動画三昧

自宅で動画三昧。

 

huluは退会していたので、何かないかと探してU-NEXTをトライアルしてみる。過去に楽しんだ洋画を意外にも観ることができたので、久しぶりにどっぷり洋画の世界へ。

 

「YAMAKASI」は一番大好きなフランス映画。7人のヒーローが、いわゆる正義とは違う形だけれど少年の命を救おうとする。少年の親が飛び降りるのをなんとか防ぎながらも、自身にふりかかった境遇に7人が呆然とするシーンに、久しぶりに観たものだから早くも涙腺が緩んだ。フランス映画つながりで「ル・ブレ」も観たかったけれど、これは、なかった。

 

「ポリスアカデミー」は偏った私の映画レパートリーの中でも最も好きな作品。モーゼス・ハイタワーの活躍は、何度観てもしびれる。1~7まですべて観られるなんて、感激だ。これらを観るだけでだけでこの連休がつぶれてしまいそうだから、気を付けなければならない。

 

ほかにも、小学生くらいの時に良く観ていた幽遊白書を観ることができてびっくり。これも、観はじめたらきりがないから困る。中毒になりそうだ。

 

 

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手帳型のスマホケース

先日、スマホを落として画面を割ってしまったので、交換してもらった。新しく届いたきれいなスマホに向かって、もう二度と落としたりしないよと約束する。しかし手から滑り落ちてしまうことなんていくらでもある。いままでは、重くなる、厚くなる、かっこ悪くなるといった理由でスマホケースをつけていなかったけれど、背に腹は代えられない。スマホをより大切にするきっかけになればと、スマホケースを探して買った。手帳型のもので、閉じている状態だと財布のようにも見え、落ち着きがあって良い。初めからこうしていればよかったのだ。

 

普段は画面を覆うようになっているのも安心だ。見開きのポケットに、メモやカードなどを挟んでおくのも便利だろう。手にするものが変わるだけで、使い方や使う時の気分もずいぶん変わるのだ。

 

ジョギングとクリームパン

毎日のジョギングコースのゴール地点に、パン屋さんがある。いままではラストスパート、走りながら店の中をちらりと覗く程度だったけれど、最近は小銭とマスクをポケットに入れて家を出て、走って、ゴールした自分への褒美と自らに言い聞かせ、パン屋に入り、買う。普通のパンだ。たまにちょっと背伸びして買うようなパンではなく、毎日の食卓にあると嬉しいパンだ。

 

ここのクリームパンを先日買って食べたらすごくおいしかったので、クリームパンを買うことが習慣になりつつある。このパンが走ることのモチベーションになっているようにさえ感じる。続けるためのニンジンたる装置は、多い方が良い。

 

でもせっかく走っているのにそのあとにパンを、それもカスタードクリームたっぷりの甘いパンを、食べたらカロリーはいってこいで変わらないのではないか?プラマイゼロ、むしろマイなんてことになりはしないか?なんて声が聞こえる。言えている。しかし問題はない。ジョギングしないでパンを買って食べたら(カロリー面では)大きなマイナスだろうけれど、ジョギングすることでその絶対値を抑えることに成功している。なにより、カロリーを消費させることが走る大きな目的とは思っていない。走っている時間、それ自体を楽しんでいるのだから。プラス+プラスで、大きなプラスだ。

 

これで慢性的な腰の痛みがなければ、もっと快適に走り出すことができて、プラスの絶対値がさらに大きくなるのだけれど。腰の痛みが目下の悩みだ。

 

きっと、うまくいく

雨が降っている中、好き好んでジョギングするだなんて、どういう気持ちの変化だろう。わざわざ雨に濡れに行く必要なんてないのに。誰に走れと命令されているわけでもないのに。それでもなんとなく着替えて、準備運動して、タオルをもって、家を出たのは、身体がそうしなさいと言ったからだ。それも身体に鞭打ってでも走れと命令口調で叫ぶのではなく、そろそろ走る時間ですよ、とそっと背中を押してくれるような、そんな優しい言葉で、だ。

 

一度「続けよう」と胸に誓ったら、とりあえずはそうするように身体が動くようになった。これは自分にとっては劇的な変化だと思う。頑張ろうと思って行動しては続けられなくて辞めたり、どうせ続けられないのならと始めることを避けたりして、今日まで来た、そんな人生だ。人間の身体は好転する。意識しないと変わらないけれど。

