手創り市ONLINE

手創り市ONLINEで買い物をした。毎月雑司ヶ谷の鬼子母神と大鳥神社で開催されているこのイベント、好きな手作り作家さんが参加することも多く、楽しいのでよく顔を出す。このところ中止が続いていたが、今月はオンラインという初めての試み。参加者が皆インスタグラムやウェブショップなどを使いながら作品を発表する。いつもそこへ「行って」作家さんと直接「話をして」作品を手にするというプロセスが、今回はまったくない。だから果たして手創り市として成り立つのか、それではただそれぞれの作家さんがそれぞれ単独で売っているに過ぎないんじゃないかという不安が終始あった。しかし手創り市ONLINEのインスタグラム公式アカウントの投稿やストーリーを見て、その不安は払しょくされた。

 

単独で売っていたら気づかなかったであろう作家さんの作品を知ることができた。なにより今回一番の発見だったのは、会場を歩いて見てまわっていたらもしかしたら気づかないかもしれない作品の良さが、写真を通してより濃く、鮮明に分かったことだ。例えば照明木工作品の町田電子木工(https://www.instagram.com/machidenmiyake/)。暗闇でライトをつけたときの幻想的な様子は、昼間外でそれを見たのでは分からない。夜寝るとき、枕元にこんなものがあったら、楽しいだろうなぁ、と想像がふくらんだ。

 

もちろん実物で見た方が素材感も伝わるし、写真のように光の影響で実際の色と違って見えたりすることもない。しかし、魅せるための写真だからこそその作品の良さをストレートに感じることができる。これは良い発見だと思った。

 

大ファンのbandaiyaさん(https://www.instagram.com/bandaiya50/)のリネンバンダナを、ONLINE開始前に色とデザインを決めて、すぐに連絡して、手に入れた。これで1週間分のバンダナは揃ったから、1週間毎日違うものをポケットに忍ばせることもできる。べつに人に見せるものじゃないけれど、手にしているものに対するちょっとしたこだわりがあると、それだけでなんとなく気分が軽やかになる気がするから、不思議だ。

 

住む街の、知らない場所

引越しをしてから初めての、楽天ブックのコンビニ店頭受け取りを利用した。この街を住む街として活用していることを改めて実感する。

 

自宅から一番近いファミリーマートなのだけれど、駅や職場とは逆方向にあるので、初めて入った。受け取りを済ませ、ふと前をみると、いい感じのパン屋さんがある。コンビニ店頭受け取りを利用しなかったら気づかなかったかもしれない。小ぢんまりとした店内にはすでに数人のお客さんがいるようで、店の外に一人待っている人がいた。きっと繁盛しているに違いない。そう思いながら、でも並ぶ気にもなれず、また今度来てみようと思いながらあとにした。

 

仕事でこの街に来るようになって8年。それでも知らないところはたくさんある。もっと街を知っててもよいくらいだ。いまだに仕事で近くの人に「あそこ、知ってるでしょ?●●の道をまっすぐ行って・・・」と説明されてもちんぷんかんぷんであることが多い。もっと道を覚えなさいよ、と他人にも言われる。でも覚えられない。覚えたいという気持ちはあるのだけれど、積極的に覚えようとすると億劫になる。

 

何度も行くお気に入りのお店、一度立ち寄って良かったと思ったお店、緑豊かな落ち着きスポット・・・。いま現在知っているものの中で最大限楽しもうとするのは、悪いことではないのだろうけれど、成長がないとも言える。これまで知らなかったものを知り、自分の行動範囲が広がる。その楽しさを味わえる自分でありたい。

 

 

好きなものを「推す」だけ

自分が好きなものや、おすすめしたいものを、他人に伝えること。そう言えば、何も特別な技術ではないと分かる。「私は彼のこの部分が大好きです」「私はこの住宅のここが住みやすくていいと思います」プライベートで自分の好きなものに共感してもらえれば嬉しいし、仕事であれば、自分が提供するサービスの良いところを積極的にアピールして、共感してもらうことがなにより大切だ。そのことを「推す」という一言で表現する。プライベートでも、仕事でも、何かを「推す」力が実は求められているんじゃないかと思った。

