ほんのわずかな「チクショー」をなくす

大きな仕事が一段落し、ほっとし、急に緊張の糸がほどけた。帰り道、寄り道してケーキ屋に立ち寄る。シュークリームが格別においしいケーキ屋だ。節目だし、たまにはいいだろう、と思った。

 

夕方近い時間帯だったからか、目当てのシュークリームがなかった。聞いたら、ちょうど売り切れてしまったのだという。残念。ついそう口に出しそうになって、いけないいけない、と言いとどまった。

 

久しぶりに訪れたケーキ屋で、目当てのシュークリームがたまたま売り切れていたことを恨み、「残っているべきだ」と本気で思うならば、つまりはあるのが当然だと思うならば、たまたま自分が立ち寄らなかったら売れ残っていた可能性が高いということを意味する。ただでさえモノが多くひしめいている(ように見える)東京だ。たまたま訪れた自分が目当てのものをゲットできるのが当たり前と考える方が怖くないか。仮に買いに行くのが1か月に1日だとしたら、残りの29日は残るという事。本来はそう考えなければいけないだろう。

 

ケーキ屋に限らず、スーパーにしてもコンビニにしても、街の小さなパン屋にしても、とにかく並んでいる商品が多すぎるように感じる。よく言われる廃棄問題も、きっとなくならないんだろうなあと思う。ただ、その無駄に廃棄される量を多少でも少なくする方法があるとすれば、自分にできることはただ一つ。シュークリームがなかったことで心に巣食ったほんのわずかな「チクショー」をなくすこと。全て買い手に渡ったことを自分事として喜ぶこと。たまたま売り切れだっただけで、むしろそれが自然であるということ(シュークリームが買えなかっただけで、現に別のケーキを買うことができた。結果、チーズケーキも格別に美味しいと知ることができた)。まず自分がそう思うようにしよう。そしてそう思う人が増えていったら、つまり売り切れを嘆かない消費者が増えれば、店側が消費者の「チクショー」が顕在化することを恐れて過剰に仕入れたり、過剰につくったりすることが減るのではないか。

 

いちいち考える

森田三和著「サンドイッチブルース」(ループ舎)が好きで、下線を引きながら繰り返し読んでいる。今日は行きつけのカフェで、久しぶりに読んだ。

 

自分に正直にいちいち考えて判断していると、きっと明るい未来がやってきます。

 

「いちいち考える」のはなんだか大胆さを欠くようで、あまり好ましくないように感じてきた。大胆さ、おおらかさを身につけていたいと思いながら、しかしそれができず細かいことをいつまでも引きずっている自分が嫌だった。そんな自分が嫌いであることは今も変わらない。しかし今日、「いちいち考える」ことは決して悪いことではないよ、と本書で励まされたような気がして、肩の力がふっと抜けた。コーヒーを飲みながらぼんやりしていたからだけではないだろう。

 

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じたばたしているときこそ「ふだん通り」に

内田樹「街場の大学論」を通勤の電車内で読んでいる。大学で働いているので、大学を取り巻く環境について少なからず考えなければいけない、という危機感があり、それが20年近く前の文章を読む動機づけになっている。

 

今日、そのなかで「ぐさっ」とくる言葉に出会った。おそらく初めて目にした文章ではなく、これまでにも読んだことがあるはずなのだけれど、いまの自分の境遇と重なって、反省させられたのだ。

 

少し長めだけれど、私の大好きな考え方を知ってほしく、引用する。

 

ゼミが始まる。

新四年生のゼミは初回から欠席者が六人というありさま。卒論研究計画の提出日だというのに。

就職活動というのは、そんなにたいせつなものなのであろうか。繰り返し言っていることだが、もう一度言わせて頂く。大学生である限り、就職活動は「時間割通り」にやりなさい。

諸君はまだ大学生である。いま、ここで果たすべく期待されている責務を放棄して、「次のチャンス」を求めてふらふらさまよい出て行くようなタイプの人間を私たちは社会人として「当てにする」ことができない。

当然でしょ。いま、ここでの人間的信頼関係を築けない人間に、どうしてさらに高い社会的な信認が必要とされる職業が提供されるはずがありましょうか。

(中略)

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだん通りのこと」ができるかどうかを自己点検した。まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。別にこれは「次にいつご飯が食べられるかわからないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。

状況がじたばたしていたときに、「ふだん通りのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。

(中略)

