じたばたしているときこそ「ふだん通り」に

内田樹「街場の大学論」を通勤の電車内で読んでいる。大学で働いているので、大学を取り巻く環境について少なからず考えなければいけない、という危機感があり、それが20年近く前の文章を読む動機づけになっている。

 

今日、そのなかで「ぐさっ」とくる言葉に出会った。おそらく初めて目にした文章ではなく、これまでにも読んだことがあるはずなのだけれど、いまの自分の境遇と重なって、反省させられたのだ。

 

少し長めだけれど、私の大好きな考え方を知ってほしく、引用する。

 

ゼミが始まる。

新四年生のゼミは初回から欠席者が六人というありさま。卒論研究計画の提出日だというのに。

就職活動というのは、そんなにたいせつなものなのであろうか。繰り返し言っていることだが、もう一度言わせて頂く。大学生である限り、就職活動は「時間割通り」にやりなさい。

諸君はまだ大学生である。いま、ここで果たすべく期待されている責務を放棄して、「次のチャンス」を求めてふらふらさまよい出て行くようなタイプの人間を私たちは社会人として「当てにする」ことができない。

当然でしょ。いま、ここでの人間的信頼関係を築けない人間に、どうしてさらに高い社会的な信認が必要とされる職業が提供されるはずがありましょうか。

(中略)

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだん通りのこと」ができるかどうかを自己点検した。まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。別にこれは「次にいつご飯が食べられるかわからないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。

状況がじたばたしていたときに、「ふだん通りのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。

(中略)

まわりがみんなじたばたしているときに、とりあえず星を見るとか、とりあえずハイデガーを読む、というようなタイプの人間を「胆力のある人間」というふうに私たちの社会は評価する。そして、当たり前のことだけれども、まともな企業の人事の人間が探しているのは、業績不振というような風聞を聞きつけて「きゃー、たいへんよー!」とあわてて就業時間中に求人誌をめくって転職先を探すような社員ではなく、落ち着いてふだん通りに仕事をてきぱきと片づけてくれるタイプの社員に決まっているのである。

(就職活動は「時間割通り」にやりなさい)

 

どんなに忙しく、やるべきことの多さにめまいがする毎日であっても、その状況にただじたばたするのではなくて、そういうときこそふだん通りにご飯を食べ、きちんと寝る。コーヒーなんか飲みながら深呼吸し、窓越しに空を眺めたりして。忙しなさにイライラしがちな今こそ、心に刻んでおくべき考え方だろう。