熱中症になる前に

昼間、仕事があって外に出たら、暑さで身体がやられてしまうのではないかと本気で思った。走ったわけではない。運動と言えるようなことは一切していない。ただ駅を出て、目的地まで歩き、建物の点検をして、また駅に帰ってきただけだ。それだけなのに、直射日光が背中を突き刺し、身体からエネルギーを奪う。あれ、毎年こんなに苦労してたっけ?と疑問に思ったくらいだ。去年は?確かに暑くて外を歩くのも嫌だった記憶はあるけれど、これほどだったっけ?

 

もともとペットボトルの飲み物を買うだけの理由でコンビニに立ち寄るのが嫌いな性分だった。外で飲料を買うのは無駄なこと、くらいに思っていた。それくらい、喉が渇くことに対する耐性があった。しかし今日は、絶対にそうは言っていられないと思った。熱中症で倒れる自分の姿がすぐに目に浮かぶ。コンビニでアクエリアスを買い、昼ご飯を食べるために立ち寄ったそば屋で水をがぶ飲みした。

 

飲み物を買うためにコンビニに寄るとか、自動販売機に駆け込むとか、「暑いですよね。喉乾きますよね。熱中症になるし、あぶないですよ。さあ飲んで」という商戦に乗らされているようで嫌な気持ちにもなるのだけれど、まあそうは言っていられないのだな、と思うようになった。実際に喉は渇くし、飲まないでいると本当に危ないし。

 

誰に当たっていいか分からない苦しみの中を

まとまった休日があれば、その時間を使って溜まっている事務仕事を片付けよう。そうやって休日になる前はいつも決意しているのだけれど、それが思い通りにいった試しがない。たいていが、ぐだぐだしているうちに時間が過ぎていき、夜になり、もう寝よう、となる。今週もそうだった。あれ、と思うの、何度目だろうか。

 

またコロナウイルスが蔓延しているようだ。油断をしていると、忘れたころにやってきては、人を怖がらせる。日中ちょっと頭が痛くなったりすると、もしかして、と不安になる。本当に鬱陶しい。「ただ誰のせいでもない。この感情ってなかなか経験できるものじゃない」10周年を祝う野外ライブの直前、強風でステージのセットが崩れた時の様子を語った真矢をふと思い出した。誰に当たったらいいのか分からない、そんな苦しさの中をいま、まさに生きている。実は成熟した大人になるための階段をきちんとのぼっているのかもしれない。他人のせいにするのではなく、責める相手を何としても探そうとするのでもなく、責める先が見つからない苦しさを受け入れ、耐えること。そうすることの中に人間の強さがあるのではないかと思っている。

 

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コピー機の釣銭の話

午前中、目的地へ向かう途中、ネットプリントをしなければと思い、セブンイレブンに立ち寄った。QRコードをかざすと、料金が提示される。A4用紙3枚分で60円。100円玉を入れた。しかし、何度入れても釣銭口から出てきてしまう。10円玉の釣銭切れ、と画面に表示されていた。10円玉でのおつりを必要とするため、100円玉は受け付けないようだ。財布の小銭入れを再度見る。こういうとき、ツイてないとため息をつくことが多く、今日も例外ではなかった。10円玉は5枚しかなく、あとは100円玉が数枚。ため息は出たけれど、こんなことはしょっちゅうだ。これくらいのことで挫ける私ではない。

 

ネットプリントをしたあとでボールペンを買おうと思っていたので、じゃあ先に、と一旦コピー機をあとにする。ボールペンを買った。レジで200円を入れる。おつりが出てきた。買ったボールペン(ジェットストリーム)は143円くらいだったので、おつりは50円ちょっと。なんと50円玉で出てきたのだ。目当ての10円玉がない、これじゃ意味がない、泣きっ面に蜂とはこのことか!と嘆いた。そして、嘆いていてもプリントはできないので、暑かったしまぁいいや、とペットボトルのポカリスエットを手に取り、再度レジへ。200円を入れ、10円玉を含むおつりをようやく手にした。ふう、と深呼吸をして、こんなことで焦るようでは大人とはいえないぞ、と自分を叱りながら、ネットプリントを済ませた。ほんの2~3分立ち寄るつもりだったのに、10分近くかかったので、目的地への到着が遅くなってしまった。

 

