新しい雑貨屋

自宅近くに新しく雑貨屋さんがオープンしているのを、店の前を通りかかって知った。

 

そこには以前、雑貨屋というか文房具屋というか、とにかく雰囲気のよいお店があった。小ぢんまりとした店内で入るのにちょっと勇気が必要だったことと、その時に雑貨や文房具を新しく出迎える心の余裕がなかったことから(いまになって、そうやってお店に入らなかった自分を正当化する)、一度くらいしか行ったことがなかった。それが26年続いた雑貨屋であることを知ったのは、店の前を通りかかって閉店を知り、改めてそのお店のことをインターネットで見たからだ。もっと行っておくべきだった。いつだって、閉店した後に行かなかったことを後悔する。

 

新しくオープンした雑貨屋さんの店内の様子を、歩きを止めることなく外から眺める。なんとなく、新しいお店に対する警戒心みたいなものがあって、自分が必要とするようなものを扱っていないのかもしれない、いや、扱っていない可能性の方がはるかに高い、そう感じたのだと思う。器が並んでいるのが見えて、こういうお店で器を選ぶのもいいんじゃないかと思ったときには、もう店を離れていた。新しいお店にとりあえず入ってみる勇気がなく、まずインターネットで、自分が行きたい店かどうかを調べてからにしようと思ってしまうのだ。なんとなく入ったものの、気に入ったものがなくて、何も買わずにそそくさと店を出る、といったことに対する恐怖心が、「とりあえず入ってみよう」という気を削ぐ。

 

「FREE PARK」看板を見て頭に入れておいた店名を、帰ってから検索する。気にせず、その時の好奇心のまま入れば良かった、と後悔した。モノにはそれぞれストーリーがあって、つくる「人」がいる。つくる人の想いを知り、モノにまつわるストーリーを知り、それを日常生活に取り入れる自分を想像する。ふとした瞬間に、幸せといったら大げさだけれど、楽しさを感じられるようなモノに出会えそうな気がした。

 

www.free-park.jp

 

君を思い出すから嫌いで

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自由が丘に引っ越してきて、明日でちょうど1年になる。植木屋さんがお祝いに植えてくれたブルーベリーは、去年もちょうどいまごろ花をつけ始めた。きれいな花を咲かせ、そして7月にはふくよかな果実を生んだ。1粒だけのそれを、味わうようにして食べたのがなつかしい。今年も花が咲き始めた。今年は、もっとたくさんの果実をつくってくれないだろうか。そんな期待を、する。

 

雨に濡れる植物を見て、それなら今日は水やりをしなくていいかなと思う反面、自分の手で水という恵みを与える、その喜びを奪われたような、そんなどっちつかずな気持ちでいる。自分が育てているから彼らは成長している。そういう実感が欲しいのかもしれない。なんて身勝手な。植物なんて、人間がいなくたってたくましく、勝手に育つだろうに。

 

雨が続く梅雨の時期や、強い横殴りの雨が襲い掛かってくる台風の季節も好きではない。それよりもカラッと晴れた、太陽光がじりじりと身を焼くような、そんな夏が好きだ。季節の往来に好き嫌いの感情が左右されるのも、なんだか違うなぁとも思うのだけれど、こればかりは仕方ない。好きな季節はその好きを上機嫌という形で放出させて、逆に苦手な季節は、それが過ぎるのを淡々と待つ。

 

夏の空は今日も青空で 君を思い出すから嫌いで

(GLAY / 夏音)

 

当時大好きでよく聞いていたのをふと思い出した。この曲の主人公は「君」を思い出すから夏の空が嫌いだという。そういうストーリーもある。「君を思い出すから嫌いで」という歌詞が好きで、この曲のテーマたる季節がさらに好きになった。これからその季節がやってくる。

 


www.youtube.com

 

書店の役割分担

1か月ぶりに妙典へ。ゆっくりはできなかったけれど、都外の空気をたっぷりと吸い込む。外から見ると都内の人は大変な状況下を生きているように見えるらしい。その張本人たる自分にはそれほど危機感はなく、生活もさほど変わったわけではないのだけれど。

