あの頃の記憶

 

午後、本を買いにイオンに行ったあと、久しぶりに妙典公園まで歩いた。デッキの上から東西線の橋と江戸川、そして川沿いの広場を眺める。昔から大好きなスポットだ。子どもが遊んでいたり、テントを広げてバーベキューをしていたり、ジョギングをしていたり。それぞれがそれぞれの方法で、祝日を満喫しているようだった。天気もよかったし、今日はそういう日なのだろう。

 

過去を振り返り、懐かしさに胸が疼いた。独り暮らしだったあの頃。会社員で、仕事を追うべきところ、仕事に追われていたあの頃。苦しくて、ただ休日の清々しい風を浴びたくてデッキに立ったあの頃。暮らしに関しては自由だったけれど、有意義というよりは必死で、時が過ぎていくことに虚しさすら感じていたあの頃。それらの記憶が、戻ってきた。

 

河川敷を、東京湾の方に向かって、歩く。妙典橋をくぐり、ぴあぱーくまで行き、野球場の脇を通り、引き返す。子どもたちが賑やかに遊んでいて、平和を感じた。久しぶりに結構歩いたという実感があったけれど、後にGoogleマップ上で見たら、それほどではなかったようだ。

 

たまにはこうした散歩も、よい気分転換になりそうだ。

 

残る花に強さを見る

週末、勤務仕事は休みだったのだけれど、何かとやるべきことが多い二日間だった。土曜日は太原堂で店番。ハロウィンイベントで仮装した子どもたちがたくさん押しかけてきてくれて、かわいかった。お菓子を喜んで受け取る姿に、自分の小さい頃をなんとなく思い出した。日曜日である今日は、二作目のZINEのまとめ作業。思った以上に時間がかかり、ほぼ一日を費やしてしまった。朝、早めに起きて家族とNilに行ってコーヒーを飲めたことが、今日唯一のゆとりの象徴だった。昼すぎ、絵本のおはなし会に参加したあと、そそくさと帰宅してZINEづくりに戻った。へとへとになったけれど、なんとか入稿まで済ますことができた。

 

自宅前のマンションのサルスベリ、まだ少しだけ花が咲いている。11月になっても咲いているなんてことがあるのか。もう100日どころじゃない気がする。全体的に散っていく中でわずかに残る花びらに、暑さにも負けず、ストレスにも耐えて、仁王立ちする男の強さを見た気がした。やるべきことが多くても、へとへとになっても、立っていられるようでありたい。

 

 

週に一度すら

 

土曜日、朝早めに起きて、週に一度のジョギングをした。わずかに雨が降る中、今でなければと思って家を出た。その日は片づけるべき事務仕事がたまっていたし、翌日は終日仕事の予定だった。

 

ペースはまずまず。往路18分台はほぼ死守できるようになった。折り返し地点を過ぎて復路も、なるべくペースは落としたくない。しかし、苦しい。ここで踏ん張るためには、往路でペースを上げすぎてはいけない。あくまでも一定のペースを崩さない、ということを意識しながら、走る。そうすると、復路の途中の記憶が一気に吹き飛ぶ。気づいたらゴール地点、という感じだった。スマホをポケットから取り出すことを忘れ、ストップウォッチを押すのが5秒くらい遅れた。

 

毎日少しずつ走る。その習慣はもうできなくなってしまった。体はなんとかなるのだろうけれど、気持ちが乗らない。なので、週に一度しか走れない自分を認めなければいけない。週に一度でもよしとしよう。その代わり、「週に一度すら走れなくなってしまった」なんてことにならないようにする。

 

久しぶりの一人時間

日曜日、久しぶりに「あまり」仕事のことを考えずに一人、出かけた。

 

まずはずっと行こうと思っていた蔵前の「透明書店」へ。今年2月に、前職でお世話になった方に久しぶりにお会いした際、そういえば蔵前に面白そうな書店があるよ、と教えてもらったのだった。透明書店という名前は知ってはいたものの、詳しく調べたことはなかった。シェア本棚って、あそこのことかな?と紹介され、行かなければと思いながら、10月になってしまった。

