Time Has Come

新しい時が 始まろうとしてる 胸騒ぎのする 今夜は

つかまえてみよう 何も嘘じゃない キミの想い描く キミを越えた場所で

(LUNA SEA / Time Has Come)

 

新しいことを始めようとするときはたいてい、よし、やるぞと意気込むのだけれど、それと同時に、その意気込みが長続きせず、すぐに途切れてしまったらどうしようという不安もつきまとう。三日坊主な自分が頭に浮かんでは、そうならないように、と気を引き締める。最初に気負いすぎるほどそうなることが分かっているので、先は長いのだから、と遠くを見つめながら、徐々に力を加えていく。ロケットスタートで他者の戦意を喪失させるヨッシーではなく、スタートの瞬間はゆっくりでも、徐々にスピードをあげて他者をじわじわ追い越していくクッパのイメージだ(マリオカートを楽しんでいた子供の頃はヨッシーが大好きだったのに)。

 

いま、自らを奮い立たせようとしている自分にぴったりなのがこの曲だ。心臓音、時計の針の音、そしてリズムを刻むベース音。それらが徐々に重なって、爆発する。自分が想い描く道を歩く。いまの自分を越えていく。そんな感じだ。

 

大事なのは、続けること。

誰かが言っているのを聞いてその通りだと思ったその言葉を、ずっと頭の中で反すうしている。ことわざでは「ちりも積もれば山となる」と言う。ひとつひとつは小さな営みでも、継続することでそれが蓄積されていき、やがて大きな力になる。そういう言葉を、「子供だましだ」とか「きれいごとだ」とか言って片づけてしまえばそれまでだけれど、言い継がれているからにはきっとそこに真実が含まれているのだろうと思う。それが正しいと思うからこそ、ちりも積もってきっと山になる時が来るという期待感があるからこそ、ひとは継続することに力を注ぐのだ。

 

例えば仕事。例えば趣味の延長としてのブログ。例えば身体を動かしてリフレッシュするためのジョギング。自分で言うのも変だけれど、物事を続けることは割と得意な方だと思っている。それは、「このまま続けたらいいことがあるんじゃないか」という期待が大きいから。続けたってダメだよ、という諦めの想いが胸に宿ったら、もうその瞬間に続けるためのモチベーションはなくなり、行動力も一気にしぼんでしまうだろう。

 

だから、「きっといいことがあるんじゃないか」という期待を、それはもしかしたら他人から見たら幻想なのかもしれないけれど、もち続けることが大事なのだと思った。

 

自分なりに続けてきたことで、思いもよらない、でもとても嬉しいリアクションをたくさんいただいた。この「続けてきたら良いことがあった。やったー!」という想いを、次の「続けること」の原動力へと変えていかなければならない。

他者との会話

下北沢で本のイベントがあって、久しぶりに会って話をしたその人から刺激を受けた。家族や仕事仲間以外では会うことが極端に少なくなったいま、こうして直接会って話をしていると、会って話をすることのありがたさ、文字通り、有り難さを感じる。コロナウイルスがなかったらそう感じることもなかったかもしれないと思うと、ものは考えようで、プラスにもマイナスにも捉えることができる。

 

自分のこと、仕事のこと、これからのこと。それらを、自分の殻に閉じこもって考える限り、どれだけ時間を費やしたとしても、頭に浮かばないであろうアイデアがきっとある。しかし、他者と会話をしていると、何気なく行き交ったささいな言葉から思いもよらないアイデアが浮かぶ。そんな、「どんなに時間を費やしても自分だけでは生まれなかったであろうこと」が生まれる可能性が高まるという点で、他者との会話は有用であり、機会は少なくなったとしても、絶やしてはいけないのだと思った。

駒沢公園

駒沢公園から割と近いところに住んでいる。ジョギングをしようと思ったら走っていける距離だ。自宅を出て駒沢公園まで走り、公園内のジョギングコースを1週まわり、そのまま自宅まで帰ってくる。そうすると、それなりのトレーニングにも気分転換にもなる。

 

