食器は乾かしてからしまう

本を読んで新しいことを知り、「これ試してみよう」と思うことがたくさんある。例えば今日、だいぶ昔に買った「すっきり、ていねいに暮らすこと」を久しぶりに読んだ。暮らしを快適にするコツが女性目線で書かれていて、男にとっても参考になることが多い。その中で特に、これは真似しなければと思ったのが、「食器を洗ったら拭いてすぐしまうのではなくしっかりと乾かしておき、翌朝しまう」ということ。洗った食器は拭いただけでは水分を取り除き切れていない。特に湿気が多かったり、出し入れの頻度が少なかったりするとカビが付く原因にもなる。だから一晩おいておき、カラッとさせてからしまう。そうすると朝、乾いた食器をしまうときに気分が良い。しまう作業をしながらお湯を沸かすとか、窓を開けて換気するとか、気持ちよく一日をスタートさせるためのルーティンも確立できるかもしれない。そういうことを、一つずつ、真似していくことが大事なのかなと思った。

 

 

流鉄

 

馬橋駅でJRの改札を出て、流鉄流山線に乗り換える。スイカが使えないので、券売機で切符を買った。電車移動時にアナログ感を思い出させてくれるのは、いまはもう流鉄くらいしかない。

 

本を詰めたキャリーケースを持ち上げながら、階段を降りる。ほんの少し異空間に足を踏み込んだような気持ちだ。買った切符を窓口にかざしながらホームに入る。先に電車を待っていた人は数人。本当に、のどかだ。

 

黄色の車両と赤の車両の2両編成。今日はオムライス号だ。小金城趾駅でやってきた対向車両の正面と背面にはオムライスのイラストが描かれたエンブレムが。オムライスのような温かさを鉄道会社に感じる瞬間。電車は結構揺れるけれど、その温かさ、ホスピタリティは揺るぎない。

 

仕事で、流山駅前で本を売る縁に恵まれた。この縁がなかったら、きっと流鉄流山線に乗る機会がないままだったかもしれない。そう思うとなんだかありがたくて、10分以上の電車の感覚にも、イライラしないで済む。普段の過密ダイヤに慣れている自分の方が異常なのだ。

 

 

日記を書くこと

そうか、このブログを始めたときも、頭に描いていたことは「日記を書くこと」だった。その日にあったことをきちんと言葉に残しておく。そうでなければ忘れ去ってしまうようなことも、文字にすれば消えない。10年後に見返して「このときはこんなことを考えていたのか」「こんな出来事があったのか」と思い出すことができる。自分の考えを整理してまとめる、そのスキルを磨くためだけでなく、将来見返して思い出せるために、日記を書き始めた。私にとってそれがブログだった。13年前の、初心のようなものをふと思い出した。

 

昔、実家で母が毎晩手帳に日記を書いているのを見て、何の意味があるのかなぁなんて疑問に思っていたけれど、今はその価値が分かる。記憶なんてものはあてにならない。過去を振り返り、今との差を測ることで、将来もっと進むためのペースをつかむことができる。今までのペースが遅めだと思ったら、少し速めに走ってみようとか、この点に関してはちょっと休んでもいいんじゃないか、とか。

 

日記を書くこと。原点に返り、その行為をもっと無意識に習慣化し、続けられるように、意識したい。

 

blog.hatenablog.com

強くなるだけではつまらん

他人に教えることの大切さに気付いたのは、漫画「バキ」を読んだおかげかもしれない。漫画は子供が読む娯楽だ、というのは一方向からの視点に過ぎない。ひょんなことから、自分の仕事がやりがいのあるものとなり、ひいては、生き方を指し示す道しるべになることがある。

 

海王が集まる「大擂台賽(だいらいたいさい)」というイベントで、寂海王が言う。「強くなるだけではつまらん」。自分が強くなるためだけに修業を積むのではなく、そこで得たことを後進に伝えようとする。「最強の男になる」ことを目指すバキの世界において、利他とも感じられる寂のこの言葉は異色で、心に刺さった。そうだよな、自分だけ強くなったところであまり意味がないよな、と思う。子供が友達におもちゃを貸さずに自分だけで抱えていても面白くない、というのと本質的には同じだ。

 