 

駅を降りてすぐのビルの1階にある透明書店、店内は静かで、思っていたよりも広かった。新刊書だけでなく、古本も、ZINEもあった。店内に入ってすぐ左手の棚のエッセイ特集は、私のための本棚ですか?と聞きたくなるような、絶妙なセレクトだった。そして奥にはシェア本棚があった。参加している棚主も多く、シェア本棚として充実している様子が伺えた。本を紹介したい、スモールビジネスを興したい、という方はイメージ以上に多いのだろうと想像する。これは今後も行って、棚の動きを見ていきたいと思った。

 

次に銀座SIXにある蔦屋書店へ。ここもクライアントに教えてもらった。代官山に比べたら規模は落ちますが、という事前情報だったので、期待のハードルを下げていた。その分、充実していたことへの驚きが大きかった。建築やアート、日本文化や歴史の書籍が多く、その手の本を探したい時はぜひ行くべき本屋だと思った。充実しすぎている。ただ、いわゆる一般書、普段よく手に取るエッセイや人文書は少ない印象。ずらっと新書が並んだ棚から新書を選ぶ、なんてこともしづらい。

 

その後は歩行者天国と化した賑やかな中央通りを突き進んで三越に行き、奮発して仕事用の服を買い、そそくさと帰り道へ。しばらく行けていなかったウラヤスマーケッツでマヨネーズとパスタを買い、南行徳駅まで歩き、ニキベーカリーでパンを買い、帰宅した。夕方になっていた。

 

あまり人とコミュニケーションをとるような時間ではなかった。三越の紳士服屋の店員さんとのやりとりと、ウラヤスマーケッツで市川さんと一言二言やりとりした程度。少なくとも市川さんとは、もうちょっと会話をすべきだったと後悔している。自分自身、今日はそんな他者との交流がしづらい精神状態だったようだ。昼間、何時に家を出て、何時の電車に乗って、何時から何時までここにいて、何時には次に行かなくてはいけなくて、と事前に計画を立てて、その通りに一人黙って目的地に行き、買うべきものを買い、見るべきものを見て、寄り道せず帰ってきた。独り暮らしの頃はほぼ毎週末、(時間割までは組まないにせよ)こんな一人時間を過ごしていたのだった。久しぶりにその頃の、くすぶりながらも自分なりに楽しんでいた時間の過ごし方を思い出した。

 

調子は良い

 

このところ、ジョギングの調子が良い。1週間に一度と、若干緩めの頻度をルールにしたからだろうか。

 

短い距離でも良いから毎日走る。以前、思い切ってそう決めたことがあった。その日課は1年半くらいは続いたものの、途切れた途端に緊張の糸も切れて、走れなくなった。人間そんなもんだ、と自分に対してなげやりになった。

 

週に一度の河川敷ジョギングは快適で、ペースもまずまずだ。今日も、出だしこそ苦しさがあったものの、そこまでバテずに一定のペースで走ることができた。往路よりも復路の方がタイムが短かったのは、今日が初めてかもしれない。アキレス腱のわずかな痛みも、ほとんど気にならない。

 

何事も、続けなければ身体にしみ込ませることはできない。しかしそれは、止めた途端にしみ込ませたものがなくなるということでもある。得たものを簡単に失わせることのないように、無理のない範囲で、続けなければいけない。

 

ZINEづくりを機に自分を振り返る

このブログのエッセイをまとめたZINEをつくった。本屋として仕事をするにあたって、私はこういう人間です、という名刺のような役割ももたせているけれど、それよりは、これまで書き続けてきたものを一旦まとめることで、自分のことを振り返る分かりやすいきっかけにしたかった。

 

