安心できる場所

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自分にとって「あっ、ここまた来たいな」という場所を、それは喫茶店でもレストランでも、本屋でも雑貨屋でも、はたまたイベントでも、まぁなんでもいいのだけれど、そういう場所をできれば多くつくって、そこへ行くことを楽しむことが、自分の心を喜ばせるために必要なのだと思う。そして、究極はその場所がたったひとつであっても、そこへ行くことが無上の喜びだと思えるような場所であれば何も言うことはない。その境地にはまだたどり着けそうにないけれど。

 

久しぶりに行ったカフェで、扉を開けた時に店主と目が合って、何とも言えない安心感を感じた時に、そう思った。この安心感が快感だから、その快感を味わいたいがために、また来たいと思うに違いない。

 

そう頻繁には行かないようなところでも、安心できる場所があると嬉しい。表の豊かな緑が、久しぶりに来た自分を歓迎してくれているようで、余計に嬉しい。

 

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問いかけに応じる

連休中、たいして身体を動かさなかったにもかかわらず、食べる量だけは多い。運動不足が気になり、夕方、涼しくなってから、河川敷を走った。

 

この、苦しいのだけれど清々しい感じが気持ち良いから、走れているようなものなのだと再認識。この気持ちをもっと大事にしよう。この気持ちを、ジョギングを続けるモチベーションにしよう。身体にいいからとかそういうことじゃなくて、ただ走りたいから走る、という感覚を。

 

走りながら、いろいろ考える。

 

 

これまでは、自分から主体的に情報を収集して、それをプロジェクトへと導くことが、仕事だと考えていた。ゼネコンの営業をしていた頃は、不動産業者を訪問して土地情報を集め、クライアントに「ここに建物を建てませんか」と提案する。向こうから「建ててくれませんか」と依頼されるのを待つのではなくて、こちらから仕掛ける。それこそが仕事だと。だから、営業が持ってきた案件に対して「これはできない。難しい」と言う工事部や積算部をどこか見下していた時期もあったし、「工事部や積算部は仕事が天から降ってくるもんだとしか思ってないからね」という営業部の先輩の言葉を真に受けたりもしていた。

 

でも、その考え方も徐々に変わってきて、それだけが仕事じゃないよなぁ、と今なら想える。差し出されたボールをどうやったら相手の望む形で返せるか。それを一生懸命考えることも仕事だろう。まさに「仕事とは、来た球を打ち返すこと」だ。

 

「向こうから来るのを待ってそれに飛びつくんじゃなくて、自分から企てて初めてゴール」そうやって自分の仕事に対するハードルを、無意識のうちに高く設定していたのかもしれない、とふと気づいた。100パーセント自分の力でつくらなければ仕事と呼ばないのだとすると、自分はもしかしたら今後一生満足のいく仕事ができないかもしれない。そもそも、100パーセント自分の力でつくるって、どういうことだ?そんなこと、できるのか?それを考えずして、何をしようとしていたのか、自分は。

 

こうしてふっと肩の力を抜くことができたのは、「強がらない」でいいんじゃないかという言葉に会ったから。仕事に対する「こうあるべき」という目標設定がそもそも「強がり」であったのかもしれない。別にそうじゃなくたっていいじゃないか。棚ぼた的に降ってきた話を、まるで自分の力で仕入れた情報であるかのように言い、我が物顔でふるまうつもりはないけれど、来たものに対して自分はどうふるまえるのかを真剣に考える過程も、面白いと最近気づいた。強がらず、どうしたら自分自身が喜べる仕事ができるか、という視点を大事にしたい。

 

「この仕事、やってくれませんか?」という問いかけは、相手が自分に対してその仕事を果たす力があると判断したから来るのであって、同意するかしないかを話を聞いてから吟味するような人には、この問いかけは来ない。そしてこの場合の外部評価は、自分が自分に対して行う自己評価よりも、客観性が高い。どうしてかは分からないけれど、そういうものなんだろうということを、本を読んで知った。私自身、不思議な縁の力ってあるんだなぁということを身をもって体験したと思っているので、「出会うべき人とは必ず出会う。そういうものだ」という氏の言葉にも、うんうんと大きくうなずくことができる。

 

強がらない。 (角川新書)

強がらない。 (角川新書)

 

  

身体の言い分(毎日文庫)

身体の言い分(毎日文庫)