 

それこそ週に2~3回は必ず立ち寄っていた本屋がある。そこで今日もうろうろしては、ここに住んでいた1年前までの自分の暮らしを思い出していた。

 

その「いつもの」本屋さんにしても、イオンの中にある未来堂書店にしても。いま自分が好きでSNS等でチェックする複数のセレクト本屋が推しているような本が、ほとんど置いていないということに気づいた。作家別の小説文庫はずらりと並んでいる。ビジネス書もたくさんある。死にたいけどトッポッキは食べたいとか、ブスな自分を殺すのに頑張ってるとか、何者にもなれない自分を応援してくれる本もたくさんある。大河ドラマの影響か、渋沢栄一の本もたくさん平積みされている。なのに、どれだけ探しても(あまり長居できなかったから気づかなかっただけで、もしかしたらあったのか?)、「三春タイムズ」もなければ、「NAOT BOOK」もない。「ぼくにはこれしかなかった」もなかった。なので結局、夜帰宅してから、信頼する本屋のウェブショップで買った。

 

これは!と表紙やタイトルを見てビビっと来る(ことが多い)ような本が、こうした大衆書店(という言葉が適しているのかは分からないけれど)には置いていないという事実。ここから導き出される結論は、書店には役割分担があるということ。ある街に本屋さんがあっても、そこで扱う本には限りがあり、そこで扱わない本を扱う本屋もまた、重複したり競合したりすることなくその街に必要である、ということ。そんなことを、久しぶりに妙典に来て感じた。

 

  

  

ぼくにはこれしかなかった。

ぼくにはこれしかなかった。

  • 作者:早坂大輔
  • 発売日: 2021/03/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

やぁ

待ち合わせ場所に相手がやってきたとき。イベントで、久しぶりに会う人と目が合ったとき。義妹夫婦のお店に遊びに行ったとき。そういうとき最初に、やぁ、と手を挙げて挨拶するのが自分の癖になっていることに、最近気づいた。あなたと会えて嬉しいです、という気持ちを端的に表現できる手段だと思っている。目が合って、お互いの顔がにこやかになる。その瞬間に相手との距離が縮まるように思えるのだ。

 

これが親しい相手であれば良いのだろうけれど、仕事でのコミュニケーションではそうもいかないだろうとも思う。もちろん、あまりに目上の人と会う時に「やぁ」とはやらない。しかし今日、コーディネートをしているコーポラティブハウスの管理会社の担当者と駅で待ち合わせをしていて、先に到着していた彼に気づいた瞬間、無意識に「やぁ」と手を挙げて挨拶をし、はっとした。

 

彼は自分より年下で、「目上」かと言われると違うけれど、決してクライアントと顧客といった関係でもないし、自分が偉そうにふるまって良い立場でもない。仕事上管理会社には、管理組合の立場で要望を伝えたり改善を申し入れたりする役割にはある。それでも、気を許してよいということはない。もし、自分の心の中にあるほんのちょっとの「上から目線」的な気持ちが、「やぁ」と手を挙げるというふるまいに現れたのだとすると、良くないと思った。挨拶それ自体は大事にしたいが、相手によっては不快に思うかもしれない。

 

身体を大事にする食事

昼間、東林間のナツメヒロの企画展へ。個性的なぬいぐるみの可愛らしさに触れたのち、近藤九心さんの器を買った。盛ったものを食べ終わると、底に広大な宇宙が広がっている、そんな唯一無二のデザインが美しい。こういうささいな道具をきっかけにして食事が楽しくなると尚よい。

 

natsumehiro.com

 

ナツメヒロに行く前に「あみや」で食事。最近は東林間に遊びに来たらあみやでそばを食べると決めている。おなかもすいていたし、たまにはいいかなと気が緩み、いそぎり天せいろだけでなく、単品でたぬき丼も追加してしまった。

 

