休日。誰もいない部屋で、特にああしようこうしようと決めない、無為な時間を過ごす。仕事に精を出すことも大事なのだろうけれど、自分はどうやらそこまで頑張れないようだ。やらなきゃと思うことはある。自分がやらなければ、結果として不利益を被るクライアントがいて、自分も後悔する。だから、多少身体は悲鳴をあげていても、動く。そういう日もある。でも、当然そうでない日も、ある。今日がまさにそういう日のようだ。仕事はする。けれど、どうしてもそうできない日もあるということを、まず自分が自分に対して認めてあげたい。
自由が丘に引っ越してきて、8か月が経った。年末になればだいぶ落ち着くだろうと思っていたけれど、バイオリズムのようにその波はまたやってきて、社会を混乱させている。誰の言葉を信じて、誰の言葉に従ったら、他人に会ったり移動したりすることに罪悪感を覚えるような事態から抜け出せるのか。この際「思考停止だ」なんて聞き飽きたような言葉で罵倒されたっていいから、誰かに確固たる「正解」を導き出して教えてほしい。でもこうして思考停止の波も広がっていく。
高校時代。自分は絶対に大学には行かないと決めていた。行って卒業するまで勉強を続ける学力がないかもしれないと思っていたし、行って卒業するまで勉強を続ける気力は絶対にないと思っていた。それが、行くことになった。結果、後悔はしていないけれど、当時の自分の気持ちを正確に表すとすれば、「まわりの友達、皆が大学に行くと言うし、高校全体が『当然行くでしょ?』という空気で、その空気に飲み込まれた」という感じだ。地元で割と進学校であったことは入学する前から知っていただろうに。
その空気に飲み込まれた結果、大学を有意義に過ごし、勉強をして、仲間も得て、卒業して、就職して、いま仕事を続けている。いまの自分の状況は、たぶん大学に行って勉強していなかったらなかっただろう。ということは、いまの自分の仕事、いまの自分の人生は、自分が積極的に選んだのではなく、環境という海を泳いだ結果たどり着いたに過ぎないということだ。それにしても・・・高校時代の自分を飲み込んだ空気をつくり出したのは誰?
自分の人生は、自分が「こうしたい」という希望に沿って自分で選ぶものだ。他人の言うことに従うのではなくて、自分で考えて自分で決めるものだ。確かにその通りなのだけれど、そう考え続ける限り、「もしかしたら自分の意志以外の、何か大いなるものによって誘導されているのかもしれない」ということに気づかない。いまの自分は、過去に起きた「何か大いなるものによる波」に乗ったことでできている。そう気づけた瞬間、何も躍起になって自分の道を模索しようとしなくていいんじゃないか、と気が楽になったと同時に、その「何か大いなるもの」の正体は何かを考えることが、「思考停止」から脱却する術なんじゃないかと思った。