい。なのに単行本をこんなに買うなんて、、、とちょっと頭にモヤがかかりながらも、単行本を数冊持ってレジに向かう。あぁ、「プラマイゼロ、むしろマイ」なんて思ったりする。しかしそれと同時に、あぁ、自分は本が読みたいというより、本を買いたい、といった方が気持ちに近いのではないかと思った。本をレジにもっていって、お金を払って、さぁ読むゾ、という気分を味わうのが、好きなのだ。そして、気に入った本を買って、自分の手の届く自宅の本棚に移して、これは自分の本なんだ、と思いながらその本棚を眺めるのが、好きなのだ。冷静に考えると、ただその本の居場所がお店の棚から自宅の本棚に移動しただけにすぎないのに。

 

例えば自宅近くのお気に入りの本屋さんが自分の本棚のようなものだ、読みたいと思ったときにアクセスして買えばいいんだ、という視点を持つと、「気になる本はとりあえず買っておく」という考えはなくなるかもしれない。でも自分はまだしばらくこの視点は持てそうにない。とりあえず、自分の本棚におさめて、ぼんやりと眺めたい。

 

ブックオフと古本

久しぶりにブックオフで本を売った。在庫が少ないので買取を強化します、というニュースを見たというのもあるが、一番の目的は本棚の中を代謝させるため、だ。これはもう読まないだろう、という本も少なからずあるので、それは売るなり処分するなりしていかないとただ増えるだけになってしまう。一定の名残惜しさはありつつ、必要なことだと腹を決めて、本をバッグに詰め込み、駅前のブックオフに向かった。

 

実はここのブックオフに入ったのは初めてだった。店内にたくさん並ぶ古本を見て、なんだもっと早く来ていればよかった、と後悔した。安く買える古本屋というものを、ここでかったんじゃ著者の利益にならないじゃないか、著者へのリスペクトの表明にならないじゃないか、と一時はプライドみたいなものが邪魔をして毛嫌いしていた時もあったけれど、いまはそれさえも通り越して、まぁ読みたい本、知りたい知識が目の前にあって、かつ安いんだから、「やっほーい」と思って手に取ればいいじゃないか、くらいに考えている。新刊を買うことだけがもちろん読書じゃない。財布を気にしないでドカッと買ったりしてたくさん知識を得たり楽しんだりできるのなら、それももちろん読書。自分だってこうして売ってるんだから。新刊を買った読み手が次の読み手にバトンタッチする。そうすることで本がより多くの人に読まれる。それだって大切な「著者にとっての利益」だと気づいたときに、古本屋に対する偏見は薄まったのだと思う。

 

もともとあまり期待していなかっただけに、想像以上の買い取り額にちょっと驚いた。昼ご飯代は軽くまかなえたから、ラッキーだったと思おう。そしてこれからは、古本であっても偏りなく見ようと思った。

 

一生懸命生きることを「危うくするところだった」にしないために

このところ本屋に行くとたいてい平積みされている。どの本屋さんに行っても、だ。きっといま、社会がこういった考え方を必要としているのだと思う。であるからこそ、ちょっと自分はあまのじゃくに、そういう言葉に感化されるようだからいつまでたっても燻ったままなんだよと、この本から遠ざかっていた。しかし今日、吉祥寺での仕事の帰りに立ち寄った本屋で見て、こうもモヤモヤやイライラに支配されつつある毎日を、多少なりとも緩く、楽に暮らせるヒントがあるのではないかと思い、手に取った。

 

ざっと読んで、内容がじんわりと心に、記憶に染み渡る感覚が得られなかったのは、きっと言葉の数々が、「一生懸命仕事をしていくことができなかった自分」を無理やり正当化しているように聞こえてなんだかモヤモヤしたからだと思う。心の中で、「自分は違うんだ。自分は一生懸命やることでやりがいを見出すことができるはずなんだ」という自負みたいなものを感じているのかもしれない。オレはこの著者とは違う、と。でも、実はそれが単なる強がりだということにも気づいている。自分の仕事を振り返ると、そうだよな、なんだかがむしゃらになるのがばかばかしく思う時だってあるし、どうだっていいと開き直る時だってある。自分が一生懸命努力しなくたって、解決するようなことはいくらでもある、と。自分がやらなければ誰もできない代替性のない仕事なんて、そうないよなぁ、と。一生懸命やることだけが大事なことじゃない。

