床に並べた本を眺めて

お題「#おうち時間

 

4月18日。緊急事態宣言が出ている真っただ中、そもそも引越し業者が予定通り来てくれるのだろうか、という不安を抱きながらも、引越しをした。外は土砂降りの雨。記憶に残る引越しとなった。

 

荷物もひととおり片付いて、いまは壁面本棚とベッドの納入を待っている。連休明けまでの辛抱だ。

 

壁面本棚がないから、自宅から持ってきた大量の本を置く定位置がなく、床に並べている。無造作に並べられたその本をぼんやりとながめながら、こうしておうち時間を過ごしている。来週からのゴールデンウィーク、ゴールデンなんて言葉を使うから、楽しみで仕方なくなって、それでもむやみに外出できないいまの現状に悔しくなってしまうのだ。たまたままとまった休日があるだけなのだと思えば、いつもと違った過ごし方をしながら、自分の生き方を冷静に振り返ったり、未来のことを想ったりすることができる。

 

床にびっしり並んだ本が、どれもが一度はページをめくったことがあるはずなのに、ほとんど読んでいないものもあれば、読んだ記憶はあってもほとんど内容を覚えていないものもある。そういう本の方が圧倒的に多く、「そうそう、これこれ、面白かったなぁ」と自分の血肉になっていることを実感できる本の方が少ないというのが正直なところ。他人に「これ読んだの?いいね」と言われても、「うん、そうだね」くらいにしか返事できないのが、ほとんどだ。本当はそういう状況に危機感を持たなきゃいけないんだろうけれど、それでもまぁいいか。きっと自分の身体のほんの一部、細胞の一粒一粒に、少しだけ本の言葉がちりばめられているのだろう、という程度でいい。

 

そんなことをぼんやり考えていてら、あっという間に時間が過ぎていく。

 

心の居心地

これだけ「STAY HOME」の言葉を聞くと、なんだか外へ出かけることそれ自体に罪悪感を感じるようになってくる。日常生活で必要な買い物や、やらなければならない仕事は仕方ないですよ。ただ不要不急の外出は避けましょうよ。言いたいことは分かる。その通りだと思う。たくさんの人が出歩くことで感染のリスクが高くなるのは確かなのだから。ただ、人が街をたくさん歩いているのを見ると、「なんだかなぁ」と思うのも事実。それと同時に、自分もその「なんだかなぁ」と思うような状況をつくる一因に実際いまなっているのだという事実に、げんなりもする。

 

「危機感がないんだよな」そう言われると腹も立つ。いやいや、怖がってますよ、と反論したくなる。でも「いつもは買ってきて食事ているのに、この時期にわざわざ昼ご飯食べに行くことはないだろう」なんて言われると、なんで昼に何を食べるかまで人に制御されなきゃならないんだよ、と思ってしまう。本当に、ギスギスしている。

 

街のお店があちこちで「臨時休業」の張り紙を出しているのを見て、それが当たり前の光景になりつつあるのが、なんだか怖い。こんなこと、いままで一度も体験したことのない事態だろうに。

 

1~2か月くらい前までは、安全を確保したうえで、それでも好きなお店には行くことでそのお店を支えなければ、という気持ちもあった。けれど、いまはそんな気持ちさえ罪なんじゃないかと思えてしまう。いまは、行かないことが最善なんだ。そう社会に言われている気がする。それに対して抗いたい気持ち、ちょっと対応が過剰すぎやしませんか?という気持ちがありながらも、でも反対に、そうすべきだよな、という気持ちもあるから、心の居心地が良くない。

 

こういうときに、自分の心の弱さが露呈するんだ。

引越。自由が丘へ。

引越をした。千葉の市川から職場のある自由が丘へ。5回目の引越し、結構慣れてきたはずなのに、そう頻繁でないからか、やはりあたふたした。まだ終わってない手続きもあり、結構焦っている。

 

これまで仕事で関わっていた感覚の自由が丘に、まさか住めるなんて思ってもいなかった。自分がいていいのだろうかという不安に近い。けれど、せっかくの縁、大切にして、成長したい。

 