いろいろあったなかで開会したオリンピック。感染拡大を抑えようということでひとまず自分ができることは、この大きなイベントによって人が集まる場所に近寄らないことだと思っていた。開催しようが、感染拡大の懸念から万が一中止になろうが、自身がウイルスに接触する機会は変わらない。そういう状態で過ごそうと思っていた。だから今日、今回のオリンピックの競技場の中に駒沢オリンピック公園が入っていないことを知り、拍子抜けした。そんな身近なところへ行くことに対して警戒する必要はあまりなかった(練習会場にはなっているようでした)。

 

ホームページを見たら、ジョギングする人で混雑しているよう。であればなおのこと、近寄るのはやめて、走りやすさ、快適さは多少劣るかもしれないけれど、別の近所のコースをゆっくりジョギングしよう。それにしても今日も、暑かった。

 

0から1をつくることとは別の立ち位置で

0を1にする仕事を。無から有をつくる仕事を。その言葉に突き動かされるように、仕事をしてきた。コーポラティブハウスを一番最初から企画することに憧れたのも、何もないところから住宅をつくりたいと思ったからだ。今もその気持ちは変わらないけれど、その関心は徐々に、竣工したコーポラティブハウスの管理組合運営補助に移った。ゼロから住宅をつくることよりも、住み始めてからの暮らしをずっと快適にしてもらうこと、そうすることで住宅の価値を100にも1,000にもしていくこと、そっちの方が自分の役割ではないかと思うようになった。そしてその対象は、住宅だけにとどまらない。モノづくりでもそうだ。私は何か価値のある「モノ」をつくれそうにないけれど、それを、そのモノが最も効果を発揮する形で使い倒し、そうすることで得られる「なんだか得した瞬間」を、発信することはできる。それによって誰かが共感してくれて、自分と同じようにモノを使ってくれる人が増えたら、0から1をつくることとは別の立ち位置で、暮らしを良くすることにつながると思う。せっかく生まれた1を、その後の使い方によって100、1,000へと成長させることができなかったり、逆に0に戻してしまったりするようなことは、したくない。

 

朝ではなく夕方

ひとたび走ろう、という気になったら、すぐにでも飛び出したくなる。だからはやる気持ちを抑えて、アキレス腱をのばして、深呼吸をして、冷たい飲み物を飲む。この時期、昼間はちょっと危険だ。少し涼しくなってきただろうかという頃をめがけて、家を出た。

 

梅雨明けの、ぱっと気持ちも晴れるような天気が好きだ。仕事で外を歩いていると気が滅入ることも多いけれど、休日に走るとなると心持ちは少し異なる。誰に強制されるでもなく、自分の意志で太陽の光を浴びる。走った後の爽快感を前倒しで味わいつつ、ゆっくり走った。自分の意志で身体を動かしているのだ。無理やり苦痛を味わっているのではなくそれを楽しんでいるのだ。そうした実感があるから、走れているようなものだ。

 

気持ちが入りやすいのは朝ではなく、午後であるということに今日気づいた。4連休。その時間を大切に過ごそうと思う。

 

 

 

自由設計と不自由

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20210718110550j:plain

 

こうして休みの日に、まぁ一日外出しなくてもいいかな、と思えるくらいには、どこへも行かないことに慣れてきた。もともと遊びに行きたくて仕方ない!という方ではなかったから、あまり変わらないと言えば変わらないのだけれど。外はものすごい暑さ。雨が多かった分、早めに梅雨が明けたようで、それは良かった。じめじめしてなんとなく落ち着かない時期を抜けたような、そんなスカッとした気分だ。

 

自由設計で住まいをつくった。賃貸だけれど、自分で間取りを検討し、仕上げ材を選んだ。もともと持っていた大きな本棚が馴染むことを優先した家づくりができた。マンションであっても戸建住宅であっても、完成品を購入するのでは体験できないことだ。どこへも行かず家でのんびり過ごす時間が、本当に快適になった。

 