 

■好きなところは「3ポイント推し」(P99)

あれもこれもと言いたいことを並べるのではなくて、3つに絞って伝える。しかも最後の1つは変化球で「その角度からきたか!」と驚くような視点で。3つに限定することで話の輪郭が明確になり、相手の聞き応えが増す。

 

■誰もが知ることを推すときは自分の体験を絡める(P122)

自分の体験談は唯一無二。ありきたりでない自分だけのストーリーとあわせて話すことで、「それでそれで?」と思ってもらえる。

 

■凡才だからこそ、報われない天才の苦しみが理解でき、それを一般人にも共感できる形で伝達できる、そんな中間の存在になれる(P214)

例えば自分はクリエイターにはなれないけれど、どれだけすごいクリエイターがいて、その作品がどれだけ素晴らしいかを、他人に共感してもらえるように噛み砕いて伝えることはできる。そういう中間の存在こそ、自分が担える役割なのではと思ったばかりではなかったか。

 

日曜日、ちょっと駅前に出かけて、いつもの本屋でふと目に入った本のタイトルが目をひいた。「推す」ということを、もっと堂々とやっていきたい。

 

好きなものを「推す」だけ。共感される文章術

好きなものを「推す」だけ。共感される文章術

  • 作者:Jini
  • 発売日: 2020/05/01
  • メディア: 単行本
 

 

「ものづくり」をしたいから、手紙を書いた

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クリエイターにとって「ものづくり」は自分を表現する手段であり、現実的なことを言えば生活する糧である。つくることに誇りを持っているからこそ、哲学のある素敵なものができるのだと思う。自分の手を動かすことで、いままでになかった新しい「もの」を生み出す。それを楽しむ他人がいて、また新しい何かが生まれる。昨日より今日、今日より明日がほんの少し楽しくなる。そうやって進歩しているという実感が、ものを生み出すエネルギーになっているんじゃないかと思っている。自分の身近にもかっこいいものをつくるクリエイターさんがいて、「ものづくり」に対して疼いているのを感じる。つくれる人って、いいなぁと思う。

 

 

翻って自分は、「ものづくり」に憧れていたのはせいぜい中学高校生くらいまで。中学の授業に「技術・家庭」があって、「技術」が大好きだった。木材加工が一番楽しかった。金属加工もやった記憶があるけれど、それはそうでもなかった。硬く冷たい鉄を切るときの怖さはあっても、木材を切るときのそれはおどろくほどなかった。座面が蓋になっていて開けるとモノを入れることができるスツールをつくったのだけれど、それはいまも実家の部屋に置いてある。細部を見るととにかく雑で、手先が器用とはとても言えない生徒だったなぁと思う。でもそれなりに楽しく「ものづくり」を学んだ。その楽しさをそのまま学びのモチベーションへと変えて、何かちょっとしたきっかけがあったら、今頃大工さんになっていたかもしれない。小学生の時に抱いていた将来の夢だ。

 

残念ながら大工さんへの夢は潰えて、もっと川上の職業であり総合力を必要とする「建築家」になることも、大学生のときに自分の能力の低さにげんなりし、諦めた。どう頑張ってもダメだと思った。都市計画の授業に真剣に耳を傾けながら、いつしか「ものづくり」への憧れを忘れていった。

 

いま、建築設計事務所にて住宅の企画コーディネートをやりながら、ふと自分の「ものづくり」に対する想いを振り返る。自分は木を切ったり削ったりして家具をつくることもできなければ、革を縫って財布をつくることもできない。絵を描くこともできなければ、パソコン上でイラストを描くこともできない。建築をつくるいまの仕事こそ大きな「ものづくり」じゃないかと言われれば確かにそうだけれど、実際に設計しているのは設計スタッフだし、つくっているのは建設会社さんだ。大きな声では言えないが、自分が「つくってるんだぜぇ」と胸を張れるかというと、そこまでの実感は正直それほどない。何もできないじゃないか。「ものづくり」はできないのか自分は?

