脳内BGMと拍子のズレ

 

週末のジョギング。こう暑い日が続くとやはり萎えてくるけれど、やめてしまうわけにはいかない。誰からも強制されているわけではなく好きでやっているので、楽しみながら、自分で自分に喝をいれながら、走っている。昨日は江戸川の花火大会だったので、もしかしたらいつものコースである川沿いに人が集まっているかもしれない。そう思って昨日は走れなかった。だから今日走らないとまた1週間空いてしまう。今日は走らなければいけない日だった。

 

ジョギング中の脳内BGMはたいていTHE YELLOW MONKEYの「パール」。走るリズムとテンポが一致するので気持ち良い。「負けるなよ」という歌詞が自分を奮い立たせてくれるのもよい。

 

「パール」もよいけれど、今日は気が向いて「罠」を脳内で歌った。こちらもbpmが足のリズムにぴったりだ。微笑んだ死神から逃げるように、走る。こちらも興奮してきてジョギングにもってこいだ。

 

ギターソロが明けて最後のサビに入る前のブリッジ。聴き手の血が沸騰する最大の山場だ。

 

ドキドキするのは心臓が

生きたいからだと動いてる

一生懸命血を送り

破裂寸前であの世に行くまで

(罠/THE YELLOW MONKEY)

 

吉井さんが札束をばらまく直前、一拍の無音がある。ここで曲全体を支配する拍子がずれる。私が「罠」を愛する理由の一つがこの「絶妙なズレ」だ。しかし、リフのごとく淡々と繰り返し歩を進めるジョギングでのこのズレは、「右(や)・左(み)・右(から)・左(ーの)・右(ー)・左(ーて)・右(ーま)・左(ねき)」という足のリズムを反転させる。その一瞬の違和感が呼吸を乱す。この曲の中では大事なアクセントだと思っているけれど、ジョギングの脳内BGMには合わないな、と思った。家でじっと目を閉じて聴くにふさわしい。

 


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自分ルールを守れなかった散髪

5~6週間に一度、必ず美容院に行って髪を切ってもらう。そのことを意識するようになって何年経つだろうか。きっかけは、尊敬する松浦弥太郎さんが、2週間に一度散髪することを習慣にしていると知ったことだ。2週間に一度と言ったら結構な頻度だと思う。しかも銀座の理容店。なかなか真似できることではないけれど、その趣旨である「髪は伸びる前に切るべき」という言葉には共感する。最低限の清潔感、身だしなみの確保と言ったところだろうか。自分自身、伸びきった髪が耳まわりやうなじ、額に触れるのは決して快適ではない。昔から、すっきりした短髪が好きでもあった。そのため、2か月に一度くらいだった散髪を徐々に縮めて、いまはおおむね5~6週間に一度と決めている。4週間、ちょうど1か月おきだとちょっと早すぎる。7週間はちょっと遅い。8週間経つとアウト。何度も間隔調整を繰り返し、達した最も気持ち良い間隔が5週間もしくは6週間だった。

 

今日、夜にあわてて散髪に行ったのは、前回の散髪から7週間が経ってしまったことに焦ったからだ。本当は先週行こうと思っていたのだけれど、なんだか都合がつかず、行けなかった。平日の夜は平日の夜で、くたびれていてなかなか行けなかった。今週一週間また過ぎてしまうのはまずい、と美容院に電話して、閉店前に駆け込んだ。夕方から雨が降り出して若干躊躇したけれど、伸びきった髪でさらに何日か過ごすのも嫌だったので、行かないという選択肢はなかった。

 

暑いということもあり、いつもより少し短めに切ってもらった。頭が軽くて、心地よい。やはり多少の面倒臭さはあっても、スパンを守って美容院に行くべきなのだ。2週間に一度、とまではいかないけれど、5~6週間に一度という自分ルールをできる限り守り、最低限の身だしなみに気を配れる大人でありたい。

 

うちわ祭り

 

店番の仕事で熊谷へ。うちわ祭り一日目、仕事中に目の前を山車が通る。太鼓を叩いているのは小学生くらいの男の子。一生懸命に前を向いて太鼓を叩くその姿に、胸を打たれた。

 

小さい子の、勉強や遊び以外で夢中になっている姿を見るのが好きだ。それは自分自身、小学生の頃、多少のイヤイヤはありながらも地域で昔から受け継がれている豊作祈願イベントに参加するなかで、やりがいを身に着けてきたこととも関係があるのかもしれない。神様と触れる機会はきっと、子どもに普段得られるものとは違う夢中を与えてくれるのだろうと想像する。