 

 

医者と患者

冷静に、自分の仕事のしかたを、考える。

 

「仕事とは来た球を打ち返すこと」この言葉に感銘を受けて、そうだよなぁと共感したのは以前書いたけれど、さらに重要だと思えるような考え方にたどり着いた。

 

内田樹、池上六朗著「身体の言い分」に、医学部の学生のコミュニケーション能力が低下していて、そのことに嫌気がさして、という話があった。医者は患者と向き合う時に、どこが悪いのか、その原因を探るにあたって問診をする。きちんと話を聞いて、声に耳を傾けることで、悪いところを見つけ出す。その聞くためのコミュニケーションができず、データの羅列だけで症状とその対応を判断しようとする傾向にあるのだそう。大学の必修科目に「コミュニケーション論」なるものがあって、必修で学ばなければコミュニケーションができないのか、と著者は嘆いていた。そういう人が医者になるんだから恐ろしい、と。

 

身体の言い分(毎日文庫)

身体の言い分(毎日文庫)

 

 

自分は医者でもなければ医学生でもないけれど、コミュニケーションをとることが仕事を進めるうえで重要であるということは分かるし、自分にも十分当てはまることだと思う。じゃぁ自分の仕事に当てはめるとどうだろう、と考えた時に、自分はコーポラティブハウスを自発的に企画してプロジェクトとして世に出すことが一つの大きな使命でもあると思っている。これはクライアント(医者から見た患者)の声に耳を傾けて、彼が抱えている問題(患者からみた病気)を解決するためにどうしたらよいか、と考えることとは少し順番が違う。特定のクライアントがいて始まるのではなく、「こういうプロジェクトがあったらきっと気に入ってくれる人がいるのではないか」という期待から始まる。先の例で言えば、病気を訴える患者が目の前にいないのに、こういう病気の人がいるんじゃないかと先回りして薬を開発するようなものか。

 

でも、逆の順番で取り組むこともある。例えばクライアント(この時はまだクライアントじゃないけれど)から土地活用の相談を受けて、検討して、建物を建てるというパターン。これは先の医者と同じ仕事の進め方だ。クライアントの声に耳を傾けて、土地の個別的要因をしっかり見て、そこに何を建てたらもっとも効果的か(もしくは建てない方が良いのか)、といったことを考える。

 

「そうか、医者か」クライアントにとっての自分は、病に苦しむ患者にとっての頼もしい医者と同じであるべきなんじゃないかと思った瞬間に、すっと視界が開けた気がした。そしてその考えを後押ししたのが、たまたま久しぶりに観ていたテレビ番組だった。ビートたけしが司会を務める「たけしの家庭の医学」で、細かく問診を繰り返したセカンドオピニオンの医師が原因不明だった病気にたどり着いたという事例を放送していた。不調になるのに時間帯や気温などの共通点がないこと、問診をしている現在イライラしていること、空調が効いているのに汗をかいていること、など細かなことを積み重ねて、不調になるのは空腹時であるということに気づく。この放送を見て、最初の医者が気づかないようなことも、問診を繰り返すことで、つまりコミュニケーションをとることで発見できるということが分かった。自分は医者ではないけれど、クライアントが抱える問題を解決するという点においては、こうあるべきなんだと思った。

 

自分が動くことで他人から「ありがとう」と言ってもらうこと。これが自分にとっての仕事だと思っている。では「ありがとう」と言ってもらうためにはどうしたらよいか。相手の抱える問題を解決してあげればよい。言葉で言うと簡単なことだ。では解決するためには?何が問題なのか。それを問題視している理由は何か。対策は一つだけか。他にないのか。など、相手から話を聞きながら、ひとつひとつつぶしていく作業なのかもしれない。自ら企てる、そういう順序の仕事も自分の場合は大事。だけど、自分から「こういうプロジェクト、どうでしょう」と投げかけることが、時として自分よがりなんじゃないかと感じることが最近ある。そうじゃなくて、自分は他人の声に耳を傾ける医者なんだと思った瞬間に、仕事の進め方という一つの道ができたような気がした。

 

猛暑

夏休み。新しい住まいでキッチン壁のタイルを検討していて、その色を確かめるために新宿にあるショールームへ行ってきた。いくつかサンプルをみて、色を決める。打ち放し部分とも調和するように、マットな仕上げのものが良いだろう。複数の色を混ぜるのもやめて、単色にしよう。

