調和の場

西洋医学は体を「病と闘う戦場」ととらえる一方で、伝統医療はそれを「調和の場」ととらえる。その話を読んで、調和の場としての体に敬意をもって、大切にしようと強く意識するようになった。年末年始の気の緩みで調和が多少崩れた自分への戒めとして。

 

 伝統医療では、体や心を調和の場であるとみなしていた。本来あるべき調和が崩れたからこそ、不調和としての症状や病気がある目的をもって起こると考えられていたので、もともとあった場を取り戻すためにあらゆる手段が講じられることになる。

 もちろん、私たちには、異物と判断したものを自動的に排除する免疫システムが備わっている。ただ、その生命の知恵として持つシステムの本質を、頭が「戦争」のメタファーとして捉え、病や異物を憎悪し攻撃する対象として考えるのか、あるいは、頭が新たな「調和」へと至るメタファーとして捉え、病や異物の深い意味を読み取るように新しい平衡状態へ移行するきっかけとして考えるのか、その考え方の違いは日々の積み重ねの中で心身へ大きな影響を与え続けるだろう。

 

コロナウイルスに当てはめるとどうだろう。入ってくるウイルスを異物として嫌悪し戦ってやっつけようと考えるのか、そのウイルスを読み取ってなお新しい平衡状態を探ろうと考えるのか。この場合どちらの考えが正しくてどちらが間違っている、と言う話ではないのだろうけれど、いま私が体に敬意をもち、調和を大切にしようと考える中では、後者の考え方を尊重できるようでありたいと思った。ウイルスが憎いことは間違いないのだけれど、武力をもって戦う、というとちょっと違うように感じる。

 

いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—

いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—

  • 作者:稲葉俊郎
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本
 

 

折り合い

二度目の緊急事態宣言が発令された。1都3県の中心にいる自分にその実感がなく、周囲と話をしていると「そっちは大丈夫なのか?」と心配される。外からは大変なことになっているように映っているらしい。

 

実際、報道を聞いてげんなりするくらい、感染者数が増えている。正確に言うと「検査で感染が確認された人数」であるから、実際にウイルスを体内に受け入れた人数を確定的に表しているわけではない。発症していない人もいるようなので実際に症状を抱えている人数はそれより少ないものの、逆に予備軍がいることを考慮すると、どうしても報道の数字以上の潜伏があると考えなければならないだろう。

 

そのようななかで、良い方向へ向かうために自分ができること、すべきことは何だろうと考えながら、正月明けを過ごしている。ステイホームを徹底することは当然のこと、そうもいかないこととの折り合いをどのようにつけるか、うじうじと考えている。自分の中で明確な軸さえもてばいいじゃないかと思うものの、結論は出ない。気を付けながら行動するよと思いながら、頭の片隅には正義の味方みたいなものがいて「自粛せよ」とささやく。

 

この折り合いがつかない状況をただもんもんと過ごすことが、いま自分に与えられたことなのかもしれない。それ以上の結論も、オチも、何もない。

 

希望はいつも当たり前の言葉で語られる

好きな本屋で目に入って思わず手に取った一冊は、まだ読み始めたばかりだけれど、自分のこころに深い満足感を与えてくれる一冊になるだろうという、確信に近い予感がすでにある。こんなことは、そうない。

 

「誰かが見てる」という言葉に救われた著者。

 

そんなとき、美大を出てデザイナーになっていた友人がアドバイスをくれた。

「どんな仕事でも手を抜かずにやっていれば、きっと誰かが見ていてくれる」

 未経験の自分には、もともと手を抜く余裕なんてなかったが、それは魔法の言葉になった。誰かが見てくれるから必死にやったわけじゃない。ただ誰かが目にする可能性のある言葉を書くのなら、やれるだけのことは全部やりたかった。右も左もわからない真っ暗闇のトンネルで、広告の世界のルールを教えてくれたのがこの言葉だった。人が見る仕事なのだ、と。