しかし、と店をあとにして歩きながら思う。最初に50円玉のおつりが来た時点で、その50円と手持ちの10円玉で、60円のプリントができたじゃないか、と。10円玉にばかり固執して冷静さを失った私は、普通に考えたら誰だって気づくようなことに、その時気づかなかった。どんな時もどしんと構えていなくてはいけないのに、と自分を責めた。もともとボールペンは買う予定だったから、それ自体は決して無駄ではないのだけれど、少なくともポカリを買う必要までは、なかった。自分はことお金に関しては浪費家ではなく、HONDAのスーパーカブ並みに燃費の良い人間だと自負しているのだけれど、こうして小さな無駄遣いを重ねる人間に、そんなことを言う資格はない。

 

そして。目的地へ歩きながら、さらに考える。最初、私が100円玉を先に入れたから、機械が10円玉でのおつりを必要とすると察知して100円玉を吐き出したのだ。もし先に10円玉を1枚入れて、その後に100円玉を入れていたとしたら。機械に入ったお金は110円。それで60円のプリントをするのなら、おつりは110-60=50円だ。50円玉の釣銭はコピー機に入っていたかもしれないので、50円のおつりなら出せると判断した機械が100円玉を受け入れていた可能性がある。10円玉の要らないおつり=50円となるように110円を、10円玉→100円玉の順に入れるという画期的なアイデアが、その瞬間に私の脳にひらめいたらの話だが。ただ残念ながら、私にそんな瞬発力はない。

 

もちろん、それでも100円玉は受け付けられなかった可能性はある。しかし、もしそれが受け入れられたとしたら。そして最初からそうしていたら。一旦コピー機を離れてボールペンを買いにレジへ行き、またコピー機へ、なんて動きをする必要はなかった。なんとしても10円玉を、と思ってポカリスエットを買った私の買い物も、完全に無駄だ。

 

午後、雨がやんだと思ったら急に太陽が出てきて暑くなった。日中の目的を済ませ、帰宅する直前に、かばんの中のポカリを飲み干す。今日はなんだか無駄に思える動きをたくさんしたし、いやいや、そもそもそういうことじゃなくて、普通に「釣銭が切れているので10円玉を補充してください」と店員に言えば済んだろうに、とも思ったのだけれど、結果、ポカリを買ったのは無駄ではなかった。熱中症にならずに帰宅するために、ポカリは買う必然性があったのだ、と自分に言い聞かせた。

 

自分にとっての適度なペース

昼間、久しぶりのジョギング。暑い日中はつらいけれど、走れてよかった。リフレッシュできた。

 

体調を崩したり、面倒臭がったり、天気が悪かったり(雨だったり暑かったり)が重なって、このところ走れていなかった。毎日でなくてもいいや、と気を抜いたら最後、気づいたら何日も運動していない、なんてことに。習慣は途絶えさせないことが大事であって、毎日続けることに固執する必要はない。そう思ってちょっと肩を軽くしたのだけれど、軽くしすぎた。油断しすぎるとすぐ途絶えさせてしまう、と思った。

 

ちょっと間が空いただけで身体は重くなり、いつものコースを1周するだけでへとへとになった。通常のペースを維持することができなかった。「身体が習慣を身につけるのには時間がかかるけれど、忘れるのは簡単だ」その言葉を、「そうは言っても、1年半以上日課にしていたのだから、そう簡単にリセットされないだろう」なんて言って蹴り飛ばしていた。しかし今日、これはまずい、と思った。蹴り飛ばすそうとするールは固く、重かった。

 

毎日走ろうと意気込む必要はない。もうその目標はとっくに途絶えた。ただし、間をあけすぎると、それが原因でつらくなる。自分にとっての適度なペースを、時間をかけてでも見つけていきたい。

 

絞ること

何かを長く続けるということを、自分の一つの強みとしてきた。続けることでしか得られないものが必ずあるはずだからだ。続けていれば感じることができた達成感を、やめてしまうことで味わえなくなる。それではもったいない、と。

 

そして、その「続けること」は、一つより二つ、二つより三つ、と多い方が良いとも思っていた。楽しみがたくさんできるし、続けることで得られる喜びも増える。ただこの「続けていることは複数あった方が良い」という考えが、いま変わりつつある。

 

長く続けていることの一つに、このブログが挙げられる。毎日は無理だけれど、毎週末ならできそうだと思い、週末限定で毎週必ず更新することを目標に、書き続けてきた。それが気がつくとここ最近、なかなか更新できずにいる。その背景には、別の自営業ブログに短文の日記を書くことを自分に課していて、続ける対象が二つになったことに疲れを感じている、ということがある。誰かに言われてやっているわけではなく、自分で決めてやっているのだから「頑張る」という言い方は変なのだけれど、頑張る対象は、やはり一つに絞った方がやりやすい。