 

降りた駅が初台だったので、であれば気になっていた本屋「fuzkue」へ行こうとも思ったのだけれど、暑さで気力がなくなって、また次にしようと思い、辞めた。私語厳禁、静かに過ごすことを強制させられるその本屋さんは、逆に言えば集中して本を読むための空間が約束されている本屋。食べたいものを食べて、時間を気にせずずっと読書にふけることができる場所。そんな場所があったらいいな、なんて誰だって一度は思ったことがあるんじゃないかな。だからこそ、汗をぬぐいながら頑張って行こう、という場所ではなく、気が向いたときにふらっと立ち寄りたい、そんな場所だ。

 

そのあと駒沢に用事があって、駒澤大学、駒沢公園あたりをしばらく歩いた。そうなると今度は深沢にある「SNOW SHOVELING」にも寄りたくなる。封筒に入った、中に何が入っているか分からない闇鍋的な本を売るスタイルに、天王洲ハーバーマーケットで出会った。自分は本を愛している、だから本を紹介する。そんなシンプルな方程式に導かれて動いているようなお兄さんの笑顔が印象的で、行こう行こうと思いながら、場所が場所だけに、なかなか足が向かわなかった。あと10分歩けば着くだろうか・・・。でもその10分を歩く気力がどうにも残っていない。だからまた次の楽しみにとっておこう、と意気地がない自分を正当化する。なにせ猛暑。熱中症で倒れたらせっかくの休みが台無しだ(というか下手したら人生が終わってしまう)。ということで皆さんも、強がらず、気をつけましょう。

 

夏祭り

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自治会で夏祭りがあるというので、あのへんに神社あったかな、行ったことなかったな、なんて今さら思いながらも、夕方立ち寄った。自分もその集まりの一部になりたかったから、というのは後付けの理由で、ピザが目当てであったというのは、ここだけの話だ。終了直前にもかかわらず、まだまだたくさんの人で賑わっていて、地域の力を感じた。自分が地域コミュニティを知らな過ぎただけだ。

 

子育て世代も、若者も、ご年配の方も。いろいろな世代が集まって賑わう。こういう姿を見るときにいつも夏を実感する。今日から連休。仕事では相変わらず自分の不甲斐なさに眩暈がする毎日だけれど、地域に想いを馳せながら、楽しもうと思う。確かに倒れそうと思うくらいの猛暑日もあるけれど、これも好きだったりする。寒さが原因で身体が動かなかったり、不機嫌になったりすることはあるだろうけれど、暑さが原因でそうなることは、自分の場合、ない。

 

仕事の進め方を考える

休日を有意義に!なんて思いながら始めたブログなのに、土曜日に放心状態のまま帰ってきて、もしくはぼーっとしてやる気が起きなくて、書くことができないなんてことが続いている。これではいけない。今日だって、昼間事務所へ早めに行って仕事を片付けようと思っていたのに、起きたら昼前。目は覚めているのだけれど、身体が起きようとしなかった。エイヤと起きてしまえば楽だということを知っているのにも関わらず。こういうときはたいてい、昼間にやりたいと思っていたことが時間オーバーでできなくなり、もっと早く起きればよかったと後悔するのだ。

 

休日だからといってぐずぐず寝ているのは、罪だと知った。いや、本当は知っていたけれど、改めて思い知らされたといったほうが正確だ。別に運動をするとか、どこかへ出かけるとか、そういうことが全てではない。何か、それは仕事のことでももちろん良いのだけれど、一生懸命考えて、熱中する。そういう時に感じる高揚感。いま時間を忘れて集中しているなぁと気づいたときに感じる快感。その気持ち良さを、もっと大切にしたらいいんだ。その気持ち良さを、味わうことに対してもっとがめつくなっていいんだ。そう思った。

 

 

仕事の本質とは?自分なりの答えを書くと、「自分が動くことで他人を喜ばせて『ありがとう』と言ってもらうこと」。そのためには、他人が抱えている問題点を「解決する」というプロセスが必要。そこでふと、「『請負型』から『企画提案型』へのシフト」というテーマが頭に思い浮かんだ。前職でのことだ。

 

