早朝の松陰神社

朝、事務所へ行く前に自転車に乗って松陰神社まで走り、お参りする。それを日課にしたら、人生が変わるのではないかと思った。自転車を選んだのは、単にその時ジョギングを続けられる自信がなく、自転車なら続くだろうと踏んだから。それに、買ったばかりなのになかなか乗る機会がなく放置気味だった自転車に対して、乗らないければもったいないと思ったから。だから楽しく、楽に続けられるはずだった。

 

早朝の松陰神社は空気がきれいで、頑張って仕事しなさいと自分を叱咤激励してくれた。並んだ大木は一様に、社会を広く見て大きなことをせよと呼びかけてくる。一方で、松下村塾を模した建物の、その小さな和室からは、小さなことからコツコツと勉強して、いま目の前のやるべきことを誠実に、着実にこなしていくべきだという声が聞こえる。スケール感の異なる思想家の声に多少戸惑いながら、しかし強く、しなやかに進んでいくのがオトナなのだと心にしたためる。

 

空気はどこまでも澄んでいる。早朝であるからか人が少ないから、さらに神聖な気持ちを保ち続けていられる。自転車をこいでかく汗は、体から雑念を溶かして流してくれているに違いない。

 

そんな想いも時間とともにだんだんと薄くなり、いまではその習慣もなくなってしまった。これはいけないとも思いつつ、いまはそれよりもジョギングに夢中。さすがに走って松陰神社まで行く気力や体力は、ない。

準備

久しぶりに自転車に乗って、走った。

 

目的地までの道のりはだいたい頭の中にあったけれど、少しうろ覚えでもあった。こういうとき、3分スマホで地図を見る時間を確保すれば、きちんとルートを確かめることができる。それなのに、その3分の手間を惜しんで、まぁ迷うことはないだろう、多少遠回りになってもいいや、くらいの気持ちで走り出すものだから、スムーズにたどり着けずにあたふたした。

 

こういうことは今日に始まったことではない。その都度「事前の準備が大切だ」と心に刻むことをせずに、なんとなくでスタートするのが習慣になりつつある。これは良くないと思った。

 

自転車に乗って目的地へ行くことだけではない。電車であっても、徒歩であっても、同じだ。このように進んで、次の交差点で曲がって、という地図があるから、先へ進める。回り道をしたっていいのだ、という心の余裕があればいいけれど、それでも間違えて戻ったりする時間は無駄に違いない。さらに言うと、移動手段だけのことではない。仕事を進めるにおいても、こう言われたときのためにこういう代替案を用意しようとか、この話を先にしてから次にこの話をしようとか、進めていく上での手順というものがある。

 

何事も、準備が大事だ。それをおろそかにしてはいけないのだということを、休日に自転車をこぎながら改めて感じた。

 

見慣れた風景のその先に

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好きな作家さんの個展がまた今年もあるということで、案内をいただいた。小さなマトリョーシカ屋さんのギャラリーもまた小さく、きっと開催するにあたっては葛藤もあったのだろう。作家さんにとっての表現の場すら奪われてしまうこの禍。応援できるときに、応援したいと思う。

 

見慣れた風景のその先にある、いままで気づかなかったものに気づけるようになりたい。それはきっと、これまでになかった苦難のその先に、見慣れたいつもの景色があるのだと気づき、心に余裕を持てるということと一緒だ。

 

greenishblue-room.sblo.jp

 

これまでの仕事とこれからの仕事

先週一週間、身体を動かす気持ちにどうしてもなれなくて、ジョギングをサボってしまった。朝起きて、事務所へ向かうまでの時間に二度寝をしてしまうことが原因だ。走ろうと思っても、なかなか身体が起きようとしない。それでも事務所へ向かう頃には心身ともに目覚めていて、あぁ、ぐうたらしていないで走っていればよかったのに、と後悔する。結局はその瞬間の気分の問題に支配されているのだ。時間が経てば後ろ向きの気分も前向きになることを知っているのだから、その気分をコントロールすればよいのに。でもそれができないから、苦労している。