14年間も妙典に住んでいたことになる。本当に名残惜しい。今日最後に片付けに行った、妙典暮らしの中で最も貴重な体験を得たアパートでは、中庭のシンボルツリーがあたたかく見送ってくれたみたいで嬉しかった。ここでの縁も絶やすことなく、また来なければと思ったし、むしろこれからも来ると思う。今だけは辛抱だ。


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感動と感謝

仕事終わり。かろうじて営業していたいつもの駅前の本屋で、新刊を見つけてすぐに手に取った。こういうときに躊躇わなくなったのは、最近になってからのことだ。

 

「利益の本質、それは『感動』です」自分は仕事を通して他者に感動を与えているのだということに気づいて、そのことを意識すると、自ずと行動も変わってくるのではないか。なにかこう、やる気が起きないなぁ、とか、やりがいがないんだよなぁ、とか、愚痴を言いたくなるようなことは、たくさんある(他人にも、あるんだよなぁ?もしかして、自分だけなのか?)。けれど、いまこれを頑張ることで、目の前のクライアントに価値を提供して、それが期待通りのもので終わるんじゃなくて、「そこまでしてくれるとは思わなかったよ」という感動につながれば、その仕事は先へとつながっていくし、やっている自分も楽しくなってくる。仕事とはそういうものなんだと、自分に言い聞かせている。

 

「感動」ともう一つ自分なりに言葉を当てはめるならば、それは「感謝」だと思っている。利益の本質、それはクライアントからの「ありがとう」の総量だというのがいまの自分の考え。ありがとうと言ってもらうことが目的だし、そう言われたときになんとなく心臓がぞわぞわってする感じ、その感覚を味わうことへの期待こそが、仕事への原動力なのではないかと。

 

成功するための条件は何ですか、と聞かれたら、「何かに詳しくなること」と答えるのだという。何かに対して詳しいということ。自分にとってのその「何か」とは何か。建築?いやいや、全然だめだ。コーポラティブハウス?いやいや、恥ずかしくてとてもじゃないけど詳しいだなんて口にできない。その道一筋の職人さんのような「これ」というものがない自分は、「これに関しては詳しいですよ」と言い張れないまま社会人を14年続けていることになる。これって、本当に社会人と言えるのか?ふと冷静に自分の働き方を振り返り、恐ろしくなってしまった。

 

自分の働き方、進み方について、立ち止まって考えることが多いこのところ。いまのこのギスギスして、落ち込みがちな状況が、それで本当にいいのかと自分に言っているようにも思える。自分そのものの弱さだったり、働き方の危うさだったり、そういった、いままでなんとなく自分の意識の隅に隠れていたものが、目に見えないウイルスによって露呈したのかもしれない。見つけてしまったからには、そこから目を背けるのではなく、きちんと向き合わなければならない。幸い、ひとり家でじっくり考える時間は、ある。

 

 

未来はみないで

楽しみにしていたTHE YELLOW MONKEYの東京ドーム公演が、延期となった。本当だったら、昨日は彼らとおおはしゃぎをして、自分の体内に新しいエネルギーを注入して、またこれから仕事をがんばろう、と気を引き締めていたのだ。奇跡的にもチケットをとることができ、4月までの時間の長さにちょっと気が遠くなったけれど、それでも楽しみは先の先までとっておいて、それまでがんばろうと思いながら過ごしてきたのだ。まさか、目に見えない敵によって公演自体に影響が出るとは思ってもいなかった。結局昨日は、外へ出ること自体に恐怖を感じつつあるこの状況で、それでもずっと自宅というわけにもいかずやることもあったので、振替公演の実現を願いながらチケット引き換え手続きをして、用件を済ませて、じっとしていた。

 

自分の気持ちを正直に言うと、大好きなロックバンドのライブが、しかも自分が参加するそのライブが、当日実施できないと分かったその瞬間、悲しさよりも、「安心した」と思った自分に、驚いた。今この状況で、「それでも演ろう」ともし決断していたら、きっとバッシングを受けていたに違いない。だから、中止や延期を選んでほしい、と心の中で思っていたのだ。文字だけ見ると、ファン失格だ。けれど実際そう思ったんだから仕方ない。