 

きっと、うまくいく。好きなお笑いコンビのコントに登場するインド映画の名前を、洒落ているなぁと半分上の空で聞いた。2009年に公開された大ヒット映画として有名であることを知ったのは、つい最近だ。インド映画は正直これまでの自分の興味の対象外であったけれど、この邦題には何か、シンプルなメッセージと一言では言い表せないような意味があって、いまの自分にささやいてくれているのではないかと思えてならない。

 

雨が降る中でのジョギングも。自由設計でつくった住まいの楽しさを発信しようとする営みも。笹塚と初台の間にある愛するコーポラティブハウスの、大規模修繕工事のコーディネートも。きっと、うまくいく。

 


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街のパン屋がそこにあるように

朝、走ることができなかったので、仕事から帰ってきたあと、夕方少しだけ走った。降り出してきた雨は結局強くはならなかった。このところ天気が良く、照りつける太陽が木々に日光をたっぷり与えているようで気持ちも晴れやかだった。そんなところの曇り空でやや気分が下がる一方、恵みの雨のようにも見えるので結果オーライだ。

 

短い距離でも、ゆっくりでも、できる限り毎日走ろうと思って1か月くらい経つか。途中何日かサボった日もあったけれど、一応は続いている。でも1か月では続いているとは言えない。年単位で続けるつもりだ。

 

とはいえ走る距離は決して伸びない。走ることが身体に馴染んでいる実感はあるものの、足を止めるポイントはそう変わらない。続けるというのは、つまりはそういうことなのだろう。身体が成長しているという感触が得られないまま、途中これでよいのだろうか、と不安にもなりながら、それでも続けたその先に、結果があるのではないかと思っている。

 

コース上にある、自宅近くの街のパン屋を走りながらちらっと覗く。街のパン屋が毎日そこに「ある」のと同じように、自分もそこを「走る」。そんな風景を当たり前の毎日にしたい。

 

仕事で得たもの

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大規模修繕のサポートをしているコーポラティブハウスに、修繕の完了を確認しに行ってきた。コンクリート打放しの外壁は化粧補修を経て生まれ変わったようにきれいになった。カラーモルタルの床も、こびりついたシミこそ完全には落としきれないものの、一段ときれいになった。建物が、入居者の生活をこれからまた10年20年と支えていくのかと思うと、感慨深い。

 

偶然会った入居者と他愛のない話をする。15年前に建物を設計した担当者が一緒だったので、もう15年ですね、お子さんはちょうどあのころ生まれたからもう〇歳ですか!と会話がはずんだ。高校生も緊急事態宣言を受けて大変のようだ。いまの高校生が生まれてから今日までの期間、生活を包んだその建物を設計した目の前の担当者が、いつも以上に頼もしく見えた。

 

いつもありがとうございます。お疲れ様です。やぁ。口で直接言われなくても、会ったら笑顔で挨拶をする。それを信頼関係と言ったら大げさだけれど、そうした関係を築いてきた、そのちょっとした感触こそが、コーポラティブハウスのコーディネートという仕事を通して得たことの正体なのかもしれない。

 

新しい雑貨屋

自宅近くに新しく雑貨屋さんがオープンしているのを、店の前を通りかかって知った。

 

そこには以前、雑貨屋というか文房具屋というか、とにかく雰囲気のよいお店があった。小ぢんまりとした店内で入るのにちょっと勇気が必要だったことと、その時に雑貨や文房具を新しく出迎える心の余裕がなかったことから(いまになって、そうやってお店に入らなかった自分を正当化する)、一度くらいしか行ったことがなかった。それが26年続いた雑貨屋であることを知ったのは、店の前を通りかかって閉店を知り、改めてそのお店のことをインターネットで見たからだ。もっと行っておくべきだった。いつだって、閉店した後に行かなかったことを後悔する。

 

