知性的であろうとする姿勢

自分が知性的にふるまおうとすることを、忘れていることにふと気づきました。知性的にふるまわなければならないということは、なんとなく心では分かっています。その時の感情や気分に任せてまるで客観的でないことを言い、自分の考えこそが正しいのだと曲げずに、他人の意見に耳を傾けない。そうした態度が良くないということは頭では分かっているけれど、ではそれとは真逆の、実証性や客観性を重視し、自分の考えが誤っている可能性を認め、他人の意見に耳を傾けて自分にない正しさを探そうとする姿勢を意識して貫いているかと問われると、首を横に振らざるを得ません。そうした姿勢でいるためには意識して努めなければならないのだと、問いを受けて初めて気づいたくらいです。

 

いま周囲がギスギスして、何か刺激的な意見や思想に飛びついたり、逆に目を逸らしたり。匿名で、自分の言葉に責任を取らなくてよいことを盾に、他人の意見に強い口調でただ批判したり、場合によっては誹謗中傷したり。そういう状況は、「知性的にふるまおう」とする姿勢に背を向けて、その瞬間の空気に乗って発意された結果としてもたらされているのかもしれません。だとすると、皆が知性的であろうとすること、そのためには逆のことに目を向けて、「反知性的であるとはどういう状態か」を知り、そうならないように努めることが、大事なのだと思うのです。

 

長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。

 

知性が充分に働くには時間と労力が必要である。同時に、時間と労力をかけて考えても考えても、なんの地平も開けず、したがって何の結果も得られない可能性もある。そういう「空振りのリスク」を潔く引き受け、知的投資をドブに捨てる覚悟の上で、それでも誠実に”発見”や”気づき“を希求すること。それが、真に「知的な態度」なのではないか、と思う。

 

時間や心の余裕がないとき、人は反知性主義に陥りやすいということ。そしてそのとき、反知性主義的ソリューションがあたかも「ゴール」への近道であるかのごとく錯覚しやすい、ということ。