今回初めてZINEづくりに挑戦したことで、いままで一つの習慣として続けてきたものの集積が、想像を超えるくらい大きなものになったことに気づいた。なかなかのボリュームの日記を前に、しびれたくらいだ。ブログを始めたのが2009年の5月なので、もう17年以上経っていることになる。開設した頃は、17年も先のことなんて全然想像できなかった。三日坊主にはなるまい、という決意は確かにしたけれど、具体的に数年後、十数年後を思い描いていたわけではない。よく続けてきた、と我ながら思う。続けてきてよかった、とも。

 

振り返ってみると「俺ってすごい」といった自慢話などほとんどなく、なんだかなあ、と肩を落とすような出来事ばかりが続いたという印象を受ける。実際は悪いことと同じくらい良いこともあったはずなのだけれど、良いことはたいてい記憶に残らず、当たり前のこととして脳が処理してしまうのだろう。あんまり覚えていない。一方で、本当に苦しかったこと、辛かったことも、時間とともにしっかり忘れている。何か「イヤーなこと」があの頃あったのは確かだ。しかし、具体的にどんな仕打ちを受けたのか、何をしでかしたのか、と問われると、これが思い出せない。きっとたいしたことはなかったんでしょう、と言われたら「そんなことはないはずだ」と否定したくなるのだけれど、まあそうなのかもしれない。

 

過去数年間、十数年間をざっと振り返ってみて、総じて自分は真面目に仕事に、人生に向き合っているという一定の自負はありつつも、どこか間が抜けていて、どこかに弱さが露呈した、いまいちな時間の連続だった。ただ、それが自分だ。そんな過去を踏まえているからこそ、成長した今がある。そしてさらに将来はもっと成長する。このように、これから先を見据えることができるのが、今の自分の強さなのだ。

 

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五ヶ町例大祭2

今日が五ヶ町例大祭の本祭り。午後、家の目の前を神輿が渡御した。太鼓の太い音が胸に響いて心地よい。重いであろう神輿を、空に放りながら掛け声をかける。見ると、若い子たちもたくさんいた。正直、「後継者不足」という言葉で表されるように、若手がいない少し寂しい風景を想像していたのだけれど、全くそんなことはなかった。若い人が祭りに関心をもっているようで、嬉しかった。

 

その掛け声に奮い立たされるように、自分も仕事において、真剣勝負に挑むことから逃げてはいけないと感じた。自分には自分の、仕事をする中で主役になる局面が必ずある。その局面で、妥協をしないで、よりよきものを生み出す。それによって誰かを、「喜ばせる」というより「幸せにする」。「喜ばせる」と「幸せにする」は違うものだというのは、松浦弥太郎さんの著書から学んだことだ。喜びは一時的なものかもしれないけれど、幸せは長く続く。私は人を喜ばせるよりも、幸せにしたい。それが今の私の、仕事に向き合う姿勢かな、と思う。

 

五ヶ町例大祭

朝、賑やかな声で目を覚ました。今日は3年ぶりの地域の祭りの日で、ちょうど家の前を神輿が通ったようだった。威勢のよい掛け声。なつかしい響きが、自分を小学生の頃にタイムスリップさせる。

 

小学生の頃、地元の秋のお祭りで、獅子舞の役者になった。確か任期は8年だったと思うから、引退したときは中学生になっていたはずだ。当時は少なからず「恥ずかしさ」があって、なるべく学校の仲の良い友達には知られたくない(見られたくない)と思っていた。しかし同時に「誇らしさ」もあって、小学生・中学生ながら、自分は地域の祭りに役者として参加するような地に足の着いた人間であるという自負をもっていた。今思うと、なかなかマセたガキだ。

 

その獅子舞と、もう一つ神輿を担いでまわる夏祭りもあって、囃子のリズムを存分に身体にしみ込ませて育った。その細胞が、ぶわっと目を覚ますような感覚を今日、妙典の地で味わった。

 

ただ今日は宵宮という位置づけで、本祭りは明日。神輿が各町を渡御する一日。楽しみだ。

 

建物解体後の更地を前に思う

 