 

何もi Phoneのような世界中の人が使うスケールの大きいもののことを言っているのではない。家とか車とか、時間や労力を要するものを作りたいと言っているのでもない。小さなものでも、目の届く範囲を循環する程度でも良いから、いま世に無いものを、自分の手で新しく生み出すことはできないのか?・・・

 

なんて考えていたら、さっき、感謝を伝える「手紙」を書いていたことに気づいた。そうだ、手紙だって「もの」だ。自分の正直な気持ちをコトバに変えて、書いて、贈る。これだって「ものづくり」と言っていいんじゃないか。そう思った瞬間に、昔もっていた「ものづくりをしたい」という気持ちが、ふわっと自分の身体の中に舞い戻ってきたように感じた。

 

そして、本当は順番が逆なのかもしれない、手紙を書いたことで「ものづくり」への憧れを思い出したのではなく、実は「ものづくりをしたい」という気持ちが心の隅に残っていたから、手が動き、手紙を書いたのかもしれない。そう思った。

 

壁面本棚、戻ってくる

壁面本棚が、戻ってきた。新居への引越しにあたり、家具屋さんに預かってもらっていた。一度は状況を見て延期してもらい、今週末、設置してもらった。

 

今度は吹抜の壁に設置するため、天井に突っ張るのではなく、壁に固定した。吹抜の途中までの高さになるので、中途半端感が出てしまうかなと少し心配だったけれど、部屋もそれほど大きくないし、圧迫感も中途半端感もなく、ちょうどよいのではないかと思う。しかしこれで将来夢がさらに膨らみ、そのまま上に積んで天井までの壁面本棚にしようとすると、それこそ吹抜を通して居室に光を導く窓をふさいでしまう。壁一面の本棚という憧れは正直あるのだけれど、そこは慎重に考えたい。というより、本棚ありきで考えるのではなく、もうすでにこれだけの量の棚があるのだから、無尽蔵に蔵書を増やすのではなく、新しい本を手に入れたら少しづつ蔵書を減らすとか、新陳代謝も考えなければと思う。

 

本棚が戻ってきたことで、これでようやく新居での生活が本格的にスタートしたような、そんな清々しい気持ちでいる。

 

情報の線引き

他人のことを批判したり中傷したり、といった意見が主にネット上で繰り広げられているのを見ると、うんざりしてしまう。別にいまに始まったことではないけれど、このところ特にそういう言葉に自分の気分が支配されているのを強く感じる。

 

「だったら、そういう言葉を見なければいい」その通りだ。見なくてもいいものを興味本位で覗いてしまうからいけないんだ。気分が悪くなることを分かっていて、でもほんのちょっとの好奇心がやってきて、ちょっとだけ、と見てしまうからいけない。取り入れるべき情報と、距離を置くべき情報。それらをきちんと線引きすることが大切だ。

 

yahooニュースのコメント欄とtwitterのトレンド。さしあたって、この二つを見ないと決めよう。いままでは見て損することが多かった。

 

なにも自分から罵詈雑言が飛び交う汚い川に身を投じる必要はない。きれいな水が流れている川を自分は知っているはずだし、そこでぷかぷかと浮かんでいれば、少なくとも汚い言葉に気分を害することはないと分かっているだろうに。

 

 

ここまで自分の気持ちが情報に左右されるなんて、思っていなかった。もっとどっしりと構えてていいはずだろう、と思う。そんな自分の弱さに、時にしたたかに生き抜いていく自信をなくす。

 

この正直な気持ちを言葉に変えて、残すこと。それが、自分がブログを書く、自分にとっての意義なのだと思った。

 

アスパラガス

「アスパラガス」って、どういうガスなの?という問いに、はっとする。そうか、ガスか、、、。

 

いや、アスパラガスはそういう野菜だから。ガスじゃないんだよ。

 

だってさ、みんな「アスパラ」って呼ぶじゃない。てことは、アスパラ・ガスってことでしょ?