まわりがみんなじたばたしているときに、とりあえず星を見るとか、とりあえずハイデガーを読む、というようなタイプの人間を「胆力のある人間」というふうに私たちの社会は評価する。そして、当たり前のことだけれども、まともな企業の人事の人間が探しているのは、業績不振というような風聞を聞きつけて「きゃー、たいへんよー!」とあわてて就業時間中に求人誌をめくって転職先を探すような社員ではなく、落ち着いてふだん通りに仕事をてきぱきと片づけてくれるタイプの社員に決まっているのである。

(就職活動は「時間割通り」にやりなさい)

 

どんなに忙しく、やるべきことの多さにめまいがする毎日であっても、その状況にただじたばたするのではなくて、そういうときこそふだん通りにご飯を食べ、きちんと寝る。コーヒーなんか飲みながら深呼吸し、窓越しに空を眺めたりして。忙しなさにイライラしがちな今こそ、心に刻んでおくべき考え方だろう。

 

 

蕎麦屋でみる東京マラソン

昼間、お蕎麦屋さんに入ったらテレビが点いていて、実況の声が興奮味を帯びていたので何気なく見たら、外国人選手が颯爽と走っていた。そうか、今日は東京マラソンの日か、とようやく思い出した。ヘトヘトになりながら走った十数年前を思い出す。

 

お蕎麦屋さんに着いたのが11時過ぎ。確かマラソンのスタートは9時だったか。2時間2分とかいう驚くべき数字が聞こえたから、まあそういうことになる。11時過ぎにゴールするフルマラソン。午後にやっとのことでゴールテープを切った自分の記憶との差があまりにも激しく、まるで現実味がない。自分と比較することがおかしいのだけれど。

 

短い距離だけれど、「毎日ジョギング」を習慣にするようになって1年と4か月が経過した。この習慣を10年20年と続けたら、2時間2分は無理としても、あの外国人選手のように、颯爽とフルマラソンを完走できる体力を身に着けることができるかもしれない、なんて無謀にも思った。

 

SHINE ON

THE YELLOW MONEYの東京ドーム公演が4月に控えている。「SHINE ON」と銘打ったその公演がどんなものになるか、いつものことながら全く想像ができず、ドキドキしている。そして先日、公演名と同じ「SHINE ON」という名の新曲も発表されることが分かった。私たちの期待をいつも先回りして、興奮を届けてくれる彼らの活動から、今年もずっと目が離せない。

 


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満月の夜

満月の夜に刺激的な発表をするLUNA SEAのスタイル、昔から変わらなくて、いつもファンをドキドキさせてくれる。今夜もそうだった。投稿を見て、さて何の発表だろう、全国ツアー第2弾かな、新曲かな、再録アルバムかな、といろいろ想像する。しかし、いつも分からないまま発表を待つことになる。

 

夜、日課のジョギング中に夜空を見たら満月で、あ、そういえば発表があったんだった、と気づいて慌てて帰宅した。ツアーの追加発表だった。しかもEDENとIMAGEの再現。こう来るかな、となんとなく抱くイメージをことごとくふりほどくところが本当にすごい。

 

今年はライブの誘惑が多い。昨年は行けていなかったので、ウズウズする。

 

雨はやまない

2月に入って、ようやくあたたかくなってきたことに喜びを見出してたのもつかの間、今度は地味に降る雨がやまず、気温も下がって寒い日がここ数日続いている。やっと暖房必須な毎日から解放されると思っていた矢先だった。外の暗さに比例して、自身の心も若干暗い。今日は自宅でオンラインの打合せをしたり、作業をしたり、といった外出なしの一日だったけれど、やる気がなかなか起きず、決して建設的でなかった。確かに仕事は一段落し、これからやるべきことも明確になった。それでも心はあまり晴れなかった。

 

本当は祖師ヶ谷大蔵に本の補充をしに行こうと思っていたのだけれど、明日にすることにした。明日は明日で、「ああ、今日もやる気がでない・・・」と言って結局外へ出られない、なんてことにならないようにしなければ。

 

やり直し

コンビニでネットプリントをするために家を出た。5分ほど歩いたところにあるセブンイレブンが目的地だ。一般的には近い部類に入るのだろうけれど、ちょっと贅沢を言わせてもらえれば、気楽にサクッと行ける距離とまでは言えない。部屋着のまますっと行ってすぐ帰ってくる、というほどでもないため、コートを着て、コンビニへ向かった。

 

プリントを済ませ、ついでにちょっとおやつを買って、プリントした紙をバインダーにはさんで家に戻る。その道中、うっかりそのプリントした紙をしわくちゃにしてしまった。他人に贈るものだから、しわくちゃのままではまずい。ただ、今からコンビニに戻ってもう一度プリントするのも面倒だ。ほんのちょっとの折れだ、延ばせば大丈夫、許容範囲だろう。そう自身に言い聞かせた。