以前ゼネコンで建設営業の仕事をしていた。請負工事を受注する営業。クライアントに対して「うちで建てませんか?」と営業する。その過程には、売地情報を紹介したり、概算見積を出したり、自社プランを提案したり、といった積極的なプロセスがもちろんあるのだけれど、基本的にはクライアントの「建物を建てますよ」という目的があって、「おたくにお願いします」と依頼を受けることで初めて成り立つ。そこを「受け身型の仕事」=「受け負け」と以前の自分は捉えがちであった。だからこそ、自分で「社会にはこういうニーズがあるのではないか?」と先回りして考えて企画を立てて、「こんなのどうですか?」と紹介する企画提案型の販売業、つまりは自社ブランドマンション分譲というプロセスに、受注型にない積極性・自主性を感じていた。それこそが社会に対して価値を提供する仕事なのだと思っていた。

 

だけど、ここへきてその考えも変わりつつある。180度変わるというよりは、もっと柔軟に考えられるようになった、といった方が近いかもしれない。仕事は、自分から先回りして価値を見つけて、これどうでしょう、と紹介することだけではもちろんない。まず「こういう問題点があるのだけれど、どうにか解決できないでしょうか」というクライアントの発意があって、それに対して自分はどうやったら解決してあげることができるだろうか、と考える。そういう順番。まずクライアントありき、不満・不安ありき。それを十分にヒアリングしたうえで、解決策を一生懸命考える。それこそが本当は仕事であり、だからこそ真剣に考える動機になるんじゃないかと思えてきた。

 

誰か(確か糸井重里さんだったと思う)がどこかで言っていたと思う。「仕事とは来た球を打ち返すこと」。この言葉が本当にしっくりくる。ボールが来るから、それを打ち返すことができる。ボールが来ないのに振っても空振り。もちろん「こういう需要があるんじゃないか」という予感(それは仕事においては確信なのだろうけれど)があって、「これ、いいでしょう?素敵でしょう?いかがですか?」と提案する積極性も大事なのだけれど、それだとリアクションが全くない可能性だってある。「あなたにとってはいいものかもしれないけれど、それを欲しがっている他人は実際にはいません」という可能性もある。仕事にならないことを惜しまずに動くことも必要だとは思いつつ、でもできれば無駄は少なくしたい。相談をしてくれた相手に対して、自分はどう寄り添うことができるかと考えた時に、スムーズに身体や頭が動く気がする。

 

もちろん、相談してもらうためには、ただ待っているだけじゃダメだし、それまでの実績をアピールすることが大事。だから「自分から積極的にボールを放つこと」と「来たボールをよく吟味して、それに対して打ち返す」の二つを両翼に、仕事をしていきたいと思った。

 

ハンコ

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少し遅めの誕生日プレゼントにと、オリジナルゴム印をもらった。ハンコ作家さんのワークショップに参加する機会があったようで、自分の名前を図案にしてくれたのだ。「図案がなかなか決まらない。絵心がない」そう言って困っていたようだったけれど、自分からしたら、手作りでゴム印をつくれるせっかくの機会、その図案に自分の名前を選んでくれたこと自体が嬉しくて、こう言っては変だけれど、絵の上手い上手くないは正直どうだっていい。図案に名前を選んでもらえたこと、図案を選ぶときに自分を思い浮かべる人が身近にいるということ自体が、プレゼントだと思った。

 

どこを探しても売っていないこのゴム印を、さてどう使おう。手紙への署名はもちろん、大切な本に刻む蔵書印としてもよさそう。これで筆まめになり、さらに本に愛着をもつきっかけになればいい。

 

今日、手にした消しゴムハンコは、手作業とは思えないきれいな仕上がりで、見ているだけでうっとりする。カッターって、こんなに繊細に使うことができるのか。その技術に驚くと同時に、自分がいかに雑であるかを思い知らされた。


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moto.8

神保町の東京堂書店で行われた紙と本のイベントへ。紙モノを扱う作家さんの作品を見て楽しんだ。新しい作家さんにも出会い、刺激になった。

 

web.mamma-ru.com

 

「紙と本をたのしむ会」活版印刷や手製本の魅力を肌で感じられるイベントだったけれど、ここではそのあとの話。

 

東京堂書店を出た後時間があったので、新宿線で本八幡へ。東京堂書店で見た「散歩の達人」がたまたま市川特集で、本八幡の新しい商業施設をクローズアップしていた。OKストアの裏?こんなところにあるんだ、知らなかった。で面白そうだと思ったので、行ってきた。

