思考の枠組み

「他人のことは変えられない。変えられるのは自分だけだ」そのような言葉を聞いて、無理やり他人を変えようと考えるのをやめた。もう何年も前のことだ。

 

例えば、よくしゃべる人と話をしているとき。相手の話が長くて退屈になることは誰にでもあるだろう。そういうとき、退屈している自分の苦痛だけを取り出して、「あぁ、話長いな。退屈していることに気づいてないのかな。そういう相手のことを考えない人って、嫌なんだよな。早く終わらないかな」とイライラするのでは、進歩がない。それであれば、「うわ、すごいしゃべるな。自分にはとてもできない。この人はたくさんのことを伝えられるくらい聡明な人なんだな」と相手をアゲておいて、「聞き上手」な自分であろうとする方が、精神的にも良い。要は、よくしゃべる相手を黙らせようとするのではなく、自分を気持ちよく聞く人間に変えてしまうのだ。

 

思考の枠組みをちょっと変えるだけで、感じ方は変えられる。結果、要らぬストレスに惑わされずに済む。そういう気持ちの切り替えって、大事なんだなと思った。

 

ときがわで古本市

 

実家のすぐ近く、ときがわ町で行われた古本市に参加してきた。畑の真ん中にシートを広げ、本を並べて売る。いつにも増して気持ち良いと思ったのは、たぶん土に触れながらのイベントだったからだと思う。大学卒業まで過ごした実家での暮らしを思い出した。

 

と同時に、場所は都内でなければならない理由はなく、例え畑の中であっても魅力のあるイベントを企画することができれば人を集められるのだと知った。これを機に、地元で何かコトを起こすことができないか、考えていきたい。

 

流山で本屋

プロジェクトの打合せで流山へ。流鉄流山線に乗るのは今日で2回目。この仕事の縁がなかったら乗っていなかったし、今後も乗る機会がなかったかもしれない。都心に近い千葉のローカル鉄道。自動改札はなく、切符を持ってホームに入り、出る駅では箱に切符を置くだけ。平和な空気が流れる駅舎を出て、向かうのは駅舎すぐ隣のコミュニティスペース。ここで約3週間、本屋をやることになった。縁を結んでくださった方々に感謝。

 

流山線流山駅周辺は、昔は本屋や地元出版社があったがいまはほとんど廃業してしまったそう。そんな書店難民エリアとなるこの場所で、本屋をやる。やるからには、一日だけの出張本屋、なんて言わずに、一定期間(といっても3週間程度なのだが)、ちゃんと根ざして、立ち寄る方に喜んでもらえるような本屋にしたい。レイアウトなどイメージは固まりつつあるけれど、まだまだ考えるべきことは多い。でも心配よりも、楽しみという気持ちの方が大きい。

 

Yesterday Once More

妙典の本屋で店番をしながら、音楽を聴く。流れていたのはカーペンターズの「イエスタデイ ワンス モア」。言わずと知れた名曲だ。昔から何十回何百回と聴いているはずなのに、何度聴いても、いいなぁ、と思う曲は、そうそうない。

 

そして、いいなぁと思う曲に共通しているのは、サビだけでなく歌い出しから聴き込んでしまう魅力があるということ。「When I was young I'd listen to the radio♪」好きな曲であるためには、サビが好きであるよりも、出だしが好きであることの方が大事なのかもしれないと思う。

 

ジョビジョバライブ

ジョビジョバのライブチケットをオンラインで購入、アーカイブ視聴した。

 

ジョビジョバにはまっていたのは20年くらい前か。それが時を経て復活し、おじさんになっても「くだらない、でも面白い」ことを真剣に表現しているのを見ていると、本当に尊敬する。ジャンルは違うけれど、LUNA SEAにしてもTHE YELLOW MONKEYにしても、特に好奇心旺盛だった中高生時代に好きだったバンド、グループが、途中休憩を経て、いまもなおカッコよくい続けているのを見ると、自分もそうありたいと強く思う。30年、というのを自営業を続ける年数の一つの目安としているのだけれど、それはLUNA SEAやTHE YELLOW MONKEYの結成30周年を目の当たりにした影響が大きい。そして当然30年経ったらすぐやめる、ということでもない。結成30周年を超えてまだ動き続けている彼らを見ているからだ。そしてジョビジョバも。大学の演劇サークルでの旗揚げから数えたら今年で30年になる。こんなカッコいいおっさん6人組、そうはいないぞ。

 

ライブからは特に強いメッセージを受け取った気がした。もちろん「意味のないくだらなさ」も。その落差に、大人の演劇の余裕みたいなものを感じた。

 

舞茸天そば

東林間に行ったら昼食はここ、と決めているそば屋がある。今日もそこで昼ご飯を食べた。ここへ来たら食事はここ、というお店があるというのは、安心だ。

 

舞茸天ぷらそば。昔から舞茸の天ぷらが大好きで、久しぶりに食べたいと思った。昔から、というのは、子供のころ。家族で伊香保温泉に行ったとき、帰りに立ち寄る水沢うどんのお店「大澤屋」で、舞茸の天ぷら付きでうどんを食べた。それがとても美味しくて、以来、天ぷらと言ったら舞茸、という舌になった。