 

40度くらいあるんじゃないかという暑さの中で、祭りは行われている。はっぴを着ている参加者全員、顔を真っ赤にしながら、しかし表情は真剣そのもの。こうした空気をつくり上げる祭りの力を、ただ外から冷静に俯瞰しているだけじゃなくて、そこから自分も何かを得ようとしなければいけないと感じた。

 

Kids Art 展

南行徳のナンギョウベースへ。小学生以下のキッズたちのアート作品が並ぶ「Kids Art 展」を観てきた。

 

テーマは「好きなもの」。うどんだったり、朝と夕方の空の風景だったり、母親だったり、クロミちゃんだったり。抽象的なイメージもあって、様々な視点からアートを楽しめた。

 

見えている風景、感じていること、好きなものに対する想いなどを、純粋に、思った通りに表現している様子が見えて、アートが本来表現するものと、それを感じ取るべき自分を、見直すことができた。そして、小学生の頃に自分自身が抱いていた苦手意識を取り払って、自分も「自分の中から湧き出てくるもの」を表現したいと強く思った。それは絵かもしれないし立体作品かもしれないし、はたまた文章かもしれない。形式はいろいろあるけれど、どれだってよいのだと思う。こういう感情を表現したい!を諦めずそのまま形にしようとするエネルギーを、持ち続ける大人でありたい。

 

変わっていく自由が丘の街と、自分の中の変えてはいけないこと

日曜日の朝、自由が丘の駅を降りたら目の前に、再開発マンションが現れた。足場も外れ、1階のファサードも姿を現した。看板を見ると7月末完成とある。今月で?ずいぶん長いプロジェクトだなあと思っていたのはもう数年前。いつの間にか時間が経っていた。

 

その間、私は仕事をガラリと変え、住処を変え、生活を変えた。ただ自由が丘を歩いていると、変わっていない雰囲気ばかりが自分にまとわりついてくる。成長していないのかも、と不安にさせる。しかしそれでもピーコックはなくなってイオンになり、富士屋書店はdacoになった。この再開発が完成し、人がさらに集まったら、どんな街になるのだろう。楽しみなはずなのにぞっとしてしまう自分が、なんだか世の中についていけないようで悔しい。

 

自由が丘で仕事をしていた時と同じように、10時前に事務所について、書類の整理をして、気づいたら19時になっていた。会社員の頃と同じ時間を費やしている。しかし今日は日曜日。全身の力が抜けて道路に寝そべりそうになるのをこらえながら、電車に乗った。

 

どんなに楽しそうな誘いがあっても、目のまえに仕事があれば終えなければいけない。先日、東京都現代美術館のエリック・カール展を観ていて、そんな言葉が目に入った。仲間からの茶々をもろともせずに、ひたすら巣を作り続けるクモに、大人の自分を見る。どんなに不本意な境遇であっても、「やってらんねえよ」とさじを投げたくなっても、目の前に自分を必要とするクライアントが一人でもいる限りは、やり遂げなくてはいけない。仕事に飽きたとしても(飽きてはいなけれど)、その想いは変えてはいけない。エリック・カールにそう背中を押された気がして、だから帰りの電車内でもやけにならず、足に力を入れて帰宅した。帰ってからも、今週も、やることはたくさんあるのだ。

 

気づけば7月だった

土曜日、週末のジョギング。明日は一日外出の予定だから今日の午前中しか時間がとれないと思い、起きて早々に水も飲まずに家を出た。

 

油断した。思いのほか気温が高いいつもの河川敷コース。折り返し地点にたどり着いた時には足が重く、これはゴールまで走りきれるだろうか、と心配になった。ゴール前でばてて歩くのは嫌だったから、後半はかなりのんびりなペースになってしまったけれど、なんとか走り終えた。喉がカラカラで、家を出る前にたっぷり水を飲んでくるべきだった、と後悔した。倒れる心配まで、頭をよぎった。

 

気づけばもう7月。酷暑になってもおかしくない時期だ。ジョギングをする時間帯も考えなければいけない。ヘトヘトになりながら仕事のことなどをぼんやり考える時間も、それはそれで好きではあるのだけれど。

 