 

たとえライブをやるとしても、怖くて行けません。だから自粛します。なので中止なり延期なり、はやくオフィシャルな発表をしてほしい。そういう意見をネットで見た。ここに関しては、自分は少し違う考えだと思っている。確かにいまは、怖くて人混みに混じることには抵抗がある。自分が良いか悪いかではなくて、自覚症状がないだけで(そんなに自分の免疫力に自信はないけれど)自分が加害者になるかもしれないと考えると、やはり行きたくないだろう。でも、自分がたとえ行けなくても、ライブをやることをもし彼らが決断していたら、それを支持していたと思う。自分が当日参加できなくても、ライブをやったという事実は残るんだし、あとで映像を観る機会に恵まれるかもしれない。チケットが取れたライブに自分が行けないくらいなら、いっそ中止してほしい、という考えはなかった。

 

結果、彼らは「延期」を選んでくれた。充電期間を前に、そのスケジュールさえ延ばして、まだチャンスはあるという希望を残してくれた。まずはその希望の綱をしっかりと握って、実現を祈りたい。

 

「未来はみないで」を聴きながら書いている。2016年の再集結にあたって最初に世に放つ予定だった曲だと聞いた。その後、さまざまな巡りあわせを経て、第2期の集大成のような曲となった。「また会えるって 約束して」この言葉が、意図しないものであれ、いまのこの状況と重なって身にしみるのが、嬉しいのだか、つらいのだか・・・。

 


THE YELLOW MONKEY – 未来はみないで (Official Music Video)

 

W:WALG -win a losing game-

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win a losing game.

 

「逆転勝ち」をテーマにしたこの腕時計にひかれたのは、大学生の時だ。新宿のヨドバシカメラ時計館で、ひとめぼれしたのだったと記憶している。当時からなんとなく腕時計が好きで、かっこいいものをと探しているなかで見つけたのは、剣をモチーフにしたシャープなシルエットと赤紫の文字盤が印象的な時計だった。

 

リコーエレメックスのHPを見てももう販売していない。だから充電がまったくできなくなってしまったいま、その修理方法を探ろうにも、どうしてよいか分からない。街の時計屋さんに持って行って、こういう充電式の腕時計なんですけどどうしたらよいでしょうか、と言ったら、修理してくれるのだろうか。特殊すぎて、手に負えないと言われてしまいそうで怖い。それでも、直してまた腕に嵌めたいと思うくらいには、気に入っている腕時計だ。

 

 

振り返れば自分の人生、思ったことが思った通りに叶ったということ、選択したことが大正解だったという実感を持ったことが、あまりない。こうだ、と思ったその通りに進むように自分という船の舵を握ってきたつもりだけれど、行き止まっては別の方向へ転換し、を繰り返していまに至っている、といった方が近い。でもそれはいまの進路に進んだことを後悔しているということでは決してなく、結果として選んだその道が、自分にとって正しかったのだと納得するために、その道の良いところを後付けで探すような、そんな感覚だ。あぁ、おれはもうダメだ、とその場にへたり込んだりしなかったからこそ、いまこうして動いていられるのだとも思う。

 

そんな自分の人生が、また5年10年と進んでいき、いまとは別の環境に身を置いているとしても、それはこれまでの積み重ねの結果であり、これまでが無駄だったということにはならないだろう。これまでが負け戦だったとは言わないが、「こうだったらいいなぁ」という自分の理想像にはとうてい達していないので(それは周りの環境に対してではなく、特に自身の仕事をこなす能力に対して)、これから先、徐々にその力を携えて、自分に自信を持って、他人に対して委縮するようなことがなくなって、自分の想い通りに動くことができるようになれば、それはれっきとした「逆転勝ち」ではないだろうか。

 

win a losing game. 

