学びの比喩

「実際にやってみないと分からない」というのはよく聞くことだけれど、それができたら苦労しないよ、と言いたくなる。やってダメだったらやり直せばいいじゃないか、という助言にはたいてい、本当にやり直さなければならないときに払うコストの大きさを無視した態度が含まれていると感じる。だから安易に「とりあえずやってみよう」なんてことは言えないと思っていた。しかしその言葉もきっと本当なのだろうと心の中では分かっているのだ。

 

ヴォーリズ建築である大学校舎はそれ自体が「学びの比喩」になっている。内田樹「武道的思考」を読んでそのことを知り、なるほどと膝をたたいた。扉を開けたその先にどんな景色が広がっているかは、実際にその扉を開けた人にしか分からない。実際に学ぼうと意識して、学んだ人にしか、それによってどんな景色を見ることができるのかは分からない。それは仕事にも、もっというと人生全体においても言えることで、自分がこうしたいと思ってもただ思っているだけではダメで、実際に行動に移さない限りその先の風景は分からない。行動する前から「もしかしたら後悔するかもしれない・・・」と躊躇うのは、扉を開ける前から扉の先の風景を勝手に想像して(本当は違うかもしれないのに)良くないことが起きると決めつけるのと同じくらい愚かなことなのかもしれない(実際扉を開けたら恐ろしいことが待っている可能性もなくはないので、だから人生は難しい)。

 

ヴォーリズの「仕掛け」は「その扉を自分の手で押してみないと、その先の風景はわからない」という原理に貫かれている。

 

扉の前に扉の向こうに何があるか、自分が進む廊下の先に何があるのか、それを生徒たちは事前には開示されていない。自分の判断で、自分の手でドアノブを押し回したものだけに扉の向こうに踏み込む権利が生じる。どの扉の前に立つべきなのか。それについての一覧的な情報は開示されない。それは自分で選ばなければならない。「学びの比喩」というのはそのような意味を指している。

 

昼間、義妹夫婦と食事。雑貨店を経営する義妹夫婦から仕事に対する姿勢を聞いて、実際に行動することの大事さを改めて感じた。いままでは、ただ自分の頭の中に漠然とした不安を生み出して、その不安に勝手に影響を受けていたのかもしれない。

 

武道的思考 (ちくま文庫)

武道的思考 (ちくま文庫)

  • 作者:樹, 内田
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: 文庫
 

 

知性的であろうとする姿勢

自分が知性的にふるまおうとすることを、忘れていることにふと気づきました。知性的にふるまわなければならないということは、なんとなく心では分かっています。その時の感情や気分に任せてまるで客観的でないことを言い、自分の考えこそが正しいのだと曲げずに、他人の意見に耳を傾けない。そうした態度が良くないということは頭では分かっているけれど、ではそれとは真逆の、実証性や客観性を重視し、自分の考えが誤っている可能性を認め、他人の意見に耳を傾けて自分にない正しさを探そうとする姿勢を意識して貫いているかと問われると、首を横に振らざるを得ません。そうした姿勢でいるためには意識して努めなければならないのだと、問いを受けて初めて気づいたくらいです。

 

いま周囲がギスギスして、何か刺激的な意見や思想に飛びついたり、逆に目を逸らしたり。匿名で、自分の言葉に責任を取らなくてよいことを盾に、他人の意見に強い口調でただ批判したり、場合によっては誹謗中傷したり。そういう状況は、「知性的にふるまおう」とする姿勢に背を向けて、その瞬間の空気に乗って発意された結果としてもたらされているのかもしれません。だとすると、皆が知性的であろうとすること、そのためには逆のことに目を向けて、「反知性的であるとはどういう状態か」を知り、そうならないように努めることが、大事なのだと思うのです。

 

長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。

 

知性が充分に働くには時間と労力が必要である。同時に、時間と労力をかけて考えても考えても、なんの地平も開けず、したがって何の結果も得られない可能性もある。そういう「空振りのリスク」を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき“を希求すること。それが、真に「知的な態度」なのではないか、と思う。