パソコン、スマホとの距離

今週末にかけて、個人的なトラブルが立て続けに起きた。どちらもパソコン、スマホといったデバイスと、インターネットに関わることだ。他人からは「今どき、たいしたことはない」と言われそうだけれど、思いのほか心が荒れた。これほどなのか、と自分で自分に驚いた。

 

まず、パソコンでネットがつながらなくなった。スマホなど他のデバイスでは使えたから、大元ではなくパソコンそのものの問題のようだ。いろいろ試したが上手くいかない。スマホで検索すると、「パソコンそのものの物理的な劣化による損傷」のような言葉も出てきた。確かに、もう何年も使っている。そろそろケチらず買い替えなければいけない時期か、と諦め、適当なパソコンを選び、買い物かごに入れ、購入ボタンを押す手前までいった。しかしふんぎりがつかず、もうちょっとだけ地団太を踏んでみよう、と解決策を調べてみたら、あった。指示するコマンドを入力したら、つながった。優柔不断の自分とはおさらば、と息巻いて購入ボタンを押さなくて良かった。しかし、遠からず買い替えなければいけない時期が来る。そろそろ新しいものを手にしよう。

 

そして週末に入る直前の金曜日の夜、スマホを壊した。フリーズしたと思ったら突然暗転し、電源が入らなくなった。一晩充電しても直らず、仕事の合間にauショップに駆け込んだ。「故障の可能性が高いですね。こちらのサポートに電話してみてください」との返事。それでも諦めがつかなくて、その後別のauショップで純正の充電器を買い、その晩ずっと充電したが、結局直らなかった。仕方なく今日、サポートに電話をした。言われるがままに改善策を試し、うまくいかないことを伝えると、「故障の可能性が高いですね」とのこと。こちらは諦めるしかなかった。最新機種に機種交換することも考えたけれど、交換サービスが使えることが分かり、手配した。こういう手続きは本当に苦手だ。手続きが済んでも「もっとこうすればよかったんじゃないか」「じゃぁデータ移動はどうすればよいのか?」など不安は尽きない。そしてその不安はストレスとなる。

 

パソコンにしてもスマホにしても、もう何年付きあっているというのだ。交換なんて、いずれ必ずやってくる出来事なのに、いざやってくると心がざわつき、壊してしまった自分を責めたくなる。そんなデバイスに支配されるような人間じゃないだろう自分は、とは思うものの、「ああそうですか、壊れちゃったもんは仕方ないね、ハハハ」とあっけらかんとすることができない。結局自分も、こうしたデバイスに依存する一人だったのか。悔しい。

 

ただ、電話が使えない、ネットも(スマホでは)見られない、という状態に清々しさを感じるのもまた事実。急な連絡は来ないし、仮にあったとしても、受信しなかったことをスマホの故障のせいにできるから安心だ。そんな、ちょっとだけ浮ついた心をもちつつ、気づいた。今回の件を通して神様が、「お前は他人よりスマホに依存していないことを誇っているつもりだろうが、そんなことはない。家で、ふとした隙間時間にSNSサーフィンをして時間を食いつぶすなんてことをずいぶんしてきたはずだ。これからは本気になって、中途半端はやめて、きちんとメリハリをもってパソコンやスマホと付き合いなさい。のめり込みすぎると、『ないことによる恐怖』に食い潰されることになるぞ」と注意してくれたのだ。そう思って、これからはパソコンやスマホと適度な距離を確保しようと思った。そして、バックアップをちゃんととろう、そろそろ使い過ぎかなと(感覚的にだけれど)思ったら買い替える勇気を持とう、とも。

 

6月の雨と憂鬱

 

「6月は雨が多いし、気が滅入るから嫌い」そうやって6月を嫌がる人を、私は昔から嫌がってきた。雨という自然現象がたまたま多く発生するからといって、その月自体を嫌がるなんてどうかしている。そんな理由で煙たがれる6月の身にもなってほしい。

 

こうしたかなりかたくなな態度をとっていたのも、まあ気持ちは分からなくはないけれど、6月生まれの自分はそんなわがままは言わないぞ、自分は生まれ月を愛している、雨の多い時期に生まれた自分が雨を嫌うわけがないじゃないか、と自分に言い聞かせてきたからかもしれない。実際は、じめじめした空気は好きではない。何もしていないのに外で体が濡れる、それが不快でないわけがない。6月嫌いの人を嫌ってきたこれまでの態度が、ただのやせ我慢だったと気づいてからは、憂鬱であることを認め、沈んだ気分に正直に6月を過ごしてきた。