 

・・・そう言えば、そうだね。東京ガス。京葉ガス。アスパラガス。

 

そうだね。きっと、アスパラガスの茎(?)から、特別なガスが出ているんだよ。それが、あのシャキシャキした歯ごたえの秘訣なんじゃないかな。きゅうりでもなく、大根でもなく、ゴボウでもなく、長ネギでもなく、アスパラガスだからこその、あのシャキシャキした歯ごたえなんじゃないかな。噛んだ瞬間に、口の中に、実際にそれを感じる人はいないのかもしれないけれど、特別なガスが放出されるんじゃないかな。もしくは、栽培するときに、肥料と一緒に特別なガスをかけてやると、あのシャキシャキした歯ごたえが特徴の、あの野菜ができるんじゃないかな。その秘密のガスをたっぷりと浴びて誕生した野菜のことを人は、アスパラガスと呼ぶんじゃないかな。

 

 

アスパラガスがたっぷり入ったスパゲティを食べた。大きく切ったアスパラガスの、そのシャキシャキした歯ごたえ(何回目だ)に、舌がとろけそうになる。きっと、目に見えず、肌で感じることのできない、特別なガスのおかげなんだ。

 

吹抜と壁面本棚

新居は、1階と地下1階のメゾネット(二層)構造。今度は吹抜に面する壁に、壁面本棚を設置する。置いたら部屋がどうなるだろう、きっとさらに引き締まるんじゃないだろうか、なんて想像をしながら過ごしている。

 

楽しみである一方、新たな問題も発生した。ほんとうに贅沢すぎる悩みなのだけれど、吹抜の壁であるがゆえに、さらに上に本棚を足して、2層分の壁面本棚にしたい、という夢がふくらんでくる。いままでは2.4mの天井いっぱいの本棚だったけれど、今度はさらに上に空間がある。この空間を、同じように本棚で埋めたらまた荘厳だろうなぁ、と思ってしまうのだ。

 

しかしここで、設計者側、といったら怒られるけれど、住戸の設計コンセプトから考えると、この吹抜は地下のリビングに光を導く大切な空間であり、自分も最も気に入っているポイントだ。ダイニングでくつろいでいる時、ふと斜め上を見ると縦長のFIX窓を通して隣家の大木や空が見える。光も、この景色も、なるべく犠牲にしたくない。天井まで続く壁面本棚という憧れはもちろんあるけれど、それと吹抜を通して光を感じる住まいの快適性とを天秤にかけて、それでも自分は本棚を選ぶだろうか。いまの自分の答えは、ノー。壁面本棚ありきで設計したし、将来二層分まで増やせたらいいなぁという想いは最初からあったけれど、いざ実際に住んでみると、増やすことがなんだか罪のようにも思えてしまうのだ。

 

なぜ天井までの大きな本棚にしたいのかと自分の心にたずねると、「かっこいいですね」「これだけの本棚に入っているたくさんの本を読む人なんですね」と他人に思われたいから、という答えが返ってきた。結局、他人の目線を気にしているだけじゃないかと思った瞬間、まぁ他人から良く思われたいという気持ちが本を読むモチベーションになるというのも否定はしないけれど、なんだか気が抜けてしまい、もっと住まいとして居心地の良いようにつくろうよ、という至極当然な結論にたどり着いた。そこに「居る」自分が気持ちよいかどうかを優先して決めようよ、と。

 

といいながら、考えもコロコロ変わる最近だ。数日後には全く逆のことを心に決めているかもしれない。

 

学芸大学と本屋

古本屋の街というと、神保町。そこで古本を探してまわるほど、古本が、また古本屋が、好きというわけではない。単純に、古本よりは新刊本の方が好きだ。いまの作家さんが書いたいまの話を味わいたいという気持ちからだ。古本が決して嫌いなわけではない。時を経ても褪せない良本もたくさんあると思うし、これまでもお世話にはなっている。けれど、古本屋で感じるワクワクは、新刊書を扱う本屋で感じるそれほどではないように思う。