自由設計の住まいづくりの良さは、つくるプロセスそのものにももちろんある。時間をかけて自分の好みを反映させていく、それが楽しい。そしてもう一つは、住み始めてからの暮らしにある。ただ家にいるだけでも、感じ方が違う。普通の賃貸マンションを探して引っ越した場合、仕上げ材がちょっと好みと違うなんてことは多い。そんなものは気にしない、という人はたくさんいるだろう。でも、長い時間を費やす居住空間である以上、好きなもの、好きな素材、心地よい空間に囲まれて過ごしたい。それができるのは、自由設計だけだと思っている。

 

自分にとっての暮らしの究極の姿は、どんな住まいであっても快適だと感じられるような心持ちでいることだ。古い四畳半のアパートで、不便であったとしても、あぁ幸せだと思えることが大事で、それは自分の心持ちの問題だと思っている。もっと言うと、自由設計でつくった住まいに暮らすことでしか快適を感じられないのだとすると、それは自由ではなくむしろ不自由だと思う。そうではなく、どんな環境であっても「幸せだ」と思える心のゆとりが必要で、自分はまだその境地には達していないけれど、そこにたどり着きたいと思っている。そして、その境地に行くまでに、自由設計の住まいで暮らすことの気持ち良さを、味わい尽くして、他人と共有したい。

 

俺の中の基準

GLAYのHISASHIさんがyoutubeのチャンネルで「はしゃがなければいい」と言ったという話があって、なるほどなぁと思った。「俺の中の基準ね」要は自分の中に一本通った芯があるかどうかが、判断するうえで大事なのだろう。その自分の中の基準に沿って、行動して良いと思えば堂々と動く。ダメだと思ったらやめる。コロナ禍で、外からは自粛を求められ、自身も自粛せねばと思う反面、行動したいと思うこともあるだろう。そんな時に、「本当は(外は『自粛せよ』という空気だし)自分も自粛しなければと思うけれど、〇〇へ行きたい。遊びたい。自分の中の正義感(のようなもの)に背くようでものすごく罪悪感を感じる」となってしまうと、精神衛生上あまりよくない。楽しくない。自分で自分を縛り付けて苦しむような感じだ。だから、それについてとやかく言う他人がいるかもしれないけれど、自分の中で「こうしたらダメ、こうすればOK」という基準をしっかり持つ。そうしようと思った。

 


www.youtube.com

 

なんとなく、本を読む

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20210711192957j:plain

 

本棚を眺めては、あれも読んでない、これもまだだ、と読み終わっていない本を想う。だいたいが読んでいないか、中途半端に読んでおしまい。一冊丸ごと読んで面白かった、というのはほんのわずかだろう。

 

ただ、まぁそれでもいいんだと思えるくらいには、本を読むことの「勉強する感覚」は少なくなったし、こう読まなければならない、といった強迫観念も少なくなった。自由に、読みたいように読んだらいいんだ、といったら、共感してもらえるだろうか。読まない言い訳にしか聞こえないような気もするが。

 

パソコンの画面、スマホの画面で文字を追ったり動画を観たりするよりも、紙の本の文字をたどっているときの方がなんとなく、目への負担も少なく感じるし、気持ちも穏やかな気がする。この「なんとなく」がきっと大事なんだと思う。その「なんとなく」を求めて、人は本を読む。そうであることを願う。

 

聞かないことを、意識する

気づいたら7月になっていた。一年365日の半分を過ぎたことになる。ここ数か月間は自分が成長している感覚がまるでなく、意識する間もなく時間を使い込んでいるようで、焦る。年明けのあののんびりしていた時から今日までの時間を、また同じように過ごしたら、もう今年は終わって来年になっているのだ。

 

今年は何をしていたの。そもそも、昨日何をしていたの。ひとつひとつ、そのときそのときに必要なことを、必要なことだと思ってこなしているけれど、翌日になるとその「必要だった」はなんとなく泡のように消えて、どうもやりきれていないような気になる。これが長く続いたらそれが習慣になって自分を支配してしまうから、気をつけなければと思いながら、今日一日こうしてのんびりと過ごしていることを少しだけ後悔する。

