夜、走る

ジョギングを続けている。11月5日から、毎日。まだ1ヶ月も経っていないのでまだまだこれからだけれど、今回はずっと続けていけそうな自信がある。なんでかは、よく分からない。

 

朝、仕事へ向かう前に走ることがほとんどだったけれど、昨日今日は、起きるのがつらかったため、走ることができなかった。そのため、夜、帰宅してから走った。そうしたら、朝よりも身体がよく動く分、苦しくなく走ることができた。ちょっとペースをあげることもできた。なんだ、朝よりも夜の方が走りやすいかもしれないな。

 

これをするならこの時間帯が好ましい。その自分ルールも、自分が勝手に決めつけたことでしかない。何かの拍子に違うことをしてみた時に、新しい気づきに出会えるのだ。

 

道草せず

土曜日。昼過ぎまでは、完全にオフだった。少しジョギングをして、植栽の水やりをした程度で、どこへも行かず、のんびり過ごす予定だった。ふと仕事の用事を思い出し、下北沢へ行ってしまった方が良いと気づいたのは、昼ご飯を食べてゆっくりしている時だった。ひとたび行かなければ、と思うと、今度は家にいる方がムズムズして大変だ。

 

人ごみをかき分けて渋谷駅を通過し、下北沢へ。用事を済ませ、そそくさと帰る。対向者がいるので、ゆっくり歩く前の人を追い抜くことがなかなかできない。人にぶつからないように気をつけながら、ゆっくり歩きながら賑やかな街を歩いた。

 

なんだかどこにも寄る気にならず、何の道草もせず、真っすぐ帰宅した。下北沢の本屋に行って帰ってきたのに、電車賃以外に一銭も使わなかった。少し前の自分だったら、口寂しさからコンビニでお菓子を買ったりしただろうに。最近は特にケチ精神をまとっている。でもそれでもいいや。無駄なものを買うよりはいい。

 

少しでもよい人間になりたい

私も本を置いている下北沢の本屋「BOOKSHOP TRAVELLER」で、面白そうな選書フェアが始まった。宮崎智之さんの選書による「過去と現在をつなぐ日本の随筆フェア」というものだ。エッセイという言葉に置き換えることが多いけれど、そのテーマに注目して本を読むことはいままでにありそうでなかった。エッセイを好んで読むのは、数年前からの習慣になっている。改めて「日本の随筆」と言われたら、どんな本があるのだろうと興味が湧く。近く訪問するのが楽しみだ。

 

早速、著者の本心が垣間見えるエッセイをじっくり読もうと、風呂場に持ち込んだのは辻山良雄「小さな声、光る棚」。荻窪の新刊書店「Title」店主によるエッセイ集で、幻冬舎のウェブサイトの連載をまとめたものだ。独立して本屋を営むものの一人として学ぶべきものがあると感じるのはもちろん、誠実な人柄がにじみ出た言葉に純粋に心が動かされる。声に出して読むのも良い。著者の想いを、自分の体内にしみこませるような感覚だ。これがエッセイの醍醐味だと思う。

 

わたしは人が本を手にとるときの、その純なこころの動きが好きだ。そう意識しなくてもその人は、少しでもよい人間になりたいと願い、目のまえの本に触れているように見える。わたし自身、たとえ同じ日のくり返しに見えたとしても、明日はもう少しいい店にしたい。派手に勝たなくとも、変わることなく長く続けたい・・・。(虹の彼方に)

 

自分が本屋で本を手に取る時の心境を言葉にすると、きっとそういうことなのだろうと今気づいた。「少しでもよい人間になりたい」。その願いが、手を本へと導く。さて、明日はどの本を読み、どんな気分を味わおう。どの本を選べば、明日、少しでもよい人間になれるだろうか。

 

 

気持ちの余裕

いつもの美容院。鏡の脇にモニターがあって、いつもABEMATVが流れている。貫禄あるアナウンサーのようにしゃべる柴田阿弥さんは、もはや元アイドルと言っても誰も分からないのかもしれない。

 

「日常のなかでつい『チッ』と思ってしまうことは?」という質問に、歩いていて目の前で青信号が点滅したときとか、駅のホームに着いた途端に電車のドアが閉まったときとか、そういった意見が挙がっていた。ほんのささいなことだし、ついイラっとするというのは分からなくはないけれど、最近私はこれらの出来事については『チッ』て思わなくなった。これは自然にそうなった、というよりは、そうした方が生活していて楽だよ、と自分に言い聞かせてそう思うようにした、と言った方が近い。意識的に気持ちに余裕を持たせたと言ってもいい。

