寛容になること

「行けたら行く」という言葉は、「行けない」という意味でほぼ間違いない。そういう意見もいまは多いと思う。飲み会に誘われた人が「行けたら行くよ」と答えたら、それは行きたくないということだと思ってよい、だから期待するな、というように。そのような言葉がなんとなく自分にインプットされたからか、「行けたら行くよ」と言われるということは、拒否の意向をオブラートに包まれた形で示されたも同然なんだ、というように思え、マイナスの感情が生まれる。けれど、必ずしもマイナスじゃないんじゃないか、ということに、あるエッセイを読んで気づいた。何度も紹介しているけれど、大好きな人の、特に好きなエッセイ「ベリーベリーグッド」。

 

ベリーベリーグッド: レターエッセイ集

ベリーベリーグッド: レターエッセイ集

 

  

伝わるちから (小学館文庫)

伝わるちから (小学館文庫)

 

 

「会えたら会いたい」という言葉が好き、だという。私なんかはこの字面だけ見ると、「会えたら会いたい」=「でも会えないかもしれない」「予定があるから会えなかった」というように、会うことをやんわり断る言い訳にも聞こえなくもない。でも、著者の感じ方はまったく逆だ。なるほどそういう感じ方もあるのか、と結構驚いた。

 

「会えたら会いたい」は、普通に「会いたい」と言うよりも強い言葉だなあと思っている。控えめなようで積極的というあいまいさが、相手からすると、返事をしやすいという雰囲気も含んでいる。だから使いやすいんだ。

 

僕なんかは「会えたら会いたい」と言われたら、ものすごく嬉しい。「えー、ほんとにー」と。「会えたら」という部分に思いやりも感じるし。

 

そう考えると、「行けたら行くよ」というのも、「あぁ、じゃぁ来られないんだな。というか、来たくないんだな」と嫌な気分になるのではなく、「そうか、じゃぁ来られたら来てよ」とこちらが返事しやすいように言ってくれたんだな、と感じることもできる。感じ方はひとそれぞれ、とはこのことなのか。

 

結局、相手の言葉に対してイライラしたり、嫌な気分になったりすることから自分の身を護る最適な方法は、「寛容になること」なのだと思う。相手はこう言っている。そこにはこういう意図がなんとなく含まれているのだけれど、そう思うのもまた仕方のないこと。というように、まず自分に受け入れることが、大事なのだろう。そしてこれは、暮らし全般において、大事なキーワードだなと、改めて感じた。