 

そうそうもっと気楽に、と自分をなぐさめていることに気づくのが本当は怖い。でも、言いたいことはよく分かる。つらいことはしたくない。もっと、自分らしい、と言ったら抽象的な表現で何をもって「自分らしい」のかと説明するのが難しいけれど、身の丈にあった、身体が自然に動くような働き方、生き方ができないだろうか、とは思う。

 

一生懸命生きること自体はかっこいいと思うし、否定はしない。一生懸命生きる暮らしを「危うくやってしまうところだった」という表現で遠ざけるべきだとは、あまり思わない。それより、「ここぞというときは一生懸命」と、「頑張ることだけにこだわらず全身の力を抜いて生きる」をちゃんと両立させるバランス感覚を、どうにかして身に着けることができないかと考えることが、いまの自分には必要なのだと思う。

 

失敗してもいい。失敗したときは後悔すればいいだけだ。

 

失敗を恐れずに、”孤独の失敗家”になろう。

 

「本当にやりたい仕事」とは「恋愛」に似ているということだ。

「今から真の愛を探すぞ」と探しに出ても真の愛は見つからないように、本当にやりたい仕事も探して見つかるものではない。

本当にやりたい仕事は”探す”のではなく”訪れる”ものなのだ。

 

人生を100とするなら、目に見える幸せな瞬間はどのくらいだろうか?

楽しくてワクワクして、ドキドキして・・・。そんな瞬間を集めたら、良くて20くらい?残りの80はといえば、おおむねいつもと同じで、つまらなくて、何もない地味なものだろう。

そう、人生の大半はつまらない。

だから、もしかすると満足できる生き方とは、人生の大部分を占めるこんな普通のつまらない瞬間を幸せに過ごすことにあるのではないか?

  

あやうく一生懸命生きるところだった

あやうく一生懸命生きるところだった

  • 作者:ハ・ワン
  • 発売日: 2020/01/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

振り切った住まい

YouTubeを観ていると、住まいづくりやインテリアにこだわっている他人のアイデアを知ることができて、面白い。これまで、こうしたアイデアは暮らし関連の書籍を買って読むことでしか得られなかったけれど、いまは動画で簡単に観ることができる。作り手が無償でアイデアを提供してくれるようなものだ。本当に便利になったと思う。

 

シンプルイズベスト、ミニマルな暮らしもあれば、たくさんの好きなものに囲まれたにぎやかな暮らしもある。それぞれがその住まい手にとっては正解で、自分の考えと違うから間違い、ということでは決してない。へぇ、そういうのが暮らしやすさなんだ、と驚くことも多い。

 

すごいな、手本にしたいな、と思う暮らしを実現している他人に共通しているのは、明確なポリシーに忠実で振り切っているということ。例えば徹底的に生活感を排除するのであれば、モノは一切置かない、配線も見せない、というように。その潔さを感じては、自分もこういう暮らしをしたらもっと楽しくなるのでは、と期待するのかもしれない。

 

自由設計で住まいをつくること。それが、そのあとの暮らしも含めて人生を楽しむ究極の手段だといまでも信じている。賃貸とはいえ、自由につくった住宅で暮らすいま、自分の家はちゃんと振り切っているだろうか。もっと極端に、なくてよいものはなくして、あったらより楽しめるものを加えていきながら、振り切った住まいができないか。そんなことを漠然と考えながら暮らしを楽しんでいる。

  


現代ホスト界の帝王ROLAND。超ミニマリストな自宅を公開。【ROLAND社長-完全密着-】vol.018

 


狭い賃貸でも広く見せる家具選び【センスに頼らないインテリア#3】

 

できるだけ正直に、できるだけ自分らしく

仕事でウェブサイトをつくるということもあり、ウェブタイポグラフィについて勉強している。まだ始めたばかりで、どれだけ時間を費やしたらどれくらいの知識を得ることができるのか、さっぱりわからない。勉強したら、きれいなホームページがつくれるんじゃないか。それが自分を表現するツールになりえるんじゃないか。そんな漠然とした期待だけが、自分を机へと向かわせている。

 

 