 

逆転勝ちを手にするその瞬間のために、まだ動きを止めたままにはしたくない。その瞬間、ひとめぼれをしたあの時と同じように、剣のように鋭く時を刻んでいる、そんな時計であってほしい。

 

当事者のその先に想いを巡らせるやさしさ

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この週末はなるべく家で過ごそう、ひとまず事務所に行かなければ進まないような仕事はなさそうだし(もしかしたらあるのか・・・?やるべき業務が山積していることは確かです)、と思いながら今日を過ごしている。外は、暖かかった冬に来なかった分遅れてやってきたかのような雪。ひんやりとした空気が、まぁこういうときだし、家にいなさいよ、と言っているように感じる。雪よ。この際どんな魔法を使っても構わないから、蔓延しているらしいウイルスをやっつけてくれないだろうか。その真っ白な姿からは清潔感を感じるから、悪者を洗浄してくれるんじゃないか。冷たい雪のその低温で、悪者を凍らせて死滅させることができるんじゃないか(北海道でも蔓延しているんだから、それはないのか・・・)。

 

 

昨日は、振り込みや買い物など用があったので近所を歩いた。そして結局、いつものカフェに寄ってしまった。一駅分だったし、電車は使わなかった。こういうときでも、いつもどおりを提供する、という彼女の信念を感じた気がした。

 

夕方からイベントを予定していて、朝までは、換気をしたり、客と客との間隔をあけたり、というように配慮したうえで、それでも楽しい時間を提供できてたらという想いでいたようだ。けれど、朝、店をオープンさせたときに外を歩く人から向けられた「えっ、こんなときに、やるの?」という視線にびくっとし、ただごとではないと感じたという。なんかこう、言葉では言い表せないようなピリピリした空気を察知し、そうか、イベントに参加する当事者は「いいよいいよ、注意するから。やろうよ」と言ったとしても、例えばそのまわりの家族が心配するといったことがあるのかもしれない。そう考えたら・・・ということで、朝、中止を決めたのだそうだ。

 

行き過ぎた「不謹慎だ」「自粛しなさいよ」には疑問もあるけれど、そうもいっていられないくらいの非常事態だということは、ここ数日の政府からの発表を聞いて分かる。自分も、イベントを予定通りやりますというSNSを見たときは、一瞬「やるんだ」と驚いたというのが正直な気持ちだ。でも、配慮はしていることを知って、楽しめることをちゃんとやりましょう、という気概も感じたし、だから応援しようとも思った。そこへきての、ギリギリでの中止を決断。彼女のその言葉から、これまで経験したことがないことがいま身のまわりで起きているということと、本当のやさしさってそういうことなのかもしれないということを、感じた。

 

いまは、「予定通りイベントを決行しようとする人に対して『なにしてんだ!こんなときに』と責める意見」と、「身の安全を第一に考えて自粛しましょうという流れに対して『そこまでする必要はない、周囲に流されているだけで思考停止だ、経済がまわらないことによる損害をどうしてくれるんだ』と主張する意見」とがぶつかり合ってケンカしている状況なんじゃないかと思う。ときには汚い言葉で罵り合って、お互いギスギスして、そのケンカに参加しているつもりはなくても、いつの間にか心が疲弊している。そういうときに、疲れた心を救ってくれるヒントは、彼女の決断を後押しした「当事者のその先の人に想いを巡らせる」やさしさにあるんじゃないかと思った。

解決していく喜び、片づける快感

4月に引越しをする。いままでにないくらい買うものがあったり、準備することがあったりと、やることは多い。何をする必要があるのか、それを順番に考えていくのは決して得意ではなく、どちらかというと億劫に感じるくらいなのだけれど、それでも、一つ一つコトが進んでいくと楽しく感じる。必要な家電を買った。大切な記念品をつくるための打合せをした(これは本当に楽しかった)。そして、大事な家族や仲間と会った。ここ数日間~数週間、片づけるべきことは片づけて、そして楽しい時間を過ごすことができた。

 

「ひとつずつ解決していく喜び、片づける快感」を仕事でももたらすことができれば、もっと仕事を楽しく、スムーズに進めることができるのかもしれない。このところ、楽しそうに仕事をしてないなぁ自分は、と思う。もっと楽しそうに仕事しようよ。ひとつずつだけれど確実に倒れていくドミノのように、片づけたときの快感を次のアクションへの力に変えて、やるべきことをどんどんこなしていく。そうやって本来は仕事をすべきなんじゃないか。そう思った。

 

 

