スシロー

「行徳にスシローが来る」その話題はどこで誰から聞いたのだったか。東西線の車窓から外の景色を眺めていたら、行徳駅を過ぎたところでスシローの看板を見つけた。西友のすぐ隣。ここはいい場所ですね、なんて店舗企画担当者になった気分でつぶやいた。

 

妙典にも少し前にスシローができて、その時も大盛り上がりだった。手軽に回転寿司を食べることができる!と。結局は毎日のように混雑している状況にうんざりして、ほとんど行かなかった。

 

今日、美容院で。隣にいたお客さんとマスターとの会話が耳に入った。「妙典のスシローは混んでるから。予約しないと食べられないんですよ」予約しないと回転寿司が食べられないなんていままで想像したこともなかった。誰もがおいしいお寿司を食べられる画期的な食文化だとは思うけれど、それにしたって。周りが思った以上に盛り上がると、それに反比例するように自分は盛り下がる。こういうところが素直じゃないなあと思う。いや、周りに同調しないで自分の好き嫌いを貫くという点では素直なのか。

 

しかし妙典にスシローが来るよりずっと前。車で数分走るけれど、たしか大通り沿いに回転寿司屋があったはずだ、と昔の記憶を手繰り寄せる。まだ私が車を持っていた頃のことだ。あれはなんだっけな。スシローじゃなかった気がするけれど・・・とgoogle mapで探したら、くら寿司だった。独り暮らしで、食生活も、小遣いの使いみちも、とにかく自由だったあの頃に、もっと味わっていればよかったかな、なんて今更後悔した。回転寿司って、ちょっと油断するとすぐ食べすぎて、安いはずなのに高い買い物になるんだよな、なんて言って、いつも自分にブレーキをかけていた。

 

いま、月に1~2回は仕事で行徳、妙典に行っている。たまには行徳のスシローで思いっきり回転寿司を食べるのもいいな。

 

満席嫌い

気になっていた駅前のカフェに初めて行ってみようと思い、朝、頑張って起きて向かったら、満席で入れなかった。オープンしてから10分後のことだ。あまりの人気具合いに気圧され、ああ、これはしばらく来ることができなさそうだな、と思った。いつ行っても入れない、という「運の悪さ」を割と自分は持っていて、もちろんたまたま空きが多く入れた、なんて日もあるのだろうけれど、こういうときは無理に行こうとしないようにしている。ちょっと傲慢な考えだと思うけれど、自分が行かなくても繁盛しているようだし。

 

ということで、某珈琲店に戻って朝ご飯を食べた。これもちょっと失礼ながら、いつも店の前を通って窓を見るとそれほどお客さんが入っているように見えないことが多かったから、空いているだろうと思ったのだ。祝日の朝、入れたもののそこそこ混んでいて、食べ終わって店を出るころにはほぼ満席になっていた。入るのが30分遅かったらまた入れなかったのかと思うとぞっとする。

 

たぶん人一倍、満席が嫌いな自分だ。食事中であっても満席になると、自分がその満席をつくり出している(嫌な言い方だけれど、「占領している」とも言える)一要因に思えてきて、すぐに退席したくなる。そう言ったら「『いい人』『謙虚な人』ってただ言われたいだけでしょ」と冷めた目で見られそうだけれど、こればかりは本当だから仕方ない。カフェで寛ぐ時間なんていつでも、いくらでも確保できます。早々に退席したところで死にはしません。いくらでも譲ります。

 

そうすると自ずと、満席の可能性が少ない(と感じる)店に足を運ぶことが多くなる。「繁盛していない店と思ってるってことか」なんて反論されそうだ。しかし、これも仕方ない。自分はただ、店に入ること自体にストレスを抱えたくなく、安心して寛ぎたいだけだ。

 