もちろん美味しかったけれど、食べ終わった後の満腹感と身体の多少の動かしづらさが、もうそんなに食べるべきでないと教えてくれる。身体はきっと正直なのだ。昔はたくさん食べることが身体へのエネルギー蓄積のために必要不可欠だと思っていたけれど、きっといまは違う。腹8分目あたりを本当に意識しないと、健全に身体を動かせなくなった。

 

体調管理は大人の重要な仕事。言葉では分かっている。しかし、どうしたら身体が悲鳴をあげて、どうしたら身体が円滑に動いてくれるか、それを真剣に考えて行動することができていなかった。食事の重要なパートナーである器を新しく迎え入れたこの機会に、といったらちょっと強引だけれど、自分の身体を大事にする食事を心がけたい。

 

仕事のためのセンス入門

兵庫県に、憧れの本屋がある。ただそこを「本屋」と呼ぶことには少し違和感がある。「本がある家」といった方が近い。「BOOKS+kotobanoie」本好きの店主が自宅の一部を開放するというこの場所に行って本を読むことが、いまの自分の夢だ。店主の言葉を本で読んで、体中に電流が流れたような気持になった。

 

「売ったとしても、その本は買った人の本棚に移動するだけで、変わらずに存在しているんです。どこの誰か分からない人の元に行ったとしたら無いのと一緒ですが、この家に来てくれた人のところに行くのだったら、それは僕の本棚にあるのと一緒だと思うんです」

 

好きな本を、まぁ本でなくても構わないのだけれど、自分のものとして抱え込んでその旨味を独占するのではなくて、他人と共有する。これ、面白いと思うんだけれど、どう?というように。自分が楽しい思いをしたから、他人にもその楽しさを知ってもらいたい。共感してほしい。そういう想いがいまの自分にはある。その想いに気づいたのは、この「本がある家」のおかげだ。

 

日本の小さな本屋さん

日本の小さな本屋さん

  • 作者:和氣 正幸
  • 発売日: 2018/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

「分かち合う生き方」早速買った新刊を読みながら、つまりはそういうことなのだと思った。自分が手にしたものは、所有物ではなくて、社会からの預かりものである。だから次に社会にどう役立てるかを考えて使う。世の中の人たちと分かち合える生き方を模索する。それが「ほんもののセンス」であるならば、自分も、手持ちのものの良さを他人と共有することを、意識して行動したい。

 

仕事のためのセンス入門 (単行本)

仕事のためのセンス入門 (単行本)

  • 作者:松浦弥太郎
  • 発売日: 2021/03/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

走る、を続ける

ジョギングをしようと決めてはやめるを繰り返し、中途半端な感じでここまで来た。この中途半端な感じが自分にとって良くないことが分かっているのに、続けることができなかった。短い距離でもいいから毎日走ろう、その走っている時間そのものを楽しもう、と思ったのは、ほんの1週間前、松浦弥太郎さんの走ることに関する本を改めて読んでからだ。

 

それまでは週末、ちょっと遠くまで走っていた。1週間に一度だから、ある程度距離を走って疲れるくらいじゃないと意味がないと思っていた。けれど、その「頑張って走らなければ」という気持ちが枷になって、走れない週もあった。だから、少しでもいいから毎日必ず走る。それを習慣にするべきと思った。「今日はしんどいからやめよう」と思い悩む余地はない。走ればいい。

 

思い出すのは、高校の剣道部時代。毎日朝練で走っていたし、素振りが大事だと知ってからは毎朝早く起きて朝ご飯を食べる前に素振りをした。それを「億劫だなぁ」と感じたことは、当時はまぁ多少あったのだろうけれど、いま振り返るとほとんどない。毎日身体を動かすことが当たり前だった。それを、20年経ったいま再現できないわけがない。そう思うようにしている。

 

心身の健康は決して当たり前に持てるものではなく、人間いつダウンしてもおかしくないということが、今年分かった。だから、体調の良い状態を維持させることを、意識する。あとは、走っているときになんとなく頭で考えていることを、大事にする。走っているときの、ただなんとなく何かを考えている時間そのものを、大事にする。