寂海王の言葉はそのまま、私が平日、大学で働くモチベーションにもつながっている。教員ではなく事務職という立場なので、実際「指導している」わけではないけれど、学びの機会を確保する手伝いをしている、と考えれば、やっていることはそう遠くはない。そして、後進の学生に自らの学修成果を伝えようとする先輩がたくさんいる。「自分が学び、得るだけでは意味がない」後輩にノウハウを教えようとする学生もきっと、寂海王と同じ考えを持っているに違いない。

 

本棚の許容量にあわせて本を選ぶ

 

家具屋さんに壁面本棚をつくってもらったのが6年前の夏だった。それ以来、この大きな本棚を埋められるくらいたくさん本を買って、読んでやろう、そう思って本と付き合ってきた。決して数を競っていたわけではないけれど、やはりある程度量を読まなければ成長できない、そう思っていた。

 

時は過ぎ、喜ばしいことに、抱える本は本棚の許容量を超え、はみ出るようになった。本が隠れるように本の前に置いたり、本の上に積んだりするのがあまり好きではないので、場所がなくなるというのは大問題。我慢して本の上に積んだりしてしばらく過ごしたが、やっぱりこれは気持ち的に良くない。こうして、許容量の範囲でおさまるように本を選ぶようにした。それが今日のことだ。

 

「なにか新しく迎え入れたら、その分手放さなければならない」そのことをやはり本を読んで知り、まぁその通りだ、これは本に対しても言えることだ、ということで、もう絶対読まないであろう本と、一旦は読み終わって完結した本を、手放そうと決めた。そうして本棚におさまる量に厳選すると、少なくなった分、本棚の後ろの白い壁が見えてスッキリし、自分の身体は関係ないのに、なんだか身軽になったような気になった。

 

今後読むかどうか分からない本を手放したのちに「やっぱり持っていればよかった」と後悔したときのストレスより、この身軽さがもたらす快感の方が絶対値が大きい。今はそう思っている。

 

マイペース

二日連続でジョギングできたのなんて、どれくらいぶりでしょうか。覚えていないくらい、最近はジョギングをサボっていました。今日はちょっと暑かったけれど、でもだいぶ過ごしやすい気温になりました。これからジョギングがさらに気持ち良い季節がやってきます。楽しみです。

 

なかなか走る気になれないときに、その重たい腰をあげてくれるのは、気持ちよさそうに走っている他人のSNSの投稿だったりします。爽快感がこちらにも伝わってくるのです。そうすると、「そうだよな、走ったときの快感を味わうためには走らなきゃだめだよな」というすごく当たり前のことに気づくのです。こういうとき、他人のリア充SNSに救われます。普段は嫉妬することも多いですが。

 

自分は趣味程度の距離感でジョギングと付き合っていると思っています。だから「少しづつでも毎日走ることを習慣づけよう」だなんて気負うつもりはありません。身体が苦痛を覚えてしまっては趣味になりませんから。ただ、今日もそうだったのですが、考え事をしながら走っていると、なんだか気分があがってきて、それは普段より長い距離を走れる、ということでは決してないのですが、これなら毎日でも走れるぞ、という特に根拠のない全能感のようなものが身体を覆っていることに気づくのです。しかし、ここでうぬぼれて日課にしようものならまた挫折して、そうすると立ち直るのに時間がかかるのが分かりきっています。あくまでたまに、気晴らし程度に。マイペースを貫かなければと思います。

 

趣味程度の距離感

雨もあってか、9月に入った途端に涼しくなって、エアコンを一日中つけていなくても過ごせるような日になった。そこで、数週間さぼっていたジョギングを再開した。毎日走り続ける、というのは難しくなってしまったけれど、なにせ自分にとっての走る目的は快感を得るため。頑張って毎日走ろうとしたら、苦役になってしまいそうだ。だから1週間に一度とか、土日だけとか、そのくらいの頻度がちょうどよい。「趣味はジョギングです。たまに気分転換に」と、聞かれたときに答える程度の距離感で良い。やらなければな、という義務にはしたくない。

 

走りながら、本屋の仕事のことを考える。今のペースで問題ないだろうか。もっとイベント出店やひと箱本棚で売上を増やす努力ができないか。もっと積極的にあちこち足を延ばす必要があるのではないか。などいろいろ。いつだってその場で結論は出ないけれど、あーだこーだ考えている時間そのものがなんとなく有意義で、贅沢だと思える。