 

時間や心の余裕がないとき、人は反知性主義に陥りやすいということ。そしてそのとき、反知性主義的ソリューションがあたかも「ゴール」への近道であるかのごとく錯覚しやすい、ということ。

 

 

アジア辺境論

土曜日。管理組合の総会に向かう電車内で、この本を読み始める。いつも思うのだけれど、内田樹の本を読むたびに、自分の無知、自分の無関心を実感する。常に考えて、言葉にして、世の中に問う姿勢が、自分と他人とでこうも違うものなのか、自分はそれで恥ずかしくないのか、というように。日本とアジアとの関係を読みながら、日本はこれからどうふるまっていくべきなのかを考える。

 

自分は政治に対してどこか楽観的と言うか、無頓着なところがあって、最近それでは良くないのだろうなぁと思うのだけれど、一方で、ただ条件反射的に批判しているだけのように感じられる言葉に触れると、そうじゃなくて少しは認めたらどうよ、とも感じる。そうカリカリしないで。そこはどうだっていいんじゃないの?そう思うこともたくさんある。

 

長期的視点に立って、こうすべき、という想いをもつことは大事。本を読んで、他人の意見から学ぶのも大事。でも、他人がこういっているから、よく分からないけれど自分もそう思うようじゃなければ、と強迫観念にとらわれる必要は、たぶんない。他人は他人。それを受け入れたうえで自分はどう思うのよ、と自分自身に問いを立てて、出す答えを、大切にしたい。

 

 

 

不安の正体

これからどういう働き方をしたら自分の身体が喜ぶだろうか、と考える。

 

こんな働き方をしたいんだ、というおよそのイメージは湧いている。しかし、そこにはいつだって不安がつきまとう。できなかったらどうしよう。思い通りにならなかったときに、元に戻れないんじゃないか。というように。

 

その不安の正体を掴むのに、一歩近づいた気がした。将来に不安を抱くのは、「自分に体験に基づく感覚がなければならないのだ」と身体が訴えているから。そうであるならば、自分が体験して感動したこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、「またやりたいな」と思ったことなどを、ほんのささいなことでもいいから心にとどめておいて、その感覚を再現させるためにはどうしたらよいかという視点で考えると良いのではないか。そう考えれば、不安は消えるのではないか。

 

情報化社会では、情報をもとに考えることが大事だとされていますが、思考の出発点は体験に基づく感覚です。体験はライフハックできないことです。

 

不安と恐怖の高まりは、それだけでは生きていく上で危険だからと感覚が、身体が訴えているからではないでしょうか。

 

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

  • 作者:尹 雄大
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

手帳2021

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新しい手帳を買った。新年の始まりとともに手帳も新しくする、というのが自分にとって自然で、1月始まりの手帳をずっと使っていたけれど、数年前の1月に買いそびれて以来、4月始まりの手帳を使うようになった。1月始まりの手帳が翌3月まで掲載している(いたような気がする)からいけないんだ。

 

高橋書店のフェルテをずっと使っている。見開きで1か月を見ることができ、かつ1日の枠が比較的大きく、そこに予定を書き込めるのが好きだ。なので週ごとのページはほとんど使っていない。全ページのうち半分以上を無視しているようなものだ。けれど、これ以外の手帳をなかなか使う気になれない。特にこれより小さいポケット手帳は、小さくて持ち運びやすく便利なのだろうけれど、書きづらくて自分には合わない。

 

新しい手帳を買っても表紙は昨年と全く同じ。2020の数字が2021になっただけで、かわりばえはしない。けれど、それでいい。好きで使いやすい手帳を、ずっと使っていたい。そこに真新しさはいらない。

 

そば屋巡り

一つのお店を「行きつけ」と称して通い詰めるのではなく、浮気性の男のようにいろいろなお店に行っては、こっちはこれがおいしい、あっちにはこんな良いところがある、というように楽しむことを「〇〇巡り」という趣味と呼べるのであれば、自分にはいま、つい最近できた趣味がある。それが「そば屋巡り」だ。