 

数年前に買った自転車も、サイクリングという適度な運動を自分の身体に馴染ませようと思ったからだけれど、しばらくしたらやる気が急になくなって、手放してしまった。それよりもジョギングの方が手軽で、道具もいらず、良い気分転換と体調管理になると思った。ジョギングとサイクリング、両方を続けるという選択肢は自分には、なかった。

 

何かものごとが上手く進まないなあ、と思ったら、ほんの少し助走をつけてあげられるコツがある。忙しくて最近心にゆとりがないなあ、と思うことがあったら、心にほんのちょっとの余裕を入れてあげられるコツがある、それは、なにかを手放して、頑張る対象を絞ること。それが、自分の力を過信したが故にそのギャップに苦しんだ、私なりの結論だ。

 

腰の痛みが

また腰を痛めた。しばらく安静にしていたことで忘れかけていた痛みが、またやってきた。原因はよく分からない。雨が降って暑いのだか涼しいのだかよく分からない天気に惑わされたのだろうか。昼ご飯を食べた後にもかかわらず、祖師ヶ谷大蔵の駅そば屋さんでそばを食べ、腹を膨らませたのも良くなかったかもしれない。風呂上がりにゆっくりストレッチをしたら、より痛みが強まったので、ストレッチの仕方が良くなかったというのもあるだろう。いずれにしても、普段あまりしないことをしてはいけないということがよく分かった。一度「これは控えるべき」と思ったことは、ほとぼりが冷めてもやってはいけないのだ。ストレッチにしても、無理に体を動かそうとすると逆効果だ。明日からまた一週間、頑張らなければいけない。安静にしなければ。

 

火山灰のように降り積もる言葉

「生きる力を削ぐ言葉」という言葉に、「まとまらない言葉を生きる」(荒井裕樹/柏書房)で出会った。今の社会にまん延しているように見えるものをピンポイントで示した言葉だなあと最近強く思う。

 

言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。

 

いま、トゲのある言葉が他人を傷つけていることに、言葉を発した人はもちろん、その言葉を受けた人も気づかずにいて、徐々にその傷が人の心に蓄積され、地層のように重なり山になっている状態なのではないか。そう感じ、怖くなる時がある。「誰かに迷惑をかけている人」をターゲットにして、「こういう人がいるんですよ。イヤですよね。さあみなさん、思う存分叩いてください。炎上してください」と発信するメディアの立ち位置は、嫌悪の対象とされるいじめにおけるいじめっ子そのものだ。そのゴングの音に興奮したかのように、誹謗中傷の言葉を浴びせる様子を見ると、それがほんの一部の空間での出来事であったとしても、心臓が縮む思いがする。とがった言葉を受けた人だけでなく、言葉を浴びせた本人も、その言葉が呪いのように自身に降り積もっているかもしれない、というようには感じないだろうか。黒ずんだ火山灰のようなものが心臓を覆い、せき込んでしまいそうになるシーンを想像してしまうのは、私だけだろうか。

 

 

腕時計を

腕時計をつけなくなってもう何年も経つ。昔は大好きでずっとつけていたけれど、ある時急に、関心がなくなった。仕事をする室内でも、駅のホームでも、飲食店でも、見渡せばたいていどこかに時計があって時間が分かる。どうしても分からなければスマホを見ればよい。こうして腕時計から遠ざかっていた。

 

最近、思い立って久しぶりに腕時計をつけて仕事をしていたら、その便利さに驚いた。スマホを取り出して画面を見るよりはるかに楽だ。なにより、日中意識してスマホを見ないようにしている自分にとって、適度なアナログ感が心地よい。スマホの画面を見る度に光線が目を襲うが、腕時計にはそれがなく、安心して時間を確認できる。

 

もう自分にはいらないな、と思って、何年も電池交換をしていない腕時計がいくつもある。ただ、何かあった時に使えるようにと、メインの腕時計は残している。まだまだ、いらなくはなさそうだ。

 

「今日はダメだ」に怯えない

週末限定更新をうたって続けてきているこのブログ、そろそろサボり癖がついてきたようだ。机に座り、パソコンの画面を広げ、深呼吸をしても、なかなか文字を起こすことができない。

 

とは言え、そんなに強い信念を持てているわけではない自分が一つのことを15年も続けられているのは、それを「毎日」ではなく「毎週末」と限定したからに他ならない。毎日やろうと決意していたら絶対に三日坊主で終わっていたし、気が向いたら書こう、くらいにしか思っていなかったらそれはそれで全然書けなかったと思う。7日のうち2日くらいがちょうど良い塩梅なのだろう。