両面性

法律を学ぶことによって得られることの一つに、物事の「両面性」に気づく想像力があると思っている。例えばある人が、「誰々からこのような被害を受けた」と主張したとしよう。弁護士であれば、それがどれだけその人の人権を損ねているかを判断して、例えば損害賠償という形でその人を救うことができる。本来持っている権利を行使できない人が泣き寝入りしないで済むように、手を差し伸べるのが弁護士の有意義な仕事である。ただ、弁護士はクライアントの利益を最優先して解決方法を導くだろうけれど、クライアントに対抗する意見もあって当然で、「どんな反論が考えられるか」を考えることもまた、弁護士に求められる。こちらはこう主張する。しかし相手は相手で、その主張をかいくぐって別の角度から攻めてくるかもしれない。相手には相手の、加害するに至る切実な事情があったのかもしれない。そうやって「かもしれない」を複数の視点から考える態度って、弁護士に限らず、起きた出来事に一喜一憂せず冷静に対応できる大人であるために必要だろうと思う。

 

Season22 第3話「スズメバチ」

 

薫と久しぶりの再会をはたす陣川。また厄介な相談事をもちかけてきたのかと思い警戒していると、角田から事件の知らせが入る。公園で倒れている男性。その周りにはスズメバチが飛びまわっている。スズメバチに刺されないように慎重に男性に近づく右京と薫。男性は胸から血を流し、死んでいた。男性が持っていたレシートからあるカフェへとたどり着き、女性店員がトラブルで最近カフェを辞めていたと知る。その女性の自宅を訪問すると、なんとそこに陣川がいた。「事件に関連する女性をひょんなきっかけで好きになってしまい、彼女を庇おうとする」陣川が、今回も右京と薫の邪魔をする。

 

飛びまわるスズメバチが象徴するものが最後に分かる。相棒を観ていて頻繁に思うのは、このような「事件の動機を何か別のものに象徴させる」というのが、本当にうまいなあ、ということ。しばらく観ていたら「これ、スズメバチが出てくる意味、あるのか?」と思うのだけれど、後半の薫の一言でガラッと変わった。「いつ危害を加えられるか分からない恐怖」がスズメバチにおびえる心境と重なり、ぞっとした。

 

考えさせられた点がある。彼のDVから逃げて交番に駆け付けた女性が、彼の狡猾さを見抜けず助けてくれなかったお巡りさんに失望した、というのが一つの事件の動機になっているのだけれど、これがもし助けを求められたお巡りさんの視点だったらどうだったろう、と考える。もしお巡りさんに、過度に女性を保護しようとしたあまり男性側の更生機会を奪った過去があったとしたら。もしくは、お巡りさんの目を欺くためにわざとらしく謝った彼の視点でも良い。もし男性が、一時頭に血が上って手をあげてしまっただけで、心から反省したにもかかわらず、不相応の重罪を受けることになっていたとしたら。そうやって各登場人物の目線になってみれば、「彼女を救わなかったお巡りさんが悪い」と一方的に決めつけることはできないだろう。その決めつけが正しいか正しくないかはさておき、複数の立場がある、出来事には裏表の両面性がある、ということに気づけると、一方的に誰かを非難して傷つける、といったことはなくなるよなあ、と思う。

 

エッセイストになるには

明確にエッセイストになりたい、と意識しているわけではないのだけれど、日々過ごす中で感じた事を文字で残す、そのことを習慣にできたら、どれだけ暮らしが豊かになるだろう、と思う。

 

実際には毎週末更新のこのブログで記事を書いているから、言い張れないこともない。だけど、なんだか気恥ずかしくて、「私はエッセイストです」なんて言えない。エッセイと呼ぶには程遠い、雑念を書き散らしただけのようなものだ。

 

エッセイとは何か、エッセイを書くとはどういう心持ちか、をしっかり考えるきっかけになったのは、松浦弥太郎さんの「エッセイストのように生きる」を読んだからだ。エッセイとは「秘密の告白である」。エッセイとは、「体験の記録である」。エッセイを書く事で「自分を知る=未来に対して安心できる」。など、エッセイに関するエッセンスが詰まっていて、勉強になる。ああ、自分はこうなりたいからエッセイを書いているのか、と気づくと同時に、エッセイを書き続ければこんな人間になれる、ということも分かる。

 

エッセイを書くには、日ごろの習慣が大切。準備、と言ったら、書くために生きるという順番になってしまいそうだからちょっと違うかもしれないけれど、さあ書こうと意気込んで書けるものでもない。日ごろからアンテナを張っておいて、ピンと反応したら、言葉にできるよう頭に残しておく。その習慣が大切なのだと知った。つまり、エッセイストとは生き方そのもの、ということだろうか。

 

 