 物書きをしていると、時折思いがけない幸運が舞い込むことがある。どこかで見ていてくれた、誰かのおかげで。すぐにではないし、必ずとも言えないけれど、友人の言葉は、たしかに本当だった。

 

誰かが見ていると信じること。そうすれば自分の行動も改まるし、「どうせ何の役にもたたないし」と腐ることもない。真っ暗闇のトンネルを抜けるきっかけはたいてい、ありきたりな言葉だなぁと無視しがちな言葉がもたらしてくれる。

 

希望はいつも当たり前の言葉で語られる

希望はいつも当たり前の言葉で語られる

 

 

C:コーポラティブハウス -cooperative house-

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「お気に入り」というとちょっと違う気がするけれど、自分が仕事をとおしてつくりたかった価値を、端的に言うとこれに尽きると思う。だから、大学を卒業してから今日までの自分の社会人としての動きは、これをつくること(もしくはそれを手伝うこと)という言葉に集約される。

 

言葉やその仕組みを知ったのは、大学の授業でだったはずだ。画一的な間取りのマンションを買うのとは違って自分でつくることができる住宅建築本来の良さを、集合住宅でも味わえる。その魅力にとりつかれ、社会人になったらそれを供給するような仕事をしたいと漠然と思うようになった。新卒で入った建設会社では、最初こそそんな夢を忘れ、受注営業に奔走していたけれど、ある時にコーポラティブハウスのプロデュース会社から声がかかったことがきっかけで、忘れていた夢を思い出した。施工者という点ではフローの一端を担うにすぎないけれど、それでもいいと思った。

 

コーポラティブハウスのコーディネートをする設計事務所に転職し、より身近にコーポラティブハウスやその入居者と接することができるようになった。大学時代の自分がそれを知ったら卒倒するんじゃないかと思うくらい、恵まれていると思った。大学時代の自分は設計演習の成績がすこぶる悪く、専門家である「建築家」にはなれないんだという挫折を経験していたからだ。そんな自分が設計事務所で、コーポラティブハウスの企画に携わるなんて。人生、どうなるか分からない。

 

ではコーポラティブハウスの何に面白さを感じているのか。その本質的なものをとらえさえすれば、コーポラティブハウスをつくること以外にも面白さをあてはめることができるかもしれないと思った。コーポラティブハウスというのはあくまでも本質的なものを具現化するための手段に過ぎない。考えた結果、頭に浮かんだ言葉は「自分で暮らしをつくる姿勢」だった。

 

既製品を買うという行為を否定はしない。自分の身のまわりのもの、すべてを自分で考え、自分でつくることなんてできるはずがない。だけど、身のまわりのモノ全体のなかで「自分でつくる」「自分でオーダーしてつくってもらう」モノが占める割合が少しでも多いほうが、気持ちよい。なにより楽しい。そしてそのモノの中でもっとも暮らしに及ぼす影響力が大きいのが、住まいだ。だから、コーポラティブハウスをつくり、そこに住むことは、自分でつくる暮らしづくりの一つの到達点。それに近いことを(近いこと、というのは、コーポラティブハウスではなく賃貸住宅だから)実現できた自分は、やはり恵まれているのだと思う。

 

設計者と対話し、仲間と議論し、長い時間をかけてつくっていくという手法はいま、世を覆う脅威によって見直しを迫られている状況なのだと思う。けれど、入居までのプロセスを変革しなければならないにせよ、「自分で考えて自分なりの暮らしをつくる」という行為に自分の人生を豊かにする価値があるという点で、コーポラティブハウスは求められる存在であり続けると確信している。

 

 

手を繋ぐくらいでいい

笑われて馬鹿にされて それでも憎めないなんて

自分だけ責めるなんて いつまでも 情けないね

 

手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい

それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい

 

(中村中 / 友達の詩)

  

たまにはいつもと違う音楽を、とCDを探してプレイヤーで聴く。

なんか信念をもってそうという先入観からスタートした彼女の印象はやがて、

誕生日が同じだという偶然の理由で親近感に変わった。

正直な気持ちを吐き出した歌を聴くと、痺れを感じずにいられない。

曲によって変わる声色と憑依したような歌い方に、痺れを感じずにいられない。

 

手を繋ぐことすら、並んで歩くことすら、下手したら避けなければならないような世界で、

それでも他人との繋がりを持ち続ける方法は何?