 

帰宅後、改めて紙を見ると、しわくちゃどころか、1センチくらいは破れていた。これはさすがに許容範囲を超えている。結局、もう一度家を出てコンビニに行く決意をした。しわくちゃに気づいた時点ですぐ踵を返していたら、二度手間ではあるのは変わらないものの、もう一往復しない分、多少は負担も少なかった。

 

何事も気づいた時に、ほんのわずかな「面倒臭い」を押しのけて、やり直すべきなのだ。5~6分程度のロスを億劫がった、その判断をしたことが悔やまれる。

 

スシロー

「行徳にスシローが来る」その話題はどこで誰から聞いたのだったか。東西線の車窓から外の景色を眺めていたら、行徳駅を過ぎたところでスシローの看板を見つけた。西友のすぐ隣。ここはいい場所ですね、なんて店舗企画担当者になった気分でつぶやいた。

 

妙典にも少し前にスシローができて、その時も大盛り上がりだった。手軽に回転寿司を食べることができる!と。結局は毎日のように混雑している状況にうんざりして、ほとんど行かなかった。

 

今日、美容院で。隣にいたお客さんとマスターとの会話が耳に入った。「妙典のスシローは混んでるから。予約しないと食べられないんですよ」予約しないと回転寿司が食べられないなんていままで想像したこともなかった。誰もがおいしいお寿司を食べられる画期的な食文化だとは思うけれど、それにしたって。周りが思った以上に盛り上がると、それに反比例するように自分は盛り下がる。こういうところが素直じゃないなあと思う。いや、周りに同調しないで自分の好き嫌いを貫くという点では素直なのか。

 

しかし妙典にスシローが来るよりずっと前。車で数分走るけれど、たしか大通り沿いに回転寿司屋があったはずだ、と昔の記憶を手繰り寄せる。まだ私が車を持っていた頃のことだ。あれはなんだっけな。スシローじゃなかった気がするけれど・・・とgoogle mapで探したら、くら寿司だった。独り暮らしで、食生活も、小遣いの使いみちも、とにかく自由だったあの頃に、もっと味わっていればよかったかな、なんて今更後悔した。回転寿司って、ちょっと油断するとすぐ食べすぎて、安いはずなのに高い買い物になるんだよな、なんて言って、いつも自分にブレーキをかけていた。

 

いま、月に1~2回は仕事で行徳、妙典に行っている。たまには行徳のスシローで思いっきり回転寿司を食べるのもいいな。

 

満席嫌い

気になっていた駅前のカフェに初めて行ってみようと思い、朝、頑張って起きて向かったら、満席で入れなかった。オープンしてから10分後のことだ。あまりの人気具合いに気圧され、ああ、これはしばらく来ることができなさそうだな、と思った。いつ行っても入れない、という「運の悪さ」を割と自分は持っていて、もちろんたまたま空きが多く入れた、なんて日もあるのだろうけれど、こういうときは無理に行こうとしないようにしている。ちょっと傲慢な考えだと思うけれど、自分が行かなくても繁盛しているようだし。

 

ということで、某珈琲店に戻って朝ご飯を食べた。これもちょっと失礼ながら、いつも店の前を通って窓を見るとそれほどお客さんが入っているように見えないことが多かったから、空いているだろうと思ったのだ。祝日の朝、入れたもののそこそこ混んでいて、食べ終わって店を出るころにはほぼ満席になっていた。入るのが30分遅かったらまた入れなかったのかと思うとぞっとする。

 

たぶん人一倍、満席が嫌いな自分だ。食事中であっても満席になると、自分がその満席をつくり出している(嫌な言い方だけれど、「占領している」とも言える)一要因に思えてきて、すぐに退席したくなる。そう言ったら「『いい人』『謙虚な人』ってただ言われたいだけでしょ」と冷めた目で見られそうだけれど、こればかりは本当だから仕方ない。カフェで寛ぐ時間なんていつでも、いくらでも確保できます。早々に退席したところで死にはしません。いくらでも譲ります。

 

そうすると自ずと、満席の可能性が少ない(と感じる)店に足を運ぶことが多くなる。「繁盛していない店と思ってるってことか」なんて反論されそうだ。しかし、これも仕方ない。自分はただ、店に入ること自体にストレスを抱えたくなく、安心して寛ぎたいだけだ。

 