 

9月になり、走りやすい環境になった。「暑いから嫌だな」という言い訳ができなくなった。本来、豊かな時間を味わえるのがジョギングだ。その時間を大事にしたい。

 

身体の感覚に従う

今週はジョギングができなかった。昨日は暑さに負けて。そして今日はイベントで出かけて帰ってきたら夜だったので。どちらも、好きでやっているジョギングをやらない理由にはならない。けれど、走ろう、と腰をあげることができなかったのは、結局「まぁ1週間くらいならいいや」と思ったからだ。趣味程度で走っているんだから、気晴らしになるくらがちょうど良い。そう思っている。

 

それがなぜ気持ち良いのか、頭で考えて言葉で説明することは難しいのだけれど、とにかく身体が「気持ち良い」と声をあげている、ということはたくさんあって、そういうとき頭よりも身体の方がたいてい正直である。身体がそう感じているのは事実なのだから、つべこべ考えずにその感覚に従うのがよろしい。内田樹の本を読んでそのような考え方に触れ、身体が発する信号のようなものに、素直に耳を傾けて聞くようになった。人間の意識にはたかだか数十年程度の記憶しかしないけれど、身体には数十億年の記憶がある、といったのは養老孟司さんだそう。その視点はなかった。身体って、すごいんだな。

 

毎日走ることを習慣にしているわけでもなければ、長距離を走る持久力を持ち合わせているわけでもない。運動をしなくなってだいぶ経つし、体型が気になり始めてからずいぶん経つけれど全然スリムにならない。それでもジョギングは好きだし、ジョギングが趣味だと思っている。理由はよく分からないけれど、ただ走っているときに身体が快感の声をあげていて、それを身体が覚えている。その快感の記憶に従ってればいいのだ、と思った。

 

2周目に差し掛かる頃

夕方。小雨が降り、涼しくなってきたタイミングで、ジョギング。いつも1周だけ走っているコースを、2周走った。走り出したら久しぶりで調子が良く、すぐにランナーズハイになった。だから2周行けそうだと早い段階で思った。

 

しかし1周目の終わりに差し掛かるころには胸が苦しくなり、足が重くなった。ここで頑張りすぎると続かなくなりそうだ、という不安が襲った。しかし「よし、今日は2周走るぞ」ともう決めてしまったので、やっぱり駄目でした、と止まるわけにはいかない。なんとか2周目に入ることができた。

 

この、「いつも1周走っているコースを2周しようと決めた時の、2周目に入ろうとする頃」の苦しさがいつも苦手だった。これまでのきつさをもう一度身体にしみ込ませなければならない。気が遠くなる感覚もある。しかしここで、この「2周目に入ろうとする頃」を楽しく味わえるようでなければならない、と思った。そう思ったら、いつの間にか、といったら大げさだけれど、走り切ることができた。

 

2周目に差し掛かる頃。この精神的に厳しい時間帯の苦しさを克服することができれば、これから先、ジョギングに限らず、自分の目の前に困難が現れて、先が見えないような感覚にとらわれたとしても、気を紛らわすことができるようになるだろう。「ここを越えればなんとかなる」というように。

 

美容院とコーヒーと猫

電車に乗って妙典へ行く。社会人になってから16年間通っている美容院に行くためだ。今も1~2か月に一度、ここで髪を切ってもらっている。妙典に住んでいた頃は家からすぐ近くだったので楽だったけれど、都内に越してきてからは、ちょっとしたお出かけ気分だ。だったら都内の自宅近くで新しい美容院を開拓すればいいんじゃない?そう思われるだろう。それが、そう簡単にはいかないのが自分なのだ。これまで16年間通ってきた美容院から去り、また新しいところで一から挨拶をし、こんな感じで切ってほしいと説明し、たどたどしい関係から始めるだけの勇気が、ない。勇気なんていらないだろう、と言われるかもしれない。それこそ今の美容院だって、初めて行った日は一から挨拶をし、こんな感じで切ってほしいと説明し、たどたどしい関係から始めたのではなかったか。それと同じことをもう一度するだけだろう、と。そう言われればそうだ。しかし、これが難しい。なんでなんだろう。長くお世話になっている今の美容院に申し訳ないから?しかし、例えば今後20年30年ずっと通うかというと、そうでない可能性が高い。離れる日は早かれ遅かれ来るのだ。なのに、なぜ?自分でもよく分からない。

