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コーヒーと京都と友の話

本と、音楽と、木と、コーヒー。これらがすべてそろった喫茶店があったら、素敵だと思っている。大きな樹がある喫茶店で、きれいな音楽を聴きながら、好きな作家さんの本を読みながら、コーヒーを飲む。そんなの、楽しいに決まっている。自分の理想のカフェに必要な四大要素だ。これに人が加われば、完璧。機械が淹れてくれるコーヒーなんて飲みたくない。自分が喫茶店に行く理由の大半は、そこで人に会いたいから、であるからだ。

 

 

コーヒーといえば喫茶店。喫茶店と言えば京都。ということで、ふと、大学時代の友と、彼が取材で携わった一冊の本のことを思い出した。彼と、もし私が彼と出会わなかったら手に取っていなかったであろう本の話。

 

おじさんの京都

おじさんの京都

 

 

彼は大学時代、私と同じように、建築設計そのものにあまり関心を持たず、どちらかというとまちづくり、都市計画の分野に傾倒していた。既存ストックを活用したまちの再生を卒論のテーマに、まわりの学生にない視点で研究をしていた。がたいもよく、社交的そうで、第一印象こそ「自分は彼とは友達になれないだろうな」と思うような、つまりはあっち側の人間だと思っていた。しかし、同じ研究室に所属したことがきっかけで話をすると、想像以上にソフトで、決してチャラチャラしていなくて、すぐに仲良くなった。一緒に谷根千に散歩に行ったことを、思い出す。

 

彼が取材スタッフの一人として関わった「おじさんの京都」という本がある。京都にある喫茶店、本屋、飲食店などを、それぞれ独特の視点で紹介している。東京にいながらして、京都の独特のにおいを感じることができる、不思議な本だ。

 

この本がきっかけで、自分にとっての居場所のようなカフェがある暮らしがしたいと思うようになった。 だって、テーブルに眼鏡が置いてあって、これ何?と聞いたら、「あ、それ常連さんの。いつもそこに座るから」なんて、素敵じゃないですか。注文してからコーヒーが出てくるのに1時間は当たり前、筆者が知る限り最長記録は友人がフルーツジュースを頼んだ時の3時間半だった、なんて、素敵じゃないですか。そういう文化、もっと味わいたいなぁ。

 

そんな文化を私以上に嬉々として味わい、自らの人生のゆとりへと変換させてしまうであろうおおらかさを持っているのが、彼の良いところ。そんな彼は大学卒業後、突然「これから農業従事者になります」なんて言って北海道へ行った。それ以来、連絡しても返事は来ず、研究室の教授の死別にも立ち会わず、要するに何してるのかよく分からない状態がいまも続いている。きっと、北海道の広大な大地の上で、注文したコーヒーが出てくるのに3時間かかろうとも屁でもない京都のような時間感覚の世界で、自分なりのゆとりある人生を謳歌しているに違いない。

 

仙川 引渡し

この週末は二日とも仕事。引渡しを控えたプロジェクトのオープンハウスと、引渡し会だった。

 

二日間、大忙しで動きまわった。日曜日の深夜、もう月曜日か、こうして少し落ち着きながら、それでもまた今日からまた1週間、引き続きやるべきことを忘れずに、と思うと落ち着いて寝られそうにない。

 

プロジェクトは、事業協力者の力を集結して、なんとか引き渡すことができた。でもこれから。ここで力を抜いちゃだめだ。

 

改めて、自分の事務所が外からどのように評価してもらえているかを実感した。社会の中での役割、立ち位置のようなものに、気づいた二日間だった。

 

金融機関の担当者に、何気なく「デザインも抜群にいいし、なおかつ住みやすそうだし。業界で一番じゃないですかね」と言われ、返す言葉がすぐに見つからなかった。それくらい、嬉しかった。と同時に、その役割を担っている会社で、プロジェクトを企画するという一番川上の仕事をしている自分に、もっと頑張れよと自分で渇を入れた。

 

自分で自分の限界を決めない

金曜日の夜。仕事が終わった!とはとてもじゃないけど言えないような状況で、自分はどうするかと言うと、「明日、土曜日で休みだけど、ちょっと事務所に来てやっつけようか。仮に明日がだめでも、明後日もある」なんて言って、早々に帰りたくなってしまう。それがそもそもいけないんだ。

 

