身体の神秘性

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先月末から1週間ほど、入院していた。脳梗塞。
 
夜中、急に右半身が痺れるような感覚に、驚いた。しばらくうとうとしていたらおさまったので安心したが、朝起きても痺れが続き、力が入らず、歩きづらかったので、これはまずいと思った。朝一で自宅近くの病院までなんとか歩いて行き、事情を説明し、みてもらったら、脳梗塞の疑いがあるということで、大きな病院に救急搬送。主治医に「椎骨動脈解離による脳梗塞」と診断され、入院した。気持ち的には元気だったし、それほど深刻なところまではイメージできず楽観視していたものの、半身が動かしづらく、また活舌も悪くなっていて、それはつらかった。手術はいらず、入院中はMRI検査とエコー検査とリハビリ、それ以外は血をさらさらにする薬を飲みながら安静にしていた。
 
首を通っている椎骨動脈が何かの拍子に裂けて?血液が詰まった状態。急に首を振ったときとか、ぶつかったときとか、整体とか、そういう外的要因で比較的若くてもかかる可能性がある病気のよう。偏食とか生活習慣による要因もゼロではないのだろうけれど、それほど心配することではないとのことだった。ただこれを機に食生活の見直しを心掛ける。
 
振り返ると、半身が痺れる数週間前から首筋から後頭部にかけての痛みはあった。しかし、寝違えたような、耐えられるレベルの痛みで、また数年前、激しい頭痛で病院に行って検査したが何事もなく「ストレスか何かではないでしょうか」と言われたこともあって、そのままにしていた。その痛みが動脈解離によるものだと思うと、ほんのちょっとの違和感を見逃さないことが大事なのだと実感した。数年健康診断を行っていなかったという後ろめたさもあったけれど、通常健康診断では行わないMRI検査でないと血管のことまでは分からないと知り、健康診断による早期発見も現実的には難しいよなぁとも思った。
 
今回気づいたのは、自分の身体の神秘性。なんとかして生きようと自然治癒力がはたらく。脳の血管が損傷で細くなったら、それを補うように新たな血管が生まれたりもするのだとか。37年間、「自分は健康だから」という自負から、「身体に対して敬意を持ち、気を遣う」という姿勢をおそろかにしていた。替えがきかないこの身体を、大切にしようと思った。
 

浮き沈みする心との付き合い方

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「ある意味チャンスだと思い、良いアップデートができればと感じます」ある作家さんのメッセージを見て、はっとなった。みんながみんな、対外的にはなんでもないようにふるまってはいるものの、どうしたらよいか本当はよく分からなくて、想像以上に自分の心がダメージを受けていることに驚いて、あわてふためいているのかもしれない。そういう状況でも、地に足をつけて、自分を成長させる絶好の機会なのだと捉えることができる人は、強いと思う。

 

時間は、たしかにたっぷりある。いままでだったら仕事をしたり遊んだりしているうちに通り過ぎて忘れ去ってしまうようなことを、ああでもないこうでもないと考えるようには、なった。自分も、先の作家さんのように、他人があわてふためいているなかで自分だけでもポジティブに、自身の成長のために試されている期間なのだと捉えて、虎視眈々と光が見えるのを待つ、そんな時期にしたいと思う。けれど、なかなか実際の行動として移すことができないから、困っている。思っているんだったらつべこべ言わずにやればいいのにと、誰よりも自分が自分に突っ込んでいる。

 

一番強いなぁと思うのは、周りがどんな境遇であっても、気分がそれに左右されることなく、常に一定の心持ちで過ごせる人。仕事のクオリティがその日の気分やその日の天気によって左右されるようではいけないのと同じように、ウイルスが蔓延しようが、緊急事態でお店が閉まっていようが、落ち込まず、マイペースで過ごす。そんな「動じない心」を持てたらだどれだけ生きやすいだろう。

 

そこまでの境地にはなかなかたどり着けそうにない。なので現実問題として自分が目指すのは、「まわりの環境によって気分の浮き沈みはどうしても生じる。それは仕方ないことなので、そうならないように頑張るのではなく、『自分は状況に気分が左右される弱い人間である』ということをまずは認めて、そのうえでどうやって沈んだ気持ちと付き合っていくかを考える」人だ。心がざわつく時点で「常に一定の心持ちで過ごせる人」より劣ってはいる。けれど、まぁそれはしょうがないよね、と諦めて、ざわついた心に寄り添う方法を考える。もうこれ以上落ちたら死んでしまう、というラインまで行かないための命綱だけはしっかりと握る。何があってもその握力だけは緩めない。そういう心持ちで、過ごせたらと思う。