続く「うっかり」

教室にタブレットを置き忘れた、とか、教科書を家に置き忘れた、とか、とにかく子どもたちの些細な忘れ物が多くて。そんな話を家族から聞いて、自分も小学生の頃は忘れ物が多かったかなあ、と振り返る。まあしょうがないよね。みんなが通る道だ。うっかり忘れて、先生に怒られて、友達に笑われることで、忘れないようにという注意力が磨かれる。きっとそういうことなのだろう。その証拠に、大人になった今、自分はほとんど忘れ物なんてしない・・・。なんて思ったのだけれど、割と「うっかり」してしまうことはいまだにあって、げんなりする。なんだ、大人になっても変わらないじゃないか。

 

今日だって、出張先のカフェの店主に渡そうと思って、自宅近くの駅にある東急線沿線フリーペーパー「SALUS」を持っていこうとしていたのに、忘れた。今月はカフェ特集だったから、きっと喜ぶだろうと思ったのだ。しかし自宅を出て、駅に着いた頃にはすっかりと忘れていて、ラックに近づく事すらしなかった。気づいた時にはもう東京メトロの地下鉄に乗っていた。残念。こういう「うっかり」はいまでも数えきれないくらいある。「忘れないように」と念じることまではするのに。

 

小学生とさほど変わらない不注意な自分に、自分で喝をいれる。その「うっかり」を劇的に減らすことができたら、それだけで充分信頼されるような大人になれるだろうに、と。

 

 

読書の効用

忙しさにかまけて、一つ一つの仕事への取り組み方が薄く、雑になっていることを感じる。ただそれに対して、「体はひとつしかないから」「疲れているんだから仕方ない」と言ってうやむやにしていないか。

 

確かに、複数の仕事を同時並行で走らせられるような大人でありたいと願ったのは自分だ。仕事量が少なければその分濃密な仕事ができるのかというとそんなことはなく、たくさんの仕事をしていく中で一つ一つを丁寧にやることはできるはずだと思っている。仕事量と、仕事一つ一つの品質は、反比例しない。そして今、おおよそその通りの生き方をしていることを、誇りにも思っている。

 

しかし一方で、複数のことに手を出している自分が、どっちつかずの中途半端な仕事人のようにも思えてきて、めまいがするときがある。仕事のどれを切り取っても、プロと言えないというか、職人的と言えないというか。誰もがイチローや大谷になれるわけではない。では自分がイチローや大谷のようになれる場所はどこか。それは自分の仕事のフィールドに他ならない。せめて自分の仕事のフィールドでは、「こういうことなら主導権をもって物事を進めることができる」と言えるようでありたい。いま、それができていないと感じる自分に、嫌気が差す。

 

時間や体力には限度があるから、できないことはできないと諦める。ただし、できる範囲内においては、「ここまででいいや」をなるべく排除して、とことんのめり込む。その気概が大事だ。そしてその気概を後押ししてくれるのが、先人の言葉を体内にしみ込ませる読書体験だ。読書を通して他人の言葉を聞いて、「〇〇はこう考え、実行している。だから自分も〇〇と考えて、実行することができるはずだ」と自信を持ち、行動に移す。そうすることで、いままで超えられなかったハードルを超えることができる。いままで超えられなかったハードルを超えるための跳躍力を身につけるというのが、読書の一つの効用だと思っている。

 

冷たい雨とジョギング

日課のジョギングを、続けている。ここまで来たら、ちょっとやそっとの理由では「今日はいいや、やーめた」なんて言えない。サボる理由はいくらでもつくることができる。気分がのらない、とか、腰が痛い、とか、寒すぎる、とか、猛吹雪で、とか。そして一日でもサボったら、一日も二日も一緒だろう、と感じるようになってズルズルとだらけてしまう。それがとにかく怖いので、今日もサボらない、今日もサボらない、を繰り返している。この寒い時期を超えればひとまずは楽になる。

 

数日前から雪が降るかもしれないという予報で、少し警戒していた。そして今朝の時点で、夕方から雨ということだったので、夕方前には帰ってくるけれど早めに降り出すかもしれないからと思い、傘をもって出かけた。そうしたら、昼過ぎにはもう降ってきた。傘を持ち歩くのがそもそも好きでないのに、降ったりやんだりと中途半端な天気が続き、気分は晴れなかった。そうして帰宅後、重い腰を上げて、今日も走ったのだった。空気が冷たくて、一気に目が覚めた。