金曜日の就業中にやりきれなかったことが、休みの日にできるはずがない。土曜日の朝、起きて今日は休みだ、と分かった瞬間に二度寝をし、昼過ぎまで寝ているということを繰り返しているんだから、いいかげん自分にできないことくらい気づけよ、と思うのだけれど、金曜日の夜はそうは思わない。そのときとにかく集中力が切れてしまって、もう帰りたいという気持ちが支配し、翌日の新鮮な気持ちならきっと事務所に来れるだろう、と思ってしまう。翌土曜日に平日と同じ気持ちで事務所に行けた試しなんて、ただの一度もないのに。

 

「朝型人間だ」「夜の集中力が他人よりなくて、夜遅くまで仕事ができない」「休日は身体が休みモードになってしまうから、仕事はできない」「百歩譲って休日に仕事は仕方ないにしても、自宅で仕事なんて無理だ。サボるための道具がそろいすぎて、集中できない」これらはすべて、自分が自分に対して思っていたことだ。自分で自分をこういう人間だと定義づけている、と言ってもいい。こうして、自分で自分に暗示をかけてしまっていて、いつの間にか本当にこういう人間になってしまったのかもしれない。

 

「自分で限界を決めるな」なんて言葉を聞くと、なんて気障な、少なくとも私は自分の限界を決めるようなことはしていないぜ、と言いたくなるけれど、先の自分への定義づけも、自分の限界を決めていることと同じなのではないかと、恥ずかしながらつい最近、気づいた。夜に弱いなんて、いったい誰が言ったんだ。確かに集中力が低下して帰りたくなることは多いけれど、逆にアドレナリンが分泌されたかのように集中力を発揮して作業を進め、気づいたら終電間近だった、なんて日もあったはずだ。私はこれができない人間なんです、と決めつけるのは、ただ単に他人からそういう人間だと思われたい(さらに言うと、こういうダメな面もあるけれど、その裏返しでこういう強みがあるんですよ、ということを他人にアピールしたい)だけなのではないか。

 

自分で限界を決めちゃうことほどばかばかしいことはない。だから今日は、思いっきり仕事したっていいじゃないか、でも事務所へ行くには時間がかかるしその時間がもったいないから、自宅でやればいいじゃないか、と思えたので、自宅パソコンでgoogleの仕事アカウントにログインできたし、仕事メールもできた。これができるできないの違いは、大きい。

 

「自分で自分の限界を決めない」そんなの言われなくても分かってるよ、と蹴散らすんじゃなくて、自分の行いを見直そう。そう思うきっかけになった。

 

初めてCDを買った1998年

自分が初めて自分の小遣いで、自分のためにCDを買ったのがいつだったか、と昔を振り返った。そしてそれが1998年であることに気づき、日本で史上もっともCDが売れた年と重なり、なにか不思議な感覚に陥った。

 

宇多田ヒカル椎名林檎浜崎あゆみaiko。彼女らがデビューし、はなばなしく活躍した年が1998年だったのか。あのころ自分は中学3年生。GLAYが「誘惑」と「SOUL LOVE」を2曲同時発売するという、当時画期的な発売形態を見てびっくりしたのを思い出す。雰囲気の全く異なる2曲を、両方同時に買う。それが、彼らが好きであることを友達にアピールする術であった。まぁ、両A面の1枚のCDで売ったっていいものをわざわざ2枚にして発売し、それでも大ファンは何も言わずに両方買っていたのだから、CDが一番売れた時代だと言われてもなんとなく納得はいく。当時日本でCDを購入していた人口2000万人の1人あたり月に2枚のCDを買って、年間3万円近くお金を遣っていた計算になる、といわれても、「うそだー」というより、「そんな感じだったか~、確かになぁ」となんとなく納得はいく。

 

そして、LUNA SEAが1年間の活動休止から復活して「STORM」をリリースしたのが1998年だ。あのとき、世間は誰もがたくさんCDを買って音楽を消費する時代、私はCDを買って好きな音楽を聴くことの快感に目覚めた時代だったのだ。「そんな時代、知りませーん」じゃなくて、音楽がたくさんの人に聴かれていたその年に、自分も音楽を楽しむ状態にいられたことが、なんとなく嬉しい。

 