 

朝、駅から事務所へ向かう途中。大通りをひたすら真っすぐ歩くので、比較的赤信号期間の長い交差点を渡ることも多い。そうすると信号にひっかからないことのほうがむしろまれで、必ずどこかで止まることになる。そして、これは歩くペースが関係しているのだろうけれど、ほぼ毎日、差し掛かる直前で信号の青が点滅する交差点があるのだ。

 

これにいちいち『チッ』て思っていたら、気持ち悪くて仕方ない。最近は、毎日必ず目の前で点滅する信号に逆に清々しさを感じ、「毎日ほぼ同じペースで歩いている自分ってすごいんじゃないか」なんて思ったりしている。ひとつの交差点で待って、青信号になって渡り始めれば、次の交差点は必ず青で止まることなく歩けるとか、そういった規則性のようなものも分かってくる。それがほぼ毎日同じなのが不思議であり、面白い。

 

駅で電車に乗る時も、イライラしなくなった。目の前でドアが閉まって行ってしまっても、せいぜい5分程度待てば次の電車が来る。朝はもともと早めに家を出ているし(そもそも乗る時間を決めて逆算して家を出ているし)、帰りだって、数分帰宅が遅れたところでたかがしれている。あわてない、あわてない。

 

それより私が他人よりついイライラしてしまう、自分ってホント器が小さいなぁ、と思うのは、例えばコンビニのレジとかATMとかで、自分の目の前で他のお客さんが何人か並んだことで待たなければならないとき。あと5秒自分の歩くスピードが速ければスムーズだったのに、と思う。なんだ、結局余裕ないんじないか、自分。

 

走ることを続けようと決めた言葉たち

昨日から始めた「毎日ジョギング」。今朝は寒くて起きるのに若干苦労したけれど、でもきちんとやろうと思っている。そうか、これからの時期は「朝寒くて家から出るのがつらい」という難敵がいるんだった。ちょっとハードルが高いタイミングだっただろうか。でも決めたからには仕方ない。やるしかない。だいたい、始めて続けようと思ったら、どんなに暑い夏だろうと、寒い冬だろうと、大雨だろうと、雪が降っていようと、真っ暗だろうと、走らなければならない。今日、今寒いことそれ自体から逃げてはいけない。

 

走ることを続ける。あくまでも自分は趣味レベルだと思っているのだけれど、今回続けようという気持ちになったのは、いろいろな人の言葉が長い時間をかけて頭の中に積み重なった結果だ。松浦弥太郎は毎朝必ず走ることを習慣にしていると言っていた。村上春樹は、小説を書くことと走ることは同じことで、それを続けることで自身の内面にある「鉱脈を掘る」作業をしているのだという。LUNA SEAのRYUICHIも、心肺を鍛えることで歌がもっと良くなればと、2時間半くらい走っているそうだ。「今日できなかったことが明日できると嬉しくなっちゃうタイプなので」自分とはかなり次元が違うレベルだけれど、この言葉には共感する。そしてユースケ・サンタマリアがトーク番組で「ルーティンがいっぱいあったほうがボケないんだって。ルーティンだらけよ、おれ」と真面目に語っていた。特にあれこれ考えずに毎日これを続けています。自分にとってのそのルーティンが、ジョギングだったら有意義だろうなぁという想いから、私はそれを習慣化しようと決めた。これらの言葉を聞いてから実際にやろうと決断するまでに、何年も時間がかかってしまった。

 

2022年11月5日から

束の間の休日。明日からまた仕事があり、来週からは土日も自営業でのやるべきことが続くので、今日はどこへも行かずのんびり過ごそうと決めていた。荷物の集荷対応をして、ちょっとジョギング。自宅まわりの草むしり。あとは、本の仕入れ、選書をするくらいで、のんびりと過ごしていた。明日必要だったネクタイを、昨晩のうちに買っておいて良かった。今日が休みだから今日買えばいいや、と昨日考えていたら、失敗していた。休もうと思った休日は、買い物に行く気持ちにもなれない。

 

久しぶりのジョギングをしながら、毎日続けることの大事さを痛感した。毎日何かを続ける。それを10年15年と継続させたら、きっと大きな力がつくだろう。自分は他人よりちょっとだけ、そういった地道な努力が好きで、得意な方だと思っている。だから、多少ストイックすぎると言われようが、続けることが大事だ。何より、「〇〇を毎日続けてます」と言えるルーティンがあるというのは気持ち良く、日々成長しているという実感を生身で感じることができる。だから、何の節目でもないけれど、今日から毎日ジョギングを続けようと決めた。勉強もそう。毎日少しずつ。2022年11月5日から。