自分の言葉の一歩先を読むこと

「自分の行動の一手先や二手先を想像したほうがいいです」風俗嬢に恋をしたというお悩み相談にびしっと応える著者は、なんと自分と同い年。そんな彼の言葉を読みながら、自分の未熟さ、自分の考えの浅さを知る。それを言ったことで相手はどんなことを思うだろうか。もしかしたら自分が思い描いているようなことと違うとらえ方をするのではないか。そうやって、自分が言葉を発するその一歩先を具体的に想像できるかどうかが、大人であるかどうかとイコールなんじゃないかと、最近は思うようになった。

 

それは、言葉を発した後で後悔することがこのところ多いからだ。なんとなく頭に思い浮かんだ言葉を口にしたくて、その言葉の本当の意味がどうであるか、その言葉がいまの状況に適したものか、を吟味することを怠る。そうして口から出た言葉は、たいてい相手を不快にさせ、誤解させる。だから自分の場合、もうちょっと言葉の重みを考えた方がいい。・・・とは言いつつ、最適な言葉はなにかとあれこれと考えることが結果として沈黙につながり、「分からないんだったら『分からない』と言えばいいのに」と相手を別の意味で不快にさせることもあるから、ことはそう簡単ではない。

 

自分の場合、例えば本で読んで知った語彙とか、言葉の言い回しとかそういうことを、日常生活の中でふと「いまこれを使うときなんじゃないか」と思い浮かんだときに、それを言葉にしなければ気が済まなくなる。それを言葉にすることで、「あ、こいつ、言葉知っているな」と思われたい。そんなちょっとの背伸びした気持ちが、その言葉が本当にふさわしいかを検討する力を、なくしてしまう。もっと丁寧に、冷静に、言葉を「選んで」口にすることを習慣にしなければ。

 

「闘病」という言葉は好きじゃない。闘いととらえると、勝つか負けるかの二択になってしまう。死ぬこと=負け、になってしまう。家族から「負けるな」と言われると銃を構えた敵兵に竹ヤリで突撃させられるような気持になる・・・。彼の言葉を聞くと、病を背負う人に対する安易な態度が逆に相手を苦しめることにもなりかねないのだと分かる。自分の視点と相手の視点は違って当然。自分が良かれと思ってした言動が、相手の視点からすると苦行である、なんてこともある。そういうことに気づかずにこれまで来たのだとすると、それは恐ろしいことだなぁと思う。

 

なんで僕に聞くんだろう。

なんで僕に聞くんだろう。

  • 作者:幡野 広志
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 単行本
 

 

君のいない部屋

4月に引っ越すにあたって、自宅の壁面本棚と机、椅子を家具屋さんに引き上げてもらった。メンテナンスをしてもらい、椅子も座面の布を貼り替えてもらい、新居に新しく納めてもらう。約3年半、本と、私の体重を支えてくれた本棚と机に感謝をしつつ、しばしのお別れ。来月、生まれ変わった相棒との再会を、楽しみにしている。

 

その相棒がいなくなり、広く感じられる部屋の中心で、これを書いている。本棚があった壁はいまは一面の白。寂しいはずなのに、一方で清々しさも感じている。昼間、本棚がなくなった直後の部屋の明るさと言ったら、なかった。別にいままで日差しを遮っていたわけでもないのだけれど、いなくなって明るさを感じるということは、いままで日差しをたっぷり身体で浴びていたのではないかと思う。「色が変わりましたね」家具屋さんにそう言われ、毎日見ている自分は気づかないけれど、きっと時を経て、褪せたのだろう。

 

殺風景になったともいえるこの部屋で、数年前の自分だったら、もともとそこに本が積んであったように、一度クローゼットにしまった本を引っ張り出しては床に並べていたんじゃないかと思う。本棚がない分、縦に積む量には限界があるけれど、いままで本が現にあったのだから、と床に本を置いていただろう。その方が、読みたいときに読めるし。

 

けれどいまは、そうしたくない。本を探すのに時間はかかるけれど、しばらくはクローゼットにしまって目に見えない状態で過ごすのも良いだろう。「いままであったモノがなくなったことで生まれた空間」の存在を、身体で感じたい。そこに余白ができたからといって、これまでなかった別のものを置くなんて野暮なことはしたくない。「埋めようと思ったら埋められるのだけれど、埋めないことでそこにある余白の空間」を大事にしたいと思った。