 

目の前の本

本屋に行って本を買うことが習慣のようになっている。もっと言うと、習慣にすることを自分に課しているような気持でいる。だから、一瞬でも読みたいと思った本がどんどんと手元にたまることになる。

 

そういう本がたくさん本棚にあるのを見ると、目の前にあるこれらの本を読まなくてどうするの、という気持ちになる。次の本を次の本を、と本屋で探している場合ではないでないか、と。もちろん、少しでも興味のある本は手に取りたいという欲望は否定しない。けれど、そういう「次の本」に日常的に目移りすることで、いま目の前の本棚にある本をじっくり楽しむ時間をないがしろにしてはいけない、とも思う。いま目の前の本棚にある本をじっくり読もうとしたときに、まだ読み終えていない本がたくさん本棚にスタンバイしていると思うと、「次はこの本を、次はこの本を」と先のことを考えてしまって集中できない。これは良くない。

 

というわけで、しばらく本屋で新しい本に手を伸ばすのは意識的に抑えて、読みかけの本を一冊ずつ、じっくり、ゆっくり味わおうと思う。これがしばらく時間が経つとまた気分は変わって、新しい情報を迎え入れるべきだ、気になったものもしばらくしたら忘れてしまうのだから、そうなる前に買っておくことがまず大切なのだ、なんて思って本屋に足を運ぶようになるのだろう。新しい本を求めようとする気持ちと、それを抑えて目の前の本を味わおうとする気持ちは、波長の長い音波のように交互に必ずやってくる。月の満ち欠けのように。太陽が東から昇って西に沈み、また東に現れるように。

 

あのね、目の前の人間を救えない人が、もっとでかいことで助けられるわけないじゃないですか。歴史なんて糞食らえですよ。目の前の危機を救えばいいじゃないですか。今、目の前で泣いている人を救えない人間がね、明日、世界を救えるわけがないんですよ。(砂漠/伊坂幸太郎)

 

 

わたしウエディング・ドレス君を待つ

THE YELLOW MONKEYの新しいライブアルバム「Live Loud」を聴いている。特にDisc 2はレア曲も多く、聴いていて興奮する。

 

ボーナストラックに特に注目していた。『Wedding Dress~マリーにくちづけ』とある。「マリーにくちづけ」のライブ盤が聴ける!と驚き、うれしくなり、その前の「Wedding Dress」の文字を良く見ず、勘違いしていた。アルバム『smile』は1曲目「Smile」の神聖なパイプオルガンの音から始まり、そのまま「マリーにくちづけ」へとなだれ込む。だから「Smile」なのだと思っていた。実際、「Smile」の「Always smile smile smile smile」とナレーションが響く。そしてそのまま「マリーにくちづけ」が始まるかと思いきや、突然聴き覚えのないイントロが。うん?と頭にはてなマークが浮かぶ。聴いたことのない音。何の曲でもない、曲前の演奏か?しかし「わたしウエディング・ドレス君を待つ」と歌が始まり、いよいよ訳が分からなくなった。

 

「Wedding Dress」文字を良く見て、あぁ、なんとなく見た事あるタイトルだ、と気づいた。だけど曲自体は正直初めて聴く。『Bunched Birth』とか、1stの『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE』の収録曲か?と思ってアルバムを確かめるが、そんな曲は入っていない。じゃぁどこに収録されているの?といよいよ分からなくなり、調べたら、「太陽が燃えている」のカップリングになるはずがお蔵入りとなり、のちにベスト盤『TRIAD YEARS THE VERY BEST OF THE YELLOW MONKEY act Ⅱ』にのみ収録された珍しい曲のようだ(出典:ウィキペディア)

 

そういうことか。それにしてもいい曲じゃないか。初めて聴いたのにそう思えないような、シンプルなメロディ。そう思って聴いていたら、アウトロでさらに驚くことになる。

 

ギターフレーズになんとなく聴き覚えがあるのだが、すぐに思い出せない。何かクラシックの曲か何かで、アドリブで弾いているのだろうか?それにしても何の曲だっけ?と悩むこと10分。浮かんだのは「ゼクシィ」のCM。そうだ、「結婚行進曲」だ。でも何で「結婚行進曲」を?その意味が分からない。結局「結婚」と「Wedding Dress」が結びついて、だからなのかと気づいたのは、「結婚行進曲」だと気づいたそのさらに数分後だった。