 

週末、いつもより長めにジョギングする。走っている自分自身が情けなく感じるくらいのゆっくりなペース。でも続けるためには、これでいいのだ、と自分で自分を励ます。いつもより多く、長い時間流れている汗が、なんとなくサボった先週一週間分の自堕落を清めてくれたように感じた。

 

走りながら、自分のこれまでの仕事と、これからの仕事のことをぼんやりと考える。自分が建築をとおしてやりたいことは何なのか。建築をとおして社会にどう役立ちたいと思っているのか。そう考えて、これまでなんとなく頭にあった雲が抜けて晴れたように、一つの答えとして言葉になった。それは、楽しくて、豊かで、快適で、明日への活力になりうる「暮らし」を一人でも多くの人に味わってもらうこと。そして、建築はその「暮らし」をつくるための一つの方法に過ぎないのだということ。建築が担う役割は昔の自分が思うほど実は大きいものではなくて、暮らしをつくるたくさんの要素のうちの一つである。そう気づいた途端、視界がばっと開けたような気がした。

 

MOONLIGHT DRIVE

弱い自己主張は捨てられて 強い個性だと殺される

うまく行くはずのない毎日 希望は車よりも早く

(THE YELLOW MONKEY/MOONLIGHT DRIVE)

 

 

「うまく行くはずのない毎日」というのがミソだ。うまく行くはずがない。だから過度に期待しない。それは諦めるのとは違う。どうせ無理だと投げ出すのとは違う。うまく行かない状態を受け入れて、ではどうしたらうまく行くのかを冷静に考えること。それがきっと、特に何か新しいことを始めようとするときには、大事なのだと思う。

 

「うまく行かない毎日」が続いても、希望は持ち続ける。アクセルを踏み、車をぐんと走らせた時に、身体に感じる風をイメージする。より速く、より遠くへ。

 

 

気づいたら社会人になって15年が経っていた。その間、環境は多少変わったけれど、大きく括った「建築」を扱う仕事をこれまで続けることができた。それがひとつの自信になっているのかもしれない。ベテラン風をふかせるつもりもなく、そんな力もないけれど。

 

気を緩めたら、外圧に負けて放心状態になり、生きていけなくなってしまうんじゃないかと、ふと感じることがある。前に進もうとする気持ちが萎えたとたん、ガス欠で車が止まってしまう。そんなイメージ。ずっと走り続けるためには、希望を持ち続け、アクセルを踏むことが大事だ。

 

カレーが好き

昼間、渋谷で電車を降りて昼ご飯を食べようと宮益坂を歩いた。次の電車に乗るまでの時間にそれほど余裕がない。サクッと食べられるのが良いなぁ、でもそんなのなさそうだなぁ、これじゃあ歩くだけ歩いて結局食べられず、電車に乗るようかなぁ、なんて思っていると、ちょうどよい感じのカレー屋があった。ここしかないと思い、入った。

 

店内で流れていたのはLUNA SEAの「TRUE BLUE」。有線なのだろう。その次に流れてきたのが懐かしいTUBEの曲だったから、選曲基準は分からないけれど、店に入ったタイミングが良かった。昨日はLUNA SEAの32歳の誕生日。今日までの3日間、有明でライブを行っている。彼らのカッコよさを今でも感じられる幸運をかみしめながら、大盛りのほうれん草カレーを胃に流しこむ。思いのほか辛くて、美味しかった。

 

好きな食べ物はカレーです、と堂々と言うほどではないし、どこのカレーがこれこれこうで、ここはいまいちで、と講釈するつもりもないけれど、カレーを食べて旨かったと満足することはあっても、後悔したことは記憶の限り、ない。つまりは、カレーが大好きだ。特別好きだというのもはばかられるくらい、普段の食生活に当たり前のように現れては、食べる。特別感をあまり感じないという点で、同じく大好きであるラーメンと、ちょっと異なる。ラーメンは、大好きなものを美味しく食べるぞと意気込んで食べるけれど、カレーは意気込まずに食べる。なんとなく、そんな感じだ。