 

昔からうどんが大好きで、むしろそばは苦手だった。コシのあるうどんと比べてボソボソしているイメージが強かった。だから家族でそば屋に行ってもうどんを注文していたし、大みそかは家族全員が年越しそばを食べる中自分はうどんを食べていた(祖母がそばと一緒に手打ちうどんを拵えてくれていた。いま思い出すと涙が出るくらいありがたい話だ)。そんな「そば嫌い」の自分がそばを好んで食べるようになったのは、割と最近のことだと思う。

 

自宅の近くに、おいしいそば屋さんがある。引っ越してきて、普段の食事に良い店はないかと探していて知ったお店だ。天せいろを食べることが多い。暖かいツユに入ったそばも好きだけれど、そのままのそばを、冷たいツユに少しづつつけながら食べるのが大好きだ。

 

しかしそば屋さんの本当の良いところ、飽きないところは、そのメニューの豊富さにある。ここでは天せいろ、と決めつけるのではなく、今日はじゃぁ鴨南蛮にしようかなとか、うどんにしてみようかなとか、ご飯ものに挑戦してみようかなとか、その日の気分でいろいろなものを食べることができるのが楽しい。

 

今日、散歩で隣駅近くまで歩いたついでに、そば屋さんに入った。初めて入るそのお店は店構えも良く、昔からやっているお店のような安心感もある。表に「牡蠣カレーうどん」とあって、たまにはこういうものもと思って、牡蠣カレーうどんと、あと玉子丼を注文した。とにかくおなかがすいていた。

 

やっぱりうどんもいいなぁとカレーをすする。久しぶりに食べた牡蠣もおいしい。昨日、美容院の帰りに寄ったそば屋では天ざるそばを食べたから、今日はうどんの気分だった。飽きないというのは、美味しく、何度も食べるために必要な要素だ。昔からラーメンは大好物だが、例えば好きな濃い味のラーメンを三日四日と連続で食べられますかと聞かれたら、いまは首を横に振る。夜ラーメンを食べたその翌日に体調を崩した数年前のことを思い出す。刺激に身を任せてがっつり食べて、それでも健康を維持できる身体ではなくなったということだ。

 

 

身体の神秘性

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先月末から1週間ほど、入院していた。脳梗塞。
 
夜中、急に右半身が痺れるような感覚に、驚いた。しばらくうとうとしていたらおさまったので安心したが、朝起きても痺れが続き、力が入らず、歩きづらかったので、これはまずいと思った。朝一で自宅近くの病院までなんとか歩いて行き、事情を説明し、みてもらったら、脳梗塞の疑いがあるということで、大きな病院に救急搬送。主治医に「椎骨動脈解離による脳梗塞」と診断され、入院した。気持ち的には元気だったし、それほど深刻なところまではイメージできず楽観視していたものの、半身が動かしづらく、また活舌も悪くなっていて、それはつらかった。手術はいらず、入院中はMRI検査とエコー検査とリハビリ、それ以外は血をさらさらにする薬を飲みながら安静にしていた。
 
首を通っている椎骨動脈が何かの拍子に裂けて?血液が詰まった状態。急に首を振ったときとか、ぶつかったときとか、整体とか、そういう外的要因で比較的若くてもかかる可能性がある病気のよう。偏食とか生活習慣による要因もゼロではないのだろうけれど、それほど心配することではないとのことだった。ただこれを機に食生活の見直しを心掛ける。
 
振り返ると、半身が痺れる数週間前から首筋から後頭部にかけての痛みはあった。しかし、寝違えたような、耐えられるレベルの痛みで、また数年前、激しい頭痛で病院に行って検査したが何事もなく「ストレスか何かではないでしょうか」と言われたこともあって、そのままにしていた。その痛みが動脈解離によるものだと思うと、ほんのちょっとの違和感を見逃さないことが大事なのだと実感した。数年健康診断を行っていなかったという後ろめたさもあったけれど、通常健康診断では行わないMRI検査でないと血管のことまでは分からないと知り、健康診断による早期発見も現実的には難しいよなぁとも思った。
 