 

オマージュでアドリブ?粋なことをするなぁ、なんて思いながらライブ盤を聴き、そのあとでアルバム音源を聴いたら、音源がすでに「結婚行進曲」だった。そういうことか・・・。

 

未知曲の存在に驚き、クラシックの挿入に驚き、結婚行進曲とWedding Dressという繋がりに驚き、それが音源からであることに驚く。4度の驚きをもたらしたボーナストラックだけを、何度も聴いている。女性目線の不思議な歌詞がまたカッコいい。

 

ああ近所のイヤなご婦人に 惨めなレッテルをはられ

後ろ指を指されるじゃない だから早く来て

 

たまに我儘も言ったわよ 料理も掃除も好きじゃない

そんな事しなくても生きてける だから早く来て

 

 

街の本屋

昨年参加したトークイベントで話をしていた店主による本屋さんが、名古屋にオープンした。クラウドファンディングで開業資金を募り、成功。建物の2階をどのように活用したら楽しいか、意見交換をした。本格的な始動をSNSで知り、新しい街の本屋さんの立ち上げに間接的に立ち会えたような気がして、うれしかった。

 

SNSのプロフィール欄には、「個人で持続できる街の本屋をめざします」と書いてある。個人で持続できる街の本屋が増えれば、本を媒介として暮らしをいままで以上に楽しめる人もそれに比例して増えていくに違いない。そういう街の本屋のロールモデルになってほしい。

 

touten-bookstore.net

「読む」ことと「書く」こと

「読む」ことと「書く」こととの関係は、呼吸に似ている。そのことを若松英輔さんの本で読んで、なるほどと思った。

 

これまで自分は、本を読むことだけを呼吸ととらえていた。読書は別に崇高なことでもなんでもない。ただ読みたいから読むものであって、他人から読みなさいと強要されて嫌々読むものではない。仮に他人から禁止されたって息を吸って吐く。それと同じだ。たくさん読むことそれ自体をもって他人から尊敬されるものでもないし、逆に読む本が少ないことそれ自体をもって他人から軽んじられるものでもない。量はどうであれ、本を読む=当たり前だという意味で、本を読むことを呼吸にたとえていた。

 

しかし、本当はそうではない。本を読むだけでは息を吸っているだけと同じだ。息を吸ったら、吐かなければならない。また、吐かなければ、次に吸うことができない。読んだら、書くことで出力しなければならない。書くことで、これまで表現しえなかった自分の想いに言葉を駆使して姿を与えることができる。そのことに気づき、読むことと同じくらい書くことを大切にしたいと思った。

 

「吸う」は「読む」です。「吐く」が「書く」です。深く吸うためには深く吐かねばなりません。ですから、よく読みたければ書かなければならない。よく書きたいと思えば、読まなければならないということになります。

 

「書く」とは、言葉によって未知なる「おもい」に「姿」を与えようとする営みです。 

 

14歳の教室 どう読みどう生きるか

14歳の教室 どう読みどう生きるか

 

 

本屋にあったらいいなぁと思うもの

本屋さんで、本のほかにこんなサービスがあったら楽しいだろうなぁ、というものを考える。本を売る、ととらえるのではなく、そこからさらに視点を広げて、本を読みながら快適な時間を過ごす、そんな体験を売る、ととらえる。そうするとおのずとアイデアがひらめいてくる。

 

ブックカバー。文庫や新書につける紙のカバー、街の本屋でつけてくれる店名入りのものも決して悪くはないのだけれど、それではなんだか味気ない。こだわってつくったものをつけたら本を持ち運ぶのも楽しみになる。それをオーダーしてくれる作家さんを紹介する、というのも良いかもしれない。

 

栞。文庫や新書にもともと挟まっている栞はとにかくかっこ悪い。ページを開いて、栞が目に入った瞬間に、あぁ、自分はいま本を読んで内面から豊かになっている最中なんだとわくわくするような、士気があがるような、そんなオリジナルの栞があったら素敵だ。これも、こだわってつくってみるのもありだし、オーダーでつくってくれる作家さんを探して紹介するのもありだ。

 