 

Title

荻窪にある本屋「Title」の店主、辻山良雄さんの連載記事を読んだ。「Title」という本屋さんの存在は、人から聞いたのか、本屋特集の雑誌で見たのか、定かではないけれど、知ってはいた。けれど、まだお店には行ったことがない。

 

https://www.gentosha.jp/article/15053/

 

状況が状況なだけに、不安になり、報道に惑わされ、驚かされ、怖い思いをさせられる。そんななかで、トイレットペーパーが消えたドラッグストアの店頭で、憤慨するよりも無力感に襲われたというのを読んで、本屋さんが本屋さんとして担う役割はこういうことなんじゃないか、という自分の想いが、明確に言葉に現わされたのを感じた。

 

自分はこうした行為に抗うために、本を売っているのではなかったか。一人一人が考えて行動するためには、その人に戻るための本が必要である。 

 

街の本屋さんは、こうした途方もない夢を持ち、信念を持ち、本を売っている。一方、その本屋を訪れる自分も、そこに並ぶ本を眺めて、その本屋ならではの唯一無二な選書を味わい、これからの自分を形成してくれる一冊と目が合う瞬間が来るのを期待しながら本を眺める。「これだ」という一冊と目が合った瞬間が何ともいえない快感である。その快感を得たいという欲望だけが、本屋へ足を運ぶ動機だと言ってもいいのかもしれない。きっとこの荻窪の小さい本屋さんでも、そんな快感を与えてくれる一冊が待っているに違いない。

 

 

日曜日。午前中管理組合の総会に出席した後、事務所近くの本屋に立ち寄ったら、これまで自分のアンテナに引っかからなかったこの本と目が合い、迷わず手に取った。一人一人が考えて行動する世の中になるために本を売る、そんな自分にとって壮大なことを考える彼自身はどうやって考えているのか、知りたかった。

 

好きな本を店先に並べ、買ってもらいたいという気持ちは、この商売をする上でのなくてはならない〈もと〉である。そして個人店では、そうした気持ちがストレートに表れているほうが、来る人の共感を得やすい。多くの人が個人店に求めているのは、本を利用したビジネスではなく、本そのものに対するパッションだからだ。

 

そうか、自分は本屋に行くことで、その本屋が発するパッションを受け止めたいんだ。もともと買いたい本があるのなら、行かなくたってネットショップで気軽に買える。それでもお店に足を運びたいと思うのは、そこへ行ったらそこにしかなさそうな本があると思うからだ。そこでしか嗅げない匂いみたいなものがあって、そこでしか感じられない手触りがあって、店主との雑談だって、イベントという体験だってあるからだ。そういう自分にとっての特別な本屋がいくつかあれば、自分のことを考えることのできる自分になれる。多少道に迷うことがあっても必ず自分を取り戻せる自分になれる。そう思った。

 

本屋、はじめました 増補版 (ちくま文庫)

本屋、はじめました 増補版 (ちくま文庫)

 

 

心の余白

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各地でいろいろなイベントが中止になっていたりして、「集まって楽しもう」というムードでなくなってきている。感染のリスクがある以上、それを防ぐためにはやむを得ない、という運営者の苦渋の判断なのであろうから、それ自体を非難はできない。イベントを楽しみにしていた側は、残念だけれど、被害が拡大しないための措置と受け止めて、じっとしているしかない。自分は4月に控えている大事なライブが中止になってしまわないか正直のところ気が気でないけれど、もし1か月経っても事態が収束せず、もっと安静が必要な状況だったら、仮に彼らが中止の判断をしたとしても、責めるつもりはない。演ってくれるのなら、きちんと対策したうえで、行く。行って、楽しみたい。

 

昨日はあっちの情報、今日はあっちの情報、というように情報に振り回されて、皆が前へならえで同じ行動をする、というのに触れると、なんだか居心地が悪くなる。トイレットペーパーが店頭から消えているなんて話を知人から聞いて、そんな誤情報に振り回される人がそんなにいるのか、と他人事のように思っていたけれど、今日いつも買い物しているスーパーに行ったら本当にトイレットペーパーがなくてびっくりした。よく買うお手頃価格の乾麺もなかった。2011年3月11日夕方の、あの日あの時のコンビニか、ここは(※)?