 

暑いので、美容院でいつもより短めに髪を切ってもらった。その後、駅前のVIE DE FRANCEでクリームパンを食べ、コーヒーを飲みながら、このエッセイを書いている。今日はこれしか予定がない。もう帰ってもいいし、このままふらっと遊びに行ったっていい。ここでコーヒーをお代わりして居座るというのも良いかもしれない。こういう「あとの予定に支配されない自由時間」が自分は好きなのだと思う。こんなとき、勢い余ってスマホに手を出し、SNSの扉を開けたくなるけれど、そうしてはいけない。沼に足をとられ、沈んでいくのが分かる。こういうときにはノートとペンを取り出して、思いつく限りのことを書き連ねていく。外から情報を取り込むのではなく、自分から情報を吐き出す感覚だ。そんな時間の使い方が好きなのだとつくづく思う。

 

一杯目のコーヒーがなくなり、お代わり100円のサービスをせっかくだから受け取り、もう少しこの作家のような創作時間を楽しもうかと思った矢先、急に自宅で留守番をしている猫が気になり始めた。猫は気まぐれで、人間なんていなくても楽しい暮らしを自分で模索できる動物。一匹なら一匹で、気楽に過ごしているだろう。そもそもが、大半を寝て過ごしている。しかし気になってしまうのが飼い主の性。暑くてぐったりしていないか、とか、実は人間がいなくて構ってもらえず寂しくしているのではないか、とか、心配し出したらキリがない。こうして結局、予定よりはるかに早くこの自由時間を切り上げ、妙典をあとにすることになる。美容院で髪を切ってもらう、それだけの目的で来て、すぐ帰るということに対しては、何とも思っていない。今は仕事で頻繁に来る街だ。それよりも、猫を迎え入れる時に「猫は愛しても、猫に縛られ翻弄される生活はしない」と決めたはずなのに、結局は猫にこだわり、猫を気遣って行動するようになってしまった自分に、少しだけがっかりしているのだ。まぁ、その分帰ったら出迎えてくれる猫の可愛さがたまらないのだけれど。

 

幸運

「病と障害と、傍らにあった本」を久しぶりに読んだ。文筆家の鈴木大介さんは、脳梗塞を発症し、その後遺症で記憶障害や認知障害などの高次機能障害が残ったのだという。「本が読めなくなった」生々しい記録を読んで、同じく脳梗塞を患った自分を振り返る。自分の場合は後遺症もなく、1週間の入院だけで済んだ。退院後は、ほぼ何事もなかったように日常を過ごしている。そして、本当に「何事もなかった」ように感じつつある自分に気づき、ぞっとした。

 

何事もなかったのは実はものすごい幸運で、一歩何か歯車が狂えば違う結果になっていたかもしれない。いまの自分の状況は「あり得ない」くらいの可能性で、一生分の運を使い果たしたと言っても良いくらいのことかもしれない。それなのに、そのことに気づかぬまま今日までなんとなく過ごしてきていたことにはっとし、恥ずかしくなった。本が読めなくなるような障害が生まれる可能性だって、もっと言えば命にすらかかわる可能性だってあったのだ。

 

発症したという点では、幸運ではなかったかもしれない。ただ、その後の経過を冷静に振り返ると、「これ以上何を望むの?」というくらいの幸運と言って良いだろう。もう少し自分の境遇を謙虚に受け止めなければ、と思った。

 

 

本との距離感

自宅の本棚からはみ出している本を、少し処分したりしながら、本棚という枠内でおさまるように蔵書をコントロールしようと思い立った。何度も繰り返している「本を増やしたい」「もう読まない本を処分したい(これ以上増やしたくない)」の終わらない戦い。その気持ちはバイオリズムのようなものだ。ある日にはどうにも処分したくてウズウズしているのに、数日経つと、いやいや、置いておこう、と気が変わる。それが今は、割と長めの「増やしたくない」周期に来ている。

 

本棚の中に入り切らず、上に無造作に積んでいた主に文庫・新書関連を、一部は本棚に詰め込み、一部はドライエリアの本棚へ。そしてドライエリアの本棚を整理し、入りきらない本を、上に積んでおく。これらは、来週以降処分しようと思う。