 

カレーはすぐにやってきて、サクッと食べることができたから、次の電車に難なく乗ることができた。ホームでLUNA SEAのグッズを身に着けた女性とすれ違う。彼女は颯爽と、有明方面行きの埼京線に乗り込んだ。そうか、これからライブなのだ。このコロナ禍でも音楽を、文化の火を消すまいとしている人がいる。存分に楽しんでくれと祈り、自分は逆方向行きの高崎線に乗った。

 

今日初めて行った本屋で出会い、手にした本は、カレーにまつわるアンソロジー。紙までカレー色だ。文字を読む前から頭にカレーが浮かび、口の中に香辛料の味が広がる。カレー一色の本という潔さに脱帽した。まだ読んでないのに、カレーに対する愛が詰め込まれているのだと分かる。

 

久しぶりに割と長い時間電車に乗った。暑くもあり、帰宅したときにはヘトヘトになっていたけれど、まだイベントがある。パソコンを開き、LUNA SEAのライブを配信で観た。興奮を、明日への活力へと変換していく。大好きな「LUCA」も「静寂」も聴けた。第2部一発目の「JESUS」に痺れた。「TRUE BLUE」も聴けた。昼間のカレー屋で流れていたのは、この予告だったのか、と勝手に感動した。

 

晩御飯にはカレーうどんを食べた。昼に食べたから晩に食べるのはやめよう、とはならないのがカレーのすごいところだ。米とうどんとで違うのだからむしろ新鮮な気持ちで食べられる。

 

 

猫を

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猫を迎えた。保護猫だ。

 

育ての親から譲りうけたその猫は、びっくりするくらい人に慣れていて、落ち着いていた。最初こそ「ここはどこだ?」と不安がっているようにも見えたけれど、徐々に慣れてくれたようで、なでるとコロンと転がって腹を見せてくれる。さすってあげると喉をゴロゴロとならし、まんざらでもなさそうだ。もしかしたら自分は犬や猫に警戒されるような風貌をしているのかもしれないと思っていたものだから、その大胆さに驚き、そして嬉しかった。

 

いつも自分が座っている椅子にちょこんと乗ってくつろいでいるその猫を見て、自分もぼんやりする。座面のファブリックがお気に入りなのだろうか。もしくは自分の匂いに安心したのか、なんて淡い期待をした。

 

これまでの猫のイメージを覆すくらいの、穏やかな猫を迎え入れることができた喜びを、かみしめている。と同時に、ひとつの命を預かる責任の重大さに、いまになって怖気づいてもいる。

 

売り手を応援する本屋

下北沢の「BOOKSHOP TRAVELLER」に行ってきた。本箱ひとつひとつに「一箱店主」がいる、本を売る人のためのアンテナショップ。びっしり並んだ本箱ひとつひとつに書いてある屋号を眺めながら、お気に入りの一冊を探す。消費者目線では新鮮な本選びができる本屋である一方、本の売り手に対する機会提供の場にもなっているのが面白い。これをきっかけに、日本中の小さくても特色のある独立系本屋を旅することにも関心がわいてくる。

 

売り手を応援することで本屋を残そうとする。そのためのしくみがしっかりと構築されていて驚いた。こういう取り組みを、「BOOKSHOP TRAVELLER」に限らず、最近いくつか知ることができた。こうした売り手を応援する役割が頑張って活動している以上、きっと自分が心配する以上に本屋業界はタフであり、これからもゆるぎない価値を提供する存在であり続けるのだと思う。

 

LOVE&PEACE

悲しい思い出の夢で目を覚ました

それはとても怖いことだけど

日曜日の朝が来て歯を磨いたら

ここはまだ平和な場所だ

(吉井和哉/LOVE&PEACE)

 

日曜日の朝にぼんやりしているときにふとこの曲と歌詞が頭に浮かぶ。今日、YouTubeサーフィンをしていて久しぶりに聴いたら余計に心にしみた。

 

