交流する力

いま自分が仕事で会う人はみな、自分がいまの事務所に所属しているからこそ出会えた人である。それはクライアントに限らない。工事を依頼する工務店であったり、土地情報を紹介してくれる不動産屋さんだったり、コーディネートしているコーポラティブハウスの管理会社の担当者だったり。同業他社もいる。

 

その人たちとの交流はみな、自分がいまの事務所の名刺をもっていて、事務所の看板を背負っているからこそできるものなのだ。そう思ってこれまで来た。個人の力では出会えなかった人たちだ。事務所の肩書がなかったら見向きもしてもらえないような人たちだ。

 

たぶんその考え方は正しい。正しいのだけれど、では事務所の看板のおかげで出会えた人との交流は、自分個人の力とは無関係かというと、そうではいだろうと思う。会って、交流を開始して、その交流を継続させるのは、自分個人だ。

 

必要以上に卑屈にならずに、いまの自分の立場で人と付き合うのが自分の役割なのだと思おう。

 

朝日出版社という名刺のもとに会った相手は、自分の力で(出会いやめぐりあわせを)手繰り寄せたわけでなく、社名に支えられての縁と考えてしまっているのかもしれない。もちろんそうなんだけど、なんだろうか、もっとフランクな方がいいよなと思う気持ちと、この姿勢が自分なんだという気持ちとがせめぎ合う。

(橋本亮二「うもれる日々」 十七時退勤社)