 

「緊急事態宣言の発令が発表され、その発令前最後となる週末の今日、都内は人であふれかえりました」「緊急事態宣言が明けた最初の週末となった今日、渋谷にはたくさんの人が」「緊急事態宣言発令後最初の日曜日。あまり人通りが減った印象はありません」アイツ、学校帰りに買い食いしてましたよ、と友達の校則違反を先生にチクるような、そんな報道にうんざりしてしまう。ニュースを聞いて暗澹たる気持ちになる、それはきっと呪いのように自身を、少しづつかもしれないけれど確実に蝕んでいく。

 

影響を受けないためには聞かないことが一番。そう誰かから聞いた。意識して聞かないということも大事だ。

 

岐阜の記憶

今週のお題「住みたい場所」

 

千葉の自宅から岐阜へ、車で小旅行した時のことを思い出す。9年前、前職を退職していまの事務所に入社するまでの有給消化期間のことだ。

 

岐阜に行きたかった。高山の古い町並みも見たかったし、白川郷の合掌造りの家々も見たかった。tvkの音楽番組「sakusaku」に熱中していて、当時MCだったトミタ栞ちゃんの実家だというラーメン屋でラーメンを食べたかった。そんなたくさんの「見たい」「食べたい」が詰まっていたから、夜10時くらいに家を出て、明け方まで車を運転しても、苦痛でなかった(行きは絶対に高速道路を使わないと決めていた)。そこで見た景色は新鮮で、刺激的で、穏やかで、快感だった。

 

いま、自宅で食事などを楽しんでいるダイニングテーブルとチェア、キッチンカウンターは、岐阜の家具工房「ikususu」のアルダー無垢材のものだ。キッチンカウンターは完全オーダーメイド。個人的に、好きな家具工房が「岐阜発」であるという理由で、岐阜に愛着を感じている。

 

いまのところそうしようという積極的な理由はないけれど、岐阜に住んでみたい。岐阜に住んで、あの時見た風景を日常にしたい。また、身のまわりのお気に入りをもっと増やしたい。

 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

今日から、明日に向けて

音楽を聴きながら何かをするのが昔から苦手で、たいてい集中力を欠いてしまうから、避けてきた。音楽を聴くときは音楽を聴くことに集中したい。なんとなく聴きながら別のことをするなんてできない。そう思っていたのは、聴く音楽をそれくらい大好きなものに限定していたからなのだと、最近になって気づいた。聴くことに集中する必要などなく、ただ流れている音を聴き流している程度で良いのだと思った瞬間に、音楽を聴く態度についての視野が、格段に広がった。

 

いま、久しぶりに棚から引っ張ってきた懐かしいCDをかけながら文字を書いている。LUNA SEAのINORANが在籍していたロックバンド「FAKE?」のセカンドアルバム「TOMORROW TODAY」だ。大学時代、有り余る時間をあまり深く考えずに消費するようにロックを聴いていたころを思い出した。数年ぶりに耳にしたメロディが引き連れてくるのは、頭の奥深くにしまわれていた当時の青臭い自分の記憶である。

 

それから20年近い年月が経ついま、引き続きLUNA SEAの音楽に触れることができている幸運を想いながら、一方で、この短くない期間を経ても自分が充分に成長していないのではと、ふと自信をなくすことがある。自分に自信がないという悪いところは昔から全然変わっていない。それで「なんとかせねば」と危機感から成長への力が生まれるようであればまだ良いのだけれど、「まぁなんとかなるだろう」と楽天的に考えて危機感から逃げようとするのだから余計にたちが悪い。

 

「CUT」のガリガリに歪んだINOARNのギターサウンドを聴きながら、少々身体を揺らしながら、口ずさみながら、こうして楽しく文章を書けるくらいには、音楽に対して寛容になった。そういう点では成長したと言えるのか。

 

