文字を丁寧に書くことについて

手帳に今週の予定ややるべきことを書き込んでいく。その、手帳にササっと刻まれていく自筆の文字を見ながら、字を丁寧に書く、ということについて考える。

 

字を丁寧に書くことを意識するようになった、一番最初のきっかけは何だっただろうかと振り返ると、大学入試を思い出す。22年前、第一志望校の入試。その二次試験では小論文があった。赤本で勉強し、また市販の参考書も読みながら、論文対策をしっかりして臨んだ。その意気込みは、問題文を読んですぐに絶望に変わった。問題のテーマは今も鮮明に覚えている。江戸時代の不定時法を問う問題だった。それまで対策してきた私を足元からひっくり返すような問題に、慌てた。どうやって論文を書いたかはほとんど覚えていない。記憶に残っているのは、終了時間が迫る中で焦り、特に後半、自分でさえ判読できないくらい雑な文字になってしまったことと、パニックのあまり、尋常じゃない量の手汗で試験用紙を濡らし、書いた文字をにじませたことだ。

 

結果は当然ながら不合格だった。小論文の出来の悪さが不合格の原因だったのかは正直分からないけれど、悪い方に作用したのは確実だろう。採点者もさぞ不快な思いをしたはずだ。できれば思い出したくない、嫌な思い出である。それ以来、誰かに手紙を書くのであっても、自分しか読まないノートであっても同じように、最低限判読できで、読み手が不快な思いをしない程度に、整った文字を書くようにしようと意識している。

 

今では、汚い書きなぐりの文字を書くことに対して、罪悪感に近い感情を抱くようになった。それがなぜなのかをこのところずっと考えていて、つい最近答えが分かった気がした。読み手が嫌がるだろうから、という「読み手への配慮」ももちろんあるけれど、それ以上に、文字を今書いている、他でもない自分自身が、汚い文字を見て嫌な思いをするからだ。なにしろ書かれた文字を最初に見るのは、読み手ではなく自分である。自分という第三者が一番最初の読み手である、と言ってもよい。その自分が嫌がるような文字は、やはり書いてはいけないということなのだろう。自分を不快から守るために。

 

仕事柄、法科大学院生が書いた司法試験の論文式試験答案を読むことが多い。これだけの論を決まった時間の中で展開してすごいなあと驚嘆する一方、ほとんど読めないような雑な文字も中にはあるので、これでは採点者も読めないだろうに、読んでもらうための文章なのだから、ちょっとは意識して丁寧に書いてくれよ、とも思う。ただ、そうした答案を見る度に、手汗で鉛筆と答案用紙を濡らしながら「蛇がのたくったような」文字を書き、当時想い描いていた理想の進路を自らの手で断ったことを思い出し、「まあ、どっちもどっちか」と嘆くことになるのだ。