蔵書票。本を買って気に入ったら、その本に自分の名前と自分を象徴するイラストを刻印する。なんて美しい文化だろう。蔵書票の魅力にとりつかれて以降私は、気に入った本にオリジナルの蔵書票をべたべた貼っている。「この本は私のものだ。この本とは一生付きあうんだ」こう思えるような本に出会えた喜びを表現できる蔵書票を、もっとたくさんの人に知ってほしい。だから、本と蔵書票のオーダー制作をセットにしたら絶対に楽しめると思う。

 

コースター。自宅での読書のお供に温かい飲み物、例えば珈琲なんて最高に相性が良い。マグカップを置くコースターが自分だけのこだわりのものだったら、きっと珈琲を淹れること自体が楽しみになる。

 

色鉛筆。本を読んでいると、これは自分の心に深く刻みたい、そんな言葉に出会うことがたくさんある。そんなとき、ページの隅を折る、いわゆるドッグイヤーも良いけれど、色鉛筆で線をひくのもおすすめだ。自分はいま、レインボーペンシルを愛用している。その時によって違う色が出るのが楽しいから好きだ。「好きな本はなるべく汚したくない。アンダーラインは引きたくない」と思う時期もあったけれど、いまは気にせずガシガシ線を引く。ただこれは他人から借りた本ではできない。あくまで自分で買って、自分のものとした本にだけできることだ。だから、買うことに意味がある。

  

こうして考えると、本を読む暮らしを楽しむコツはたくさんあるのだということに気づく。「別になんだっていいや」で済ますのではなく、なんでもいいからちょっとこだわってみるだけで、劇的に楽しい読書時間が過ごせると思う。

 

そば屋

そばが好きだ。正確に言うと、そば屋でそばを食べるのが好きだ。何か大きなきっかけがあって、急にそう思うようになった、というわけではないと思う。いつの間にかそう思うようになっていた、という感じだ。昔はむしろそばは苦手だった。大みそかに家族で年越しそばを食べる中、自分だけうどんを食べていたくらいだ。いつから好きになったんだ?

 

そば屋、特に昔から毎日変わらず営業し続けている風情あるそば屋さんには、きっと美味しいそばが食べられるという期待感がある。そして実際食べると、期待通りで、また来たいと思う。

 

今日、自宅から歩いて数分のところにあるそば屋さんに行って、手打ち天せいろを食べた。通って食べたい味だと思った。ただ「行きつけのそば屋さんはここです」と言いたいだけじゃないか、と言われると実はその通りだ。行きつけのそば屋さんがあるという既成事実が欲しかった。でも、職場のある街として自由が丘に来て8年、そこに引っ越して4月でまる1年が経つのだし、そういうお店の一つや二つ、あったっていいじゃないか。いや、それがないなんて寂しいじゃないか。

 

メニューが豊富なのが本当に良い。これだけの食材を毎日仕入れいているのかとびっくりする。次に来たときはじゃあこれを食べてみよう、というワクワク感もある。よし、次は丼とのセットにしよう。

 

Live Loud

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THE YELLOW MONKEYのライブアルバム「Live Loud」が届いた。30周年記念ドームツアーでの演奏をまとめたコンプリート盤だ。前回のライブアルバム「SO ALIVE」を興奮しながら聴いていたのが22年前だというのだから、時間の経過を感じずにいられない。歌詞カードの表紙のピンク色は褪せて、なんだか良くわからない怠い色になっている。その間、彼らの音がもつ迫力、エネルギーは衰えることなく、むしろより丁寧に歌い、演奏するパフォーマンスを目の当たりにできた奇跡を、かみしめている。

 

参加した東京ドーム公演では歌うことも叫ぶこともできず、拍手とフリフラで気持ちを表現した。その異様とも言える独特の空気が選出曲に封じ込められている。最後の花火で痺れが最高潮に達した「プライマル。」。ファンの声による歌声に涙腺がゆるんだ「バラ色の日々」。赤いフリフラの海と合唱に膝の力が抜けそうになった「JAM」。まさかの1曲目で早くも声を出しそうになった美しいストリングス曲「真珠色の革命時代」。去年の、4月に潰えたライブの雪辱を晴らした日を、自宅にいながら思い出した。聞こえない歓声に、自分だけの記憶を重ねる。

 

第二シーズンを終え、また休止期間にはいったことで、17年前に戻ったような感じだ。だけど今度は絶望はない。「THE YELLOW MONKEYは、この先、絶対に解散しない」とはっきりと言っているから。次があるのだという期待の有無によって、気持ちがこうも変わるものなのか。

 