自宅近く、ジョギングコースに向かう途中に古い家屋があって、先日解体工事をしていた。今日、前を通ったら完全に更地になっていた。どんなに長い時間、それこそ自分が生まれるより遥か昔から、そこに大きな建物があったとしても、壊すのにかかる時間は一瞬で、なくなってしまうとあっけなさを感じる。この土の下、地球の岩盤には何十年もの間、建物相当分の荷重がかかっていた。それが、なくなった。きっと地球も身軽になって、せいせいしたのだろうと思おうとしたけれど、いやいや、とすぐに首を横に振った。コンクリートがガラになり、鉄骨もガラスもバラバラになり、そして散り散りになっていったに過ぎなくて、地球が背負う荷重の総量はさほど変わらない。せいぜい木や紙、什器類が灰になった分の重さが消えただけだ。それが建物全体に占める割合など、微々たるものではないか。この土の真下にいる自然界の生命が、これを機に元気になるのであれば、この建物解体にも意味があるのだ。そう思うようにしよう。

 

スタバのニューヨークチーズケーキ

朝、美容院に行く前に少し時間があったので駅前のイオンで寄り道。と言っても2階の専門店街はまだオープンしていないので、1階をぶらぶらしていた。

 

2階にスターバックスがあって、ここは朝早い時間に開いている。調べたら8時オープンだ。マツモトキヨシが9時オープンだから、それよりも早い。朝早くから開いているというのは、近所のユーザーにとってはとてもありがたい。特に休日は、いつイオンに来てもほぼ満席、という状態に見慣れているので、朝のうちであれば比較的空いている、というのは嬉しい。時間さえ選べば、スタバのコーヒーだってゆっくり味わえる。

 

スタバのニューヨークチーズケーキはとにかく美味しい、ということを家族から聞いて知った。どの店舗でも一律に同じ味のケーキを買って食べられるというのは、よく考えたらすごいことだ。昨年自由が丘から妙典に越してきて、自由が丘の自宅近くにあったパン屋さんの美味しいクリームパンを気軽に買えなくなり、寂しい思いを味わっているので、その有難さが身に染みる。

 

今日はそのあとすぐ美容院に行ったのでスタバには寄らなかったけれど、自宅近くにスタバがあるというメリットをもっと活用して、美味しいニューヨークチーズケーキをもっと味わわないともったいない、と思った。

 

継続力がつくったZINE

月に一度、カフェのテラス席で本を売っている。今日も、たくさんの方に来ていただき、本を手に取ってもらうことができた。終始天気が心配だったけれど、大雨にならなくて良かった。

 

オリジナルZINEをつくりました。自営業を始めるよりも前、趣味感覚で続けているこのブログで書いてきた記事をもとにしています。そんな話を店主としていたら、ブログはいつから?と聞かれた。2009年からですので、17年くらいですね、と言ったら、驚かれた。それはものすごい継続力ですね、と。

 

自分自身、血反吐を吐きながら苦労に苦労を重ね、頑張って続けてきた、といった認識はない。まあ決して楽ではなかったけれど、楽しみながら、適度に緊張感や義務感も感じながら書いてきた結果、なんとなく今も続いている、というのが正直なところだ。そんな自身の継続の結果を真正面から褒められて、慣れない感情に戸惑った。ただ、これはほんの少し他者より秀でている点なのかもしれないと感じてはいるので、その言葉をありがたく受け止めて、自分の強みとしてこれからも続けていこうと思っている。なんだか小中学生の意気込みみたいなコメントになってしまったけれど。

 

四行日記

店番の仕事中、棚主仲間が差し入れを持って来てくださった。そして、自分でつくったはじめてのZINEを、その場で買ってくださった。購入者第一号だ。あまりにも「よいこと」がスムーズに起こりすぎて、慣れない自分は戸惑ってしまう。ここで戸惑わないくらいの「自分への自信」を、つけなければいけない。

 

ZINEは簡単につくれますよ、といった話題から「一行日記」の話になった。なんでも毎日簡単な日記を書くことを続けているという。一行日記、素敵な習慣だと思う。そして、その言葉から私がそのあと思いついたのは「四行日記」だった。