 

その舌の記憶を再現させるのであればそばよりうどんにすべきだったかな。けれどそば屋に来たからにはそばを食べたい。つゆのかつおだしの味が濃くて、ここの温かいそばが大好きなのだ。

 

不可幸力

家族が運転する車で流れていた音楽に、耳を奪われた。少し前に聴いたことがあったのをすっかりと忘れていながら、そのメロディに潜む懐かしさと新しさが妙に心地よかった。でもそのアーティストが誰なのかを知らなかったので、聞こえてくる歌詞を一部頭に刻み、帰宅してから調べた。そして、そうか、と膝を打った。相変わらず素敵な選曲センスをしている。

 

カーステで流れていたのはアルバムだった。「不可幸力」に限らず、どの曲にも不思議と聴き込んでしまう力があった。「怪獣の花唄」も好きだな。「Bye by me」も好きだな。

 

みんな心の中から弱って朽ちていく

(Vaundy/不可幸力)

 

気づかないだけで、徐々に自分の内側から朽ちていってしまっているのかもしれない。その「かもしれない」に気づくこと、それに抵抗するには何が必要かを考えること、がいまの自分には大事だ。

 


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たねまめミニマルシェ

 

連休初日は、相模湖のたねまめミニマルシェに行ってきた。いつも美味しいごはんを食べさせてくれる、お気に入りの古民家カフェだ。庭ではキッチンカーやシフォンケーキ屋さん、パン屋さんが並び、革小物づくりやウクレレのワークショップもやっていた。小さなギャラリーでは大好きな器作家さんの器の展示販売もあった。そして美味しいお弁当を食べることができた。

 

こうしたマルシェに行くのは本当に久しぶりだ。来ていた人もみな楽しそうだった。雨が降ってきても子供たちははしゃぎまわっていた。こういう場所をつくる企画力がほしいのだ、こういう場所をつくりたいのだ、という想いを強くした。

 

家でコーヒーを飲む用のマグカップも買った。お気に入りがまた増えた。

 

食べる量と体調

しばらくジョギングができなかったので、昨日久しぶりに走った。10分程度のコースをゆっくり2周。間があくとやはりつらく、長く走ることができなかった。2周がやっとという感じ。でも、気持ちよかった。これから暑くなってきたら、もっと走りづらくなるのだろう。いまのうちに、習慣化させないといけない。

 

食べる量と体調との間には、分かりやすい相関関係がある。あ、食べすぎたな、と思うとたいてい、身体が重くて動けなくなる。当たり前だ。ちょっと空腹だなと感じるくらいで我慢するのが一番快適だ、と最近つくづく感じる。そして腹が減りすぎると今度はイライラしてくる。そのさじ加減が重要だ。

 

鉛筆と鉛筆削り

鉛筆をこよなく愛する人による本を偶然本屋で見かけて、面白そうだったので手に取った。私にはここまでの鉛筆愛はないけれど、鉛筆を使って文字を書く機会が少なくなったいまの自分の境遇をなんとなく寂しいと思っていたので、このような熱をもった人がいることに驚くと同時に、自分もその熱の源のようなものを持っているのではないかと感じた。

 

書き続けたら芯が丸まって文字が太くなり、同じ大きさの文字が書きづらくなってくる。そうしたら芯を削る必要がある。それを面倒なことだと思うのは簡単だけれど、それではつまらない。心を波立たせないように、と意気込みながらも、人間が一定の感情を平穏に維持することが困難であるのと同じように、鉛筆もまた一定の書き味ではありえない。その変わり具合を億劫がるのではなくむしろ味と捉えて、自分が使いやすいように握り方や削り方などを工夫してみる。そうして自分なりの心地よい書き味を見つけた時にこそ、自分の想いを一切の抵抗なく直筆文字に転換させることができる。

 

さしあたっていま、手元に鉛筆はある。気に入ってはいる。しかしこれといった鉛筆削りを持っていない。あの小さい鉛筆削りは使っていてあまり楽しくない。小学生のころに使っていた鉛筆削りは最高に気に入っていたが(いまも実家にある)、スヌーピーの絵柄の手巻き式鉛筆削りで、いまはとてもじゃないけど使えない。鉛筆をもっと愛そう、と思った今日、まずはカッコいい鉛筆削りを買おう、と思った。

 

考える鉛筆

考える鉛筆

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架空の本屋

「16の小さな専門書店」という本屋が千葉にあった。千葉そごうのフロアーの中に、その名前のとおり、16の専門書店が本を並べている、といったものだった。SNSで見て興味を持ち、行ったのは2年以上前。調べたら2020年の3月に閉店したとのこと。

 

