反抗心

しばらく前に仕事上のことで注意されたのが、ずっと心に残っている。一言一句を覚えているわけではないけれど、その時の胸に刺さるような刺激が、今でも体を蝕むことがある。忘れたい出来事であっても、忘れずにこうして向き合うことで成長し、次のステージに立つことができるのだと思って、いまはその出来事を大切にしている。

 

「反抗しているつもりなのか。だとしたら、くだらない反抗だな」そんなような言葉だったと思う。指示されたことへのほんのちょっとの反抗心から、何か対抗することを言ったのだろう。何を言ったかはもう覚えていない。ただその反抗心を見透かされたようで、ぶつけられた言葉は長く自分を傷つけた。そして、言われたことに傷つくということは、その言葉が自分にとって言われたくないことであり、それはつまり自分の欠点の正確な指摘に他ならないのだと気づいた。言われてからだいぶ経ってからだ。

 

日課のジョギング。いつもよりちょっと長めに走ろうと、駒沢公園まで行って頑張った。走っている時に頭にぼんやり浮かぶのは、こうした「うまくいかなかったこと」「自分の行動のどこがまずかったのか」「今後どう改善すればよいか」といったことだ。決して楽しい想像ではない。ただ、走っている時はこういう、ネガティブなことからポジティブな思考に徐々に発展するような「ほんのちょっと落ち込む反省」をしたくなる。それはきっと、走るという自分にとっての「清々しい行為」をセットにして反省することで、より善人になれそうな気がするからだろう。

 

反抗して、仮にその反抗がうまくいって、相手がひれ伏した状態を想像する。自分はそれで満足か?反抗して良かった、と満ち足りた気持ちになるか?そう考えて、そうでもないという結論になるのであれば、今この瞬間のほんのちょっとの反抗心なんて消してしまって、言われたことをやれば良い。イエスマンになれという意味ではない。空気の流れに逆らわず、乗るイメージだ。自分のプライドなんてたいしたものではない。素直に行動する。あくまでも心は、穏やかに。