 

「他人と繋がっているという事実を大切にして過ごさなきゃダメですよ」

という、壮大な説教か?

 

自転車だって乗り続けなければ快適に走れない

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朝、少しジョギングしたあと、自転車に乗って出かけた。好きでよく行く都内の本屋さんに、電車なしで行ってみようと思ったからだ。決して近くはなく、軽い気持ちで行けるような場所ではないけれど、時間はたっぷりあるし、何とかなるだろうと思っていた。

 

甘かった。昨日久しぶりにジョギングしたことで発生した筋肉痛を軽視したのがまずかった。今朝、重い足をひきずりながらジョギングし、帰宅してしばらくぼーっとし、筋肉痛もあるし、自転車はやめようかなと半分諦めたのだけれど、でも決めたことだし、大変だったら2軒行く予定のうち1軒にすればいいからと思って、中途半端な気持ちで自転車にまたがったのも、影響したのかもしれない。

 

目黒の急な上り坂に絶句した。呼吸のじゃまをするため、マスクははずす。寒いだろうからと着込んだパーカーに、汗がしみ込む。赤信号や二段階右折などが重なってなかなか思うように進まない。目的の本屋にたどり着いたことにまず安堵し、正直、普段のようにゆっくりと本を眺める精神状態でなかった。失敗した・・・。

 

その本屋の近くのそば屋で昼ご飯を食べ、もう1軒の目的地に行くのは諦めた。来た道を戻り、途中で別の本屋に寄り道し、夕方、帰宅した。トータルのスケジュールは予定通りだったけれど、身体にかかった負荷は想像をはるかに上回った。

 

結論。ジョギングと同じで、自転車だって乗り続けなければ快適に走れない。気づくのがいつも遅い。

 

紋の辞典

紋の辞典

 

  

  

希望はいつも当たり前の言葉で語られる

希望はいつも当たり前の言葉で語られる

 

  

平野甲賀と

平野甲賀と

 

  

Christmas Day, Bucks Pond Road

Christmas Day, Bucks Pond Road

  • 作者:Carpenter, Tim
  • 発売日: 2019/10/22
  • メディア: ハードカバー
 

 

1月4日~11日

朝、駒沢公園を走る。三が日は走れなかったから、今日から。来週月曜日、11日まで毎日走ることを目標とする。1週間、毎日走ることを続けることができたら。12日の朝、起きた時に「今日も走らなきゃ」という想いに駆られるようであれば。身体を動かすということが習慣になるのではないか。そんな淡い期待を抱きながら、走る。始めこそ心地よかったけれど、すぐに苦しくなり、終始ローペース。いつもこうだ。

 

年始にたてる目標はたいていハードルが高く、でもなんとなくできるような気がしてしまう。それは錯覚であり、正月も過ぎていつも通りの日常に入り込んだら、いつの間にか高揚感もなくなり、目標のために動こうという気力もなくなっていく。そうなることは毎年のことで分かっているはずだ。だから何か明確な、やや高めの目標を持つのはやめようと思ってここ数日を過ごしている。できなかったと分かった時の落胆が大きいし、なにより、きっとできない。

 

また緊急事態宣言が発令されそうな状況だ。そうなったらまた世界がどうなるか、分からない。とりあえずこの1週間だけの目標だ。

 