 

無印良品とタバコ屋と水

妙典のイオンに新しく無印良品がオープンした。今日、初めて店内に入った。2階のフロアー、本屋の前から奥までの広いスペースがフローリング貼りで、印象の異なる空間になっていた。

 

その店内を歩いていて、ふと目に留まったのが、給水機。用意した水筒などに自由に水を入れることができるらしい。使うことがあるのだろうか、とその時は疑問だったけれど、帰宅後、家族から「無印良品には給水機があってすごいんだよ」と振られてびっくりした。災害などの有事だけでなく、のどがかわいて近くに自販機が見つからない時とか、わざわざジュースを買うほどでもない時とか、役に立つことはたくさんあるだろう、と言う。そして、「ほら、地元での『水ください』。それと一緒だよ」と言われてはじめて気づいた。だいぶ昔の話だ。そう言えば、家族に話したことがあった。

 

小学生の時。下校途中で喉が渇くと、通学路にある何軒かの家に行き「すみませーん。水くださーい」と叫ぶ。そうすると家の人が「どうぞー」と言ってくれる。庭の水道の水を飲ませてくれたり、コップに水を入れてくれたりするのだけれど、いま思い出してもびっくりするのは、自宅からほど近くのタバコ屋さん。そこで声を掛けると、店番のおばあちゃんが、やかんと、人数分の湯飲みをのせたお盆を持って現れる。丁寧に湯飲みにやかんの水を注ぎ、飲ませてくれる。もう家まであとちょっとなのに押しかけてくる迷惑な小学生に嫌な顔一つもせず、水を飲ませてくれたあのおばあちゃんは、もしかしたら人間ではなく神様だったのかもしれない。田舎の小学生ならではの、心温まるストーリーだ(実話です)(もちろん他の家の水を飲ませてくれたお母さん方も。あの時はありがとうございました)。

 

約30年の時を経て、無印良品が客に提供するサービス精神は、このタバコ屋のおばあちゃんと同じなのかもしれない。人間味と言う点ではちょっと違うかもしれないけれど、根本は一緒でしょう、と家族に言われて、そうだよな、と感心した。無印良品、恐るべし。

 

独学大全

ブックオフで買取を待っている間。本をざっと眺めていたら、急に独学をしなければ、という焦燥感に襲われた。

 

読書猿「独学大全」が数冊陳列されている。流行の言葉で言うと「鈍器本」だ。分厚くて、内容も濃い。本を買うことに慣れていない人にはそうとう買うのに抵抗がある値段ではある。「この分厚さ、価格で20万部突破!」というポップが目をひく。分厚い「のに」。高い「のに」。売れてます。まるで、厚い本は普通買わないだろう、高めの本は普通買わないだろう、と出版側が言い切っているようで、なんだか読み手を見下してるなぁ、なんてナナメから見てしまった。自分のためになる本だと思ったら厚くたって、多少高くたって、買うよ。それに、本の厚さが内容の濃さ、深さに正比例するとは限らないでしょうに。なんてひねくれて考える。

 

帯に書かれていた山口周氏の言葉「独学の量で人生は決まる」を読んで、ハッとした。そうだ。独学が大事であり、自分に必要であることは認識しており、現にし始めてもいるけれど、本気度が足りないと思った。本気でやらなければ自分の生き方を真にコントロールできない。他人と比較して優れていることが全てではないけれど、本気でやらなかったら突出した何かを得ることはできない。そう思ったら、たらたらして「勉強した気になっている」状態の今が恥ずかしくなった。日々勉強。何年も前から言っている。

 

亀山薫

「相棒」に亀山薫が帰ってきた!大学生くらいの頃からリアルタイムで観ていて、「右京さんの相棒と言ったら薫ちゃんしか考えられないでしょう」と思っていた自分にとっては、まさに寝耳に水なニュースだった。

 

Season2とか3くらいからだろうか。薫ちゃんのカッコよさを知って以来、寺脇康文さんのファンになった。ショートカットの男らしいヘアスタイルに憧れて、美容院で髪をきってもらう時に「寺脇康文さんみたいにしてください」なんて言った時もあった。Season7で薫ちゃんが旅立ち、別の相棒になると知ったときはショックで、「もう相棒は観ないんだろうな」とすら思った。