 

そんな自分が、ひょんなきっかけで店に入り、好きになったのが、「古書 流浪堂」。店先には昔の生活雑誌が並んでいる。店内に入ると、建築関係の本から文庫本・新書まで、幅広く置いている。そして奥には小さなギャラリーがあり、定期的に個展も行っている。いまでこそギャラリー併設なんて珍しくもないけれど、その、従来の古本屋の枠を超えたところに、面白さを感じた。あるときのギャラリーで置いていた絵はがきは、いまも手元にあり、さて誰に手紙を書いて贈ろうかと迷っている。

 

流浪堂を出た後は、「BOOK AND SONS」の扉を、勇気を出して開ける。ちょっと敷居の高い、ビジュアルブック専門の本屋だ。一冊一冊が高めだから、気を引き締めて、よく吟味して、買う。ちょっとめげているときとか、財布が心配なときは、申し訳ないけれど立ち寄らないようにしている。立ち寄って、迷ったあげく買わない、ということはなるべくしたくないからだ。

 

そのあとはその足で「SUNNY BOY BOOKS」へ行く。とにかく小さな本屋さん。でもその中には宇宙がある。好きな作家さんのイラストが表紙を飾っている素敵な本に出会ったのも、確かここだった。吉祥寺の画廊で偶然出会った、1年365日毎日ブローチをつくって展示販売した作家さんが、定期的に個展をしているというのも魅力だ。うまく言葉であらわすことができないのだけれど、なんでだか「ちょっと寄ってみようか」という気持ちにさせてくれる本屋さんだ。

 

ここは神保町ではないけれど、本屋から本屋へ、ぶらぶらと散歩するように歩いてまわるのが、楽しい。おっと、それらのちょうど中間地点にある、無口で謙虚なお姉さんが出迎えてくれる週末限定カフェも、忘れてはならない風景だ。

 

逆ソクラテスとPK

自宅では、SNSサーフィンというデジタルと、本を読むというアナログを、なんとなく自分でバランスをとりながら行っている。

 

SNSサーフィンは、いま自宅でまだインターネット回線の引き込みができておらず、スマホの4Gに頼っている。先日の引越し完了後、月末は通信制限に悩まされていたので、いまはまだよいものの、節制しながら使っている。

 

空いた時間は本を読んでいることが割と多い。「読書」というとかっこつけたイメージがあって、ちょっと違う気がする。ただ本を読んでいるだけ。読書=本を読むことだろう、と言われればその通りなのだけれど、自分の頭の中では「本を読むこと」と「読書」との間には少し溝がある。読書は、読んだ内容が自分の中にしみわたって、未来の自分の血肉になる、投資のようなもの。でも、そんなに意気込んでいるわけでは決してなくて、ただぼんやり本の中の世界を、表現はきれいではないけれど、舐めまわしているような、そんな感じだ。

 

伊坂幸太郎の新刊「逆ソクラテス」を買った。単行本の装丁がすごくきれい。表紙の絵に心を持っていかれ、持ち帰ってじっくり見ていた。junaida氏の絵だと気づいたのは、しばらくたってからだった。どおりでどこかで見たことあるような、懐かしい印象の絵だと思ったわけだ。

 

まだ読み始めていないし、どんな内容なのかさっぱり分からない。広告の文章を読んでもどんなストーリーなのかつかめない。そのドキドキ感が、たまらない。

 