両面性

法律を学ぶことによって得られることの一つに、物事の「両面性」に気づく想像力があると思っている。例えばある人が、「誰々からこのような被害を受けた」と主張したとしよう。弁護士であれば、それがどれだけその人の人権を損ねているかを判断して、例えば損害賠償という形でその人を救うことができる。本来持っている権利を行使できない人が泣き寝入りしないで済むように、手を差し伸べるのが弁護士の有意義な仕事である。ただ、弁護士はクライアントの利益を最優先して解決方法を導くだろうけれど、クライアントに対抗する意見もあって当然で、「どんな反論が考えられるか」を考えることもまた、弁護士に求められる。こちらはこう主張する。しかし相手は相手で、その主張をかいくぐって別の角度から攻めてくるかもしれない。相手には相手の、加害するに至る切実な事情があったのかもしれない。そうやって「かもしれない」を複数の視点から考える態度って、弁護士に限らず、起きた出来事に一喜一憂せず冷静に対応できる大人であるために必要だろうと思う。

 

Season22 第3話「スズメバチ」

 

薫と久しぶりの再会をはたす陣川。また厄介な相談事をもちかけてきたのかと思い警戒していると、角田から事件の知らせが入る。公園で倒れている男性。その周りにはスズメバチが飛びまわっている。スズメバチに刺されないように慎重に男性に近づく右京と薫。男性は胸から血を流し、死んでいた。男性が持っていたレシートからあるカフェへとたどり着き、女性店員がトラブルで最近カフェを辞めていたと知る。その女性の自宅を訪問すると、なんとそこに陣川がいた。「事件に関連する女性をひょんなきっかけで好きになってしまい、彼女を庇おうとする」陣川が、今回も右京と薫の邪魔をする。

 

飛びまわるスズメバチが象徴するものが最後に分かる。相棒を観ていて頻繁に思うのは、このような「事件の動機を何か別のものに象徴させる」というのが、本当にうまいなあ、ということ。しばらく観ていたら「これ、スズメバチが出てくる意味、あるのか?」と思うのだけれど、後半の薫の一言でガラッと変わった。「いつ危害を加えられるか分からない恐怖」がスズメバチにおびえる心境と重なり、ぞっとした。

 

考えさせられた点がある。彼のDVから逃げて交番に駆け付けた女性が、彼の狡猾さを見抜けず助けてくれなかったお巡りさんに失望した、というのが一つの事件の動機になっているのだけれど、これがもし助けを求められたお巡りさんの視点だったらどうだったろう、と考える。もしお巡りさんに、過度に女性を保護しようとしたあまり男性側の更生機会を奪った過去があったとしたら。もしくは、お巡りさんの目を欺くためにわざとらしく謝った彼の視点でも良い。もし男性が、一時頭に血が上って手をあげてしまっただけで、心から反省したにもかかわらず、不相応の重罪を受けることになっていたとしたら。そうやって各登場人物の目線になってみれば、「彼女を救わなかったお巡りさんが悪い」と一方的に決めつけることはできないだろう。その決めつけが正しいか正しくないかはさておき、複数の立場がある、出来事には裏表の両面性がある、ということに気づけると、一方的に誰かを非難して傷つける、といったことはなくなるよなあ、と思う。

 

エッセイストになるには

明確にエッセイストになりたい、と意識しているわけではないのだけれど、日々過ごす中で感じた事を文字で残す、そのことを習慣にできたら、どれだけ暮らしが豊かになるだろう、と思う。

 

実際には毎週末更新のこのブログで記事を書いているから、言い張れないこともない。だけど、なんだか気恥ずかしくて、「私はエッセイストです」なんて言えない。エッセイと呼ぶには程遠い、雑念を書き散らしただけのようなものだ。

 

エッセイとは何か、エッセイを書くとはどういう心持ちか、をしっかり考えるきっかけになったのは、松浦弥太郎さんの「エッセイストのように生きる」を読んだからだ。エッセイとは「秘密の告白である」。エッセイとは、「体験の記録である」。エッセイを書く事で「自分を知る=未来に対して安心できる」。など、エッセイに関するエッセンスが詰まっていて、勉強になる。ああ、自分はこうなりたいからエッセイを書いているのか、と気づくと同時に、エッセイを書き続ければこんな人間になれる、ということも分かる。

 

エッセイを書くには、日ごろの習慣が大切。準備、と言ったら、書くために生きるという順番になってしまいそうだからちょっと違うかもしれないけれど、さあ書こうと意気込んで書けるものでもない。日ごろからアンテナを張っておいて、ピンと反応したら、言葉にできるよう頭に残しておく。その習慣が大切なのだと知った。つまり、エッセイストとは生き方そのもの、ということだろうか。