 

気づいたら、14年が経っていた。右京さんの相棒も3シーズン周期で変わっていくのが当たり前になり、薫ちゃんじゃなきゃダメだ、とも思わなくなった。実際、神戸尊も、甲斐亨も、冠城亘も、カッコよかった。だからこそ、5代目相棒は誰だ、なんて騒がれ始めた時、亀山薫が帰ってくるなんてこれっぽっちも思いつかなかった。その状況でのカムバック。嬉しかった。「なんとしても観たい」というテレビ番組がなくなってだいぶ経つけれど、薫ちゃんが帰ってくるなら、相棒は観たい!と思えた。

 

高校時代から大好きだったロックバンドにしても、お笑いグループにしても、解散と言う名の休養期間を経て再結成し、いまなおカッコよさを放ち続けている。私はそういうスターに恵まれている。私にとって、亀山薫も、そのスターの一人だ。

 

ジョギングの目的

 

またちょっと久しぶりになってしまったけれど、午前中に少しジョギング。

 

ジョギングの目的をきちんと頭に入れて、その目的を達成するために走っているのだということを強く意識する。そうしないと実行できないのだと思った。別に嫌々やっているわけではない。誰から言われたわけでもなく、自分がただ走りたいから走っているだけなのだ。楽しくて走っている。走った後の快感を知っているから走っている。その楽しさ、走った後の快感を、強くイメージすることが大事だ。

 

私がジョギングをする理由は、無理やり3つにまとめると、こうだ。

①気分転換。リフレッシュ。

②体調管理。特に、体型維持。

③何事も続けることが大事だ、つらくてももうひと踏ん張りすることが大事だ、ということを身体にしみ込ませる

 

①の理由が実は一番大きい。これがなければ走れない。②も大事。腹が出て、体重が増えて、姿勢が悪くなったりすると、それが仕事でのパフォーマンスに悪い影響を及ぼす。そもそも体調が悪いときちんと仕事ができない。生活も楽しめない。だから体調よく過ごすために、走る。

 

③は、ジョギングに限らず仕事でも大切な態度だろう。すぐに諦めず、地道に続ける気長さがないと、良いアイデアも実らない。自分が他人より少しだけ「三日坊主にならず何かを続けることができる」能力があるのだとしたら、それはジョギングの成果かもしれない。

 

というわけで、短い時間、短い距離だけれど、走った。気持ちよかった。こうして休日の午前中を満喫したのだけれど、午後はずっと家でゴロゴロしていて、気づいたら夜になっていた。午前中と午後とで、過ごし方のバランスが偏っている。

 

 

地元で食事

 

久しぶりに地元の友達と会って、食事をした。小学、中学の同級生3人と。

 

久しぶりに会った友達はまた一段と大人になっていて、こういうときはいつも「自分も頑張らなければまずい」と焦ることになる。子供を育てながら仕事をがむしゃらに続ける彼女。営業職だから商品をガンガン薦める立場なのに、「本当に必要だと思った人が買ってくれたらいい」とどこか達観している。一方、小中学生の頃とほとんど変わらない遊び心の持ち主である彼は、その彼女の大人っぽさに驚きつつも、趣味をとことん楽しむ「本気さ」を持っている。毎朝の自転車通学を共にした友は高校卒業後に地元で就職し、今もそこで頑張っている。一つの組織に長くいることができなかったことがコンプレックスの一つである自分にとって、彼のような働き方にはあこがれる。

 

コロナ禍になってから、仲間とこうして食事をすることがほとんどなかった。ほぼ2年半ぶりと言ってよい。最近はこういう機会に対して腰が引けて、外へ出るのが億劫になってきているのだけれど、こういう時間もたまには必要だと改めて思った。

 

書く理由

若松英輔「詩集 幸福論」を、湯船につかりながら読んでいる。冒頭の5編ほどをゆっくり読んだだけで、この本を買って手元に置いている価値があると思っている。特に「多忙な人」は強く心をつかむ。どうにかして他人から忙しそうに見られるようにしたい、と考えていた自分が恥ずかしい。

 

世の中が

仕事と呼ぶものに

心を

奪われては いけない

(多忙な人)

 

また、「書く理由」も好きな詩だ。自分がこうしてブログを書き、それを続けることの原動力になると感じられる一方、もっと丁寧に書け、いままでと同じように書いていたのではダメだ、と叱られている気分にもなる。

 

宿りに求められるのは

待つことだ

書くときにも

けっして劣らない

真摯な態度で

待つことだ

 