新しくオープンした雑貨屋さんの店内の様子を、歩きを止めることなく外から眺める。なんとなく、新しいお店に対する警戒心みたいなものがあって、自分が必要とするようなものを扱っていないのかもしれない、いや、扱っていない可能性の方がはるかに高い、そう感じたのだと思う。器が並んでいるのが見えて、こういうお店で器を選ぶのもいいんじゃないかと思ったときには、もう店を離れていた。新しいお店にとりあえず入ってみる勇気がなく、まずインターネットで、自分が行きたい店かどうかを調べてからにしようと思ってしまうのだ。なんとなく入ったものの、気に入ったものがなくて、何も買わずにそそくさと店を出る、といったことに対する恐怖心が、「とりあえず入ってみよう」という気を削ぐ。

 

「FREE PARK」看板を見て頭に入れておいた店名を、帰ってから検索する。気にせず、その時の好奇心のまま入れば良かった、と後悔した。モノにはそれぞれストーリーがあって、つくる「人」がいる。つくる人の想いを知り、モノにまつわるストーリーを知り、それを日常生活に取り入れる自分を想像する。ふとした瞬間に、幸せといったら大げさだけれど、楽しさを感じられるようなモノに出会えそうな気がした。

 

www.free-park.jp

 

君を思い出すから嫌いで

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自由が丘に引っ越してきて、明日でちょうど1年になる。植木屋さんがお祝いに植えてくれたブルーベリーは、去年もちょうどいまごろ花をつけ始めた。きれいな花を咲かせ、そして7月にはふくよかな果実を生んだ。1粒だけのそれを、味わうようにして食べたのがなつかしい。今年も花が咲き始めた。今年は、もっとたくさんの果実をつくってくれないだろうか。そんな期待を、する。

 

雨に濡れる植物を見て、それなら今日は水やりをしなくていいかなと思う反面、自分の手で水という恵みを与える、その喜びを奪われたような、そんなどっちつかずな気持ちでいる。自分が育てているから彼らは成長している。そういう実感が欲しいのかもしれない。なんて身勝手な。植物なんて、人間がいなくたってたくましく、勝手に育つだろうに。

 

雨が続く梅雨の時期や、強い横殴りの雨が襲い掛かってくる台風の季節も好きではない。それよりもカラッと晴れた、太陽光がじりじりと身を焼くような、そんな夏が好きだ。季節の往来に好き嫌いの感情が左右されるのも、なんだか違うなぁとも思うのだけれど、こればかりは仕方ない。好きな季節はその好きを上機嫌という形で放出させて、逆に苦手な季節は、それが過ぎるのを淡々と待つ。

 

夏の空は今日も青空で 君を思い出すから嫌いで

(GLAY / 夏音)

 

当時大好きでよく聞いていたのをふと思い出した。この曲の主人公は「君」を思い出すから夏の空が嫌いだという。そういうストーリーもある。「君を思い出すから嫌いで」という歌詞が好きで、この曲のテーマたる季節がさらに好きになった。これからその季節がやってくる。

 


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書店の役割分担

1か月ぶりに妙典へ。ゆっくりはできなかったけれど、都外の空気をたっぷりと吸い込む。外から見ると都内の人は大変な状況下を生きているように見えるらしい。その張本人たる自分にはそれほど危機感はなく、生活もさほど変わったわけではないのだけれど。

 

それこそ週に2~3回は必ず立ち寄っていた本屋がある。そこで今日もうろうろしては、ここに住んでいた1年前までの自分の暮らしを思い出していた。

 

その「いつもの」本屋さんにしても、イオンの中にある未来堂書店にしても。いま自分が好きでSNS等でチェックする複数のセレクト本屋が推しているような本が、ほとんど置いていないということに気づいた。作家別の小説文庫はずらりと並んでいる。ビジネス書もたくさんある。死にたいけどトッポッキは食べたいとか、ブスな自分を殺すのに頑張ってるとか、何者にもなれない自分を応援してくれる本もたくさんある。大河ドラマの影響か、渋沢栄一の本もたくさん平積みされている。なのに、どれだけ探しても(あまり長居できなかったから気づかなかっただけで、もしかしたらあったのか?)、「三春タイムズ」もなければ、「NAOT BOOK」もない。「ぼくにはこれしかなかった」もなかった。なので結局、夜帰宅してから、信頼する本屋のウェブショップで買った。

 