少食と満腹との狭間で

身体を気にするようになった。慢性的に続く腰痛も原因は分からず、整骨院に通ったり整形外科に行ったり、なんとなくおさまったり、を繰り返している。最近、この腰痛の原因は自分の体格にあるのではないかと思うようになった。腹が出ている。腰が体重を支えられず悲鳴をあげているのではないか。そう思うようになって以来、ひとまずは食生活をということで、食べる量を減らすようにした。

 

1週間、意識して米類を減らして空腹を我慢したら、なんとなく体調が良くなったように感じた。先日外出先で腰の激痛に襲われて数十分動けずにいたのだけれど、そのような強い痛みもなくなった。ほんの一時のことかもしれないし、相変わらず痛みそのものは続いているから、気のせいなのかもしれないけれど、食習慣が体調に大きく影響を及ぼすことだけは、体感的に分かった。よし、少しづつでも、これを続けようと思う。

 

一方で、空腹を満たそうとする誘惑は街にあふれている。おいしいケーキだって食べたい。ラーメンだって食べたい。そういう時もたくさんある。無理して我慢するのも気分が良くない。大切なのはバランスだ。

 

がっつり食べて、身体に栄養をたくさん取り入れて、満腹になってエネルギーでいっぱいになるのを感じて、というのもたまには良いけれど、ちょっと少食じゃないかと心配されるくらいで問題なく動ける身体でいられる方が良いと思う。

 

成長を実感できる読書

本を読むとき、本に何を期待しているのか。たくさん本を読みたい!と思い、実際に本を読む、その原動力は何か。そんなことをふと、考える。

 

新しい知識を得たり、他人の意見を知ったりすると、いままでの自分にはなかった何かがぽっと身体に宿ったような、そんな気持ちになることがある。それによって、例えば昨日までは言えなかったことが言えるようになったり、逆に昨日までは瞬間的に頭に反論が浮かんでいたのが、反論せずやめておこうと気を静められたりする。こういうちょっとした変化を、私は成長ととらえている。そして、その成長の実感こそが、自分が本に期待することであり、本を読む原動力なのだと思う。

 

成長を実感したとき、それはほんの一瞬かもしれないけれど、「オッ自分、成長したな」と嬉しく感じる。高揚感と表現したらよいのか、恍惚感と表現したらよいのか、とにかくほんのわずかでかつ瞬間的な快感があって、それを繰り返したいという本能が、人に本を読むという行動を起こさせているのではないか。最近はそう思っている。

 

その一瞬の快感を、何かわかりやすい比喩で表現できないだろうか。そうだ、「電流」だ。松田聖子の「ビビっと来たんです」みたいな、電流。体中に電流が走るような、といった表現はよく使うしありきたりだけれど、これに近い。名曲を初めて聴いた時もそう。感動する映画の佳境に差し掛かった時もそう。心が動いた時の、なんとなく心臓が痺れるような感覚。この痺れをもたらす電流が、自身の成長を実感したときにも体中を流れるのではないか。

 

成長を実感できる読書を、しよう。

 

暮らしを楽しむ許容量

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20210620171419j:plain

 

昨日より今日、今日より明日、今年より来年、というように、自分の暮らしがぱっと明るくなればいいなぁと思いながら過ごしている。そのために必要であれば、モノを減らすこともあるだろう。何か新しいものを買うだけが暮らしを彩る手段ではない。もう使わないな、必要ないな、というものがれば、思い切って手放すのも一案。原則、モノをそれほど増やしたくない自分だ。それでもちょっとしたモノを買って心を満たしたいときも当然ある。今日がそうだった。

 

本を抱えた猫のブローチは、木と木粉粘土を組み合わせてつくられている。雨に濡れたらそっと拭くように。その「雨にぬれても問題ない」わけではなく、手入れが必要であるという、手づくりならではの手間のかかる感じ、完璧でない感じが、たまらなくいとおしい。これは自分の本だと言わんばかりににらみつける猫の目つきが良い。

 

服につける勇気がまだないから、しばらくは本棚に飾っておくことになりそう。服につける勇気が湧いた時はすなわち、暮らしを楽しむ自分の許容量がちょっとだけ大きくなった時だ。