 

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

  • 作者:弥太郎, 松浦
  • 発売日: 2017/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

RELOAD

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チケットがとれず動画配信での参加と思っていたLUNA SEAのライブに、急遽行くことができた。収容制限の緩和に伴い追加席が発売されたので、迷わず買った。

 

昨年1年間、暗いニュースに耐え、行動を我慢し、時にイライラを募らせながらも過ごしてきた。その憂さのようなものを、思い切り晴らすことができた。

 

自分がやると決めたことは、必ずやる。そのために動く。

 

仕事で自分を役立たせるために、自分はなにができるのか。何をすべきなのか。そのことを冷静に考えて、そのためのアイデアを出す。

 

自分自身のためというよりも、他人を楽しませるためや、他人を幸せにするために行動する。

 

そんなことを、彼らから学んだ気がした。

 

LUCA

君が自由を 求めるなら 君の羽ばたく 僕は君の空になろう

君が羽を 痛めたなら 癒えるまでずっと 星を灯すよ いつまでも

(LUNA SEA / LUCA)

 

延期になっていたさいたまスーパーアリーナ公演が、今週末に控えている。チケットはとれなかったのでライブストリーミングでの参加。コロナ禍になって以降初めてのライブで、いまから胸が躍っている。 

 

緊急事態宣言が今日解除されるとはいえ、収束には遠く、気が滅入るような毎日が続いている。いや、気が滅入るのは、そう感じてしまうような情報に触れてしまうからだ。それらを全て遮断して情報弱者になるのだとすると嫌だけれど、報道は適度に遮り、自分の気分を安定させることに努める。

 

そんななか、思いっきり発散できる日になりそう。

 

空のように他人を包み込む寛容な存在に、こういう時こそ憧れる。

 

学びの比喩

「実際にやってみないと分からない」というのはよく聞くことだけれど、それができたら苦労しないよ、と言いたくなる。やってダメだったらやり直せばいいじゃないか、という助言にはたいてい、本当にやり直さなければならないときに払うコストの大きさを無視した態度が含まれていると感じる。だから安易に「とりあえずやってみよう」なんてことは言えないと思っていた。しかしその言葉もきっと本当なのだろうと心の中では分かっているのだ。

 

ヴォーリズ建築である大学校舎はそれ自体が「学びの比喩」になっている。内田樹「武道的思考」を読んでそのことを知り、なるほどと膝をたたいた。扉を開けたその先にどんな景色が広がっているかは、実際にその扉を開けた人にしか分からない。実際に学ぼうと意識して、学んだ人にしか、それによってどんな景色を見ることができるのかは分からない。それは仕事にも、もっというと人生全体においても言えることで、自分がこうしたいと思ってもただ思っているだけではダメで、実際に行動に移さない限りその先の風景は分からない。行動する前から「もしかしたら後悔するかもしれない・・・」と躊躇うのは、扉を開ける前から扉の先の風景を勝手に想像して(本当は違うかもしれないのに)良くないことが起きると決めつけるのと同じくらい愚かなことなのかもしれない(実際扉を開けたら恐ろしいことが待っている可能性もなくはないので、だから人生は難しい)。

 

ヴォーリズの「仕掛け」は「その扉を自分の手で押してみないと、その先の風景はわからない」という原理に貫かれている。

 

扉の前に扉の向こうに何があるか、自分が進む廊下の先に何があるのか、それを生徒たちは事前には開示されていない。自分の判断で、自分の手でドアノブを押し回したものだけに扉の向こうに踏み込む権利が生じる。どの扉の前に立つべきなのか。それについての一覧的な情報は開示されない。それは自分で選ばなければならない。「学びの比喩」というのはそのような意味を指している。

 

昼間、義妹夫婦と食事。雑貨店を経営する義妹夫婦から仕事に対する姿勢を聞いて、実際に行動することの大事さを改めて感じた。いままでは、ただ自分の頭の中に漠然とした不安を生み出して、その不安に勝手に影響を受けていたのかもしれない。