これは!と表紙やタイトルを見てビビっと来る(ことが多い)ような本が、こうした大衆書店(という言葉が適しているのかは分からないけれど)には置いていないという事実。ここから導き出される結論は、書店には役割分担があるということ。ある街に本屋さんがあっても、そこで扱う本には限りがあり、そこで扱わない本を扱う本屋もまた、重複したり競合したりすることなくその街に必要である、ということ。そんなことを、久しぶりに妙典に来て感じた。

 

  

  

ぼくにはこれしかなかった。

ぼくにはこれしかなかった。

  • 作者:早坂大輔
  • 発売日: 2021/03/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

やぁ

待ち合わせ場所に相手がやってきたとき。イベントで、久しぶりに会う人と目が合ったとき。義妹夫婦のお店に遊びに行ったとき。そういうとき最初に、やぁ、と手を挙げて挨拶するのが自分の癖になっていることに、最近気づいた。あなたと会えて嬉しいです、という気持ちを端的に表現できる手段だと思っている。目が合って、お互いの顔がにこやかになる。その瞬間に相手との距離が縮まるように思えるのだ。

 

これが親しい相手であれば良いのだろうけれど、仕事でのコミュニケーションではそうもいかないだろうとも思う。もちろん、あまりに目上の人と会う時に「やぁ」とはやらない。しかし今日、コーディネートをしているコーポラティブハウスの管理会社の担当者と駅で待ち合わせをしていて、先に到着していた彼に気づいた瞬間、無意識に「やぁ」と手を挙げて挨拶をし、はっとした。

 

彼は自分より年下で、「目上」かと言われると違うけれど、決してクライアントと顧客といった関係でもないし、自分が偉そうにふるまって良い立場でもない。仕事上管理会社には、管理組合の立場で要望を伝えたり改善を申し入れたりする役割にはある。それでも、気を許してよいということはない。もし、自分の心の中にあるほんのちょっとの「上から目線」的な気持ちが、「やぁ」と手を挙げるというふるまいに現れたのだとすると、良くないと思った。挨拶それ自体は大事にしたいが、相手によっては不快に思うかもしれない。

 

身体を大事にする食事

昼間、東林間のナツメヒロの企画展へ。個性的なぬいぐるみの可愛らしさに触れたのち、近藤九心さんの器を買った。盛ったものを食べ終わると、底に広大な宇宙が広がっている、そんな唯一無二のデザインが美しい。こういうささいな道具をきっかけにして食事が楽しくなると尚よい。

 

natsumehiro.com

 

ナツメヒロに行く前に「あみや」で食事。最近は東林間に遊びに来たらあみやでそばを食べると決めている。おなかもすいていたし、たまにはいいかなと気が緩み、いそぎり天せいろだけでなく、単品でたぬき丼も追加してしまった。

 

もちろん美味しかったけれど、食べ終わった後の満腹感と身体の多少の動かしづらさが、もうそんなに食べるべきでないと教えてくれる。身体はきっと正直なのだ。昔はたくさん食べることが身体へのエネルギー蓄積のために必要不可欠だと思っていたけれど、きっといまは違う。腹8分目あたりを本当に意識しないと、健全に身体を動かせなくなった。

 

体調管理は大人の重要な仕事。言葉では分かっている。しかし、どうしたら身体が悲鳴をあげて、どうしたら身体が円滑に動いてくれるか、それを真剣に考えて行動することができていなかった。食事の重要なパートナーである器を新しく迎え入れたこの機会に、といったらちょっと強引だけれど、自分の身体を大事にする食事を心がけたい。

 

仕事のためのセンス入門

兵庫県に、憧れの本屋がある。ただそこを「本屋」と呼ぶことには少し違和感がある。「本がある家」といった方が近い。「BOOKS+kotobanoie」本好きの店主が自宅の一部を開放するというこの場所に行って本を読むことが、いまの自分の夢だ。店主の言葉を本で読んで、体中に電流が流れたような気持になった。

 

「売ったとしても、その本は買った人の本棚に移動するだけで、変わらずに存在しているんです。どこの誰か分からない人の元に行ったとしたら無いのと一緒ですが、この家に来てくれた人のところに行くのだったら、それは僕の本棚にあるのと一緒だと思うんです」

 