今回気づいたのは、自分の身体の神秘性。なんとかして生きようと自然治癒力がはたらく。脳の血管が損傷で細くなったら、それを補うように新たな血管が生まれたりもするのだとか。37年間、「自分は健康だから」という自負から、「身体に対して敬意を持ち、気を遣う」という姿勢をおそろかにしていた。替えがきかないこの身体を、大切にしようと思った。
 

浮き沈みする心との付き合い方

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「ある意味チャンスだと思い、良いアップデートができればと感じます」ある作家さんのメッセージを見て、はっとなった。みんながみんな、対外的にはなんでもないようにふるまってはいるものの、どうしたらよいか本当はよく分からなくて、想像以上に自分の心がダメージを受けていることに驚いて、あわてふためいているのかもしれない。そういう状況でも、地に足をつけて、自分を成長させる絶好の機会なのだと捉えることができる人は、強いと思う。

 

時間は、たしかにたっぷりある。いままでだったら仕事をしたり遊んだりしているうちに通り過ぎて忘れ去ってしまうようなことを、ああでもないこうでもないと考えるようには、なった。自分も、先の作家さんのように、他人があわてふためいているなかで自分だけでもポジティブに、自身の成長のために試されている期間なのだと捉えて、虎視眈々と光が見えるのを待つ、そんな時期にしたいと思う。けれど、なかなか実際の行動として移すことができないから、困っている。思っているんだったらつべこべ言わずにやればいいのにと、誰よりも自分が自分に突っ込んでいる。

 

一番強いなぁと思うのは、周りがどんな境遇であっても、気分がそれに左右されることなく、常に一定の心持ちで過ごせる人。仕事のクオリティがその日の気分やその日の天気によって左右されるようではいけないのと同じように、ウイルスが蔓延しようが、緊急事態でお店が閉まっていようが、落ち込まず、マイペースで過ごす。そんな「動じない心」を持てたらだどれだけ生きやすいだろう。

 

そこまでの境地にはなかなかたどり着けそうにない。なので現実問題として自分が目指すのは、「まわりの環境によって気分の浮き沈みはどうしても生じる。それは仕方ないことなので、そうならないように頑張るのではなく、『自分は状況に気分が左右される弱い人間である』ということをまずは認めて、そのうえでどうやって沈んだ気持ちと付き合っていくかを考える」人だ。心がざわつく時点で「常に一定の心持ちで過ごせる人」より劣ってはいる。けれど、まぁそれはしょうがないよね、と諦めて、ざわついた心に寄り添う方法を考える。もうこれ以上落ちたら死んでしまう、というラインまで行かないための命綱だけはしっかりと握る。何があってもその握力だけは緩めない。そういう心持ちで、過ごせたらと思う。

 

目の前の本

本屋に行って本を買うことが習慣のようになっている。もっと言うと、習慣にすることを自分に課しているような気持でいる。だから、一瞬でも読みたいと思った本がどんどんと手元にたまることになる。

 

そういう本がたくさん本棚にあるのを見ると、目の前にあるこれらの本を読まなくてどうするの、という気持ちになる。次の本を次の本を、と本屋で探している場合ではないでないか、と。もちろん、少しでも興味のある本は手に取りたいという欲望は否定しない。けれど、そういう「次の本」に日常的に目移りすることで、いま目の前の本棚にある本をじっくり楽しむ時間をないがしろにしてはいけない、とも思う。いま目の前の本棚にある本をじっくり読もうとしたときに、まだ読み終えていない本がたくさん本棚にスタンバイしていると思うと、「次はこの本を、次はこの本を」と先のことを考えてしまって集中できない。これは良くない。

 

