hulu

ひょんなきっかけでhuluに登録したので眺めていたら、ちょっと気になって頭の片隅にあったのだけれど観ていなかったコンテンツを発見した。せっかくの休みだし、と何の気なしに第一話を観たら、飲み込まれてしまい、続きの観たさにうずうずする。最終話まで通して観ることができるのに、もうこんな時間。続きは明日にしようか。いや、全10話のうち5話まで観終わり、第一部完結!第二部へ!!新展開にドキドキする。

リアルタイムだったら民放で、1週間に一度の放送で、続きが気になっても1週間待たなければならず、放送もコマーシャルがあったりして、と、気が気じゃない。それがコマーシャル抜きで、観たいときに観たいタイミングで観ることができる。なんて贅沢なことなんだろうと、いまさらながら思った。これがいままで実現できなかったから、テレビというメディアの受動性に嫌気がさし、テレビから離れていたのだった。この能動性こそが、欲していたものだったんだ。自分にとって必要だから観る、という能動性があれば、たとえ有料でも構わない。有益な情報を得る対価を払うのは、当たり前だと思えるようになった。

 

一方で、垂れ流されるコマーシャルを無理やり見させられることと引き換えに、無償でコンテンツを味わうことができるというテレビ放送の構造は画期的だとも思う。小さい頃はそのテレビのおかげで豊かさを得て、学校での友達との話題が尽きることもなかった。だから昔はテレビが自分にとって最高のメディアだった。しかし、毎日画面をなんとなく観て、日曜日はこれ、月曜日はあまり面白いのがないけどまぁこの選択肢だったらこれかな、水曜日は毎週待ち遠しいこれをなんとしても観なければ、という「番組をつくる側の都合」に寄せなければならない受動性に、時間の経過とともにイライラするようになったのだと思う。これは心の成長なのか。退化なのか。

 

いずれにせよ、世間からやや遅れた感はあるけれど、観たいコンテンツに気づき、時間を限定して、集中して観る。これも休日ならではの贅沢だと思った。

 

その番組は「3年A組」。湊かなえ「告白」に通じるようなスリル、ドキドキ感、非現実的なのだけれど、いまの時代の嫌な部分があぶり出ているようで心がギュッと縮むよう。そしてヒロインの茅野さん(永野芽郁ちゃん)がかわいくて、純粋で、素敵。やはり今夜は眠れそうにない。