若松英輔「詩集 幸福論」を、湯船につかりながら読んでいる。冒頭の5編ほどをゆっくり読んだだけで、この本を買って手元に置いている価値があると思っている。特に「多忙な人」は強く心をつかむ。どうにかして他人から忙しそうに見られるようにしたい、と考えていた自分が恥ずかしい。
世の中が
仕事と呼ぶものに
心を
奪われては いけない
(多忙な人)
また、「書く理由」も好きな詩だ。自分がこうしてブログを書き、それを続けることの原動力になると感じられる一方、もっと丁寧に書け、いままでと同じように書いていたのではダメだ、と叱られている気分にもなる。
宿りに求められるのは
待つことだ
書くときにも
けっして劣らない
真摯な態度で
待つことだ
これが
自分の刻む
最後の文章だと思って
書くことだ
(書く理由)
上手な文章を書かなければならない、面白い文章を書かなければならない、と自らのハードルを高めることが、書き続ける気持ちの邪魔をする。そう思って、つらつらと、あまり気張らずに書き続けてきた。それは若松英輔の言葉を読んで学んだことの一つでもある。書くことが頭に浮かばなかったら書けないのではない。まず、書くのだ。そう思ってきた。
しかし一方で、「思ったことを書くのではなく、宿ったことを書く」べきだとも言う。言葉が宿るためには、言葉が宿るのを待たなければならない。そして、自分のこの言葉を、人生の最後に読む人がいるかもしれないと思って書く。そうしたら、どんな言葉を使ったらよいか。使うのを避けるべき言葉があるんじゃないか。そうやって丁寧に言葉を選び、書くには、相応のエネルギーが要る。しかしそれが、真に「書くこと」なのかもしれない。
気張りすぎたら書き続けられない。しかし書くためには多少の緊張は必要。自分の身体でそのバランスを取りながら、書く。一番大切なのは「習慣化をやめない」ことだと思っている。
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