逆ソクラテス

小学生の頃の自分がどういう子供だったか、いまではほとんど覚えていない。感受性が強くて、大人からたくさんの良いことを吸収し、自身に蓄える素直な子供だっただろうか。たぶんそんなことはなく、何も考えずに遊び惚けていたのではないだろうか。

 

伊坂幸太郎「逆ソクラテス」をようやく読み終えた。5つのショートストーリーが重なった短編集。特に「アンスポーツマンライク」が好き。主人公5人組がかっこいい。いつだって最初の一歩を踏み出せないと嘆く「歩」が勇気を振り絞ったことで一人の男を救う。「誰かの動きがきっかけになって、世界は良い方向へ進む」という普遍的なテーマのようなものを感じた。

 

読み終えて、改めて子供のころの自分を思い出す。もしも子供のころになにか試されるような機会があって、そこで勇気を振り絞るような出来事があったなら。未来であるいまは、もっと違うものになっていたのかもしれない。なんて、いまさら戻って確かめることもできないようなことを夢想する。

 

逆ソクラテス (集英社文芸単行本)

逆ソクラテス (集英社文芸単行本)

 

 

2021初詣

昼間、自宅近くのお寺へお参りに。今年一年の身の安全を祈る。

 

こういうとき、敷地内の大木に、庭園に鎮座する大きな石に、畏敬の念を抱く。それが存在する長い時間と、自分の身に起きる出来事が自分を悩ます短い時間とのギャップに、驚き、自分が小さく弱い存在であることを思い知らされる。大きく強いものを目にすることで、相対的に小さく弱い自分が浮き彫りになる。そのギャップを思い知るために、お寺に足を向かわせているのかもしれないと思った。

 

街を歩けば、まだ2日だというのに、お店をあけている花屋やケーキ屋がある。自分が、休まなければ、休んで英気を養わなければ、と気を急かしている一方で、すでに働いている人もいる。そういう人がいるおかげで、正月の部屋を彩る花も買えるし、おやつだって食べられる。自分の境遇だけが世界ではない。自分の悩みなんて他人には分からないだろう、と諦めるのと同じように、自分にない悩みをもっている人だってたくさんいる。

 

何が言いたいのか分からなくなってきた。無理やりまとめると、大切なことは、自分は小さく弱いものだと認めることと、気づかないから見えていないだけで自分にない境遇がまわりにはあるのだと認めることだ。なんとなく身が軽くなったような・・・。

 

学びへの推進力

内田樹「コモンの再生」を読んでいる。刺激的なのは「本当に必要な政策は『教育の全部無償化』」という話。昔は大学の授業料が安かったから学生は苦学できた(親に反対されても、「じゃぁ自分で金出すから、もう口出ししないでくれ」と言うことができた)。その後学園闘争を経て、政府が学生を抑え込むための監視役を親にアウトソーシングしようとして、授業料を上げた。進路選択の決定権が親に移ったため、学生は「本当に心から勉強したいこと」ではなく親が賛成する将来の仕事に役立つ実学を勉強するようになる。その「モチベーション」の低下が日本の大学の学術的生産性の低下につながっている、というものだ。

 

教育者が学生に期待していることは「何を学ぶか」でも「どのように学ぶか」でもなく、「自分が本当に学びたいと心から思うことを学ぼうとする姿勢」にあるのだと知った。自分で学ぶことを自由に選択した学生が、(そんなの勉強したって将来のためにならないと)反対する親に対抗する最も効果的な方法は、それを学んで社会に役立て、「ほら、自分の選択は正しかったでしょ」と言うことである。学生自ら、自身の選択の正しさを証明するための動きこそが、学びへの推進力になる。だから学生は、自分の身体に潜んでいる「学びへの推進力」の存在をまず信じて、自由な選択をすることによって加速させることが大事なのではないか。

 