というわけで、しばらく本屋で新しい本に手を伸ばすのは意識的に抑えて、読みかけの本を一冊ずつ、じっくり、ゆっくり味わおうと思う。これがしばらく時間が経つとまた気分は変わって、新しい情報を迎え入れるべきだ、気になったものもしばらくしたら忘れてしまうのだから、そうなる前に買っておくことがまず大切なのだ、なんて思って本屋に足を運ぶようになるのだろう。新しい本を求めようとする気持ちと、それを抑えて目の前の本を味わおうとする気持ちは、波長の長い音波のように交互に必ずやってくる。月の満ち欠けのように。太陽が東から昇って西に沈み、また東に現れるように。

 

あのね、目の前の人間を救えない人が、もっとでかいことで助けられるわけないじゃないですか。歴史なんて糞食らえですよ。目の前の危機を救えばいいじゃないですか。今、目の前で泣いている人を救えない人間がね、明日、世界を救えるわけがないんですよ。(砂漠/伊坂幸太郎)

 

 

わたしウエディング・ドレス君を待つ

THE YELLOW MONKEYの新しいライブアルバム「Live Loud」を聴いている。特にDisc 2はレア曲も多く、聴いていて興奮する。

 

ボーナストラックに特に注目していた。『Wedding Dress~マリーにくちづけ』とある。「マリーにくちづけ」のライブ盤が聴ける!と驚き、うれしくなり、その前の「Wedding Dress」の文字を良く見ず、勘違いしていた。アルバム『smile』は1曲目「Smile」の神聖なパイプオルガンの音から始まり、そのまま「マリーにくちづけ」へとなだれ込む。だから「Smile」なのだと思っていた。実際、「Smile」の「Always smile smile smile smile」とナレーションが響く。そしてそのまま「マリーにくちづけ」が始まるかと思いきや、突然聴き覚えのないイントロが。うん?と頭にはてなマークが浮かぶ。聴いたことのない音。何の曲でもない、曲前の演奏か?しかし「わたしウエディング・ドレス君を待つ」と歌が始まり、いよいよ訳が分からなくなった。

 

「Wedding Dress」文字を良く見て、あぁ、なんとなく見た事あるタイトルだ、と気づいた。だけど曲自体は正直初めて聴く。『Bunched Birth』とか、1stの『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE』の収録曲か?と思ってアルバムを確かめるが、そんな曲は入っていない。じゃぁどこに収録されているの?といよいよ分からなくなり、調べたら、「太陽が燃えている」のカップリングになるはずがお蔵入りとなり、のちにベスト盤『TRIAD YEARS THE VERY BEST OF THE YELLOW MONKEY act Ⅱ』にのみ収録された珍しい曲のようだ(出典:ウィキペディア)

 

そういうことか。それにしてもいい曲じゃないか。初めて聴いたのにそう思えないような、シンプルなメロディ。そう思って聴いていたら、アウトロでさらに驚くことになる。

 

ギターフレーズになんとなく聴き覚えがあるのだが、すぐに思い出せない。何かクラシックの曲か何かで、アドリブで弾いているのだろうか?それにしても何の曲だっけ?と悩むこと10分。浮かんだのは「ゼクシィ」のCM。そうだ、「結婚行進曲」だ。でも何で「結婚行進曲」を?その意味が分からない。結局「結婚」と「Wedding Dress」が結びついて、だからなのかと気づいたのは、「結婚行進曲」だと気づいたそのさらに数分後だった。

 

オマージュでアドリブ?粋なことをするなぁ、なんて思いながらライブ盤を聴き、そのあとでアルバム音源を聴いたら、音源がすでに「結婚行進曲」だった。そういうことか・・・。

 

未知曲の存在に驚き、クラシックの挿入に驚き、結婚行進曲とWedding Dressという繋がりに驚き、それが音源からであることに驚く。4度の驚きをもたらしたボーナストラックだけを、何度も聴いている。女性目線の不思議な歌詞がまたカッコいい。

 

ああ近所のイヤなご婦人に 惨めなレッテルをはられ

後ろ指を指されるじゃない だから早く来て

 

たまに我儘も言ったわよ 料理も掃除も好きじゃない

そんな事しなくても生きてける だから早く来て

 

 