 

不快感に気づいてほしいという想い

一瞬でもカッとなったときなど、つい言葉が乱暴になってしまう。それはなんでなのだろうと考える。そういう言葉を使うべきではないと頭では分かっているのに。そういう言葉を使う人間になりたくないと平常時に心に刻んでいるはずなのに。

 

思うに、「私はいまイライラしてますよ。不快感を持っていますよ」という意志を、目の前の他者に表明したいからではないだろうか。不快であることを相手に知ってもらわないと、自分だけが気分を害していて損する気がする。不快であることを相手に気づいてもらわないと、同じことを今後も繰り返され、また不快感を感じるはめになる恐れがある。というように。

 

この考えこそが、周りの空気を悪くして、自分の気分をさらに害する元凶なのではないかと思った。自分がいま感じている不快感を相手に知られなくたって別に良い。仮に知られたところで、今後何かが大きく変わるわけではない。むしろ悟られないようにふるまった方が、相手に気づかいされなくて済む。そうやってやり過ごすことができたなら、きっと長期的に健全な心持ちで過ごすことができそうだ。

 

ことばのきせき

詩を書く動機は、書きたいことがあったというより、書いてみなくては自分のありかが分からないという実感だった。書くことが、書きたいことを言語化する行為であるより、書き得ないことを感じ直そうとする試みであることは、これまで他の随想などでも述べてきた。

(詩集 ことばのきせき/若松英輔 亜紀書房 あとがきより)

 

最新詩集が発売されたとSNSで知り、本屋で探してようやく手にした。はばたく鳥のイラストが美しい表紙を眺めているだけでも心が洗われるようだ。これほど「ことば」とは何かを真剣に考え、それとともに生きながら書き続けている人を私は他に知らない。彼の詩集を繰り返し、身体にしみ込ませるようにして読むことで、そして例えばこのブログで文章を書き続けることで、私も「ことば」を大事に扱う大人の一人になれたら嬉しい、とこのところ感じている。

 

「書き得ないことを感じ直そうとする試み」とはどのような試みを指すのだろう。さらに細部に注目して、自分の中に宿る「書き得ないこと」とはどのようなものだろう。それが分からないから、書くという行為に終わりがないと言えるのかもしれない。

 

 

 

武州パイと八宿どら焼き

仕事で熊谷に行く時、ここ最近は必ず駅ナカにある梅林堂でどら焼きと武州パイを買う。店番をやりながら、おやつに食べるのだ。

 

武州パイは、実家暮らしだったころに食べて大好きになり、以来、埼玉で和菓子類を買うならこれ、と決めている。他にない、安心の味という言葉がぴったりだと思っている。

 

八宿どら焼きも、いたって普通のどら焼きなのだけれど、安心して食べられる和菓子だ。どら焼きはどこのものも好きだけれど、熊谷に来たら梅林堂でどら焼き、というのも自分にとっての新たな定番になりつつある。

 

今日も、おやつを食べてほっこりしながら仕事を終えた。帰りの電車の出発まで30分近く時間があったので、駅前のベックスコーヒーで休憩。明日から平日昼間の仕事が始まる、ということで気が緩み、気づいたらコーヒーと米粉ロールケーキのセットを注文していた。ここの米粉ロールケーキも大好きだ。

 

油断していると、甘いものばかり食べる一日になってしまう。たまにする息抜きだからこそ美味しいということを、もっと自覚しなければ。

 

www.bairindo.co.jp

 

foods.jr-cross.co.jp

 

居心地よい住まい

コーディネートで携わっているコーポラティブハウスに、打合せで行ってきた。住まいを拝見し、愛着をもって暮らしてくれていることを強く感じた。

 

「朝起きた時に、この窓から射し込んでくる光を浴びるように廊下を歩くのが気持ち良いんです」「窓越しの緑を眺めることができるので、ここが特等席なんです」住まい手の話を聞いて私の心まであたたかくなった。きっと、長年住んでいるからこそ気づけること、味わえることがたくさんあるのだ。他人が聞いたら、ほんのささいなことのように感じられるかもしれない。また間取り図を見ただけでは、その魅力に気づかないかもしれない。けれど、実際に愛着を持って暮らしていれば(時間をかけて暮らすことがポイントだと思う)、そうしたささいな点に喜びを見出すことができるのではないか。