 子どもが不本意入学を強いた親に「進路選択を誤った」ことを思い知らせるための一番有効な方法は「ああ、金をどぶに捨てた」と親に後悔をさせることです。だから、毎日不機嫌な顔で大学に通い、成績は最低レベル、卒業したけれど、何一つ知識も技能も見識も身につかなかった・・・という事実を親に見せつけることが不本意入学生に許された最も効果的な報復なんです。だから、子どもたちは現にそうしている。

  いま、日本の大学の授業料がどこもすべて本当に無償だったら、子どもたちはみんなそれぞれ好きな専門分野を選ぶはずです。無償化の最初の受益者は「好きな学問ができる」子どもです。でも、それだけではありません。日本社会そのものが受益者になる。

 

 子どもたちが親や教師の反対を振り切った自分の選択が正しかったことを証明する方法は一つしかありません。それは、毎日機嫌よく大学に通い、よい成績を取り、専門的な知識や技術を身につけて、「ほら、ここに入学して正解だったでしょ?」と胸を張ってみせることです。

 

社会人である自身にもあてはめてみる。お金を払って(親に払ってもらって)学ぶという立場はとうに終えて、働き方を自分で自由に選ぶことが当たり前の立ち位置にいる。ということは。親の監視もなければコストの肩代わりもない自分が、「選択の自由」を行使して学びへの推進力を加速させることを怠ってはダメだろう。「正直、行動には不安もあるけれど、自分の選択が正しいということを、結果をもって証明するんだ」という気持ちが、行動へのモチベーションになるのだと思った。

 

自分で選び、その正しさを証明するために努力する。そのことを意識する年にしたい。

 

コモンの再生 (文春e-book)

コモンの再生 (文春e-book)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: Kindle版
 

 

言い訳

大みそかの今日のこの記事で、今年の記事数合計が100になる。ちょうど100!キリがいい!と思ったのもつかの間、そういう問題じゃないということに気づいた。アーカイブの記事数を見るとすぐに分かる。

 

かろうじて昨年より多いものの、数年前に比べるとサボっているのは明白。平日書かない代わりに、休日は必ず書く。そう決めたのは誰?他人に強制されて嫌々やっていることじゃないだろうに。

 

書かないときの自分の中の言い訳は、割とはっきりしている。書くという行為自体を目的化して、内容はどうでもいい、というようになってはいけない。くだらないことしか浮かばないなら、書かない方が良い。そうやって、書けないことを正当化する。

 

書く行為の中に自分なりの「良いこと」があると信じられれば、そんな苦し紛れの言い訳をすることもなくなるだろう。自分から湧き出る「言葉」の力を信頼する。もう一度、12年前に「書こう」と決めた時の想いに立ち返ろう。

 

12年前はどこにいた? うつむいたまま出会ったね

巨大なモーターのエスカレーター 

それに乗り僕らは夢見たね

野獣のように 声を殺して

(THE YELLOW MONKEY/峠)

 

ドリームプラン

例年より少し長めの年末年始休みを、自宅でゆっくりと過ごしている。関わるのは自分だけじゃないのだからと自分に言い聞かせて、ほんの少しでもと思って予定していた帰省も、やめた。父が庭木の手入れ中に脚立から落ち、膝を骨折して入院、手術するとの報を11月に受けていた。別条はないとは言うものの、年齢も年齢なんだから油断しないでくれよ、と心臓が縮まる思いだ。東京で暮らす自分がわざわざ「静かな年末年始を」というおふれに背き、抵抗力の落ちた家族にリスクを与えることもないだろう。「この状況がずっと続くわけじゃいから。もう少しの辛抱だ」退院直前、電話口で言う父の言葉が染みた。そうだ。いつだって、どんな苦痛も、終わった結果いまがある。

 

何が言いたいかと言うと、いつになくひとりの時間があるということ。社会人になってから、年明けを実家以外で過ごすのは初めてだ。しかし、嫌ではない。

 