街の本屋

昨年参加したトークイベントで話をしていた店主による本屋さんが、名古屋にオープンした。クラウドファンディングで開業資金を募り、成功。建物の2階をどのように活用したら楽しいか、意見交換をした。本格的な始動をSNSで知り、新しい街の本屋さんの立ち上げに間接的に立ち会えたような気がして、うれしかった。

 

SNSのプロフィール欄には、「個人で持続できる街の本屋をめざします」と書いてある。個人で持続できる街の本屋が増えれば、本を媒介として暮らしをいままで以上に楽しめる人もそれに比例して増えていくに違いない。そういう街の本屋のロールモデルになってほしい。

 

touten-bookstore.net

「読む」ことと「書く」こと

「読む」ことと「書く」こととの関係は、呼吸に似ている。そのことを若松英輔さんの本で読んで、なるほどと思った。

 

これまで自分は、本を読むことだけを呼吸ととらえていた。読書は別に崇高なことでもなんでもない。ただ読みたいから読むものであって、他人から読みなさいと強要されて嫌々読むものではない。仮に他人から禁止されたって息を吸って吐く。それと同じだ。たくさん読むことそれ自体をもって他人から尊敬されるものでもないし、逆に読む本が少ないことそれ自体をもって他人から軽んじられるものでもない。量はどうであれ、本を読む=当たり前だという意味で、本を読むことを呼吸にたとえていた。

 

しかし、本当はそうではない。本を読むだけでは息を吸っているだけと同じだ。息を吸ったら、吐かなければならない。また、吐かなければ、次に吸うことができない。読んだら、書くことで出力しなければならない。書くことで、これまで表現しえなかった自分の想いに言葉を駆使して姿を与えることができる。そのことに気づき、読むことと同じくらい書くことを大切にしたいと思った。

 

「吸う」は「読む」です。「吐く」が「書く」です。深く吸うためには深く吐かねばなりません。ですから、よく読みたければ書かなければならない。よく書きたいと思えば、読まなければならないということになります。

 

「書く」とは、言葉によって未知なる「おもい」に「姿」を与えようとする営みです。 

 

14歳の教室 どう読みどう生きるか

14歳の教室 どう読みどう生きるか

 

 

本屋にあったらいいなぁと思うもの

本屋さんで、本のほかにこんなサービスがあったら楽しいだろうなぁ、というものを考える。本を売る、ととらえるのではなく、そこからさらに視点を広げて、本を読みながら快適な時間を過ごす、そんな体験を売る、ととらえる。そうするとおのずとアイデアがひらめいてくる。

 

ブックカバー。文庫や新書につける紙のカバー、街の本屋でつけてくれる店名入りのものも決して悪くはないのだけれど、それではなんだか味気ない。こだわってつくったものをつけたら本を持ち運ぶのも楽しみになる。それをオーダーしてくれる作家さんを紹介する、というのも良いかもしれない。

 

栞。文庫や新書にもともと挟まっている栞はとにかくかっこ悪い。ページを開いて、栞が目に入った瞬間に、あぁ、自分はいま本を読んで内面から豊かになっている最中なんだとわくわくするような、士気があがるような、そんなオリジナルの栞があったら素敵だ。これも、こだわってつくってみるのもありだし、オーダーでつくってくれる作家さんを探して紹介するのもありだ。

 

蔵書票。本を買って気に入ったら、その本に自分の名前と自分を象徴するイラストを刻印する。なんて美しい文化だろう。蔵書票の魅力にとりつかれて以降私は、気に入った本にオリジナルの蔵書票をべたべた貼っている。「この本は私のものだ。この本とは一生付きあうんだ」こう思えるような本に出会えた喜びを表現できる蔵書票を、もっとたくさんの人に知ってほしい。だから、本と蔵書票のオーダー制作をセットにしたら絶対に楽しめると思う。

 

コースター。自宅での読書のお供に温かい飲み物、例えば珈琲なんて最高に相性が良い。マグカップを置くコースターが自分だけのこだわりのものだったら、きっと珈琲を淹れること自体が楽しみになる。