月日がたって、いま。媒体がCDからダウンロードに変わったとか、そういう話は置いておく。別に音楽を供給する側がつまらなくなったとか、よい音楽が少なくなったとか、そのように言うつもりもない。そう思うのだとしたら、それは社会がそうなったのではなく、単に自分の音楽を感知するアンテナの感度が鈍くなったか、世間の音楽のセンスと自分の好きな音楽が合致しなくなっただけだ。いまの時代にはいまの時代の音楽の消費のしかたがある。要は自分のアンテナの感度を良好に保っておいて、自分の好きなポイントを押さえた音楽を探し当てる探索能力をそなえていれば、自分なりの楽しいミュージックライフを楽しめるはずだ。

 

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

 

 

 

コーポラティブハウスの取り組み考

コーポラティブハウスの新しい取り組み方、企画について、考えている。

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、その住まいの中だけで機能が完結するのではなくて、外に対して、地域に対して開かれたコーポラティブハウス。入居者だけでなく周囲に対しても敬意をもち、価値を与えるコーポラティブハウス。例えば共用部を店舗にしてテナント貸しにしたら。これから独立、出店を考えている若き起業家の、スタートの場にしたら。周辺の賃料相場より少しだけ安く設定して、開業しやすくする。お店を始めようとする人を、応援する。地域に対して集う場所を提供する。で、入居者にも利益があるようにする。例えば管理組合優待券みたいなものを用意して、入居者は安くサービスを受けることができる。賃料収入を管理費の足しにする。管理組合総会の場所として使えるだけでなく、例えば定期的に入居者の自己表現の場をつくる。そんなコーポラティブハウスがつくれたら、住まい手にも、地域にも、テナントにも、楽しい場所がつくれるのではないか。

 

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自分がいまつくりたいもの。それは、既存の老朽化した建物を壊さず使ったコーポラティブハウス。耐震補強とか、必要な修繕はもちろん行う。耐用年数や資産価値は新築に比べて少ないことを見込んで入居者を募集する。オーナーにとって重荷でしかなくなってしまった、その役割を終えてしまった建物に、新しい命を吹き込むような住まいをつくる。そうしたら、役割を終えてしまった建物も喜んでくれるのではないか。

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、ゼロにちかいところからつくるコーポラティブハウス。土地だけを決めて、建物のプランや募集価格帯、住戸面積、総戸数を決めずに募集を始める。謳うのはコンセプト、企画のねらいのみ。入居者が集まってから、設計者と打ち合わせをして、決めていく。もちろん時間はかかるし、予算を目論むことができないし、手間はかかる。だけど、コーディネート主導型は踏襲しつつ、コーポラティブハウス本来のつくり方により近いつくり方で、やってみたい。

 

 

自分がつくりたいもの。それは、50年100年経っても資産価値が落ちない、管理組合が元気に運営し続ける、そんなシーラカンスのようなコーポラティブハウス。いま、新築マンションは価格が上がり続け、中古物件も住まい購入の選択肢として増えつつある。築年数の経ったマンションの仲介とリノベーションを結びつけるビジネスも多い。なにより、「本当に中古?」とびっくりするくらいきれいでかっこいい、リノベでつくられた住まいが多い。

 

日本の住宅流通に占める中古住宅の割合はアメリカなど外国に比べて少ないと聞くから、こうして中古住宅も新築と同じように検討の土台に乗るというのは喜ばしいことだと思う。しかし一方で、躯体や給排水設備が老朽化していないか、とか、修繕積立金が潤沢か、とか、スラム化していないか、といったように、「ダメな中古」を買わないように、ババをひかないようにするにはどうしたらよいか、という情報ばかりが消費者に発信され、「ダメな中古」をどうしたら復活させることができるか、という視点での工夫はあまり聞かない。さらに、住まいが「ダメな中古」にならないように、ババにならないように、という視点での工夫もあまり聞かない。だから、いつまで経っても、何年経っても、消費者が避けるような要素を与えない健康な住まいを、つくりたい。入居者にとっても住みやすいはずだから。

 

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蘇える変態

この本を、夜、浴槽の中で、読んでいる。早くも暖かさが暑さにかわってきて、ただでさえ汗をかき始めるこの時期に、湯船につかって汗をだらだらかきながら、それも、午前中に自宅の給湯器の交換サービスを済ませ、心なしか張られた湯がいつもより多く、また熱く感じられる中、汗をだらだらかきながら、読んでいる。何を我慢しているのか。誰に対して耐えようとしているのか。変態か、おれは。

 

