アーキテクチャ展

社会人になるまでは全く興味を持てなかったのに、いまは行こうと思えるものに、美術や建築などの展示、イベントがある。ある時、まとまった給料を使って都内の美術館を片っ端から巡ったことがある。あの時は、これが観たい!というものがあったのではなく、ただ行って観たという既成事実をつくりたかっただけかもしれない。けれど、観たものが自分をじんわりと形成している実感が持てているから、無駄ではないと思っている。

 

森美術館の「建築の日本展」は、最終週は絶対に混んでゆっくり観られないだろうからと、前の週に頑張って行った。それでもものすごい人がいて、建築に対する社会の関心が自分の想像を遥かに超えていることを知った。こういうとき展示の一つ一つを観ると、自分にはその建築をつくりだす役割さえ与えられないのだと言われているようで、悔しくなる。では、自分の役割はなんだろう、自分はどういう建築を供給する力をもっているのだろう(力をつけるべきなのだろう)、と考える。そうして、もっと小さな建築を、という言葉だけが頭に浮かぶ自分は、ダメなのだろうか。建築の内部と外部とを統合することが、建築家が負うべき責任である、なんて考えるより、門扉に不具合が起きたからその原因を探らなければ、とか、建具が壊れてしまったから工務店に修理を依頼してあげなければ、とか、目先のことで精いっぱいの自分は、ポリシーがないのだろうか・・・。

 

いま興味があり、会期中に行きたいと思っているのが、AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展。コーネリアスの小山田圭吾さんの新曲にあわせて、9組のアーティストが映像作品をつくるというもの。音楽と映像とが同時に記憶に染み込む刺激を、体感したい。

 

サントリー美術館、根津美術館、東京都美術館、国立西洋美術館、国立新美術館、千葉だと、ホキ美術館・・・。「あれ観た?」と聞かれて「観てない。興味ない」なんて答えるのは嫌だから、こうした展示は、なるべく観て、吸収したいと思っている。とは言え、「どうだった?どう思った?」と聞かれてもきちんと感想を述べられないくらい、そこで得たものを言語化することがとにかく不得手で、億劫なものだから、行ったことを言いふらしたくもない。こういうものは、行ってて当然だから。観て、ほんのちょっと何かを感じて、それが「すごいなぁ~」なんて陳腐な言葉だけで終わっちゃうこともあって当然だから。肩ひじ張らず、いろいろ行ってみたらいい。