 

みんな、続けるということを軽視している。すぐやめてしまうなんてもったいない。続ければ絶対に力になるのに。そのような意見を坂口恭平さんの著書で読んで、そうだよなと思った。そのような言葉に触れる度に、一応はブログを書く事を続けてきている自分を、よくやってる、と慰めてきた。他人よりもほんの少し、何かを続ける忍耐力がある方なのかもしれない、という自信もついた。

 

だからこそ、書けない日があっても、そういう日もあって良いと認められるようになった。毎週末忘れずに書いて、数年後に習慣そのものがなくなってしまうよりは、多少穴があいても、書くという事を身体にしみ込ませて、この先20年30年、ずっと書き続けていく方が良い。その日その日の「今日はダメだ」に、必要以上に怯えないようになったのは、続けることを目指してきた自分にとっての大きな成長だと思っている。

 

6月

平日昼間の仕事環境がちょっとだけ変わったのが4月。それからもう2か月が経ったことになる。目の前のことに集中しているからとはいえ、時間が過ぎるのが本当に早い。年々その早さを増しているように感じる。

 

最近は、目の前につらいこと、苦しいことがあっても、「きっと数年経てば『あの頃は大変だったなぁ』で済まされてしまうんだろうな」と感じ、ほんの少しだけ肩の力を抜くことができるようになった。自分はこれを成長だと思っている。目の前のことをいい加減にやり過ごそう、という話ではない。過去にあった大変なことは、その時は確かに大変だったとしても、時間が経てば忘れ去られることがほとんどだ。だから目の前のつらさにだけ惑わされて、判断を誤ってはいけない。誰もがそうやって、時間を費やして生きている。

 

時間割の大切さ

まる一日のオフであれば特に、そうでなくても、午前中に仕事を終えて午後何も予定がない半日オフであったりすると、とたんに無気力になるのはなぜだろう。こういう予定のないオフも必要なのは分かっている。ないと、精神的に苦しくなってつらくなる。ただ、だらだらと過ごしてしまうと、夜になって「何もできなかった・・・」と後悔することになる。いったい何度こんなことを繰り返してきただろう。

 

時間割の大切さを身をもって感じるのは、こういうときだ。学校で勉強していた時は、毎日時間割表に従って過ごしていた。そこには1分の狂いもない。そんな規則正しい生活を、外からの締め付けだとか、不自由だとか言うことは簡単だけれど、それよりももっと大事な、リズムに乗って動く習慣を身につけることができたのだと思う。社会人になり、自分で自分の行動をある程度決めるようになって、その習慣の欠如が直接仕事の品質にも影響を与えることを知った。例え外からの締め付けであったとしても、その習慣を体内に記憶させたままでいられたら、もっと有意義に仕事をすることができるのではないだろうか。

 

自分で行動を決められる今、やるべきことは、時間割をつくること。そう感じている。「今日はやらなければいけないことがない。だから家で寝て過ごそう」それでも良い。大切なのは、「家で寝て過ごす」も含めた時間割をつくること。それがないと、無気力感に身を委ねたまま、長時間何もできないでいることになる。ゆっくりしたら、夕方からはこれをしよう、と前日までに決めておけば、寝すぎて後悔することもないだろう。

 

できることの折れ線グラフ

やろうと思っていたことが、期日までにできなかった。そういうときに人は、ものすごく大きなストレスを感じるのだと思う。自分はできると思っていた。これくらい簡単だ。自分に自信があればあるほど、できなかったときの落胆が大きい。あれ、自分はこんなこともできないのか、と落ち込む。そうして明日以降のやる気もなくなってくる。まさに負のスパイラルだ。

 

こうした循環から身を守る現時点での解決法は、過信しないこと。きっとそれだろうと思う。できなくて当たり前。何かしらの障害が自らを襲い、やりづらくするに決まっている。そうやってハードルを下げておけば、できなかったときには「ほら、思った通りだ」と開き直れるし、もしできれば「奇跡が起きた!」と驚ける。

 

問題は、ハードルを下げることに慣れると、下がった状態が自分の力になってしまうということ。これは自身の成長、成熟という観点からは避けたい。いつもほんのちょっとだけ力を入れて働き、昨日までできなかったことをできるようにしたい。少しずつでも良いから、その繰り返しで自らの力の折れ線グラフを右肩上がりにしていきたい。パッと見、平行線じゃないかと思うくらいの、ほんのちょっとの傾きでも良い。