相変わらず自分の仕事の要領の悪さにめまいがする毎日だけれど、結局自分をとりまく環境はいたって平穏で、自分はその平穏さに慣れてボケているのかもしれない。自分の身体にストレスを与えるものに対しても、最終的にはどこか無責任なところがある。まぁ自分が責任感に燃えて行動しなくたって何とかなるでしょうに(自分が怠けていても何とかなってほしい)、というように。

 

平和を願って平和(ピンフ)を、というのは伊坂幸太郎「砂漠」に出てくる西嶋の言葉だったか。「平和」という言葉を聞くと、THE YELLOW MONKEYをこれから途絶えさせずに活動していくと宣言した吉井和哉の強いメッセージと、「今、目の前で泣いている人を救えない人間がね、明日世界を救えるわけがないんですよ」と言って、目の前の問題に目をつぶって大風呂敷を広げようとすることに警鐘を鳴らす西嶋のメッセージを思い浮かべる。

 


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砂漠 (実業之日本社文庫)

砂漠 (実業之日本社文庫)

 

 

バブカ

自宅近くのパン屋のパンがおいしくて好きだ。多少偏見はあるだろうけれど、なんだか気取っていなくて、特別なパンではなく普段のためのパンをつくっている、といった感じが良い。

 

クリームパン、エクレア、ハムマヨパン、パンオショコラ、ツナサンド、玉子サンド。好きなパンはたくさんあるけれど、最近特にお気に入りなのが、バブカだ。

 

祖母を意味するポーランド語が語源と言われるこのバブカ、なんでもニューヨークでは人気のスイーツらしい。チョコとシナモンが入っていて、決して奇をてらったものではなく普通のパンなのだけれど、ふわふわで、甘さがあって、美味しい。スイーツとしてでなく、朝食として食べるのが、最近習慣になりつつある。庶民的で古典的、おばあちゃんのつくる質素な味で飽きが来ない、といったらこじつけだろうか。

 

「バブカ」という名前を見て、脳内で何かが反応した。最後の「カ」の語感がロシア語をなんとなく想起させる。頭に浮かんだのはケイトブッシュの「バブーシュカ」。LUNA SEAが初期の頃、ライブのオープニングのSEで流していたという話を聞いたことがあって、聴いてみたらその不思議な印象の曲にくぎ付けになった。その時に「バブーシュカ」という言葉がインプットされ、パン屋でそれと繋がった。特に意味はないけれど。

 

ネットショップで本を

どうしてもこの頃は外へ出ることに対して罪悪感が伴う。この状況とも長く付き合うことになるのだろうから、もっと気楽に考えればよいのだろうけれど。自分が外に出ることが、気が緩んでいる社会のその一因になっているのかもしれないと思うと、身体がこわばる。想像もしていなかったことだ。

 

一方で、自分の暮らしに豊かさを与えてくれる近くのお店(とくに本屋)が休業という知らせを聞いて、心が苦しくなる。そうなることは誰のせいでもなく、だからこそ誰に怒りをぶつけることもできない。店側もきっと同じだろう。

 

結果、ネットショップでの買い物がいつも以上に多くなる。直接お店で本棚を眺めることも、店主と会話を楽しむこともできない。それでもその本屋がなくなってしまっては困るから、その本屋のネットショップページを見て、気になった本を買い物かごへ入れる。いまはきっとこうすることで読書を楽しむべき時期なのだろう。

 

今日届いた本はどれも濃密で、難しそうなものもあるけれど、読むのが楽しみ。

 

乾いた土に水をやるから気持ち良い

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日曜日。朝から天気が良くカラッカラに晴れている。暖かく、日によっては暑さすら感じ始める、この時期が大好きだ。そんな時にジョギングするのは本当に気持ち良い。

 