永遠とかあるかどうかもう少し調べたいから

今日はずっと一緒にいてくれないか

(THE YELLOW MONKEY / 未来はみないで)

 

誕生日の記憶

家族の誕生日を1週間間違えた。何月何日生まれ、と正確に頭には入っている。それなのに、1週間前の日曜日、今日は誕生日だからとケーキを買い、祝った。最初こそノッてくれていた家族に「今日・・・誕生日?」と疑問を打ち明けられたときは、自分に起こったことが理解できず、焦った。

 

その日が何日であるかを勘違いしていたわけではない。ということは誕生日を覚えていなかったんじゃないか、と言われそうだけれど、それは違う。ではなぜ勘違いしたのか。そんなの、説明できない。自分が一番分からなくて戸惑っているのだから。

 

変な感じの1週間が過ぎ、正しい誕生日当日、またケーキを買って祝う。年間通してケーキは大好きで、誕生日云々関係なく買って食べる日常だ。ケーキを食べるのに「誕生日だから」という理由は必要ない。「いつだって食べたい」という、心に巣喰うほんのわずかな欲が、家族の誕生日の記憶を頭の中ですり替えたのかもしれない。

 

好きな10%

外出自粛のムードを言い訳に、外に出ないで一日家で過ごした。金曜日の夜に土曜日のやることを決めたのだけれど、できていない。寝違えたのか、ちょっと首が痛く、また頭もずきずきと痛む。外は冷たい雨。明日には雪に変わるかもしれないという。ひんやりとした空気は身を引き締める一方、外へ出て身体を動かそうという気を削ぐ。久しぶりに降った、思いのほか多い雨を窓越しに見ながら、そういう日もあると自分に言い聞かせ、ぼーっとしていた。

 

こういうときは不思議と、自身を変えるような刺激的な本を読んだり、興奮するような音楽を聴いたりすることさえも、気が進まない。ご飯を食べて、横になって、悪いと思いながらも甘いものを口にする。せいぜいが、注文して届いた中古本(エッセイ)をパラパラとめくってその文体をなんとなく味わうくらいだ。まるで建設的でない。でもそんな過ごし方を、そうすることでちょっとでも感染拡大防止に貢献しているのだ、と思うことで正当化している。

 

「見えないものに、耳をすます」(アノニマ・スタジオ)で、音楽家の大友良英さんを知った。NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」のテーマ曲を手掛けた方だ。元々知っているか、「あまちゃん」を当時普通に楽しんだ人は知っているであろう音楽家を、医師・稲葉俊郎さんの著書だからと手に取った本で知った。他者へのアプローチが、他人とちょっとずれている。

 

その音楽はとびぬけて明るく、軽く、力をもっている。こういう音楽が世の中には必要であり、自分もまた必要としていると強く感じる。

 

大友良英さんはこの本の中のインタビューで、好きな音楽と嫌いな音楽は何ですか?と聞かれ、正直な胸の内を語っている。その言葉に、なにも、よりたくさんの音楽を好きになろうと努める必要はないんだ、と肩の力が抜けたような気がした。

 

本当のことを言うと、今現在、世の中で流れている音楽の九割は苦手なんです。

街で流れている多くの音楽は苦痛でしかなく、なので正直に好き嫌いを言ってしまうと友だちを失いかねないので、普段はあまり言わないことにしています。とはいえ一割も好きな音楽があるってことはむしろすごいことかと。

 

世の90%の音楽をなんとか好きになろうと意気込んだところで、意味がない。自分にとって好きだなぁと思える10%に(もしかしたら1%かもしれない)たどり着くことと、その何に好きと感じる要素があるのかを発見することが、大切なのだと思った。 

 

見えないものに、耳をすます ―音楽と医療の対話

見えないものに、耳をすます ―音楽と医療の対話

 

 

こういう楽しい音楽、音が出た瞬間にわっと空気が湧くような音楽、これがまさに、自分にとっての好きな10%の音楽だ。

 


坂本龍一+勝井祐二+ユザーン+大友良英 - あまちゃん オープニングテーマ @ フェスティバルFUKUSHIMA! 2013

 