 

散歩の達人 19年8月号

散歩の達人 19年8月号

 

 

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木造2階建て。板張りの外壁があたたかい印象。ここにカフェや蕎麦レストラン、雑貨屋等が並んでいる。イベントスペースもあるようだ。こうやって建築によってヒト、モノ、コトがつながるというのが面白い。市川でも、こういうものがもっと増えたらいいと思う。

 

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2階へあがって「三毛猫雑貨店」へ。猫関連の雑貨と本、お菓子が並んでいる。いままではネットショップを運営していて、今回実店舗をオープンさせたのだとか。こうしたテーマを絞ったお店も、もっと増えてほしいし、もっと情報発信してほしい。小さい店内だけれど、本の品揃えはかなり良かった。

 

都内や神奈川だけに目を向けるのではなく、自分がいま住んでいるまちにもっと注目しなければ、と今さらながら思った。

 

moto8.jp

 

シュークリーム2個

自分がこうしてブログを書き続けることにどんな意味があるのか。そのひとつの答えを得られた気がした。誰かが読んで面白がってくれるだろうか、とか、共感してくれるか、とか、そういうことはあまり重要ではない。そもそも、自分が期待するほど読まれていない。それよりも自分自身が、書いているいま、もしくはしばらく時間が経ってから、読んで楽しいかどうか、自分の気持ちに素直な言葉かどうか。それが一番大事であり、楽しさからくる快感こそが書く動機なんじゃないかと思った。誰か他の人が書いていることだったら、自分が書く必要はない。読み手に徹すればいい。自分が書く文章を最初に読むのは、自分だ。読んで楽しいことを、書けばいい。

 

読みたいことを、書けばいい。

読みたいことを、書けばいい。

 

 

 

しばらく行けていなかったセレクトショップに、昼間時間があったので久しぶりに行ってきた。自転車をこいで。そうしたらちょうどそのお店がオープン2周年だったみたいで、記念のシュークリームをいただいた。2シューネンだからシュークリームです。「シュー」がかかっています。だから3周年でも5周年でも使えます。先に来ていたお客さんに店主がそう説明しているのを聞いて、笑いそうになった。絶妙なシャレが効いている。見たら、2個も入っているじゃないか。その2個が2年にかかっていることに気づいたのは、帰宅後にSNSを見てからだ。絶妙なシャレが効いている。

 

買ったマヨネーズがまた、べらぼうに美味しい。マヨラーにとっての麻薬だ。汗をかいて自転車をこいで行ったことで消費したカロリーを、夕食で回収してしまった感は正直否めないけれど、行ってよかった。なにより、今日がちょうど2年という記念すべき日だったことが面白い。シュークリームとマヨネーズがセットで記憶に深く刻まれた。

 

ちょっと気になるのは、買ったマヨネーズの利益よりも絶対シュークリーム2個の原価の方が高いだろう、ということ。それだったらラー油も買っておくべきだったか、と後で後悔したものの、手ぶらで千円札1枚をポケットに入れただけだったから、いずれにせよ買えなかった。

 

それともう一つ。シュークリームに驚きすぎて、そして嬉しすぎて、「2周年おめでとうございます」その一言が言えなかったのが、恥ずかしい。これから継続して買っていくことで、その気持ちを伝えられたら。

 

30日のパスタ

吉祥寺にあるお気に入りのセレクト本屋で出会ったパスタレシピ本は、パスタをつくるハードルを限りなく低くしてくれる。日本人が毎日ご飯を食べるのと同じように、イタリアではまた毎日のようにパスタを食べるのだそう。1か月30日、いろいろな素材を使ってつくるパスタには無限のレシピがあり、気負わずつくったらいいのだということを教えてくれる。今日はこの野菜とこのおかずがあるから、それを使ってこういう味付けにしよう、なんて考えるのも面白いかもしれない。

 

炭水化物過多で身体が気になる自分だが、なかなか抑えられない。米と麺とを両方食べた時の罪悪感にも最近は慣れつつあって怖い。米自体が悪いのではなく、それをたくさん摂取するから問題なのだ。そうやって炭水化物を減らそう減らそうとするけれど、気持ちと現実との差は開くばかり。そこへきて30日のパスタ。あくまでもパスタが悪いのではない。つくること自体を楽しみながら、そして味を楽しみながら、少しづつ食べればよい。