歩道沿いにある鉢植えの花がきれい。思い切り日光が当たって花も気持ちよさそうだ。こういうとき、花が植えてある足元の土が気になる。その土が陽射しで乾く。その渇きを潤すように水をまくのを想像する。学校から帰ってきて、まっさきに麦茶をゴクゴク飲む少年のように、身体に水分が行き届き、生き生きとする植物の姿をイメージするのが快感だ。きっとその快感を味わいたいから、このところ毎朝自宅のベランダの植物に水をやっているのだと思う。雨が降ったときは、雨水のおかげで結果オーライなのだけれど、なんか違う。晴れて土が乾いたところに水をやるから、気持ち良いのだ。

 

ジョギングを終え、いつもより多い汗と、身体に帯びた熱を感じながら、息を整える。水分が身体から放出されたのを実感しながら、水を飲むのが気持ち良い。植物と同じだ。この一連の時間を、大切にしなければならない。

 

自分にとっての「100個つくるもの」は何か

YouTubeで所ジョージさんがしゃべっているのをなんとなく見ていて、そうだよな、大事だよな、と思うことがあった。それは、1個生み出しただけでうまくいくという考え方が図々しくて、球数としては1,000も2,000も用意しないと、ということ。思い浮かんだたった一つのアイデアを、大事にすると言ったら聞こえはいいかもしれないけれど、それではうまくいかない。100個200個とアイデアを出した中から厳選して持ってきてよ、と言われてしまうだろう。だから直前に準備するのではだめで、これはどうだろう、こんなのはどうだろう、とアイデアをたくさん出して、そこから選ぶ。そういうことを意識しなければと思った。

 


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好きで購読しているブログで、同様の趣旨と思われる本をおススメの1冊として紹介していた。とにかく100案出すこと。100案出そうと努力することが、答えを出すうえで大切なのだと思った。

 

このブログは本日現在、2,386日(6年半)毎日更新している。ブログを毎日書くためにはそのネタを毎日収集して、それを言葉に起こす必要がある。当然毎日刺激的な出来事があるわけではないし、「これは何としても伝えたい」という想いがあるわけでもない。大事なのは、小さなことでも気づいたこと、気になったことを心に留めておいて、それを言葉にするまでを習慣化させること。あとは、その小さなことを心に留めておくために気づきの感度を高めておくこと。ブログを毎日書くことによる自身への一番の効果は、それによって成長することにあるのだと思う。

 

ブログを毎日書こうと意識することも、アイデアを100個出すということも、期待する効果は同じだろう。会心の出来だ!という1記事で満足するんじゃなくて、繰り返し書き続ける。そうして集まった記事を後で眺めることでしか、自分が言いたいこと、伝えたいことの核となる部分を見つけることはできないのかもしれない。

 

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さて翻って、自分にとっての「100個つくるもの」は何だろうか。イラストレーターはスケッチを100枚描くだろう。音楽家は曲を100曲つくるだろう。木工作家は雑貨を100個つくるだろう。お笑い芸人はコントを100パターンつくるだろう。では自分は?いまの仕事に無理やり結び付けようとか、そういうことは考えずに、自由に発想してみたら、面白いものが生まれるのではないか?何を100個つくるのかさえも分からないのに、結果だけを思い浮かべてワクワクするこの見切り発車よ。

ルーティン

ルーティンはなるべく多い方が良い。朝起きたらまず何を口にして、朝食に何を食べて、次に何をして、というように、日常生活のいたるところに決めごとを用意しておく。そうするとボケないんだって。「今日一日、何して過ごそう」っていうのが良くないらしいです。ユースケ・サンタマリアさんがそう言っていて、なるほどと思った。ルーティンがいかに重要であるかを深く考えたことはなかったけれど、言われてみれば納得もできる。要は習慣化することで身体が自然に動く、ということなのだろう。

 

私の有意義なルーティンと言えば、何だろう。最近でこそ毎日ジョギングをするようになって、身体を動かす快感も得ているし、走っている時間そのものも楽しめている。あとは、夜寝る前にコーヒーを飲むとか、朝起きたら白湯か麦茶を飲むとか、事務所に行く前にベランダの植物に水をやるとか、週末はこのようにブログを書くとか、それくらいか。あまり意識してはいないけれど、最近ルーティンと言えることが増えていることに、驚いた。これは良いことなのだろうか。