 

 

続く「うっかり」

教室にタブレットを置き忘れた、とか、教科書を家に置き忘れた、とか、とにかく子どもたちの些細な忘れ物が多くて。そんな話を家族から聞いて、自分も小学生の頃は忘れ物が多かったかなあ、と振り返る。まあしょうがないよね。みんなが通る道だ。うっかり忘れて、先生に怒られて、友達に笑われることで、忘れないようにという注意力が磨かれる。きっとそういうことなのだろう。その証拠に、大人になった今、自分はほとんど忘れ物なんてしない・・・。なんて思ったのだけれど、割と「うっかり」してしまうことはいまだにあって、げんなりする。なんだ、大人になっても変わらないじゃないか。

 

今日だって、出張先のカフェの店主に渡そうと思って、自宅近くの駅にある東急線沿線フリーペーパー「SALUS」を持っていこうとしていたのに、忘れた。今月はカフェ特集だったから、きっと喜ぶだろうと思ったのだ。しかし自宅を出て、駅に着いた頃にはすっかりと忘れていて、ラックに近づく事すらしなかった。気づいた時にはもう東京メトロの地下鉄に乗っていた。残念。こういう「うっかり」はいまでも数えきれないくらいある。「忘れないように」と念じることまではするのに。

 

小学生とさほど変わらない不注意な自分に、自分で喝をいれる。その「うっかり」を劇的に減らすことができたら、それだけで充分信頼されるような大人になれるだろうに、と。

 

 

読書の効用

忙しさにかまけて、一つ一つの仕事への取り組み方が薄く、雑になっていることを感じる。ただそれに対して、「体はひとつしかないから」「疲れているんだから仕方ない」と言ってうやむやにしていないか。

 

確かに、複数の仕事を同時並行で走らせられるような大人でありたいと願ったのは自分だ。仕事量が少なければその分濃密な仕事ができるのかというとそんなことはなく、たくさんの仕事をしていく中で一つ一つを丁寧にやることはできるはずだと思っている。仕事量と、仕事一つ一つの品質は、反比例しない。そして今、おおよそその通りの生き方をしていることを、誇りにも思っている。

 

しかし一方で、複数のことに手を出している自分が、どっちつかずの中途半端な仕事人のようにも思えてきて、めまいがするときがある。仕事のどれを切り取っても、プロと言えないというか、職人的と言えないというか。誰もがイチローや大谷になれるわけではない。では自分がイチローや大谷のようになれる場所はどこか。それは自分の仕事のフィールドに他ならない。せめて自分の仕事のフィールドでは、「こういうことなら主導権をもって物事を進めることができる」と言えるようでありたい。いま、それができていないと感じる自分に、嫌気が差す。

 

時間や体力には限度があるから、できないことはできないと諦める。ただし、できる範囲内においては、「ここまででいいや」をなるべく排除して、とことんのめり込む。その気概が大事だ。そしてその気概を後押ししてくれるのが、先人の言葉を体内にしみ込ませる読書体験だ。読書を通して他人の言葉を聞いて、「〇〇はこう考え、実行している。だから自分も〇〇と考えて、実行することができるはずだ」と自信を持ち、行動に移す。そうすることで、いままで超えられなかったハードルを超えることができる。いままで超えられなかったハードルを超えるための跳躍力を身につけるというのが、読書の一つの効用だと思っている。

 

冷たい雨とジョギング

日課のジョギングを、続けている。ここまで来たら、ちょっとやそっとの理由では「今日はいいや、やーめた」なんて言えない。サボる理由はいくらでもつくることができる。気分がのらない、とか、腰が痛い、とか、寒すぎる、とか、猛吹雪で、とか。そして一日でもサボったら、一日も二日も一緒だろう、と感じるようになってズルズルとだらけてしまう。それがとにかく怖いので、今日もサボらない、今日もサボらない、を繰り返している。この寒い時期を超えればひとまずは楽になる。

 

数日前から雪が降るかもしれないという予報で、少し警戒していた。そして今朝の時点で、夕方から雨ということだったので、夕方前には帰ってくるけれど早めに降り出すかもしれないからと思い、傘をもって出かけた。そうしたら、昼過ぎにはもう降ってきた。傘を持ち歩くのがそもそも好きでないのに、降ったりやんだりと中途半端な天気が続き、気分は晴れなかった。そうして帰宅後、重い腰を上げて、今日も走ったのだった。空気が冷たくて、一気に目が覚めた。