一方で、松浦弥太郎さんのエッセイを繰り返し読んでは、さて自分のいまの仕事の仕方、ひいては生き方は、自分に対して正直か?と問う。ちょっとまとまった時間を使って、少しだけ仕事のことを忘れて、でもどこか現実逃避するような遊びをするということではなく、懐かしい友人に久しぶりに会って食事しながら、ぼんやりと考えた。自分の気持ちに正直でいることが大事だということは分かる。ただ、なんとなく心の奥底で「いまじゃないんじゃないか」とささやく、その本当に小さな声を無視して、「いまだろう」と行動に移そうとする欲望にかられるのも事実。正直に、と一言でいっても、その小さな声に敏感に反応して従うべきなのか、それに反発する欲望を本当の気持ちだと捉えて行動すべきなのか、その線引きは難しい。と思っている。

 

ここ最近、仕事から人間関係、または身の回りまで、自分にとってほんとに必要なもの以外を整理することを考えるようになりました。すると、それまで見えてそうで見えてなかった、自分が大切にしたいものがくっきりと見えてきました。これからの未来、自分はどんな方法で、どのように生きていくのか。ぼくはそれをきちんと知っておきたかったのです。がむしゃらになんでもかんでもを生きる手段に利用して、たまりたまった残飯を食べながら生きるのはもう止そうと思うのです。できるだけ簡素に。できるだけ自分らしく。できるだけ正直に。できるだけ小さく。

 

できるだけ正直に。できるだけ自分らしく。ただ目の前のことを、目の前の相手を想いながら淡々と動くこと。そのことを大事にしながらも、遠くの景色もきちんと見通すように。連休中に得たひとつの結論だ。

 

 

前職での綾瀬の記憶

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家族の実家の墓参りに出かけた。東武線の西新井駅を降りてバスに乗る。川口方面へ10分ほど、街路樹のサルスベリがきれいな道を進み、降りたところは荒川からほど近い場所だが、どこの駅からも遠い。うだるような暑さの中、それでも公園で楽しそうに遊ぶ子供たちを横目に、汗をぬぐいながら歩いた。お盆休みならではの思い出だ。

 

現在地をマップで見ながら、周囲へと視点をずらすと、綾瀬がある。西新井から東へ進むと、つくばエクスプレスの青井駅がある。そこで、自分の記憶は10年以上前にタイムスリップする。前職の、建設会社で営業をしていたころのことだ。

 

バリバリ働く当時の直属の先輩が、入社間もないころに自己情報で受注したというクライアントの工場・事務所が加平にある。自分も何度もそこへお邪魔し、小工事の打合せをしたりした。建築知識も営業トーク力もなければ、受注力もない。そんな自分がプロ面してクライアント事務所の敷居をまたぐことができたのは、ひとえに会社の看板の力にほかならない。でも当時は必死だった、と思う。綾瀬駅から10分程度歩いて通ったあの時はほとんど土地勘もなく、以後、綾瀬といったらクライアントの工場、というイメージだけが脳内に残ることになる。

 

あれから時間が経ち、自分は仕事を変え、さまざまな経験を積んできているはずなのだけれど、あのときの自分が納得できるような成長ができているかと問うと、堂々とうなずけないというのが正直な気持ちだ。あのときの自分は何を目指して汗水を流していたのか。そしてその目指すものがいま近づいているのか。なんだか大切なものから目を逸らしたまま、ただ時間だけを浪費しているように思えてくる。

 

いままでの行いを過去の自分が知ったら、「もうちょっと大事に時間を使おうよ」と言うだろう。ということは、例えばいまから10年後の自分がふと昔を振り返った時に、「いまの自分の状況を10年前の自分が知ったら、きっと怒るだろうな」と後悔するくらい、現状維持を貫く可能性だってある。そうならないように、日々勉強、日々研鑽。そんなことを、墓参りからの帰り道、バスからの風景を見ながら思った。

 

書き記すことと実践すること

ただ本を読むだけではダメで、そこで得たことや感じたことなどを記して、実行して、はじめて自分のためになる。そういうことは頭では分かっていても、実践するのは容易いことではない。

 

きっと、本を読んで、先人の言葉からその重要性に気づき、頭にしみ込ませて、実際にやってみる。そのうち飽きてくるだろうから、そうしたらまた本を読んで、重要なことなのだと頭にしみ込ませて、再度実践する。それを繰り返すことが、成長につながるのだと思っている。