 

30日のパスタ

30日のパスタ

 

 

一輪挿し

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壁面本棚をつくってもらって以来贔屓にしている家具屋さん(nikom)が、東京で今日まで個展を開いているというので、行ってきた。誠実という名のオーラが肉眼で見えるんじゃないかっていうような空気をまとった二人に会い、英気を養う。その人柄が新作家具にも現れていて、恐れ入る。華々しさを感じる仕事のように見えるけれど、きっと気苦労も多いんだろうなぁとも思う。家具屋さんほど、それを産むために費やす時間や労力と、それに対する対価が見合っておらず、継続的に利益を得続けるのが難しい商売も、ないんじゃないか。

 

個展などでつくってくれる一輪挿しを、ようやく手に取ることができた。オトナの佇まいをみせてくれるウォールナット。無垢家具の部屋に、よく似合う。挿すものを、さてどうしようと考えるのもまた面白い。

 

雑貨化する社会

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「世界がじわじわと雑貨化している気がする」という一文を見て、頭の中にぼんやりと描かれていたイメージが言語化されていることに気づいた。あらゆるものが「その他」に類する「雑」のもの。これまで「雑」でなかったものも「雑」になりつつある(「雑」だと捉えることもできる)。

 

多様な価値があふれていて、そのなかから自分に適したものを自由に取捨選択できるという点では、こんな豊かな社会はないと言えるのだろうけれど、逆に選択肢が多すぎるというのは、供給する側からすると選ばれない可能性が高いことにほかならず、健全ではない。これまで雑貨の購入者であった者が作り手の方にまわり、需要が供給を大きく下回る。結果、雑貨屋の薄利に拍車がかかる。そういう循環があるのだとすると、作り手はたくさんいるにもかかわらず、それを紹介する立場がビジネスとして成り立たなくなり、良い作品も世に出なくなってしまう。本当に、シビアな世界だと思う。

 

だからこそ、雑貨屋で生計を立てている身近な人を、心から尊敬する。消費者側の視点ではぜったいに見えない景色があるんだろうなぁと思う。どんなに選択肢が増えても、ひとつひとつの単価が低くて利潤が微々たるものであっても、きちんと成立する商いであり続けてほしいと思う。

 

そのために自分にできることは・・・良いと思ったモノに対して、「私はこれが好きです」という意思を表明すること。そしてそれを自身の生活になじませること。それだけなんだと思う。

 

すべての雑貨

すべての雑貨

 

 

七夕の奇跡

今週のお題「わたしの好きな歌」

 

THE YELLOW MONKEYが復活するきっかけとなったエピソードを聞くたび、奇跡の力を感じる。ローリングストーンズのライブを観て「バンドは宝だな」と思った吉井和哉が、2013年7月7日にメンバーに「また一緒にバンドをやってくれませんか」とメールを送ったのだという。小学生の拙い感想みたいだけれど、願い事って叶うんだなぁ、と思った。7月7日。短冊に願い事を書いたって、何を書いたか覚えていないんだったら、そりゃあ叶うわけがない。彼みたいに、ちゃんと目的をもって、真剣に願わないといけない。

 

それが7月7日であったことが偶然か必然かは置いておいて、いま彼らの音楽がこうして届いているのだから、その奇跡の力に感謝しなければならない。高校時代にその活動の幕を一旦降ろして以降、自分自身再起を願っていたかと聞かれれば、首を横に振らざるを得ない。きっとないんだろうなぁ、と諦めていた。だからこそ、七夕の夜に送ったメールがきっかけで起きた奇跡に、人一倍喜びを感じている。願い事は叶う。シンプルなことを、真実として伝えてくれる存在だ、彼らは。

 

オフィシャルに解散となった2004年7月7日から、明日でちょうど15年。今日と明日は、さいたまスーパーアリーナでライブだ。参加できないけれど、七夕の夜にまた何か奇跡が起きるんじゃないかと思い、少し離れた千葉から見守っている。

 

運命のタイマーを回したから準備オーライ。いまの自分の好きな歌。


THE YELLOW MONKEY / ALRIGHT

私は認知されたい

「他人に認知されたくないんです」そういった意見を本で読んで、そういう考え方もあるのかと驚いたことがある。例えば何回か行くお店で店員さんに、「いつもありがとね」と言われると、自分という個を認識されているようで急に恥ずかしくなり、そのお店への足が遠のく、というもの。説明されれば分からなくはないかなぁ、とも思うけれど、でも少なくとも自分にはない感覚だった。