一緒に買ったのが、文庫版の「PK」。昔、新刊で出た時に単行本を買って読んだのだけれど、すごく面白かった半面、後半の難解さ、スケールの大きさに気おされた記憶がある。数年前、蔵書を整理したタイミングで手放してしまい、それからしばらくたっていたのだけれど、文庫版を見つけて久しぶりに思い出し、ストーリーは忘れたものの面白かった記憶だけは残っていたので、もう一度読もうと手に取った。大事なPK(ペナルティキック)に臨むサッカー選手。子供に「悪さをすると次郎君みたいになっちゃうぞ」と脅す作家の父親。逆境に挑む大臣。落下する子供を救う新人議員。それぞれのストーリーが並列で続く。スリリングなストーリー展開で、自宅時間を過ごすのにちょうどよい。

 

未来のことは決まっているわけではない。いまの自分たちの感情の積み重ねが、未来が明るいか暗いかを決める。ひとりひとりの小さな行動がドミノのように倒れていき、その結果として未来がある。そういう考えに触れて、いまの自分の感情を少しでも良い方向へコントロールしさえすれば、そしてその考えが伝播すれば、こういう状況でも、未来は明るくなるんじゃないかと思った。

 

「臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する」自分も、他人から感じた勇気を自分の勇気に変えて、次へとパスできるような、そんな人間でありたい。間一髪で子供を救ったヒーローを見ていた少年が、将来、勇気を試される場面で彼に触発され、力を発揮するのと同じように。

 

ふと、部屋に並べていた本を眺めていたら、「PK」の文庫本が目に入った。あれ、確かいまかばんにいれたままのはずだけれど・・・パラパラとページをめくると、見覚えのない栞。やられた。すでに手元にあることに気づかずに2冊目を買ってしまったのだ。買ったのはいつだ?数か月前?いや、もしかしたら1年以上前かもしれない。そのときもきっと本屋で文庫本を見つけて「ストーリー忘れちゃったし、久しぶりに読み返そう」なんて思っちゃったんだろう。ストーリーだけでなく、読み返すために買ったことまで忘れるとは・・・。

 

同じ表紙の2冊の文庫本を眺めながら、「まぁ、そんなことも、あるある」と無理やり自分に言い聞かせる。いやいや、ないない。と心の中の自分が言う。

 

逆ソクラテス

逆ソクラテス

 

  

PK (講談社文庫)

PK (講談社文庫)

 

 

床に並べた本を眺めて

お題「#おうち時間

 

4月18日。緊急事態宣言が出ている真っただ中、そもそも引越し業者が予定通り来てくれるのだろうか、という不安を抱きながらも、引越しをした。外は土砂降りの雨。記憶に残る引越しとなった。

 

荷物もひととおり片付いて、いまは壁面本棚とベッドの納入を待っている。連休明けまでの辛抱だ。

 

壁面本棚がないから、自宅から持ってきた大量の本を置く定位置がなく、床に並べている。無造作に並べられたその本をぼんやりとながめながら、こうしておうち時間を過ごしている。来週からのゴールデンウィーク、ゴールデンなんて言葉を使うから、楽しみで仕方なくなって、それでもむやみに外出できないいまの現状に悔しくなってしまうのだ。たまたままとまった休日があるだけなのだと思えば、いつもと違った過ごし方をしながら、自分の生き方を冷静に振り返ったり、未来のことを想ったりすることができる。

 

床にびっしり並んだ本が、どれもが一度はページをめくったことがあるはずなのに、ほとんど読んでいないものもあれば、読んだ記憶はあってもほとんど内容を覚えていないものもある。そういう本の方が圧倒的に多く、「そうそう、これこれ、面白かったなぁ」と自分の血肉になっていることを実感できる本の方が少ないというのが正直なところ。他人に「これ読んだの?いいね」と言われても、「うん、そうだね」くらいにしか返事できないのが、ほとんどだ。本当はそういう状況に危機感を持たなきゃいけないんだろうけれど、それでもまぁいいか。きっと自分の身体のほんの一部、細胞の一粒一粒に、少しだけ本の言葉がちりばめられているのだろう、という程度でいい。

 

そんなことをぼんやり考えていてら、あっという間に時間が過ぎていく。

 

