技術の蓄積が欲しい

いまこの本を読んでいる。タイトルで気になって手にしたものの、しばらく本棚に置いたままにしていた。

 

ぼくは蒸留家になることにした

ぼくは蒸留家になることにした

  • 作者:江口 宏志
  • 発売日: 2019/12/10
  • メディア: 単行本
 

 

20年近く本を扱う仕事をしてた著者が「蒸留家」になるまでの話。著者はあくまで「自然な流れ」だったと言うけれど、その決断に至るまでには何かカギとなる思考があるのだろう。これまでの仕事に対してどのように考え、そして全く異なる世界に飛び込もうと決意したのか。それを知りたかった。それを知って、自分の仕事への活力に変えたいと思った。

 

その好奇心は、「はじめに」を読んでおおよそ満たされたように感じた。

 

ほかの店との差別化に頭を使うことへの疑問、先の見えない疲れとでも言うべきか、一生懸命考え抜いたからこそ、自分ができることの限界が見えてしまった。

 

他人と同じことをやっても仕方ない。違うこと、ニッチなことを何としても探さなければならない。自分もそう考えていた。それが自分の仕事に価値を見出すための近道だと思っていた。だからこの言葉を読んで、差別化に頭を使うことに何の疑問も抱かずに来た自分は単細胞なだけなのかもしれない、とはっとした。なんで狭い隙間にある小さい穴をこじあけるようにして進まなければならないのか。誰かと一緒でも、それに価値があることならいいじゃないか。そう気づいた瞬間、視界がぱっと広がった気がした。まだ「はじめに」しか読んでいないのに・・・。

 

そして第1章の序盤で、そういうことか、自分の心の中でなんとなく燻っている想いを言葉にするとこういうことなのかもしれない、と妙に納得できた。

 

本当に洗練されたものって(中略)それぞれの独自の背景があってこそなのだと思う。そうした背景をすっとばして、表面だけをなぞったような「ライフスタイル」があっという間に世を席巻するのに、ぼくは食傷気味だった。

うわべだけの「ライフスタイル」が消費されていくのを横目で見ながら、ますます表現の下にあるしっかりした「技術」の蓄積が自分にも欲しくなった。

そう考えたときに、漠然と、自然と関わりながら、ものをつくりたいという気持ちが湧いてきた。自然は普遍的であるがゆえ、簡単に消費されることなく長く関わっていけそうな気がする。

 

アイデアを出す。企画をつくる。そしてプロデュースする。一緒に仕事をする仲間を動かす。それらももちろん仕事の一つであり、立派な技術だ。けれど、そうしたことよりも、自身の体を動かしてゼロからなにかものを作りたいと思った、と著者は言う。きちんとした「技術」が欲しかった、と。その言葉が、「技術」と堂々と呼べるものを何一つもっていない自分と重なった。そうなんだ、私は技術が欲しいんだ。職人になりたいとは言わない。自分が思う理想の職人には、もうなれない。けれど、例え環境が変わっても、身一つで稼げるような「技術」は、もてるはずだし、もたなければならないと思う。

 

蒸留家になるまでの道のりのことを読むのは、これから。楽しみ。