有意義に使わなければと気持ちだけが急いて、せっかくの時間も結局焦りながら過ぎてしまいそうだ。あまり意識しすぎず、旅したり知人と会ったりしない分、自分の内面とじっくり向き合う時間にしたい。

 

そんななか、ある本屋のSNSアカウントが目に留まり、ぎょっとした。「年賀状に牛の絵でも描いてる暇があったら、自分のドリームプランでも描きましょう」自宅から割と近いのだけれど、サクッと行くというのもちょっと違う、微妙な場所にある本屋だ。マーケットイベントで出会ってから気になっていたものの、まだ行けていない。そんな本屋から年末年始の過ごし方を指南されたようで、驚いた。「以上、おせっかいでした」と気遣ってはいるものの、言葉は優しさと毒に満ちている。さて、オレだってドリームプランを描いてやろうじゃないか。

 

消費者的なふるまいを度外視した買い物

高い満足度を得られる買い物とはどういうものか。この問いに、いまならこう答える。「消費者的なふるまいを度外視した買い物」と。

 

自分にぴったりのものが見つからないから、オーダーメイドでつくってもらう。それは家具でもいいし、雑貨でもいいし、大きいものでは、家でもいい。ニーズを満たす一定の価値があって、それと価格とを比較して「このお金を払う価値がある」と思ったら買う「既製品」にはない楽しさが、そこにはある。この点で、私は既製品よりオーダーメイドのものを買う時に高い満足感を覚える。ただ、それだけでは高い満足感を得られる買い物の条件を満たしているとは言えない。

 

買い物をするとき、自分が「賢い消費者」であろうとすると、最低の対価で商品を得ようとするようになる。モノを買う時の対価はお金だ。対価を最低にしようとする姿勢とは、端的に言うと、値切ろうとする姿勢である。値切って、より安く買った方が賢いということであり、「あぁ、良い買い物をした」ということになる。

 

でもこの「賢い消費者」であろうと努めることに、何か息苦しさのようなものを感じる。本当は、「これはいい!これは自分の暮らしに必要だ!」と思ったときに、定価以上のお金を払いたいと思うようなことがあってもいいじゃないか。「よくそれにそんなお金払えるね」というように、他人には共感してもらえないかもしれないけれど、自分が納得したら、自分で決めた対価を、気持ちよく払いたい。そう思える商品に出会って、それを手に入れることが、最も満足度の高い買い物をすることなのではないかと思う。

 

いま、学校の先生はその権威を剥ぎ取られてしまった。学校はただ教育商品を提供するお店になり果ててしまった。だからその消費者である児童生徒は、消費者として賢いふるまいをする(対価を最小化させる=学習努力を怠る。つまりは授業中に騒ぐ、先生の話を聞かない、校則を破る、というように)。卒業証書をもらうために行った努力が少ない子供ほど賢い消費者だ、ということになる。このように内田樹は述べている。本来先生と教え子との関係は「サービスを提供する売り手とそのサービスを受け取る買い手」とは違うという意見に、自分も賛成する。だけどこうして子供が「消費者化」することが「学びからの逃走」ひいては「下流社会」「下流志向」の要因なのだとすると、自分が一社会においても、「消費者的合理性を度外視して行う消費行動」はもしかしたら有用であり、それでも良いと自分が判断した時点で最も快適な消費ができたと言えるのではないか。

 

そんなことを漠然と考えていたら、そうした考えを実践しているお店を知った。国分寺にある「クルミドコーヒー」だ。ポイントカードをやらない理由として店主である著者は「お店に来てくださる方の『消費者的な人格』を刺激したくないと考えたから」と言っている。「『できるだけ少ないコストで、できるだけ多くのものを手に入れようとする』人格。つまりは『おトクな買い物』を求める人間の性向」これが賢い消費者であろうとふるまう人格であり、それとは違う次元でのサービスの受け渡しこそ、長期的にも心地よい買い物なのだろうと思う。

 