心の居心地

これだけ「STAY HOME」の言葉を聞くと、なんだか外へ出かけることそれ自体に罪悪感を感じるようになってくる。日常生活で必要な買い物や、やらなければならない仕事は仕方ないですよ。ただ不要不急の外出は避けましょうよ。言いたいことは分かる。その通りだと思う。たくさんの人が出歩くことで感染のリスクが高くなるのは確かなのだから。ただ、人が街をたくさん歩いているのを見ると、「なんだかなぁ」と思うのも事実。それと同時に、自分もその「なんだかなぁ」と思うような状況をつくる一因に実際いまなっているのだという事実に、げんなりもする。

 

「危機感がないんだよな」そう言われると腹も立つ。いやいや、怖がってますよ、と反論したくなる。でも「いつもは買ってきて食事ているのに、この時期にわざわざ昼ご飯食べに行くことはないだろう」なんて言われると、なんで昼に何を食べるかまで人に制御されなきゃならないんだよ、と思ってしまう。本当に、ギスギスしている。

 

街のお店があちこちで「臨時休業」の張り紙を出しているのを見て、それが当たり前の光景になりつつあるのが、なんだか怖い。こんなこと、いままで一度も体験したことのない事態だろうに。

 

1~2か月くらい前までは、安全を確保したうえで、それでも好きなお店には行くことでそのお店を支えなければ、という気持ちもあった。けれど、いまはそんな気持ちさえ罪なんじゃないかと思えてしまう。いまは、行かないことが最善なんだ。そう社会に言われている気がする。それに対して抗いたい気持ち、ちょっと対応が過剰すぎやしませんか?という気持ちがありながらも、でも反対に、そうすべきだよな、という気持ちもあるから、心の居心地が良くない。

 

こういうときに、自分の心の弱さが露呈するんだ。

引越。自由が丘へ。

引越をした。千葉の市川から職場のある自由が丘へ。5回目の引越し、結構慣れてきたはずなのに、そう頻繁でないからか、やはりあたふたした。まだ終わってない手続きもあり、結構焦っている。

 

これまで仕事で関わっていた感覚の自由が丘に、まさか住めるなんて思ってもいなかった。自分がいていいのだろうかという不安に近い。けれど、せっかくの縁、大切にして、成長したい。

 

14年間も妙典に住んでいたことになる。本当に名残惜しい。今日最後に片付けに行った、妙典暮らしの中で最も貴重な体験を得たアパートでは、中庭のシンボルツリーがあたたかく見送ってくれたみたいで嬉しかった。ここでの縁も絶やすことなく、また来なければと思ったし、むしろこれからも来ると思う。今だけは辛抱だ。


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感動と感謝

仕事終わり。かろうじて営業していたいつもの駅前の本屋で、新刊を見つけてすぐに手に取った。こういうときに躊躇わなくなったのは、最近になってからのことだ。

 

「利益の本質、それは『感動』です」自分は仕事を通して他者に感動を与えているのだということに気づいて、そのことを意識すると、自ずと行動も変わってくるのではないか。なにかこう、やる気が起きないなぁ、とか、やりがいがないんだよなぁ、とか、愚痴を言いたくなるようなことは、たくさんある(他人にも、あるんだよなぁ?もしかして、自分だけなのか?)。けれど、いまこれを頑張ることで、目の前のクライアントに価値を提供して、それが期待通りのもので終わるんじゃなくて、「そこまでしてくれるとは思わなかったよ」という感動につながれば、その仕事は先へとつながっていくし、やっている自分も楽しくなってくる。仕事とはそういうものなんだと、自分に言い聞かせている。

 

「感動」ともう一つ自分なりに言葉を当てはめるならば、それは「感謝」だと思っている。利益の本質、それはクライアントからの「ありがとう」の総量だというのがいまの自分の考え。ありがとうと言ってもらうことが目的だし、そう言われたときになんとなく心臓がぞわぞわってする感じ、その感覚を味わうことへの期待こそが、仕事への原動力なのではないかと。

 

