自分の文体

自分ならではの文体とはどういうものなのだろう。エッセイを書くことを習慣にしてから、このことを自分自身に問い続けている。なにか分かりやすい「自分らしさ」があって、それを言葉で表現することができたら、もっと書くことに対して自信を持てるようになるのではないか。そのように感じている。

 

ただ、自分らしさに必要以上にこだわることもないのだろう、とも今は思っている。きっかけは松浦弥太郎「エッセイストのように生きる」だ。

 

僕もよく、「書き手の名前を先に見ていなかったとしても、弥太郎さんの書いたエッセイはすぐにわかります」と言っていただけます。

ただ、僕は自分らしい文体で書こうと意識したことはありませんし、意識したところで根本的には変えられないものなのではないかと思っています。

 

器用な人や書く技術のある人は、文体を使いこなすことで「自分がなりたい人間像」をつくりあげることは可能かもしれません。

それはエッセイストとしてあまりいい佇まいではないと、僕は思います。

読む人を思いやって、親切に書く意識だけを持って、あとは肩の力を抜いて書く。

 

多くのエッセイを執筆されている松浦弥太郎さんでさえ、自分らしさなど意識していないのだという。とするならば、私が自分らしさなどチマチマ考えている場合ではない。自分の文体を意識して、自分でコントロールしようとするのは、「自分がなりたい人間像をつくりあげようと」しているに過ぎないのではないか。そう感じてから、自分なりの文体なんて(あまり厳密に)考えないようにしようと思うようになった。

 

エッセイストの本を読んで、「この書き方、素敵だな」と感じることはたくさんある。さまざまな著者の「この書き方、素敵だな」を読み集めて、参考にする。ただ真似をするのではなく、「自分だったらこう言った方がしっくりくるかな」に、必要に応じて変換する。こうして、自分の口から自然に出る言葉がそのまま文字になる様を感じながら書くことで、結果として自分の文体に結びつくのではないだろうか。