 

4月で、今の住宅に越してきて4年になる。あっという間という言葉がぴったりだ。自分で好きなように仕上げ材を選び、持ち込む家財に合わせて間取りを決めた。そうやってつくる過程から関わった住まいには当然「好き」が詰まっていて、毎日快適だ。むしろ次の住まいを考えた時にちょっとやそっとでは選べない。言い方はあまり良くないけれど、住宅情報サイトで見られる物件の大半にはまるで興味が湧かず、普通に住める気がまるでしない。そう感じるようになったという点は、自由設計の住まいに暮らす人にとってデメリットと言える。

 

その約4年が長いのか短いのかは意見が分かれるところだろうけれど、これまで住んできて、自分なりの快適ポイントがいくつかある。それは書斎で座って見上げた時の吹き抜け越しの光であったり、青空であったり、壁に飾ったお気に入りの絵だったりする。階段に座って壁面本棚を眺めるのも好きだ。こうした快適ポイントは、たぶん他人に「これが良くてさ」と説明しても充分には伝わらない気がする。住まい手だけが味わえる楽しみのように感じられる。

 

その「住まい手だけが味わえる快感」を、他者に正確に伝えられるような言葉を身につけたいと思っている。そうすれば、その言葉を人から人へと伝えて、住まいの中の居心地の良い場所を上手に探しあてられる人を増やすことができるのではないか。

 

貴重なひとり時間がもたらす愉悦

贅沢と言っていいくらい、自宅で、実家で、のんびりと過ごしている。去年も一昨年も同じだったのだろうか。普段の慌ただしさに隠れてしまってよく思い出せない。例年より少しだけ休みの多いスケジュールなのかもしれないけれど、それにしても、ゆとりの多さが際立つ。心にもゆとりができた証拠なのかもしれない、と楽観的に考えることにする。

 

コーヒーを飲みながらこうしてブログを書く一人の時間を、貴重に思えるようになったのは割と最近のことだと思う。定期的にブログを書く事を習慣にして、15年目になる。15年前は、こんなに長く続けられるなんて正直想像していなかった。ただ、終わりを設けず、息を吸って吐くように自然と続けられる習慣ができたらいいなぁという想いで始めた。そして、その日に考えて書き記したことを、例えば10年後に読み返した時に、「10年前はこんなことを考えていたのか」という発見があれば、その発見が未来の新しいアイデアを太く、大きなものにしてくれるかもしれない。そうした期待があった。ただし、書かなければと意識するあまり、書くことはありきたりだったり、無理やり思い出してひねり出したものだったり、なんとなく頭に浮かんだことを書き散らした雑なものだったり、した。書いている時間そのものがもたらす快感を、あまり味わっていなかった、と今になって後悔する。その快感は今、あたたかいコーヒーの美味しさと組み合わさって身体にやってくる。この時間がたまらなく愛おしい。

 

毎日ブログを書く事を自分に課していたら、きっと15年も続かなかっただろう。書く事もなくなり、早々に断念していたに違いない。だから1週間に2日くらいの頻度はちょうど良いと感じている。今年もこのペースを守りながら、この貴重なひとり時間がもたらす愉悦を最大限に引き出して、味わいたい。

 

2024

元日。終日ゆっくりしていた。結局夕べは紅白歌合戦を観て、年越しまで起きていた。おもしろ荘を観て、THE YELLOW MONKEYの新曲をYouTubeで聴いて、寝た。起きたら昼前だった。雑煮を食べて、夜は相棒の元日スペシャルを観た。テレビ番組をこんなにたっぷり観たのは久しぶりだ。

 

今年の目標をどうしようかと静かに考えるより先に、石川での大地震のニュースを受けて今、心臓をわしづかみにされているかのような圧力を感じている。こういうとき自然災害は時間を選ばない。じゃぁいつだったら良いのだ、と言われても困るのだけれど。突然やってくる自然の出来事に翻弄されるのは、誰のせいでもないだけに、本当につらい。

 