  

自分はというとまったく逆で、「いつもありがとうございます」なんて客を酔わす魔法の一言だと本気で思っている。 自分が前来たことを覚えてくれている。たくさんいる客のうちの一人だったら記憶に残らないだろうけれど、覚えているということは、自分がたくさんいる大勢の客から個人として認められた客になれたような気がして、嬉しくなる。要は、好きなお店であればあるほど、そのお店の人とも知り合いになりたいのだ。

 

 

吉祥寺に行ったときはなるべく立ち寄ろうと決めている本屋がある。本のセレクトが良くて、小さな店内でいつも長居してしまう。そして今日、その店主が自分を個として認識しているのだということを他経由で知り、嬉しくなった。日曜日、事務所へ行って進めようと思っていた仕事もはかどらず、悶々としていたのだが、明日からまた頑張れる!と思えたのだから、なんて自分は単純なのだろう。

 

 

「そして、どうか「いつもありがとうございます」だけはやめていただきたい。いや、やめてくださいお願いします後生ですから。

そう言われた途端、もうそこには行き辛くなってしまう。」

 

この本の中で著者ははっきりと言う。少数派かもしれないとはいえ(もしかしてそれが大半の意見なのか?)、こういう意見もあるのだとすると、逆にサービスを提供する側の自分も、むやみに「私はあなたのことを覚えていますよ」と言ってはいけないのかもしれない。気をつけなければ。

 

探してるものはそう遠くはないのかもしれない

探してるものはそう遠くはないのかもしれない

 

 

なんとなく好き

いつものカフェでコーヒーを飲む。タンザニアの、苦くて舌に沁みこむような味に、中毒になりつつある。特に用事はなくとも、いや、特に何も用事がないからこそ、立ち寄って、ただのんびりと空虚な時間を費やすことで、休日を消費しているのかもしれない。土曜日の話。これが浪費でなけば良いのだけれど。

 

 

以前、手作り市で出会った消しゴムはんこの作家さんが個展をやっているということで、最終日、恵比寿に行ってきた。自分より少し年下。そんな彼女は社会人になってすぐに会社を辞めて、自分が本当にやりたいことを探してはんこをつくる作家になった。会社での仕事が続かなかったこと、そのことにコンプレックスを感じているのかどうか本当のことは分からないけれど、おそらくはネガティブな感情を次の自分の情熱へと変えて、ひとりで作品をつくり続けている。そのパワーを、個展でもらえた気がした。

 

オリジナルの蔵書票がかわいらしい。蔵書票を知っている人がそもそも少ないですよね。ただでさえ知らない人が多いのに、オーダーでつくっちゃうんですか。そんな方には初めて会いました。蔵書票を通じて心が通い合った気がして、なんだか嬉しかった。蔵書票ってチェコが発祥なの?そんな話をうっすら聞いてウィキペディアで見てみたら、プラハ出身の画家によって紹介されたのだと書いてありビックリ。チェコ好きのはんこ作家さんと蔵書票にこうした繋がりがあったとは。

 

自分にとっての「なんとなく好き」を、ただなんとなくで終わらせるんじゃなくて、突き詰めて考えていくことが大事なんだろうなぁと思った。美術の大学教育を受けていたわけでも何でもない。それでも絵を描くことが好きで、文章を書くことも好きだった。だからその「好き」を組み合わせて、自分らしい作品をつくる。彼女の蔵書票を自分の本に貼り、それを大切に読み続けることで、彼女のようなパワーを身に着けることができはしないだろうか。

 

 

このカフェのコーヒーが本当に好きなんだな。そう思えるコーヒーに出会えて本当によかったと思う。他のコーヒーを知らないくせに。世の中もっと美味しいコーヒーがあるかもしれないのに。そう言われるとも思うけれど、でも他の、もっと美味しいコーヒーに出会うためにいろいろ飲み歩く、といことはあまりしたいとは思わない。こうして家で言葉を書きながら、脇には美味しいタンザニアコーヒーがある。なんて贅沢な時間。自分の「なんとなく好き」の一つがコーヒーを飲みながら文章を書く時間だということに、改めて気づいた。この時間を、もっと濃密に。