蘇える変態

蘇える変態

 

 

2012年にくも膜下出血で倒れた時のことを赤裸々につづっている。彼の言葉がリアルで、ページを捲りながら「いてー」「苦しいだろうなー」と思わずにいられない。一緒にするな!と彼に怒られるかもしれないが、2年くらい前、自分が尿路結石にやられた時のことを思い出して、ちょっとだけ彼と痛みを共有できた気がした。ただあの時の私には、看護婦さんのツンからのデレに安心するほどの心の余裕は、なかった。付き添ってくれた事務所のスタッフにも、駆けつけてくれた家族にも、恥部をさらしてしまった。

 

死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。そのタイミングは他人に決められるべきではない。自分で決めるべきだ。

 

そのことを、彼から教えてもらった。

 

こういう生身の人間らしい彼が、好きだ。

 

倉庫

帰省時には必ず寄りたい場所がある。さらに今回は、いままで行ったことがなくて、行ってみたかった場所があった。限られた時間、その両方へ、行ってきた。

 

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ちょうど一年前にも来た場所。クレーン教習所跡の倉庫に新たな価値が誕生したプロセスや、その何が面白いかを紹介した記事もあったりと、地元周辺でこれほど発信力のある商業施設もないと思う。

 

厳選されたプロダクトを扱う雑貨店「Lol」も、読み手の声を伝える古本屋「声」も、良い。情報を押し付けない感じが気持ちよいし、なにより、風化しない価値を与えてくれるような強さを感じる。

 

入口の「完全予約制」の貼り紙に、入れなかったローフード専門店。ぽっかりと時間があいてしまったので、思い切って松山は下野本まで行ってみる。デンマークからクラシックな家具が多数届く、これまた倉庫型の家具店がある。まるで工場の中に乱雑にたまっている家具の中から、宝探しをするように見てまわる、その感じが楽しそうで。

 

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嵐山方面からはちょっと入りづらい場所にあるし、「本当にここ?」と思うような場所だけれど、倉庫の中はまるで宝の山。その雑多感は想像以上だった。全然興味ないひとにとってはごみの山にしか見えないのかもしれないけれど、好きな人にとっては「うっひょー!」っていう空間だと思う。これを部屋のここに置いたらいいんじゃないか?とか、こういう椅子が一つあると部屋が引き締まるんだよなぁ、とか、いろいろ妄想しながら歩く。北欧の家具の、デザインを主張しすぎないところや、何年後何十年後に見ても変わらず安心できそうなたたずまいが、好きだ。

 

地方にも、こうして地道に価値ある情報を強く、長く発信している場所がある。そういうものを見守りつつ、自分もその魅力を他の人へと伝えられるようでありたい。

 

邪悪なものの鎮め方

自宅へ帰る途中の乗換駅、文具屋で本を物色する。普通の本屋とは違う品ぞろえで、いつもワクワクする。

 

自分の思い通りにいかないとき。こういうときはこうするべき、といった自分なりの判断基準がまったく通用しないようなとき。でも、何らかの対応をしなければ災厄が起きる、というようなとき。そういうときに、じゃぁどう行動したらよいのかを、考えるキッカケになる。氏の文章は、一文字一文字が丁寧に書かれていて、明快で、読んでいて心地よい。

 

村上春樹1Q84」を、もう残り1/4しかない、と思いながらどんどん読み進めてしまう、といった体験を私はしていなく、私はどちらかというとかなり時間をかけて、「長いなぁ~」と思いながら読んだ。やっと読み終わった、といった感想が率直なものだ。で、読後に「これこれこういう話で、ここが面白かった」と言葉で言えない難しさが残った。なんとなく「邪悪なもの」が物語を支配していたことは覚えているけれど。あの邪悪さの正体は、なんだったんだろう。

 

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

 

  

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 

 

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 

 

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

 

 

happy wedding 14

今日は高校、大学と同級生で、実家に帰るタイミングで会う友達の結婚式へ行ってきた。ライブという目的以外でさいたま新都心に行ったのはたぶん初めてだ。

 

新郎は、その大きな身体から発する優しい雰囲気が特徴の男。新婦が彼に対する第一印象を「大きな身体の寡黙なひと」という言葉がそのままあてはまる。確かに口数はすくなく、シャイな感じだけれど。友達としても、なんか安心感のある男です。

 