成功するための条件は何ですか、と聞かれたら、「何かに詳しくなること」と答えるのだという。何かに対して詳しいということ。自分にとってのその「何か」とは何か。建築?いやいや、全然だめだ。コーポラティブハウス?いやいや、恥ずかしくてとてもじゃないけど詳しいだなんて口にできない。その道一筋の職人さんのような「これ」というものがない自分は、「これに関しては詳しいですよ」と言い張れないまま社会人を14年続けていることになる。これって、本当に社会人と言えるのか?ふと冷静に自分の働き方を振り返り、恐ろしくなってしまった。

 

自分の働き方、進み方について、立ち止まって考えることが多いこのところ。いまのこのギスギスして、落ち込みがちな状況が、それで本当にいいのかと自分に言っているようにも思える。自分そのものの弱さだったり、働き方の危うさだったり、そういった、いままでなんとなく自分の意識の隅に隠れていたものが、目に見えないウイルスによって露呈したのかもしれない。見つけてしまったからには、そこから目を背けるのではなく、きちんと向き合わなければならない。幸い、ひとり家でじっくり考える時間は、ある。

 

 

未来はみないで

楽しみにしていたTHE YELLOW MONKEYの東京ドーム公演が、延期となった。本当だったら、昨日は彼らとおおはしゃぎをして、自分の体内に新しいエネルギーを注入して、またこれから仕事をがんばろう、と気を引き締めていたのだ。奇跡的にもチケットをとることができ、4月までの時間の長さにちょっと気が遠くなったけれど、それでも楽しみは先の先までとっておいて、それまでがんばろうと思いながら過ごしてきたのだ。まさか、目に見えない敵によって公演自体に影響が出るとは思ってもいなかった。結局昨日は、外へ出ること自体に恐怖を感じつつあるこの状況で、それでもずっと自宅というわけにもいかずやることもあったので、振替公演の実現を願いながらチケット引き換え手続きをして、用件を済ませて、じっとしていた。

 

自分の気持ちを正直に言うと、大好きなロックバンドのライブが、しかも自分が参加するそのライブが、当日実施できないと分かったその瞬間、悲しさよりも、「安心した」と思った自分に、驚いた。今この状況で、「それでも演ろう」ともし決断していたら、きっとバッシングを受けていたに違いない。だから、中止や延期を選んでほしい、と心の中で思っていたのだ。文字だけ見ると、ファン失格だ。けれど実際そう思ったんだから仕方ない。

 

たとえライブをやるとしても、怖くて行けません。だから自粛します。なので中止なり延期なり、はやくオフィシャルな発表をしてほしい。そういう意見をネットで見た。ここに関しては、自分は少し違う考えだと思っている。確かにいまは、怖くて人混みに混じることには抵抗がある。自分が良いか悪いかではなくて、自覚症状がないだけで(そんなに自分の免疫力に自信はないけれど)自分が加害者になるかもしれないと考えると、やはり行きたくないだろう。でも、自分がたとえ行けなくても、ライブをやることをもし彼らが決断していたら、それを支持していたと思う。自分が当日参加できなくても、ライブをやったという事実は残るんだし、あとで映像を観る機会に恵まれるかもしれない。チケットが取れたライブに自分が行けないくらいなら、いっそ中止してほしい、という考えはなかった。

 

結果、彼らは「延期」を選んでくれた。充電期間を前に、そのスケジュールさえ延ばして、まだチャンスはあるという希望を残してくれた。まずはその希望の綱をしっかりと握って、実現を祈りたい。

 

「未来はみないで」を聴きながら書いている。2016年の再集結にあたって最初に世に放つ予定だった曲だと聞いた。その後、さまざまな巡りあわせを経て、第2期の集大成のような曲となった。「また会えるって 約束して」この言葉が、意図しないものであれ、いまのこの状況と重なって身にしみるのが、嬉しいのだか、つらいのだか・・・。

 


THE YELLOW MONKEY – 未来はみないで (Official Music Video)