これが

自分の刻む

最後の文章だと思って

書くことだ

(書く理由)

 

上手な文章を書かなければならない、面白い文章を書かなければならない、と自らのハードルを高めることが、書き続ける気持ちの邪魔をする。そう思って、つらつらと、あまり気張らずに書き続けてきた。それは若松英輔の言葉を読んで学んだことの一つでもある。書くことが頭に浮かばなかったら書けないのではない。まず、書くのだ。そう思ってきた。

 

しかし一方で、「思ったことを書くのではなく、宿ったことを書く」べきだとも言う。言葉が宿るためには、言葉が宿るのを待たなければならない。そして、自分のこの言葉を、人生の最後に読む人がいるかもしれないと思って書く。そうしたら、どんな言葉を使ったらよいか。使うのを避けるべき言葉があるんじゃないか。そうやって丁寧に言葉を選び、書くには、相応のエネルギーが要る。しかしそれが、真に「書くこと」なのかもしれない。

 

気張りすぎたら書き続けられない。しかし書くためには多少の緊張は必要。自分の身体でそのバランスを取りながら、書く。一番大切なのは「習慣化をやめない」ことだと思っている。

 

 

幸福論

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食器は乾かしてからしまう

本を読んで新しいことを知り、「これ試してみよう」と思うことがたくさんある。例えば今日、だいぶ昔に買った「すっきり、ていねいに暮らすこと」を久しぶりに読んだ。暮らしを快適にするコツが女性目線で書かれていて、男にとっても参考になることが多い。その中で特に、これは真似しなければと思ったのが、「食器を洗ったら拭いてすぐしまうのではなくしっかりと乾かしておき、翌朝しまう」ということ。洗った食器は拭いただけでは水分を取り除き切れていない。特に湿気が多かったり、出し入れの頻度が少なかったりするとカビが付く原因にもなる。だから一晩おいておき、カラッとさせてからしまう。そうすると朝、乾いた食器をしまうときに気分が良い。しまう作業をしながらお湯を沸かすとか、窓を開けて換気するとか、気持ちよく一日をスタートさせるためのルーティンも確立できるかもしれない。そういうことを、一つずつ、真似していくことが大事なのかなと思った。

 

 

流鉄

 

馬橋駅でJRの改札を出て、流鉄流山線に乗り換える。スイカが使えないので、券売機で切符を買った。電車移動時にアナログ感を思い出させてくれるのは、いまはもう流鉄くらいしかない。

 

本を詰めたキャリーケースを持ち上げながら、階段を降りる。ほんの少し異空間に足を踏み込んだような気持ちだ。買った切符を窓口にかざしながらホームに入る。先に電車を待っていた人は数人。本当に、のどかだ。

 

黄色の車両と赤の車両の2両編成。今日はオムライス号だ。小金城趾駅でやってきた対向車両の正面と背面にはオムライスのイラストが描かれたエンブレムが。オムライスのような温かさを鉄道会社に感じる瞬間。電車は結構揺れるけれど、その温かさ、ホスピタリティは揺るぎない。

 

仕事で、流山駅前で本を売る縁に恵まれた。この縁がなかったら、きっと流鉄流山線に乗る機会がないままだったかもしれない。そう思うとなんだかありがたくて、10分以上の電車の感覚にも、イライラしないで済む。普段の過密ダイヤに慣れている自分の方が異常なのだ。

 

 

日記を書くこと

そうか、このブログを始めたときも、頭に描いていたことは「日記を書くこと」だった。その日にあったことをきちんと言葉に残しておく。そうでなければ忘れ去ってしまうようなことも、文字にすれば消えない。10年後に見返して「このときはこんなことを考えていたのか」「こんな出来事があったのか」と思い出すことができる。自分の考えを整理してまとめる、そのスキルを磨くためだけでなく、将来見返して思い出せるために、日記を書き始めた。私にとってそれがブログだった。13年前の、初心のようなものをふと思い出した。

 

昔、実家で母が毎晩手帳に日記を書いているのを見て、何の意味があるのかなぁなんて疑問に思っていたけれど、今はその価値が分かる。記憶なんてものはあてにならない。過去を振り返り、今との差を測ることで、将来もっと進むためのペースをつかむことができる。今までのペースが遅めだと思ったら、少し速めに走ってみようとか、この点に関してはちょっと休んでもいいんじゃないか、とか。

 

日記を書くこと。原点に返り、その行為をもっと無意識に習慣化し、続けられるように、意識したい。

 

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