街場の共同体論

街場の共同体論

  • 作者:内田樹
  • 発売日: 2015/06/03
  • メディア: Kindle版
 

 

  

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

  • 作者:影山知明
  • 発売日: 2015/03/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

珈琲の楽しみ方

珈琲を淹れて、飲む。

 

ゆっくり、本当に少しづつお湯を入れて、じっくり蒸らすようにつくるのがよい。そう思っていたけれど、よく行くカフェの店主にお湯を入れる時間を聞いたら、それほどゆっくりでなくて驚いた。何度のお湯を何ミリリットルくらい。その教えに忠実に、試してみる。

 

同じ豆でも、お湯の温度や淹れ方によって、味が変わるという。だから、同じ味の珈琲を複数回淹れられる自信がない。機械のように同じ動きで淹れたとしても、昨日と今日とでは焙煎してからの時間が違うのだから、味は違ってしまう。

 

だからなのか、淹れて、口にして、あ、今日のは苦いな、とか、今日のは酸味が強いな、とか、その違いに気づくなんてことは、ない。

 

昔は、インスタントコーヒーを好んで飲んでいた。お湯を入れるだけですぐつくれるし、それなりにおいしい。それこそ毎回同じ味だ。ずっと、ネスカフェのエクセラだけがぶがぶ飲んでいて、それでは能がないから、そろそろ違うものにしてみよう。そう思って、ちょっとパッケージがカッコいい香味焙煎にしてみたり。それくらいの違いを楽しむ工夫はしていたけれど、本当に味わっていたかと聞かれると疑わしい。

 

だからその反動なのか、いまは時間をかけて淹れたコーヒーに、味以上の贅沢を感じる。ちょっと手間をかけて、自分が淹れたんだ。そういう能動的行為の結果が目の前にあって、それを味わうのだから、何も考えずにがぶっと飲み干してしまうのはもったいない。きっとそういうことなんだろう。

 

どこの産地の豆が好みで、どこの産地はそうでもないか、そういうことはあまり問題じゃない。正直、どうでもいい。ちょっと前に飲んだノルウェーの珈琲は自分には酸味が強くて、あまり好みでないかな、と思ったのがせいぜいだ。

 

好きだと思える珈琲が飲めるカフェに出会えたし、そこで豆を買えば家でもおいしい珈琲が飲める。それよりも、珈琲を飲む時間をさらに有意義にしてくれる、「手間をかけて淹れるという行為」そのものを楽しむことを、習慣にしたい。

 

 

鬼は逃げる

今日が今年最後の営業日だと知り、自宅近くの本屋に立ち寄った。今年、脅威が社会を覆う真っ只中に誕生したこの本屋さんに、自分は何度も救われた。身近にこういうセレクト本屋があることが暮らしに潤いを与えてくれることに、驚いた。まさかそんな暮らしができるとは思わなかった。

 

今年1月に参加したワークショップ(※)でお会いした詩人のウチダゴウさんの詩集を手に取った。「みせのなまえをかんがえる」をテーマとしたそのワークショップでは、「未来の自分が言って恥ずかしくなるようなことばにしない」「高すぎる目標を示唆することばにしない」など、ことばを選ぶ際の注意事項を学んだ。そのときのウチダゴウさんの、ゆっくりと朗読したときの感情の起伏を、思い出しながら読んでいる。どうやって読んだら、この言葉が自分の身体の中の空間にすっぽりとはまるだろうか、と考えながら読んでいる。

 

あのワークショップから、もうすぐ1年なのか。あのとき考えた「みせのなまえ」は、いまも机の目の前に貼ってある。その名前のお店を、夢物語でなく、本当に実現させてやろうと、割と真剣に考えている。同時に、こうして本を読むことで心がちょっと潤ったストーリーを、他人に伝え、共有する、そんな営みのことを。

 

鬼は逃げる

鬼は逃げる

 

 

(※) 

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