 

一行だとさすがに短くて何も書けなさすぎる。4行、つまり4文で、その日の出来事とそこで考えたことを記す。起承転結の流れというか、型というか、そういったものを意識する。四行日記。誰でも挑戦できて、続けられる営みだと思う。

 

熊谷でどら焼きを食べる

 

店番の仕事で熊谷へ。最近、熊谷に来たらアズロードに立ち寄り、和菓子をちょっとだけ買うことが決まりになっている。いつもは梅林堂の武州路か八宿どら焼きだけど、今日はさわたのどら焼きとマドレーヌを買った。ちなみに前回は十万石のどら焼きとクルミまんじゅう(胡桃の里)だった。

 

特にさわたの「おひさまマドレーヌ」は、昔妙典にあった大好きなケーキ屋の巨大マドレーヌを想起させるデザインで、なつかしくなって、つい買ってしまった。安心感のある美味しさだった。

 

和菓子屋のどら焼きが好きで、仕事が一段落した時とか、へこんだ時とか、一週間お疲れ様、と自分を労いたい時とか、なんでもない時とか、つまりはどんな時も、どら焼きを買って食べたくなる。店ごとの違いは正直、良く分からない。分からないけれど、これは美味しい、と感動したら、繰り返し買って食べるようにはしている。積極的に買う店を増やす、いわゆる「食べ歩き」とか「和菓子屋巡り」みたいなことは、したくない。

 

さわたのどら焼きも、ぷっくり感があって、美味しかった。パッケージの太文字による印象もあるのだろう。手書き風文字がそのまま生地の厚さ、やわらかさを思わせる。

 

 

ずっとずっと、雨が降っている

全然やまない。朝からのそれは気分を沈ませる。どうせ外出もできないし、せっかくの休みだから自宅でのんびりしよう。そう思っても、何か時間を無駄に過ごしたような気がして、夕方にはさらに気が滅入る。この二日間はそんな日だった。

 

冠水とか土砂崩れとかそういったニュースを見るとさらに気が滅入る。先日の大雨でも、死者が出ました、との報道に触れる度に自分の中の世界がぐらりと歪んだ。自然に対して何の罪もない人間のはずなのに。この事実をどうやって受け止めたら良いだろうか。実際には何事もないかのように過ごせているけれど、魂の奥に激震が走るのはいつだって変わらず、着実に私の生命力を蝕む。

 

最低限自分自身を守るということを言い訳に、一日家にこもる。安全の副作用のように、言いようのない気分も同時に得た。気が晴れないのは全て、雨のせいだ。

 

ずっと雨が降っている

ずっと雨が降っている。しかも明日は台風の影響でさらに強い雨になる予報だ。明日の昼過ぎには台風は通過し、晴れる。昨日まではそう思っていた。しかし台風はその速度を落としたのか、時間帯が後ろ倒しになった。このところ天気予報の的中率の高さには目を見張るものがあるけれど、それでも台風の動きを予想することまではできない。その都度発せられる情報を、ただちに鵜呑みにしてはいけない。

 

天気の影響もあり、一日中家にいては、SNSで自営業の投稿をしたり、ブログを書いたりしていた。自分の内なる声に耳を傾ける一日になった。決して体を動かしているわけではないのに、ヘトヘト感を覚える。これは、運動後とはまったく違った肌触りのものだ。脳が疲労を訴えているのかもしれない。

 

ただ、こうした疲労もまた必要だろうと思っている。休みであれば体も脳も、きちんと休ませるべき。それは確かにそうだ。しかし、ただボーっとして一日を費やすことには、やはり罪悪感がつきまとう。何もしないことの否定ではない。何もしない、何も考えない時間があってもよい。しかし、そのまま一日を終えるのではなく、どこかで明日の成長、成熟に繋がるような、建設的な行為をしなければいけない。それは義務感を原動力とした受動的な行動ではなく、そうしようと勝手に動く身体を信用した結果の、能動的な行動である。