そんな彼が、弟の肩を抱いてはにかむ姿が、印象的だったな。いい兄貴、って思った。

 

仕事で信頼されている姿とか、大きなプロジェクトを任されている姿とか、そういうのに出会うと、いつものことなんだけれど、刺激を受ける。自分も頑張らなければ、と。

 

結婚おめでとう!ケンカしても1週間以内に仲直りするという約束、ちゃんと聞いたからね。

泣きたくなったあなたへ

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照れない。ほんのちょっとの勇気を出して、それはあとで冷静に振り返ると別にたいした勇気でもないのだけれど、そうして行動したことが、きっと自分に舞い戻ってくる。いままで、何か行動に移すことができた時は、その原因は照れなかったことにある。いままで、失敗したなぁと後悔したときは、その原因は照れたことにある。だから、照れずに。

 

そんな言葉を、休日、ちょっと事務所へ行って、ちょうどいまたくさんあってなかなか片付かない仕事をやっつけて、それでも夜になってしまって、帰りに駅前の本屋で松浦弥太郎さんの新刊を目にしてすぐ買って、なんか誰かと話したい気分だなぁ、誰かに会うことでこのずしっと沈んだ気持ちを軽くしたいなぁと思い、笑顔のまぶしい店員さんが素敵なハンバーグ屋さんに行って、その店員さんのはちきれんばかりの笑顔を浴びて、ハンバーグを待っている間に、新刊で読んで味わった。なんだろう、このいつも優しい気持ちにさせてくれるような言葉の連なりは。だいたい氏は泣きたいと思ったって泣けないような立場の方なんじゃないのか?そんな氏にも、たががはずれたようにわんわん泣くことがあるなんて。朝、会社に行こうとすると心が不安でいっぱいになってどうしようと悩むことがあるなんて。そんなの考えられない。でも、あるんだって。そんな泣きたくなった時に、どう自分に言い聞かせるのか。どう自分の心をコントロールするのか。そんな厳しくも優しい言葉に、出会える。

 

「いつもありがとうございます」「仕事頑張ってください」自分のことを覚えてくれて、いつも素敵な言葉をかけてくださるあなたに感謝の気持ちを伝えようと思い、帰り際、ほんの少し勇気を出した。相変わらず自分の仕事の遅さにげんなりする毎日だけれど、もう少し頑張ってみようという気持ちになれた。いつもありがとう。

 

帰りの電車が人身事故で折り返し運転になっていたけれど、この本があれば暇にならずに遠回りして帰れるってものだ。一番最後のページを見ると、「2017年5月2日第1版第1刷発行」とある。未来の日付の発行日の本をいまこうして手にしているという不思議な感覚。優越感。駅前の本屋に寄ってよかった。明日からもうちょっと頑張れば連休だ。と気持ちを整理していたら、ふと本の背表紙にシミがついていることに気がついた。たぶんさっきのハンバーグ屋で、だ。未来の本がもう汚れている。・・・。泣きたくなってきた。

 

泣きたくなったあなたへ

泣きたくなったあなたへ

 

 

銀河鉄道の夜に包まれた本

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昼間、仕事で経堂へ。経堂に来た時に、立ち寄りたいところがある。商店街にある小さな文房具屋「ハルカゼ舎」だ。

 

ハルカゼ舎は、大好きな紙文具屋「久奈屋」の商品を扱っている数少ない実店舗の一つ。経堂にあると知った瞬間に、行きたいと思った。先客が3~4人いようものなら歩けなくなるんじゃないかといくらい小ぢんまりした店内には、選びつくされた文房具が並んでいる。初めて行って、目当ての蔵書票を扱っていないと知ったときは少し悲しさを感じたものの、置いてある商品のセンスの良さと、にぎやかな商店街の中にある隠れ家感、我が家感が心地よくて、リピーターになっている。

 

仕事終わりに何かないかなぁと思って立ち寄ったら、久奈屋の包み紙があった。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたその包み紙には、星空、くるみの化石、観測所などが描かれている。淡い青が幻想的な雰囲気を出していて、さてこれをどのように使ってやろうか、といろいろ想像がふくらむ。

 

包み紙なんて持っていても何も包むものなんてないし、包み方も知らないし、と思っていたけれど、文庫本のブックカバーにも使えると書いてあって、一瞬で手に取った。ブックカバーそのものにはあまり興味はないけれど、好きな紙文具をブックカバーとして使えるならと、ある文庫本がぱっと頭に浮かんだ。