 

そんな憂鬱も、1周まわってまた吹き飛んだ。今は、雨を天の恵みだと思うことができる。雨のおかげで木々は潤い、暑さはやわらぐ。「晴耕雨読」という言葉があるように、人は晴れた日に働き、雨が降ったら休む。雨がなければ「耕す」と「読む」のリズムは生まれない。さらに言うと、本を読む時間があるからこそ、耕す行為に生命力が宿る。

 

だから私は、6月が好きだ。決して、誕生月が6月だからという自分本位な理由ではない。

 

執着、居着きをなくす

執着心から自由になること、「居着き」から離れることについて、このところずっと考えている。直接的なきっかけは内田樹「天下無敵をめざす生き方」を読んだことだった。

 

武道では勝敗強弱巧拙遅速を競うということをしません。それが「居着き」を生み出すからです。居着きは武道の最大の禁忌です。居着いたら終わりです。居着きとは、具体的には足裏が地面に貼りついて身動きできない状態を指す言葉ですけれども、もう少し広義にとれば、行動の選択肢が限定されている状態、同一の動作を反復することもそうです。

 

朝、電車に乗って仕事場に向かう途中でも、仕事場まで歩いている時も、また事務仕事をしている時でも、何か外からの刺激によって気持ちが押さえつけられて、不快感を感じることが多々ある。なんだか昔より不快を感じやすくなったとすら思う。そうすると、自ずと行動範囲が限定される。比較的空いている当駅始発の電車を目指して家をでないといけないとか、この道を通らないといけないとか。

 

こういうとき、「気が散ってはいけない」「この程度のことで心が揺らいではいけない」なんて心の中で言いながら肩に力を入れる。それ自体が「○○であってはいけない」という執着に囚われている状態と言える。本当は肩ひじ張らずとも、自然と「なんてことはない」と刺激をさらっと受け流すようなふるまいが理想なのだろうけれど、なかなかそうはいかない。ドッチボールのように正面からボールを受け止めて、抱きかかえて、そして投げ返すような心境に実際は近い。ボールを受け止める瞬間、腹に小さくない衝撃を受ける。その衝撃を浴びることに、慣れているように思えて仕方ない。

 

剣道で例えれば、「面返し胴」ではなくて「面抜き胴」で対抗しなければいけない。相手の面打ちを、真正面から払うというよりは「いなして」カウンターを打つ、という感じ。そんな姿勢をとることができれば、もっと自然体で仕事ができるように思う。こんなところで剣道部の稽古が活きてくるのか。

 

執着心が邪魔をしている。そうやって執着心を追い払おうとする姿勢自体がそもそも我執と言える。だから、執着心を取り除こうとすればするほど、新たな執着心にさいなまれることになる。居着かないようにと念じれば念じるほど、それ自体が居着きにつながってしまう。さてどうしたらよいのか。結論はまだまだ出ない。

 

 

複合機

午前中、少し仕事があって自由が丘へ行き、その帰りに南行徳のヤマダ電機に立ち寄った。久しぶりだった。

 

複合機を買った。これまでは、場所もとるし、必要になる機会はそれほど多くないし、自宅近くのセブンイレブンを使えばなんとかなる、と悠長に思っていた。しかし、あったら楽だよなぁと気づいてから急に欲しくなり、家庭用の小さいタイプで、コピーとプリントとスキャナーが使える複合機を探したら、割と安く手に入ると分った。ここ数週間は、どの機種にしようか、オーバースペックではないか、しかしどうせ買うならチャチなものにはしたくない、などと悩んでいた。私はこうした悩む時間があまり好きでなく、多少後悔してでも買ってしまった方がスッキリしてよいとすら思う。「熟考しての消費」がたぶん他人より下手なのだ。そのことを、今回複合機を探す中で実感した。

 

目当ての機種が在庫切れでなかったので、別メーカーの類似機能品を探した。しかししっくりこず、元のメーカーで、一部機能を諦めて(ADFという自動紙送り機能が欲しいと思っていたけれど、その機種がなかったので、自動紙送りをしたくなるようなコピーやスキャン(冊子の複数部コピーやスキャン)はほとんど使わないだろうと思い諦めた)、その代わりちょっとグレードの高い機種を選んだ。それでも、替えのインクとコピー用紙を入れて3万円だった。家庭用の複合機って意外と安いんだな、ありがたいな、と拍子抜けした。