1からはじめる

これまでに蓄えてきた知識や体験を一旦リセットして、新しいことを一からはじめる。そのことにこれだけ恐怖を感じるとは思っていなかった。もっと自分は堂々として良いはずで、逆境に負けないそれなりの強さがあると思っていたから、その感情に気づいたときは正直幻滅し、情けなさを感じた。けれどいまは、その感情も何となく受け入れている。その行動を起こすことに恐怖を感じるということは、その行動を起こすことによって生じうるリスクを察知して、注意せよと自身が警告を鳴らしているのかもしれない。もしくは、そういう逆境のさらにその先に、目指すべき成長が待っているのだと暗示しているのかもしれない。どのように捉えるかによって、行動を起こすための勇気の量が変わる。

 

これまでの仕事のやり方を繰り返すのか。それとも、そこに発展を望むのか。後者を選ぼうとするのだけれど、自分にそのための勇気がないことに気づく。そんなとき、どう考えたらよいのか。その問いに対する答えがあるような気がして、ふいに本棚から取り出し、ページをめくった。いま自分が注意して考えるべきはここにあるのだという、割と確信に近い予感がある。

 

1からはじめる

1からはじめる

 

 

5分

5分あればできるだろうと、言われることがある。

5分でできることなのに、なぜやらないのだ、と。

 

5分あればできることがわかっていて、

その5分が惜しいからやらないわけではない。

5分でできることをやらなかったということを、

その5分の労力を怠ったと思ってほしくない。

そういうときもあるかもしれないけれど、

たいていは、そうじゃない。

 

ひとつひとつは5分でできることかもしれないけれど、

やるべきことが100個あったら全部やるのに500分かかる。

8時間以上だ。

100個は大げさと言うかもしれないけれど、

それくらいたくさんやることがある人にとって、

やらなかったのは5分を惜しんだからと思われることは、

きっと心外だろう。

5分でできることくらい分かっている。

けれど同じことが100個あったら、

1個をこなしているときに頭に他の99個が浮かんだら、

1個に時間がかかることもある。

 

だから、

5分でできることなのに、なぜやらないのだと、

絶対に他人に言わないようにしよう。

そしてこれは、

5分であっても、1分であっても、5秒であっても、同じだ。

 

少年と犬

美容院へ。いつもとまるで変わらないマスターとの会話によって、世界はいつも通り進んでいることを実感する。過ぎし方は多少変わっても、心持ちは変わらない。変えなくて良いのだと思うと、安心できる。いつも通りであると安心したいから、定期的にここに来るのかもしれない。

 

前回マスターに薦められた本を、いま読んでいる。犬を中心に進むストーリー。「男と犬」を読み終えたばかりで、こんな報われない終わり方なのか、と驚いたけれど、「泥棒と犬」で別の登場人物視点で続き、ほっとする。守り神たる犬は男を救えないまま終わるのか?拾った犬に愛情を注ぎ、金を積まれても断固として譲らない男の姿勢から、「ラッシュライフ」の豊田を思い出す。

 

【第163回 直木賞受賞作】少年と犬 (文春e-book)

【第163回 直木賞受賞作】少年と犬 (文春e-book)

  • 作者:馳 星周
  • 発売日: 2020/05/15
  • メディア: Kindle版
 

  

ラッシュライフ (新潮文庫)

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交流する力

いま自分が仕事で会う人はみな、自分がいまの事務所に所属しているからこそ出会えた人である。それはクライアントに限らない。工事を依頼する工務店であったり、土地情報を紹介してくれる不動産屋さんだったり、コーディネートしているコーポラティブハウスの管理会社の担当者だったり。同業他社もいる。

 

その人たちとの交流はみな、自分がいまの事務所の名刺をもっていて、事務所の看板を背負っているからこそできるものなのだ。そう思ってこれまで来た。個人の力では出会えなかった人たちだ。事務所の肩書がなかったら見向きもしてもらえないような人たちだ。

 

たぶんその考え方は正しい。正しいのだけれど、では事務所の看板のおかげで出会えた人との交流は、自分個人の力とは無関係かというと、そうではいだろうと思う。会って、交流を開始して、その交流を継続させるのは、自分個人だ。

 

必要以上に卑屈にならずに、いまの自分の立場で人と付き合うのが自分の役割なのだと思おう。

 

朝日出版社という名刺のもとに会った相手は、自分の力で(出会いやめぐりあわせを)手繰り寄せたわけでなく、社名に支えられての縁と考えてしまっているのかもしれない。もちろんそうなんだけど、なんだろうか、もっとフランクな方がいいよなと思う気持ちと、この姿勢が自分なんだという気持ちとがせめぎ合う。

(橋本亮二「うもれる日々」 十七時退勤社)