 

文庫版を持っていることに気づかずに単行本を見て、これいいなぁ、欲しいなぁ、と思った本が以前あった。すでに持っている本だと気づいたのは、パラパラとページをめくって読んでみてしばらくしてからだ。表紙のもつ力ってすごいと思った。単行本だと重厚感があってシンプルでかっこいいのに、それを見た後に文庫版を改めて見ると「うーん」と思ってしまうデザインなのだ。だから、自分で包み紙を折ってブックカバーをつくってしまおうと思った。彼のあたたかく優しい文章と星空の美しさがマッチするという自信があった。

 

帰ってきて、文庫本にあわせて包み紙をたどたどしく折り、かぶせてみる。一瞬で本から湧き出る空気が変わったように感じた。と同時に、最初は「あれ、これ文庫本カバーとサイズ違うじゃん。縁の絵が見えなくなっちゃうじゃん」と思ったけれど、実際に折ってつくってみたら、描かれた絵が表紙にさりげなくハマり、感動した。

 

ブックカバーって、その本のタイトルが隠れちゃうし、本棚に入れたら余計その本がわからなくなっちゃうし、いままではつける意味が分からなかった。電車内で読んだりする時に、他人に何を読んでいるのか見られるのが恥ずかしい、といった言葉を聞いたことがあるけれど、自分は少なくとも、他人に見られて恥ずかしいような本は読んでいないと思っている。だけどこうして好きな紙文具屋の包み紙をかぶせてみることで、ブックカバーをつける意味に気づいた。改めて本の面白さは、その書かれている内容だけでは決まらないのだと感じた。

 

エッセイ

いまでこそ人並みに本を読むようになったとは思うけれど、毎日、本からたくさんの情報を摂取して、自分の知識が増え続けているかというと、そうではない気がする。だいたいが、本を読んでいる時間そのものを快適に過ごすことが目的で、時間が経つと読んだ内容を忘れてしまうことも多々ある。しかもこのところ、読む本の分野が、専門書やビジネス書といったような「知識を得る」ようなものではなく、小説やエッセイが多い。意図的にそうしているというよりは、無意識に、そういう本に手が伸びてしまうといった方が近い。基本、頑張ってモノを覚えるにはそれなりの準備と環境が必要で、日々の読書でそういうことはしたくない。

 

エッセイは、書き手の心の中が垣間見れるようで、読んでいて楽しい。あ、自分もそう思う、とか、そういう考え方もあるのか、とか、他人が経験した事実から気づくことは多い。自分も、日々過ごしている中で気づいたこと、思ったこと、考えたことなどを、さらりとした文章でまとめられたら、どんなに楽しいだろうか、と思う。

 

でも・・・とも思う。エッセイを読んでいて楽しいな、心地よいな、と思うのは読んでいる数分、数十分のことであって、あとで何か余韻が残るかというと、それほどではない。なにか仕事で役に立つような知識、知恵、ノウハウが得られるかと言うと、それも少ないと思う。結局は、一瞬の快楽のために夜遅くに美味しいラーメンを食べてしまったり、甘いお菓子を食べたり、休日を昼過ぎまで寝て過ごしたり、といったような快楽におぼれているのと、そう変わらないのではないか。自分を形成する何かが後で残らないのだとすると・・・カッコつけてエッセイなんか読んでいるけれど、実は本当の意味で自分のためになる読書になっていないんじゃないか。ふと、そういう不安に襲われる時がある。というか、いまその不安に悩まされている。もっと読むべき大切な本が、いっぱいあるんじゃないだろうか、と。

 

「読書の目的は、そこから情報を得ることではなく、読む時間そのものを楽しむことだ」そんな言葉に出会ってから、気の向くままの読書を続けてきた。それが自分にとって良いことだと思い続けてきた。別に知識なんて得られなくたっていいや、あとで内容をほとんど覚えていなくたっていいや、というように、情報の蓄積を拒んできた。果たしてこの読書が自分にとって正しいのか、それは正直分からない。ただ、もし「いや、やっぱりエッセイばっかり読んでちゃだめだ。小説ばかり読んでちゃだめだ。もっと難しい本もたくさん読んで、知識を得て、仕事に直接いかすべきだ」という結論に至るには、まだ自分はエッセイや小説を読んでいなさすぎる。もっとたくさん、いろんな作家さんのいろんな本を読んでから、いやこれは違う、と言えるようでありたい。