 

武道的思考 (ちくま文庫)

武道的思考 (ちくま文庫)

  • 作者:樹, 内田
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: 文庫
 

 

知性的であろうとする姿勢

自分が知性的にふるまおうとすることを、忘れていることにふと気づきました。知性的にふるまわなければならないということは、なんとなく心では分かっています。その時の感情や気分に任せてまるで客観的でないことを言い、自分の考えこそが正しいのだと曲げずに、他人の意見に耳を傾けない。そうした態度が良くないということは頭では分かっているけれど、ではそれとは真逆の、実証性や客観性を重視し、自分の考えが誤っている可能性を認め、他人の意見に耳を傾けて自分にない正しさを探そうとする姿勢を意識して貫いているかと問われると、首を横に振らざるを得ません。そうした姿勢でいるためには意識して努めなければならないのだと、問いを受けて初めて気づいたくらいです。

 

いま周囲がギスギスして、何か刺激的な意見や思想に飛びついたり、逆に目を逸らしたり。匿名で、自分の言葉に責任を取らなくてよいことを盾に、他人の意見に強い口調でただ批判したり、場合によっては誹謗中傷したり。そういう状況は、「知性的にふるまおう」とする姿勢に背を向けて、その瞬間の空気に乗って発意された結果としてもたらされているのかもしれません。だとすると、皆が知性的であろうとすること、そのためには逆のことに目を向けて、「反知性的であるとはどういう状態か」を知り、そうならないように努めることが、大事なのだと思うのです。

 

長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。

 

知性が充分に働くには時間と労力が必要である。同時に、時間と労力をかけて考えても考えても、なんの地平も開けず、したがって何の結果も得られない可能性もある。そういう「空振りのリスク」を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき“を希求すること。それが、真に「知的な態度」なのではないか、と思う。

 

時間や心の余裕がないとき、人は反知性主義に陥りやすいということ。そしてそのとき、反知性主義的ソリューションがあたかも「ゴール」への近道であるかのごとく錯覚しやすい、ということ。

 

 

アジア辺境論

土曜日。管理組合の総会に向かう電車内で、この本を読み始める。いつも思うのだけれど、内田樹の本を読むたびに、自分の無知、自分の無関心を実感する。常に考えて、言葉にして、世の中に問う姿勢が、自分と他人とでこうも違うものなのか、自分はそれで恥ずかしくないのか、というように。日本とアジアとの関係を読みながら、日本はこれからどうふるまっていくべきなのかを考える。

 

自分は政治に対してどこか楽観的と言うか、無頓着なところがあって、最近それでは良くないのだろうなぁと思うのだけれど、一方で、ただ条件反射的に批判しているだけのように感じられる言葉に触れると、そうじゃなくて少しは認めたらどうよ、とも感じる。そうカリカリしないで。そこはどうだっていいんじゃないの?そう思うこともたくさんある。

 

長期的視点に立って、こうすべき、という想いをもつことは大事。本を読んで、他人の意見から学ぶのも大事。でも、他人がこういっているから、よく分からないけれど自分もそう思うようじゃなければ、と強迫観念にとらわれる必要は、たぶんない。他人は他人。それを受け入れたうえで自分はどう思うのよ、と自分自身に問いを立てて、出す答えを、大切にしたい。

 

 

 

不安の正体

これからどういう働き方をしたら自分の身体が喜ぶだろうか、と考える。

 

こんな働き方をしたいんだ、というおよそのイメージは湧いている。しかし、そこにはいつだって不安がつきまとう。できなかったらどうしよう。思い通りにならなかったときに、元に戻れないんじゃないか。というように。

 

その不安の正体を掴むのに、一歩近づいた気がした。将来に不安を抱くのは、「自分に体験に基づく感覚がなければならないのだ」と身体が訴えているから。そうであるならば、自分が体験して感動したこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、「またやりたいな」と思ったことなどを、ほんのささいなことでもいいから心にとどめておいて、その感覚を再現させるためにはどうしたらよいかという視点で考えると良いのではないか。そう考えれば、不安は消えるのではないか。