 

自分の期待値を下げておけ。よく言われるけれど、実際は難しい。下げ過ぎると自堕落になるからだ。怠け過ぎず、かつ緊張しすぎない。そのさじ加減に、正解はない。

 

渋谷から熊谷まで

電車内の話。いま住んでいる自由が丘から、実家の近くである東上線の森林公園駅まで、直通で走る電車があって、帰省するとき等はその直通電車になるべく乗るようにしている。多少時間がかかっても、乗り換えずに目的地までたどり着けるのは楽で嬉しい。とはいえ、森林公園駅といったら東上線の終点にほぼ近く、着くまでには90分くらいかかる。

 

先日、帰省したとき、たまたま席が空かず、自由が丘で乗ってから森林公園で降りるまで、ずっと立っていた。だいたい池袋から川越あたりでガラガラになるので、座ってひと眠りするくらいの余裕はあったのだけれど、その時は鶴ヶ島あたりまで比較的人が多かった。席が空いた時にはもう東松山に来ていた。帰省する時の東上線でずっと立っていたのはたぶん初めてだ。

 

ただそれほどの辛さも感じず、なんだ、立ってられるんだ、と拍子抜けしたというのが正直なところだ。それ以来、多少目的地まで遠くても、なんとかして座ろうと躍起になることはなくなった。

 

1か月に一度、仕事で熊谷へ行く。今日がその日だった。渋谷から熊谷までの高崎線の車内にいる時間を時刻表で見たら約90分。帰省する時の乗車時間とほぼ同じであった。熊谷までずっと立ったままでいる勇気はさすがにないなあ、なんて思っていたけれど、それほどでもないのかもしれない。

 

シニカル

仕事で昨日、今日と二日間、埼玉に行っていた。昨日実家に行って一晩泊まり、今夜帰宅。往復3時間の電車移動は、日をまたぐとは言えやはり疲れる。そして明日からまた平日の仕事が始まる。忙しい自分に酔っている、たぶん。

 

「おりこうさんたちの方が操られてる」幸いにも、そう思ったことはない。自分で自分をおりこうさんだと自慢するつもりはないけれど、割と柔順な方だとは思っているので、そういう言葉を聞くと、ナイフで腹を刺されたかのような痛みを感じる。ただ、思ったことがないということは、それくらい操られているとも言えるのかもしれないな。そうかもしれないね。

 

他人を「地獄行きでっせ」と日々つぶやいている自分も、だいぶシニカル。

 

きれいなメロディ。

 


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計画を立てるための連休に

連休前に、まとまった時間をつかってあれをやろう、これも片付けよう、と意気込んだことはたいてい、実現しない。いや、実現「しない」というと、実現させる主体が自分にはなく、どこか他人任せなニュアンスが感じられてしまうから、使うのはやめよう。いつだって、実現させるのは他人ではなく自分だ。実現しないのではなく、実現させようとしていない。ただ、させようと思ってもかさせることができないのは、確かなのだ。

 

普段、忙しいときには時間を割くことができないから、こうした連休を使おう。そうやって計画すること自体は良いことだと思う。普段できないことができるのではないかというふうに気づいている、という点で。しかし、いざその時がやってくると、他のやりたいとが思い浮かんだり、なにもしなくても良いという安心感が何かをやるための気力を削いだり(これが一番大きな原因だ)して、結局手をつけられない。こうしたことをこれまで何度(何年)、経験してきただろうか。たいていのことができないと知っていながらも、懲りずに計画を立てたがるのだから、仕方がない。

 

ではどうしたら連休を後悔せず有意義に使えるのか。その一つにこれを書いている今、気づいた。何か自分がやりたいこと、行きたいところ、やり遂げたいことを実行するために費やすのではなく、それを計画するために費やすのだ。登山で山頂にたどり着いた瞬間よりも、山頂を目指して登っている過程に喜びがあると言われるのは、つまりはそういうことだ。計画を立てている時に、一瞬で消えることのない長期間的な興奮があるのであれば、それ自体を連休中のTODOにしてしまうのだ。

 

こうして連休中に計画したことを、連休明けの普段の日常を使って、仕事だとか家事だとかそういった日常的な制約をセットにして、実行する。何か月かかっても、何年かかっても良い。どんなに長くてもゴールデンウィークは10日程度、年末年始だって半月程度。それに比べれば実行期間ははるかに長い。これが自分にとっての有意義な連休の過ごし方であることに、連休最終日にようやく、気づいた。