 

学んだことを書いて、実践する。これを通して「昨日できなかったことが今日できる自分」「得たことを無駄にしない、時間を無駄にしない自分」に近づこうとすること。そのためにいま、本を読んでいる。

 

人の話を徒らに聞かぬ事と、聞いた事見た事、皆書き留めて置く事、肝要の心得なり。(松本源四郎宛の手紙)

 

一日に一事を記せば、一年中に三百六十事を得ん。一夜に一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失はん。(丙辰幽室文稿「人に與ふ二篇」)

 

学者になってはいかぬ、人は実行が第一である。書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなり。(渡邊蒿蔵談話)

 

 

ユーカリ

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ユーカリに出会った。なかなか見つからないなと思っていたところ、事務所の仲間に二子玉川のお店を教えてもらった。行ってみたら想像以上に大きな園芸店で、ちょうどいろいろな種類のユーカリが入荷していたタイミングのようだった。複数の鉢植えを見て、これまで見つからなかった時間は何だったのかと拍子抜けする。複数のなかから、あまり大きくなく、樹形を整えている感じでないものを選んだ。大きいもの、整っているものだと、すでに成長しているような気がして、自分がこれから育てるんだ、という意欲がわかないような気がしたからだ。

 

鉢は別に好きなものを買おうと思っていたけれど、鉢に入れたばかりでいま植え替えるのは好ましくないという。だから鉢のまま、買うことになった。土も、鉢も、ひとまずはいまのままで、しばらく育てる。来年の春ごろに、少し大きな鉢に植え替えてやるとよいという。その時が楽しみだ。

 

自宅にやってきたユーカリを定位置に置いて、眺める。これからきちんと育てるからねと、早くも特別な愛着が生まれて面白い。これまでも植物は好きだったけれど、やっぱり自分で選んで自分で手にして自分で育てようとするのとは大違いだと気づいた。

 

これから手を加えていきながら、大いなるものが呼吸をし、成長していくドライエリアガーデンをつくっていこう。

 

ドライエリア ガーデニング

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休みの時間を使って、ドライエリアに植物を置こうと思った。簡単に言うと、ガーデニングだ。いわゆる「庭」というほどのものではないけれど、ドライエリアの一部を使って、植物を育てる。室内から窓の外を見ると、葉や土が見える。そういう自然のものを感じられる空間をつくりたいと思った。水やりをすることで日々成長する姿を楽しめるのも、大きな理由の一つだ。

 

数年前、壁面本棚をつくったときに家具屋さんにプレゼントでいただいたポトスが、ここへきて驚くべき速さで成長している。この時期は特に伸びるのが速いのだと聞いたのだけれど、それにしても、と思うくらいだ。ミント、オレガノ、バジル、レモングラスに、ローズマリー。ドライエリアなので、決して日当たり良好!という場所ではない。もしかしたらそれほど育たず、失敗してしまうかもしれない。それでも、もし育たなかったらその理由を考えながら、地道に育てていきたい。

 

ふと周りを見ると、人間や、人間がつくるものによって囲まれていることが分かる。そんな中で、人間がつくりえない、何か大いなるものを目にし、肌で感じながら暮らしていけたら、その大いなるものの力を原動力にしながら自分を動かすことができるんじゃないかと思う。

 

これまでにない時間

昼間、少し仕事の後、連休へ。これだけどこへ行こうとも決めず、とにかく行動範囲を狭くして過ごそうと思ったことは、なかっただろう。せいぜいが、休みを満喫するために二、三日寝転がって過ごすくらいだ。でも今年はそうではない。積極的に「出歩かないようにしよう」と思う。

 

もちろん命のこともあるし、行った先でどう思われるかが気になるというのもある。自分以外のだれもが、自分の来訪を心の中では歓迎しないのではないかという不安がつきまとう。これはもう、仕方ない。開き直ることもできるだろうし、自身で感染防止対策をしっかりすれば他人にとやかく言われることでもないと思うのだけれど。いまはそういう時期なんだから、そのことを受け入れよう。いまは別の、しかし濃密で自由な過ごし方ができるのだと考えよう。きっと、いままでとは違うけれども自分にとって大事な過ごし方とは何かを考える時間を、神様が与えてくれたのだと思おう。