それぞれ別々の、かつ独特のコンセプトで選んだ本が並ぶ専門書店を、一つづつ見るのがとにかく楽しかった。小説に興味がない人も、小説専門の本屋をざっと見たら読んでみようかなと思うかもしれない。絵本を手にしたことがない人が絵本専門書店の棚を見たらくすっと笑ってしまうかもしれない。読み手の読書の幅を広げるという点では、画期的なアイデアだと思う。

 

私がいま、特にウェブ上でつくってみたいものがある。それが「架空の本屋」を複数つくり、それを集めることだ。「16の小さな専門書店」は実在した実店舗だが、それをウェブ上で展開するイメージだ。

 

ただ、これだとどうしても「16の小さな専門書店」の二番煎じになってしまう。自分がこれから発信する価値のあるものにするためには、アイデアの「素」は同じでも、その中に違った「味」がなければならない。ただ、様々な強みをもった本屋を集めることで読み手の視野が広がる機会を与える、という「目標」は達成させたい。そんなことを考えながら、「こんな専門書店があったらいいな」を拾い集め、イメージを膨らませている。

子育て

幼馴染に久しぶりに会った。4人の男の子を育てる母である彼女は、昔から小柄でありながらもパワフルで、今日も軽快なトークがさえわたっていた。4月から高校生になった長男を案じている彼女は頼りになる母親そのものだった。毎日の弁当をどうするのかとか、そんな話を聞いていると、自分が高校生の時、親に弁当をつくってもらっていたことを思い出して泣けてくる。当時はそれが当たり前だ、くらいの態度をとっていなかっただろうか。子供の頃は気づかなくても、大人になってそっちの立場に近くなってから、親が子に対して気遣っていることを知る。

 

小学生の時。家の近くの公園で友達と遊ぶだけでは飽き足らず、少し離れた場所にある沼に釣りに行ったり、いま考えると結構「親は心配するだろうな」と思うようなことをたくさんしてきた。では子供があまり遠くへ行かないように監視するのが親として適切かというと、それも違う気がする。子供の成長を見守る親が、常に不安や心配と戦っているのだと思うと、子育ての大変さ、苦しさを、感じずにはいられない。久しぶりに幼馴染と会って、そんなことを考えた。

 

 

かつそば

昨日力うどんを食べたから、今日は何を食べようか、ずっと考えていた。今日もそば屋に行く予定だったのだけれど、雨天で本来の目的が休みになったので、行けなかった。また来週のお楽しみだ。

 

食べようと思っているものはもう決めている。「かつそば」だ。カツ丼も食べたい。でもご飯ものだけでなく、そばも食べたい。そんなわがままにこたえられるのが、かつそば+ライスだ。結構自分では画期的なアイデアだと思っている。

 

そば屋にはたくさんのメニューがあって、毎回違うものを注文しても全メニュー制覇するのにものすごい時間がかかる。その「気の遠くなる感じ」が何だか好きなのだ。

 

力うどん

東林間に行ったときの食事はここ、と決めているそば屋がある。今日もこのそば屋で昼ご飯。そば屋ではそばを食べることが多いけれど、今日はいつもと違うモノをと思い、力うどんを食べた。特別な理由はない。なんとなく久しぶりに餅を食べたくなったこと、たまにはそばではなくうどんを食べたいと思ったこと、その二つが重なったからだ。

 

先日、別のそば屋さんで。メニューを見ると力うどんだけ「うどん」と明記されていて、「力そば」がないように見える。何か理由があるのだろうか。餅とそばは相性が悪いのか?きっと美味しく食べられそうな気がするのだけれど。

 

でも今日のそば屋は普通に力うどんも力そばも注文できそうな書き方だった。だから力そばにしようかとも迷った。でもうどんの方が美味しそうだと思い、うどんにした。なんだ、他の店のメニューになかったことから深読みして、その先入観に負けてしまっているじゃないか。ただ力うどんは、抜群に美味しかった。

 

不要な本

不用品は例外なくタダ。石黒智子「少ないもので贅沢に暮らす」(PHP文庫)を久しぶりに読んで、そうだよな、そのこだわりって大事だよな、と思った。自分にとっていらないのだから、他人にそれを譲る時は、タダ。お金のやり取りはなしにしましょう、と頑なに言い続けてきたという著者の想いが伝わってくるから、自分も共感するからにはそれを実践しなければならない。

 

私は身のまわりのものを友人知人に譲ることはあまりなく、また譲り受けることも少ないと思うのだけれど、捨てるにはもったいないから譲りたいと思うことはある。友人知人であればそこにお金のやりとりを介在させることはほとんどない。けれど、では本だったら?と思う。古本を他人に読んでほしい、と手渡すときにお金をもらうのは一般的なことだ。古本屋はたいていそうだ。

 

だから私は、「大切な本だけれど、他人にも読んでほしいから手放しても良い本」と、「読んでみたけれど正直面白くなく、不要な本」とをきちんと分けようと思う。明確な線引きの基準はない。嘘をついても誰にもばれない。だから自分に正直に、自分の心だけを頼りに、不要な本かそうでないかを区別する。そして、不要な本と判断したら、絶対に有料で売らない。そうしてみようと思っている。