 

身のまわりの経済が目に見えて足踏みしている様子を見ると、そうなってしまう理由も分かる反面、いや、もっと元気に、こういうときでも供給者が安心できるように消費を続けられないものかとも思う。手作り作家さんが集まるイベントが中止されるということは、手作り作家さんが作品を見てもらう機会が奪われるということだ。誰のせいでもないこの結果を、作家さんはどう受け止めたらいい?

 

数日前までの自分は正直、中止しなかったイベントに対して「安全を考えて中止した方がよかったんじゃないのか?」と思っていた。けれど運営者の方に視点を変えると、作家さんのために開催に踏み切った、という勇気ある決断だったのかもしれないと気づける。受け取る側の視点だけでは気づけないことがある、ということに気づいた。

 

そんなムードではあったけれど、今日も(リスクが高いとされている)電車に乗って遊びに行って、素敵な作家さんの作品を、買った。こういうものを楽しむ余裕が、いままでの自分にはなかったのかもしれない。ただなんとなく、部屋にいるのを眺めて、かわいらしいなぁ、とぼんやり考える時間が、さらに自分の心に余白をもたらしてくれるんじゃないかと期待している。そして、こういうときでも身のまわりの経済を動かす一人でありたいと思っている。

 

※ 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

FUGLEN浅草

気になっていたけれどなかなか行けていなかったカフェに、行ってみた。休日だし、場所柄もあるし、きっと満席で、座れないんだろうなぁという予感は、店内に入って確信に変わる。それでも思いのほか落胆しなかったのは、ここに実際に来て、建物を眺めて、店内に足を踏み入れて、店内の家具を見て、コーヒーを飲んだり談笑したりしている客を姿を見さえすれば、目的の過半は達成することができたと感じたからだ。他人に聞かれて「知ってはいますが、行ったことはありません」と答えるのもなんだか恥ずかしい。「行きました」と言いたい。それだけの理由です。

 

北欧の家具が並ぶ内装がきれい。浅草ということもあってか、客も外国人が心なしか多い。意識の高い人が集まる外国のカフェに迷い込んだような気分だ。店員さんが運ぶワッフルに目を奪われる。ちょっと落ち着いたころに、また来て、その時はワッフルを食べよう。

 

https://fuglen-asakusa.business.site/

 

 

「ノルウェーのコーヒーって、どうなんですか?苦いんですか」

「いやいや、逆ですね。酸味が強い感じ」

 

結局は自宅近くのいつものカフェに落ち着く。ここでコーヒーを飲んでいると、別に都内のしゃれたカフェなんて知らなくたっていいや、と思えてしまう。さっき行ってきました、諦めました、と店主に愚痴を言ったら、ノルウェーのコーヒーのことを教えてくれた。そうか、じゃぁなおのこと、ここで苦めのコーヒーを楽しんでいればいいや、と思ってしまった自分は、新しいものを味わおうとする好奇心というものがないのか。

 

読めなくなったら、書けば良い

本を読めなくなったときというのは、他人の言葉に耳を傾けることができなくなったとき。他人の言葉を受け入れられないくらい自分に余裕がないときとも言える。それかもしくは、自分のこころが欲している言葉になかなか出会えずに歯がゆい思いを繰り返しているうちに、そういう言葉にはもう出会えないんじゃないか、という諦めが自身を覆っている、そういう状態なのかもしれない。若松英輔「本を読めなくなった人のための読書論」を読んで、そういう状態になってしまう自分の姿を思いうかべ、おののいた。

 