 

帰宅して早速セッティング。設定も比較的スムーズで、すぐに使えた。そうしたらその便利さに驚いた。これならたとえ近いとはいえ、コンビニまで行かなくて済む。仕事のしやすさが格段に上がった気がした。

 

冷たいちゃんぽん

晩ごはんにと、近所のリンガーハットに入った。長崎ちゃんぽんは好きでよく食べる。しょっちゅうではないけれど、たまに食べるくらいなら飽きないし、とても美味しい。辛めのスープのものを注文しても、大盛りを注文しても、まあたまにはいいか、と思える。

 

ただ今日は、日中とても暑かったので、どうしてもあつあつのちゃんぽんを食べる気になれなかった。どうしようかとメニューを眺めながら迷う。すると冷たいちゃんぽんがあり、しかも麻婆茄子という好きな具材だ。今日はこれだろう、とすぐに決まった。

 

これは自分のへんなこだわりのひとつなのだけれど、温かいものと冷たいものの二つから選べるときには、温かい方を選ぶ。その方が美味しいことが多いからだ。そして、冷たいものを食べると体が冷えて良くない気がするからだ。それは暑い夏でも変わらない。暑いときに冷たいスープを飲んで胃を冷やすより、温かいスープで体を温めたほうがよい。汗はもちろん出る。しかしそれでも、体の芯を冷やすよりはいいだろう、と思う(そば屋のそばだけは例外で、温かいそばより冷たいざるそばの方が好きである)。同じ理由で、カフェでもアイスコーヒーはほとんど飲まず(嫌いではない)、真夏でもホットコーヒーを飲む。コーヒーは熱いほうが美味しいと感じるからだ。

 

今日、その自分ルールを破って冷たいちゃんぽんを食べたら、美味しかった。汗も出ず、快適に食べることができた。「自分は温かい方を選ぶ人間だ」と、自分で自分に制限をかけることほど、もったいないことはない。たまにルールを破ると(言葉がよくない。正しくは、こだわりから自由になると)、こうした新たな発見に出会えるのだ。

 

時間つぶしも無駄じゃない

「時間をつぶさなければいけないから」という理由だけで、例えばカフェに入ることに、抵抗を感じるようになった。だったら時間をつぶす必要がないように前後の時間を調整したらいい、というように。いままではほとんど感じたことのない感情だ。

 

発端は、単なるケチ心なのだろうと思う。カフェで1杯コーヒーを飲めば500円、他にケーキだとかサンドイッチだとか、何か食べればさらにプラス。もちろんそれは当然の、快適な時間を過ごさせてもらったことへの対価なのだけれど、それを必要としないように時間をやりくりできたはずだ、と考えると、途端に後悔の念が押し寄せてくる。もう少しゆっくり家を出るのでも良かった、とか。ただ、電車の遅延などもあるからある程度の余裕はどうしても必要で、そのさじ加減は難しい。

 

今日、熊谷に行き、久しぶりにミスタードーナツに入った。普段はだいたい混雑しているから距離を置いていた。ドーナツ、人気だし。ただ、今日熊谷駅に着いたのは午前9時半過ぎ。アズの書店にはまだ入れなかった。スターバックスとミスタードーナツは開いていたので、ミスタードーナツに入った。ドーナツ2つとコーヒーを注文し、朝の比較的空いている席に着く。20分程度だったけれど、こうしたカフェ的な店で、久しぶりに深呼吸ができるような、心から落ち着けるような時間を過ごせた気がした。

 

目的の時間から逆算して、もう少しギリギリに到着する時間の電車で来ることもできただろう。家を出るのが遅くなるのだからその分朝の時間にゆとりができる。そして、駅に着いたらそのまま目的地へ、ということができた。余計な寄り道などせず一直線に、とはそういうことだ。ただ、今日それができなかったのは、なんとなくドーナツを食べ、フツーのコーヒーを飲みたかたから、というのももちろんあるけれど、それよりも、時間つぶしのためにカフェに入ることを嫌悪するケチな体質を、ちょっとひっくり返してやりたいと思ったからだった。日常的に、躊躇せずカフェに入るようにはならなくて良いけれど、緩衝材的な時間を埋めるためのカフェなら気にせず入ったらいい。そこで手持ちの本の一冊でも手に取れば、何ページか読み進めることもできる。結果、今日は美味しいドーナツを食べ、コーヒーを飲み、駅の中の賑わいの中でも深呼吸をすることができた。時間つぶしも決して無駄じゃない、ということが分かった。