 

彼のエッセイも大好きだし、彼が紹介するエッセイも読んでみたいものばかりだ。

 

 

ぼくのいい本こういう本 (朝日文庫)

ぼくのいい本こういう本 (朝日文庫)

 

 

くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集 (集英社文庫)

くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集 (集英社文庫)

 

 

独りの珈琲 (知的生きかた文庫)

独りの珈琲 (知的生きかた文庫)

 

 

旅先でビール

旅先でビール

 

 

1,001

先週末、前回の記事を書いたあと何気なく管理画面を見たら記事数欄に1,000とあり、目がテンになった。数の多さとキリのよさ、その両方に驚いて、だ。こんな突然、何の前触れもなく、訪れるものか?

 

記事数を増やすことを目的にしているわけではないし、〇周年記念とか祝〇回とかそういうことにはあんまり関心がないほうだと思っているので、そのときはちょっと驚いたくらいで、そのまま寝てしまった。けれど、あらためて今日、本当にちょうど1,000か?と思って、アーカイブの記事数を足し算してみる。89+124+124+135+・・・。やっぱり1,000だ。これが1,001になるのが惜しくて、このままブログ辞めたらどうかという誘惑に少しだけ駆られる。いやいや、そんなんじゃダメだ。Spotifyをインストールしたけどすぐに飽きてアンインストールした、というただの愚痴が最後の記事だなんて、むなしすぎる。さっさと1,001にしてしまいたい。

 

「1,000なんてたいしたことない。これが10,000になったら、お祝いしてもいいんじゃないか」とも思ったのだけれど、いまのペースで続けていって、記事数が10,000になるのは何年後かと計算したら、気が遠くなった。1,000記事書くのに約8年かかったんだから、10,000記事になるのは72年後。100歳を超えた自分が「週末を有意義に!」なんて言いながらブログを書いているわけがない。仮に生きていたとしても、平日と休日の境目なんてなく毎日動かず呼吸をしているだけだ、きっと。であれば、この1,000回はちょっと大切にしたい、とも思える。

 

1,001回目の記事では、今日までを振り返って、今日からの未来を想う。今日までブログを書いてなかったら、自分の考えをきちんと書いて保存しようという気持ちは芽生えなかったと思う。そして、いま仕事で文章を書く機会が多く、ブログを書いてきたことで蓄積された何かが、少なからず役に立っていると実感すると同時に、もっとスラスラと、ストレスなく書けるようになっていてもいいのになぁとも感じる。続けているからできること。ただ続けているだけではできないこと。その両方があるのだと知った。これからは、「続けているのに、こんなこともできないのか、お前は」を少しでもなくしていきたい。

 

記念にケーキでも買って食べるか?なんて一瞬頭に浮かんでしまったけれど、昨日だったか一昨日だったか、事務所の代表に腹の出具合をびっくりされたのを思い出して、やめた。その時は「ハハハ、そうなんですよ、困っちゃいますよねぇ」なんて笑ってごまかしたものの、結構落ち込んだ。その時の気持ちだけで、甘いものの快楽を求めてしまうのはやめようと思う。オトナなんだ。もっと、ストイックに。

 

Spotify

せっかくスマホで高品質の音楽を聴けるのだから、と思ってSpotifyをインストールした。4000万曲以上のデータの中から未知の曲を選んで自由に聴くことができる。音楽を聴くということへのハードルが、ものすごく低くなった。こんなこと、ほんの数年前までありえないと思っていた。

 

これまで音楽は、CDを買わなければ聴くことができないものだった。だからこそ、買ってまで聴く曲を慎重に選んでいた。結果、本当に好きなロックバンドの曲しか買わないという、偏食ぶりが身体にしみついてしまった。栄養失調でそのうち死ぬんじゃないだろうか。

 

スマホという小さな箱の中に入っている膨大なデータのなかから、聴いてみたい曲、好きなバンドの曲を検索してみる。ピンポイントで聴きたい曲がないのはまぁ仕方ないとして、あぁこれも、これもある、この人の曲が気になるんだよな、と次から次へと聴きたい曲がでてくる。7日間だけ体験できる無料トライアルにさっそく挑戦し、試しにアルバムを1つ、ダウンロードしてみる。これはすごい。

 