 

ルーティンだらけよ、自分。もしそう言うことができたら。ルーティンが自然に身体に馴染んで、それが多ければ多いほど、結果として多趣味で引き出しの多いオトナになれるのかもしれない。

 


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読んでいない本から受ける影響

小学生の頃、普段使いの鉛筆とは別に、1ダース12本入りの鉛筆を大事に持っていた。たぶん三菱鉛筆だったと思う。深緑色の鉛筆の落ち着いた大人のイメージを、ぼんやりと覚えている。

 

小学生にとっての鉛筆は勉強をするための道具に過ぎないのだから、どんどん使って芯を減らしていかないと意味がないのに、当時はそれを使うのがなんだかもったいなくて、箱から1本取り出して削っていないそれを眺めたりしながら、しばらくは使わなかった。親に買ってもらったのか、親戚にプレゼントされたのか、その辺の経緯は覚えていない。確かに覚えているのは、鉛筆削りに差し込む前の、誰も手をつけていない状態の鉛筆をなめまわすように見て、これから自分はこの鉛筆を使って字をたくさん書き、学ぶんだ、と一人高揚感を高めていたことと、鉛筆削りにひとたび差し込んでしまうと、鉛筆と一緒にその高揚感さえも削られて、屑の中に埋もれて消えてしまうのではないかと恐れていたことである。

 

 

連休中、誰に宣言するでもなく、いつも以上に本を読んで、外の世界をただ眺めたり、自分の内面と対話したりする時間にしようと思った。普段でもできることなのだけれど、それをじっくりと、味わうようにして過ごしたら、また暮らしの楽しみ方が変わるかもしれないと期待したのかもしれない。

 

本棚に並ぶ本を眺めながら、ここにある本の大半を実は読み終えていなくて、大半の内容を他人に伝えることすらできないことに、ふと気づいた。気になって仕方なくて買ったのに、手元に来てパラパラとページをめくっただけで終わり、という状態の本もある。

 

本を買う目的が読むことにあるのだとすると、大半の目的は果たせていない。でもそれでもいいのかなと、半ば自分に言い聞かせるようにして正当化するのは、この言葉に出会ったからである。

 

 確かに本は、読む者のためだけに存在しているのではない。むしろ、それを読んでみたいと願う者のものである。通読しなくてはならない、という決まりがあるわけでもない。書物自体を愛しく感じることができるなら、またそこに一つの言葉を見出すことができれば、それだけでも手に取った意味は十分にある。

 人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける。そこに記されている内容からではない。その存在からである。私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。それは会い、話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、ふさわしい時機の到来を待っている。

(若松英輔/言葉の贈り物)

 

まったく読まないにも関わらず本をどんどん買う父親に、本を買うことを辞めるよう説得し、失敗する著者。読まない本を手にするその理由に、会社の同僚の一言で気づいて衝撃を受ける。

 

読まない本を買う著者の父親に自分を重ねたと言ったら、「それとこれとは違うんじゃないの?」と言われるかもしれないけれど、本棚に並ぶそれを眺めながら抱く感情はこれに近い。読み終わった本の内容から影響を受けるのと同じように、いつか読みたいと思いながら読んでいない本からも現に影響を受けている。その感情は、鉛筆削りを通さないまっさらな状態の鉛筆を、いつか使いたいと思いながらも使えずにいた、小学生の頃の自分の気持ちにも似ている。当時自分は、使わない鉛筆と「無言の対話」をしていたのかもしれない。

 

読んでない本からは内容までは分からないし、正直読んで楽しめるかどうかも分からない。しかし、そのタイトルの本を手にしているという事実そのものが、そのタイトルがまとう何かを自分の身体に結び付けてくれているように感じるのだ。それが快感だから、「読めないかもしれないなぁ」と不安になりながらも本を買い、本棚に並べていっているのだろう。

 

言葉の贈り物

言葉の贈り物

  • 作者:若松 英輔
  • 発売日: 2016/11/18
  • メディア: 単行本