こういうとき、何か大いなるものが自分に試練を与えているんじゃないかという気になってしまう。ただその度に、そうじゃないだろう、とも思う。自然災害に「人間を試してやろう」という意志なんてない。ウイルスも一緒だ。そこに何か意味を持たせたくなるのが、人間の良くない点かもしれない。ただ起きた出来事に対して、自分ができることで応じていけば良い。

 

夢を夢のままにするのではなくて

こうしてブログを書き続けることのメリットの一つに、昔自分がどのように過ごし、何を考えていたかを振り返ることができる点にある。書き記していなければ完全に忘れていた出来事も、すっと思い出すことができる。日記帳に手書きで書くのも趣があってよいけれど、日記帳が物理的に溜まっていくのに比べてブログは容量を食わなくて良い。過去、大晦日をどこでどのように過ごしていたっけ?と記事をさかのぼって読んでみる。だいたい実家でぐうたらしていたようだ。何年経っても、年末年始の過ごし方は変わらないらしい。

 

社会人になって以降、初めて実家以外の場所で年を越したのが3年前の2020年。逆に言うとそれまでは毎年、なんだかんだ理由をつけて帰省して、親のすねをかじりながら年末年始を過ごしていたということだ。一応、たまには親に顔を見せる親孝行の息子、ということにしておこう。

 

今年も自宅でゆっくりと。ただ目の前を見れば、大きな仕事が控えている。考えなければならないハードルがたくさんあって、内心では焦っている。クライアントの喜びを想像していたら、本当はのんびりしている場合じゃないと分かる。本屋の自営業だって、お世辞にもうまくいったとは言えない状況だ。もちろんたくさんの出会いに恵まれたし、継続して本を手に取ってくれるクライアントとも関係は続いている。しかし、もっと貪欲に、もっと前進することができるはずなのに、それができなかった。来年はもっと自営業を「ひとつの経営として」成長させたい。

 

やりたいことはたくさんある。じゃあやればいいじゃないか、と言われたら、「そりゃぁ、やりますよ」と言う。夢を夢のままにするのではなくて、さっさと実行させる。「将来の夢なんて今、叶えろ」という言葉があったけれど、まさにその言葉を自分に、浴びせている。ただの行事のように大晦日や元旦に1年の目標を立てて、数日経ったら忘れてしまった、なんてくだらないことはもうしない。

 

反抗心

しばらく前に仕事上のことで注意されたのが、ずっと心に残っている。一言一句を覚えているわけではないけれど、その時の胸に刺さるような刺激が、今でも体を蝕むことがある。忘れたい出来事であっても、忘れずにこうして向き合うことで成長し、次のステージに立つことができるのだと思って、いまはその出来事を大切にしている。

 

「反抗しているつもりなのか。だとしたら、くだらない反抗だな」そんなような言葉だったと思う。指示されたことへのほんのちょっとの反抗心から、何か対抗することを言ったのだろう。何を言ったかはもう覚えていない。ただその反抗心を見透かされたようで、ぶつけられた言葉は長く自分を傷つけた。そして、言われたことに傷つくということは、その言葉が自分にとって言われたくないことであり、それはつまり自分の欠点の正確な指摘に他ならないのだと気づいた。言われてからだいぶ経ってからだ。

 

日課のジョギング。いつもよりちょっと長めに走ろうと、駒沢公園まで行って頑張った。走っている時に頭にぼんやり浮かぶのは、こうした「うまくいかなかったこと」「自分の行動のどこがまずかったのか」「今後どう改善すればよいか」といったことだ。決して楽しい想像ではない。ただ、走っている時はこういう、ネガティブなことからポジティブな思考に徐々に発展するような「ほんのちょっと落ち込む反省」をしたくなる。それはきっと、走るという自分にとっての「清々しい行為」をセットにして反省することで、より善人になれそうな気がするからだろう。

 

反抗して、仮にその反抗がうまくいって、相手がひれ伏した状態を想像する。自分はそれで満足か?反抗して良かった、と満ち足りた気持ちになるか?そう考えて、そうでもないという結論になるのであれば、今この瞬間のほんのちょっとの反抗心なんて消してしまって、言われたことをやれば良い。イエスマンになれという意味ではない。空気の流れに逆らわず、乗るイメージだ。自分のプライドなんてたいしたものではない。素直に行動する。あくまでも心は、穏やかに。