 

色鉛筆。本を読んでいると、これは自分の心に深く刻みたい、そんな言葉に出会うことがたくさんある。そんなとき、ページの隅を折る、いわゆるドッグイヤーも良いけれど、色鉛筆で線をひくのもおすすめだ。自分はいま、レインボーペンシルを愛用している。その時によって違う色が出るのが楽しいから好きだ。「好きな本はなるべく汚したくない。アンダーラインは引きたくない」と思う時期もあったけれど、いまは気にせずガシガシ線を引く。ただこれは他人から借りた本ではできない。あくまで自分で買って、自分のものとした本にだけできることだ。だから、買うことに意味がある。

  

こうして考えると、本を読む暮らしを楽しむコツはたくさんあるのだということに気づく。「別になんだっていいや」で済ますのではなく、なんでもいいからちょっとこだわってみるだけで、劇的に楽しい読書時間が過ごせると思う。

 

そば屋

そばが好きだ。正確に言うと、そば屋でそばを食べるのが好きだ。何か大きなきっかけがあって、急にそう思うようになった、というわけではないと思う。いつの間にかそう思うようになっていた、という感じだ。昔はむしろそばは苦手だった。大みそかに家族で年越しそばを食べる中、自分だけうどんを食べていたくらいだ。いつから好きになったんだ?

 

そば屋、特に昔から毎日変わらず営業し続けている風情あるそば屋さんには、きっと美味しいそばが食べられるという期待感がある。そして実際食べると、期待通りで、また来たいと思う。

 

今日、自宅から歩いて数分のところにあるそば屋さんに行って、手打ち天せいろを食べた。通って食べたい味だと思った。ただ「行きつけのそば屋さんはここです」と言いたいだけじゃないか、と言われると実はその通りだ。行きつけのそば屋さんがあるという既成事実が欲しかった。でも、職場のある街として自由が丘に来て8年、そこに引っ越して4月でまる1年が経つのだし、そういうお店の一つや二つ、あったっていいじゃないか。いや、それがないなんて寂しいじゃないか。

 

メニューが豊富なのが本当に良い。これだけの食材を毎日仕入れいているのかとびっくりする。次に来たときはじゃあこれを食べてみよう、というワクワク感もある。よし、次は丼とのセットにしよう。

 

Live Loud

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THE YELLOW MONKEYのライブアルバム「Live Loud」が届いた。30周年記念ドームツアーでの演奏をまとめたコンプリート盤だ。前回のライブアルバム「SO ALIVE」を興奮しながら聴いていたのが22年前だというのだから、時間の経過を感じずにいられない。歌詞カードの表紙のピンク色は褪せて、なんだか良くわからない怠い色になっている。その間、彼らの音がもつ迫力、エネルギーは衰えることなく、むしろより丁寧に歌い、演奏するパフォーマンスを目の当たりにできた奇跡を、かみしめている。

 

参加した東京ドーム公演では歌うことも叫ぶこともできず、拍手とフリフラで気持ちを表現した。その異様とも言える独特の空気が選出曲に封じ込められている。最後の花火で痺れが最高潮に達した「プライマル。」。ファンの声による歌声に涙腺がゆるんだ「バラ色の日々」。赤いフリフラの海と合唱に膝の力が抜けそうになった「JAM」。まさかの1曲目で早くも声を出しそうになった美しいストリングス曲「真珠色の革命時代」。去年の、4月に潰えたライブの雪辱を晴らした日を、自宅にいながら思い出した。聞こえない歓声に、自分だけの記憶を重ねる。

 

第二シーズンを終え、また休止期間にはいったことで、17年前に戻ったような感じだ。だけど今度は絶望はない。「THE YELLOW MONKEYは、この先、絶対に解散しない」とはっきりと言っているから。次があるのだという期待の有無によって、気持ちがこうも変わるものなのか。

 

永遠とかあるかどうかもう少し調べたいから

今日はずっと一緒にいてくれないか

(THE YELLOW MONKEY / 未来はみないで)