 

そうだ、年の初めに、いままでで一番勉強した、と他人に胸を張って言える年にしよう、と決めたじゃないか。仕事だって、取り組んでいたプロジェクトが絶妙のタイミングで一段落したじゃないか。静かに、自分の内面と向き合う時間は、嫌というほどあるじゃないか。これを無駄にしたら、二度とそんな時間は訪れないだろう。もっと、時間を大事に。

 

緑の家

自宅のドライエリアをもっと充実させたいと思っている。あこがれはありつつも、なかなか手を出せずにいたガーデニングだ。

 

まずは植物を買って、置こう。ちょっと背丈のある、室内用の観葉植物ではなく、外用のそれだ。使う鉢ももう決めている。植物は、ユーカリか、シルクジャスミンか、ブルーブッシュか。いろいろ店を見てまわると、いろいろなものが目に入って目移りしてしまうし、あれもこれも、となってしまうから、やめよう。気になっていて今日行った観葉植物専門店で、目当てのものが入荷したら連絡をもらえるとのこと。こうやって、出会いを待つということを、楽しもうと思った。

 

今年の夏休みは、実家に帰るのも憚られるし、あまりどこか出かけようという気にもならない。だからまとまった時間がとれるのなら、自然を取り込むアウトドアリビングづくりをしよう。そうやって新居の暮らしの下地をつくるための時間が与えられたのだと思おう。

 

緑の家。

緑の家。

  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

弱さのちから

連休最終日、大型書店で新刊を手に取った。昨日はどんなに書店を探してもなかったから、今日店頭に並んだのか。彼の本はとりあえず買って読んで、その言葉を心にしみこませようと思っているのだけれど、それ以上にいま、このような状況で、きっと彼に助けてほしい、彼の言葉で、自分の心に巣くうざわざわした何かを取り除いてほしい、そう願っていたのかもしれない。2フロアーある広い店内であるにも関わらず、この本を見つけてからは、他の本を手に取る気がしなくなった。

 

環境のせいにするわけではないけれど、いま、誰もが想像しえない脅威によっておびえる日々を過ごしている。でもそれは、ウイルスによって自分が弱くなったわけではなく、いままでも自身にひそんでいた弱さが、ウイルスによって表出したに過ぎないのだと思う。そして、これまで生きてきて気づかなかった身のまわりの「立場が弱い他人」に否応なく気づかされた。その一方で、その「立場的に弱い」他人に支えられることで今日の暮らしが(脅威が蔓延している中でも)比較的平穏にできているという事実にも。

 

こうした出来事に気分を揺り動かされ、自分のこれからについて深く考えようにも集中力を保つことができず、身体も不調を覚える。普段であれば、そんなことではいけない、もっと強くあれ、と自分を鼓舞するのだろうけれど、そうではなく、自分はそれだけ弱い存在であることをまずは認める。傷ついている自分から目をそらさず、向き合おうとする。そのあとで、弱い自分であっても危機を乗り越えるには、どう過ごしたらよいか、を建設的に考えていくべきだと思った。そう考えていけばおのずと、自分のまわりの、いままで気づかなかった「弱っている他人」の存在に気づき、寄り添うことができるのではないか。「弱っている他人に気づき、寄り添うこと」の連鎖こそが、危機を脱して平穏を取り戻すための術なのではないか。

 

弱さのちから

弱さのちから

  • 作者:若松 英輔
  • 発売日: 2020/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ランディチェア

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自宅のドライエリアをもっと有意義に使えるようにと思い、外用の椅子を買った。ドライエリアなんて意識しなかったら室外機置場で終わってしまう。そうやってせっかくの空間を無駄にしたくなかった。せっかくなら、椅子をきっかけに、そこにいることが目的になるような時間をつくろうと思った。くつろぐ場所は室内だけじゃないんだよ、ドライエリアも含めて自宅の専有面積なんだよ、ということを示したかった。

 

選んだのはランディチェア。古くから良いとされている定番のものではなく、今の人間が今の時代につくるものに囲まれて暮らしたい、という想いは常にあるけれど、これだけは例外として認めようと思った。背面のコンクリートにも似合っていて、気に入っている。