 

緊張の糸を張り過ぎない

今日は午後に重要な契約が控えていたので、午前中のうちにジョギングを済ませた。午後ではなく午前、朝起きて割とすぐに走ったのは久しぶりだった。いつものとおり河川敷をおよそ40分間。もうそろそろ「暑い」と愚痴を言いたくなるような気温になってきたので、汗が噴き出してきた。

 

往路、18分53秒。先週より1分くらい早いペースだ。午前中で体が動かないかもしれないと不安な気持ちで走り始めたくらいだったので、拍子抜けした。徐々にだけれど、この距離を走ることに体が慣れてきたようだ。純粋に嬉しいタイムだった。

 

復路、19分27秒。途中で多少ペースが落ちたと感じたものの、先週より早く走れている感触があったので、もしかしたら往路よりよいタイムかもしれないなんて期待をした。ラストスパートはかなりペースを上げることもできた。しかしそこまでのタイムではなかった。やはり中間地点で落ちるペースの影響が大きい。

 

ゴール後、もつれる足をひきずりながら、ゆっくり呼吸を整えながら、自宅まで歩く。これを毎週でも繰り返すことができたら、心身ともに充分なほど鍛えることができそうだ。しかし、続けられるかどうかは自分次第。いままでの経験上、やってやるぞ、と意気込みすぎると長続きしない。せっかくペースが上がってきたのだ。「緊張の糸を張り過ぎない」ということを意識しなければいけない。

 

批判についての、自分なりの哲学

他人に批判されて嫌だと思う気持ち。落ち込み、気が滅入るという感覚。それは大事にした方が良い。なぜなら、その感覚をバネに、「自分は他人を絶対に批判しない」という決意ができるから。

 

私は、他人から批判されても気にしない。なんともない。そう自分に言い聞かせてしまうと、他人に対しても、「きっと大丈夫だろうから(自分がそうであるように)、言ってもいいだろう」と思ってしまう。そうして、他人を簡単に傷つける。

 

批判自体は悪いことではない。真摯に受け止めてるべきこともあるかもしれない。真剣に、誠実に考えて行動しなかった、という落ち度がもし自分にあって、それに対して批判されたのだとしたら、素直に反省すること。次からは、自分の「たましい」に裏打ちされた行動を心得ること。

 

それでも、自分は他人を絶対に批判しない。なぜなら、そこには必ず、少なからず嫌悪感が伴うから。

 

弱い自分を麻痺させたくて

 

昨日土曜日は店番の仕事で熊谷へ。接客したり、じっくり考え事をしたり、往復の電車内で本を読んだりうとうとしたり、幼馴染に久しぶりに会って話をしたり。仕事とプライベートと混ざりながら、あっという間に一日が過ぎてしまった。

 

今日日曜日は一日オフ。今月末から来月にかけての企画に向けて選書活動。独りで黙々とパソコン画面や蔵書をにらむ孤独な作業、しかしこの時間が意外に楽しい。苦しくもあるのだけれど。

 

夜、寝る前にこうして一日を振り返る。日曜日の夜であれば、前日も含めて二日間の自分の行動を省みる。たいていは、やろうと思っていたことができなかった悲しさにさいなまれる。そして、今週やればいいや、と開き直ることになる。その今週も結局できなかったらどうしよう。そう震えたりもする。自分はしっかりしている方だという自信はあるのだけれど、それでも、いや、だからこそと言うべきなのか、自分のだらしなさが妙に目について、悲しくなる。そんなもんだよ、大丈夫だよ、と誰かに励ましてほしいと甘える自分が本当に嫌だ。だから今日も、頭の中の思考を整理したくて、もしくは無心になりたくて、ちょっと長めのジョギングをした。習慣にしようと決めたことは、とりあえずやる。「やるべきことはやったよ」という実績の積み重ねだけが、確実に自分を慰めてくれる。こうして、今日より明日、1週間後より1か月後、というように、徐々にでいいから弱い自分を打ち破っていきたいと思う。

 

弱い自分を麻痺させたくて 頑張りすぎてしまうんだ

(復活の日/THE YELLOW MONKEY)