 

情報化社会では、情報をもとに考えることが大事だとされていますが、思考の出発点は体験に基づく感覚です。体験はライフハックできないことです。

 

不安と恐怖の高まりは、それだけでは生きていく上で危険だからと感覚が、身体が訴えているからではないでしょうか。

 

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

  • 作者:尹 雄大
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

手帳2021

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新しい手帳を買った。新年の始まりとともに手帳も新しくする、というのが自分にとって自然で、1月始まりの手帳をずっと使っていたけれど、数年前の1月に買いそびれて以来、4月始まりの手帳を使うようになった。1月始まりの手帳が翌3月まで掲載している(いたような気がする)からいけないんだ。

 

高橋書店のフェルテをずっと使っている。見開きで1か月を見ることができ、かつ1日の枠が比較的大きく、そこに予定を書き込めるのが好きだ。なので週ごとのページはほとんど使っていない。全ページのうち半分以上を無視しているようなものだ。けれど、これ以外の手帳をなかなか使う気になれない。特にこれより小さいポケット手帳は、小さくて持ち運びやすく便利なのだろうけれど、書きづらくて自分には合わない。

 

新しい手帳を買っても表紙は昨年と全く同じ。2020の数字が2021になっただけで、かわりばえはしない。けれど、それでいい。好きで使いやすい手帳を、ずっと使っていたい。そこに真新しさはいらない。

 

そば屋巡り

一つのお店を「行きつけ」と称して通い詰めるのではなく、浮気性の男のようにいろいろなお店に行っては、こっちはこれがおいしい、あっちにはこんな良いところがある、というように楽しむことを「〇〇巡り」という趣味と呼べるのであれば、自分にはいま、つい最近できた趣味がある。それが「そば屋巡り」だ。

 

昔からうどんが大好きで、むしろそばは苦手だった。コシのあるうどんと比べてボソボソしているイメージが強かった。だから家族でそば屋に行ってもうどんを注文していたし、大みそかは家族全員が年越しそばを食べる中自分はうどんを食べていた(祖母がそばと一緒に手打ちうどんを拵えてくれていた。いま思い出すと涙が出るくらいありがたい話だ)。そんな「そば嫌い」の自分がそばを好んで食べるようになったのは、割と最近のことだと思う。

 

自宅の近くに、おいしいそば屋さんがある。引っ越してきて、普段の食事に良い店はないかと探していて知ったお店だ。天せいろを食べることが多い。暖かいツユに入ったそばも好きだけれど、そのままのそばを、冷たいツユに少しづつつけながら食べるのが大好きだ。

 

しかしそば屋さんの本当の良いところ、飽きないところは、そのメニューの豊富さにある。ここでは天せいろ、と決めつけるのではなく、今日はじゃぁ鴨南蛮にしようかなとか、うどんにしてみようかなとか、ご飯ものに挑戦してみようかなとか、その日の気分でいろいろなものを食べることができるのが楽しい。

 

今日、散歩で隣駅近くまで歩いたついでに、そば屋さんに入った。初めて入るそのお店は店構えも良く、昔からやっているお店のような安心感もある。表に「牡蠣カレーうどん」とあって、たまにはこういうものもと思って、牡蠣カレーうどんと、あと玉子丼を注文した。とにかくおなかがすいていた。

 

やっぱりうどんもいいなぁとカレーをすする。久しぶりに食べた牡蠣もおいしい。昨日、美容院の帰りに寄ったそば屋では天ざるそばを食べたから、今日はうどんの気分だった。飽きないというのは、美味しく、何度も食べるために必要な要素だ。昔からラーメンは大好物だが、例えば好きな濃い味のラーメンを三日四日と連続で食べられますかと聞かれたら、いまは首を横に振る。夜ラーメンを食べたその翌日に体調を崩した数年前のことを思い出す。刺激に身を任せてがっつり食べて、それでも健康を維持できる身体ではなくなったということだ。