好きな本を、まぁ本でなくても構わないのだけれど、自分のものとして抱え込んでその旨味を独占するのではなくて、他人と共有する。これ、面白いと思うんだけれど、どう?というように。自分が楽しい思いをしたから、他人にもその楽しさを知ってもらいたい。共感してほしい。そういう想いがいまの自分にはある。その想いに気づいたのは、この「本がある家」のおかげだ。

 

日本の小さな本屋さん

日本の小さな本屋さん

  • 作者:和氣 正幸
  • 発売日: 2018/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

「分かち合う生き方」早速買った新刊を読みながら、つまりはそういうことなのだと思った。自分が手にしたものは、所有物ではなくて、社会からの預かりものである。だから次に社会にどう役立てるかを考えて使う。世の中の人たちと分かち合える生き方を模索する。それが「ほんもののセンス」であるならば、自分も、手持ちのものの良さを他人と共有することを、意識して行動したい。

 

仕事のためのセンス入門 (単行本)

仕事のためのセンス入門 (単行本)

  • 作者:松浦弥太郎
  • 発売日: 2021/03/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

走る、を続ける

ジョギングをしようと決めてはやめるを繰り返し、中途半端な感じでここまで来た。この中途半端な感じが自分にとって良くないことが分かっているのに、続けることができなかった。短い距離でもいいから毎日走ろう、その走っている時間そのものを楽しもう、と思ったのは、ほんの1週間前、松浦弥太郎さんの走ることに関する本を改めて読んでからだ。

 

それまでは週末、ちょっと遠くまで走っていた。1週間に一度だから、ある程度距離を走って疲れるくらいじゃないと意味がないと思っていた。けれど、その「頑張って走らなければ」という気持ちが枷になって、走れない週もあった。だから、少しでもいいから毎日必ず走る。それを習慣にするべきと思った。「今日はしんどいからやめよう」と思い悩む余地はない。走ればいい。

 

思い出すのは、高校の剣道部時代。毎日朝練で走っていたし、素振りが大事だと知ってからは毎朝早く起きて朝ご飯を食べる前に素振りをした。それを「億劫だなぁ」と感じたことは、当時はまぁ多少あったのだろうけれど、いま振り返るとほとんどない。毎日身体を動かすことが当たり前だった。それを、20年経ったいま再現できないわけがない。そう思うようにしている。

 

心身の健康は決して当たり前に持てるものではなく、人間いつダウンしてもおかしくないということが、今年分かった。だから、体調の良い状態を維持させることを、意識する。あとは、走っているときになんとなく頭で考えていることを、大事にする。走っているときの、ただなんとなく何かを考えている時間そのものを、大事にする。

 

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

  • 作者:弥太郎, 松浦
  • 発売日: 2017/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

RELOAD

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チケットがとれず動画配信での参加と思っていたLUNA SEAのライブに、急遽行くことができた。収容制限の緩和に伴い追加席が発売されたので、迷わず買った。

 

昨年1年間、暗いニュースに耐え、行動を我慢し、時にイライラを募らせながらも過ごしてきた。その憂さのようなものを、思い切り晴らすことができた。

 

自分がやると決めたことは、必ずやる。そのために動く。

 

仕事で自分を役立たせるために、自分はなにができるのか。何をすべきなのか。そのことを冷静に考えて、そのためのアイデアを出す。

 

自分自身のためというよりも、他人を楽しませるためや、他人を幸せにするために行動する。

 

そんなことを、彼らから学んだ気がした。

 

LUCA

君が自由を 求めるなら 君の羽ばたく 僕は君の空になろう

君が羽を 痛めたなら 癒えるまでずっと 星を灯すよ いつまでも

(LUNA SEA / LUCA)

 

延期になっていたさいたまスーパーアリーナ公演が、今週末に控えている。チケットはとれなかったのでライブストリーミングでの参加。コロナ禍になって以降初めてのライブで、いまから胸が躍っている。 

 

緊急事態宣言が今日解除されるとはいえ、収束には遠く、気が滅入るような毎日が続いている。いや、気が滅入るのは、そう感じてしまうような情報に触れてしまうからだ。それらを全て遮断して情報弱者になるのだとすると嫌だけれど、報道は適度に遮り、自分の気分を安定させることに努める。

 

そんななか、思いっきり発散できる日になりそう。

 

空のように他人を包み込む寛容な存在に、こういう時こそ憧れる。