だがしかし・・・なんだろう、このワクワクしない感じは。良さそうな曲をいくらでもタダで聴けるこんな「ひゃっほー!」な体験、ほかにないはずなのに。なんで、心の底から嬉しくなって、片っ端からダウンロードしてすぐスマホの充電がなくなって困っちゃう・・・とならないんだろう。

 

そうか、タダだからか。身銭を払わずに音楽を自由に受け取ることができる状態では、その音楽のありがたみが伝わらない、ということなのではないか。例えば街中で聞こえる音楽とか、カフェで流れている音楽とか、事務所で仕事中に流れている音楽だとか、そういったものは、良い。それを聴くことが目的ではないから。意識して「この曲いい曲だなぁ」と聴いているわけではないから。それに対して、自らのスマホでダウンロードして、イヤホンをつけて、聴くことに集中しているときはどうか。やっぱり好きな曲を、興味のある曲を、お金を払ってでも聴きたいと思える曲を、全身全霊で、聴きたいと思うんだろう。定額食べ放題だとひとつひとつの料理のありがたみが薄く感じるけれど、それと一緒だ。

 

どうやら「好き嫌いなくいろんな曲を、さりげなく聴く」ことができないらしい。本当はそのくらいの距離感で音楽と付き合いたいという気持ちはあるのだけれど、なかなかそうはいかないらしい。好きなミュージシャンがいて、その人間に惚れて、彼、彼女の音楽を味わいたいと思って、お金を払って、音楽を手に入れたい。そうして、好きなミュージシャンにわずかながらも敬意を示したい。無料でダウンロードする=つくり手の苦労をないがしろにしている、とは思わない。別に買わなくても、聴いて、良かったら人に伝えて、それがどんどん伝われば、結果としてつくり手のためになると思う。だけど、私はどうしても、音楽を買って所有することでその想いを伝えたいと思ってしまう。もっと柔軟に考えられないのだろうか。

 

インストールしたものの結局ワクワクできず、新しい音楽を発見するという楽しみ方は自分には不向きだと捉え、無料トライアル期間中であるにも関わらず、最終的にはアンインストールするに至った。ほんと意味ない。選び放題、食べ放題は自分には合わないという気づきだけ得られた。

 

 

 

 

 

まわりの不機嫌を感じた時は

「不機嫌が許されるのは、赤ん坊か天才だけ」この言葉に出会って以降、不機嫌は悪だ、上機嫌に行こう、と自分に言い聞かせながら、今日に至る。それでも、上機嫌男にはなれずにいる。正確に言うと、「上機嫌を技化する」ことができずにいる。

 

自分がぶすっとした対応をとられたりすると、当たり前だけれど、イラっとする。相手の機嫌が悪そうだと気づくと、つられて自分も暗くなる。で、あまり話しかけないようにしよう、そっとしとこう、と思う。そういうときの空気が、心地よいはずがない。不機嫌の波は、伝播する。

 

これは、自分にも言えることではないか?機嫌の悪い人の近くにいると自分も機嫌が悪くなるのだとしたら・・・いま目の前の人の機嫌が悪いのは、自分の機嫌の悪さが伝わっているからではないか?じゃぁ、少なくとも自分は上機嫌でいなければ。別に難しいことじゃない。24時間365日いつもニコニコしていろと言っているのではない。他人と空間をともにしているときに、上機嫌を装って、というとちょっとニュアンスが違って聞こえるけれど、要は上機嫌になるための自分スイッチを入れさえすれば良い。難しいことじゃない。

 

「不機嫌が許されるのは、赤ん坊か天才だけ」この言葉が頭の中に入っていれば、とてもじゃないけど恥ずかしくて、みっともなくて、不機嫌なんてやっていられないはずだ。「怒っちゃだめ。怒って良いことなんてひとつもない」「オトナの!」でかつてこう言った押井守さんの笑顔を、思い出す。怒っちゃだめ。不機嫌はだめ。上機嫌で行こう。仕事中に「あぁ、いま自分の不機嫌が空気を伝わっちゃってるなぁ」と思うことが多い、自分への戒め。「不機嫌なオレ、近寄りがたい雰囲気を出しているオレ、ちょっとカッコいいかも」なんてほんの少しでも思ってしまっている、自分への戒め。

 

上機嫌の作法 (角川oneテーマ21)

上機嫌の作法 (角川oneテーマ21)