 

本に対する未練と言うか、執着のようなものが、徐々に少なくなってきていると感じる。大好きで、手放したくないと思える本であっても、たいていの本は、また新刊で買うことができるのだから(新刊で手に入れられないような希少な本はそもそもほとんど持っていない)、自分で抱えておくメリットがない。うっかり手放して、仮に数年後に後悔しても、どうしても読み返したかったらその時にまた買えば良い。そう思えるようになったのが、本との距離感をうまく保てるようになった証だと思っている。

 

 

踏ん張れるかどうか

久しぶりのジョギング。雨や暑さ、そして腰痛を言い訳に、今週は走れていなかった。小雨のなかのジョギングは思いのほか気持ち良い。いつものコースを、ゆっくりめのペースで2周走った。

 

1周走り終える頃にはほんの少しの物足りなさを感じ、すんなりと2周目に入ることができた。これまでそんなことはなかったから、嬉しかった。ほんの少しの苦しさと戦いながら、そうすることで自分が確かに成長していると実感している瞬間があって、その瞬間がものすごい快感だから、走れているのだと思う。

 

つらくなってきたときに、止まらずにもうちょっとだけ走ろう、と頑張れるかどうか。それはジョギングに限らず、仕事においても重要になる姿勢だと思う。諦めそうになった時に、もう少し踏ん張らなければ、と気づき、実際に踏ん張れるかどうか。ジョギングはその大切な姿勢づくりに役立っていると強く感じる。

 

イライラを受け流す

他人に対して寛容であるためにはどのような気持ちで過ごしたら良いのか。なんてことを考えている。

 

どうすれば、他人の言動にいちいちイライラせずに済むのだろう。そもそも、イライラするのはなぜか。それは他人に、自分の思い通りに行動してほしいと願っていて、その通りにいかないことに腹が立つからだろう。こうあってほしい、こう振るまってほしい、という希望がまずあって、それと実際の他人の行動との間に差があるから、「思った通りにしてくれよ」と感じる。たぶんそういうことなんじゃないか。

 

だとしたら、他人に対する期待を限りなくゼロにして、こうしてほしい、と願わなければ良いのではないか。そうすれば、思い通りの「思い」がそもそもないのだから、他人がどう振るまってもそこに差は生じない。言葉で言うとそういうことになる。

 

じゃぁ他人に期待しないためにはどうするか。その境地に至るのはなかなか難しい。どんなことがあっても、他人は他人。そういう考え方もあるよねー、と受け流すことができれば最高だ。しかし人にはたいてい「自分はこう思う」という考えがあるから(あるのが健全だと思う)、その考えと他人の考えとの差が見えるとどうしても気になってしまう。自分と100%同じ考えの他人なんているはずがないなんて、誰だって分かるはずなのに。

 

結局、何かイライラの要素が目の前にやってくるたびに、念仏のように自分に「イライラしない、落ち着いて」と唱えながら、やり過ごすことを繰り返す以外に、今のところ解決策は見当たらない。アナログで、決してスマートでない方法だけれど、そうやってイライラを受け流す経験をし続けるしかないと思っている。そう考える人が、自分以外にもいたらいいなぁ。

 

 

ほんの少し雨

昨日に引き続きジョギング。夕方、涼しくなってから。

 

玄関を出たらほんの少しだけ雨が降っていた。今日は猛暑日にまではならなかったのかな?いや、午前中は引き続き暑かったから、一緒か?午後は比較的過ごしやすくて良かった。昨日の時点で都内の連続猛暑日記録が8日間で歴代タイ、と聞いたから、それならいっそのこと記録を更新して猛暑日であり続けてほしい、なんて変な期待をしてしまった。いやいや、そんな記録、更新しなくたっていい。明日以降、また雨が降りそう。せっかくじめじめした梅雨は早く過ぎ去ったのに、その点では望ましいことなのに、それが戻ってくるようでなんだか心のモヤモヤは晴れない。雨が降ったら気持ちが沈んで、晴れたら暑いで気持ちが沈んで、なんてわがままななんだろう、と思う。

 

走っていてほとんど気にならないくらい、ほんのわずかな雨だった。まぁ、明日以降の気温を下げるのに少しだけ貢献してくれたと思えばいいのか。おかげでいつもよりは走りやすかった。