幸いなのか、自分はまだ「一時期本を全く読めなくなったんだ」と振り返るような過去はなく、ちょっとづつではあるけれど時間があればページをめくる、ということが習慣になっているけれど、それでももちろん読む気がないときは、ある。眠い朝の電車内とか。それがもっと長いスパンで、読めないときがくるのだとしたら・・・。そういうときは、この本が教えてくれたように、無理に読もうとするのではなく、書くと良い。自分を救ってくれる言葉に出会えないと嘆くのなら、自分の正直な想いを、書けば良い。書くということが、誰のためでもなく自分のために大事なことなのだということに気づいた。

 

本を読めなくなった人のための読書論

本を読めなくなった人のための読書論

  • 作者:若松 英輔
  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

「楽しく仕事をしたい」「落ち着いて仕事をしたい」自分でそう思えば思うほど、そうはいかない現実にイライラし、落ち込んでしまう。他人から「もっと楽しそうに仕事しなさいよ」「もっと落ち着いてしゃべりなさい」と言われるたびに、こころの中では「そんなこと、言われなくても分かってるよ」「分かりきったことをくどくどと・・・」とつい反抗してしまう。そんな自分に気づいて、また落ち込む。負のスパイラルだ。

 

自分で選んでやっている仕事であるにもかかわらず、楽しくできていないのだとしたら、その原因は周りにあるのではなく、自分にある。そんなこと、誰に言われなくても分かるだろうに。自分のオトナとしての器量のなさを、人や環境のせいにしてはいけない。人や環境に問題があるのだとしたら、それを変えられるのは自分しかいないだろうに。もしくは、人や環境がそのままであっても、こころを波立たせないように自分をコントロールするしかないだろうに。

 

心を波立たせない

「それは抵抗のつもりなのか。だとしたら下らない抵抗だな」

 

自分では抵抗だとは思っていなかったのだけれど、指摘されて冷静に振り返ると、そうか、抵抗していたのか自分は、と気づいた。そして、落ち込んだ。

 

確かに、そこに気遣いはなかった。イライラし、ついその感情が態度に出てしまった。不機嫌になる自分が嫌だったから、さあ上機嫌に、上機嫌に、と意識して、上機嫌になるための本も読みながら出社して、結果がこれだ。意識しているつもりが全然実行できていない。

 

本音を言えば、「そう言われて傷ついています、自分は」ということを相手に伝えたいという想いがあった。もしそのことに気づいてもらえなかったら、これからも傷つくようなことを言われ続ける可能性があるから。何を言われても心を波立たせないように自分が変わればよいのだけれど、それができない以上、「傷つきます」を伝えなければならない。そうでなければこれからも楽しく仕事をしていくことができない。そう思ってしまった。しかしその態度が結果として、場の空気を悪くし、相手を不愉快にさせ、自分も落ち込むことになった。全然いいことない。

 

心を波立たせないようにしましょう。いつもおだやかでいましょう。自分のペースでていねいに暮らしましょう。これが大変なことがおきても乗り越えるためのコツなのです。

(松浦弥太郎「孤独を生きる言葉」河出書房新社)

 

つらかったり、苦しかったり、

それこそ泣きたくなったり、

もうだめだと思ったり、

そんなことはしょっちゅうだけど、

そんなふうに何かあるたびに、

ふっとちからを抜いて、

何度も立ち返る場所というか部屋のよう。

それが、

いつも笑顔でいること。

にこやかでおだやかでいること。

いちばん大切なこと、手放したくないこと、

眉間にしわが一本入ったら、二本に増やすのではなく、

無理にでもしわを伸ばす。

(松浦弥太郎「泣きたくなったあなたへ」 PHP研究所)

 

心を波立たせない。表に出さない。仕事のスピードは落ちるかもしれないけれど、気にせず、深呼吸して、落ち着いて、丁寧に、ひとつづつ片づけていく。

 

心を波立たせることで、不機嫌になることで、イライラを表明することで、結果として自分が損をするということを思い知ること。

 

自分の幼稚さに眩暈がするけれど、過ぎたことは仕方ない。同じことを繰り返さないように。

 

 

孤独を生きる言葉

孤独を生きる言葉

  • 作者:松浦弥太郎
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2017/12/25
  • メディア: 単行本
 

 

泣きたくなったあなたへ

泣きたくなったあなたへ

  • 作者:松浦 弥太郎
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2017/04/18
  • メディア: 単行本