演説にならないブログ

私の尊敬する内田樹がその著書の中で、ツイッターの出現によってこれまで身辺雑記エッセイが多く含まれていたブログの書き手のうち相当数がツイッターへと流れ、ブログには、「政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています」と言っている。なるほどその通りだなと実感。ブログは長めの文章を体系づけたり起承転結を構成したりしながら、読み手に何としても自らの考えを伝えたい、と願って書き連ねるツールだと思っているので、その感覚はよく分かる。

 

一方で自分は、そんな「演説」に類するものをこれまで書いてきたのかと振り返ると、とてもそうは思えない。とてもそんなたいそうなものではなく、ただ頭に浮かんだことをぱぱぱとキーボードを叩きながら文字化してきた、ただそれだけのこと、としか言えないように思える。自由な文体で想いを吐き出すという意味ではエッセイなのかもしれないけれど、書籍で見るエッセイのような、読み手を興奮させるようなクオリティはまるでなさそうだ。ただ、その程度のクオリティの文章でもまあいいや、演説には到底及ばないけれどそれはできないから仕方ない、と気楽に構えることができたから、結果として14年以上続けることができているのだと思う。「書くためのハードルを低く設定することが書き続けるために大事である」ということを、ブログを書くことを通して学んだ。

 

ツイッターで演説はできない。単位投稿あたりの文字数が少なすぎる。伝えたいことを端的に放つことしかできない。そう思う理由、背景、具体的な過去の出来事などを全て言葉にして、伝えたい一言に厚みを持たせることができない。一方、それができるのが演説としてのブログだろう。だから、演説したい書き手がいる限り、ブログというツールは(書き手がツイッター等に流れて少なくなることはあっても)なくならないだろうと思う。そのブログを、ちょっとズレた使い方かもしれないけれど、これからも活用していきたい。