傍観者効果

先日、事務所から帰る途中の電車内でのことだった。終電の数本前で車内は比較的混んでいた。7人掛けの座席の中央付近に立ってイヤホンで音楽を聴きながら本を読んでいたら、視界の隅の方で何かが床に向かって動いた。周囲の人の視線が集中する。嫌な予感がした。ふと見ると、若い男が通路を横切るように、うつぶせになって寝ていた。どうやら相当酔っぱらっているらしく、自分の斜め後ろの座席に座っていたものの、そのまま前につんのめるように倒れたらしい。周囲はきょとんとし、困惑している様子だった。

 

自分も後で冷静に思い返すと本当に情けなくて仕方ないのだけれど、こういうときにとっさに動く勇気がない。少し離れた隣での出来事であったことと、音楽を聴いていたこと、本に集中していたことから、しばらくの間無視していた。本当に勘弁してくれ、誰か起こして次の駅で降ろしてやってくれ、なんて思いながら。本当に恥ずかしいのだけれど。

 

自分の目の前に座っていたカップルが動いたのは、その時だった。立ち上がって寝ている男の方に向かい、大丈夫ですか、と背中をさすっている。さすがにこれ以上無視し続けるのは不自然だ。そして、彼らの行動に、自分も動く勇気がでた。「手伝いましょうか」という他の方の声も聞こえる中、全然目を覚まさない男を彼と持ち上げ、次の駅で降ろした。駅員さんに話をしたらすぐにお巡りさんを呼んでくれ、なんとか引き渡すことができた。後の電車も残っていたから、問題なく帰ることもできた。

 

それにしても。さっと動いたカップルのおかげで、自分もそれに背中を押されるように対応することができた。逆に言うと、彼らがいなかったら、彼らのように対応する人がもしもいなくて、周囲の皆が面倒くさがって対応することを拒んでいたら、自分もその対応を拒む一人となっていたかもしれない。そう思うと、ぞっとした。「お兄さん、これ、水、プレゼント」目の前の自販機で水を買い、差し出した彼を見て、一方でしりごみして、あろうことか無視を決めつけていた自分が、情けなく感じられた。

 

カップルの行動に勇気づけられ、まぁ状況にもよるだろうけれど、これからは動くべきだと思ったら動こう、と思った。と同時に、傍観者となりうる自分も目に浮かぶ。ふと、相棒でそんなストーリーがあったな、と思い出す。

 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

殺人現場に居合わせた通行人の誰もが、被害者に見向きもしない。防犯カメラの映像を客観的に見て「なんで無視するんだ」「警察くらい呼んだらいいのに」と非難するのは簡単だ。だけど、いざ自分がそういう場面に遭遇したら、きちんと動けるだろうか。面倒ごとは御免だと、傍観してしまわないだろうか。もっというと、無視してそこから離れようとしてしまわないだろうか。少なくとも自分には、「自分は違う」と胸を張って、人を非難できる自信はない。ただ、自分はそうじゃない人間でありたい、とは思う。

 

Changes Far Away

来年4月からの新居の工事が着々と進んでいる。持ち家ではないからお金も時間もそんなにかかるわけではないけれど、それでも自分にとって人生の一大プロジェクトとして位置付けている。楽しみで、うずうずする毎日だ。

 

住まいのテーマは、「ダイニングに集う暮らし」。いわゆる「リビング」がない。いや、語弊があるだろうか。一般的にイメージするであろう、ソファがあって、コーヒーテーブルがあって、テレビ台があって、テレビを観ながらソファに寝転がってくつろぐ、そんな空間をリビングと呼ぶのであれば、うちにはリビングがない。というか必要ない。リビングを文字通り「生活の場」と位置付けるのであれば、ダイニングテーブルがあるダイニングが、自分にとってのリビングである。ご飯を食べたり、家族で団らんしたり、コーヒーを飲んだり、お菓子食べたり、本を読んだり、パソコン広げてネットサーフィンしたり、書き物をやったり・・・。いろいろなことがダイニングでできるから、ここにいる時間が一番長い。結果、リビングはいらなくなる。そもそも、テレビを持っていない。

 

そんな住まい、結局これまでの独り暮らしのワンルームがそうじゃないか、といわれればそれまでだけれど、ただワンルームを探して住むのとはやはり違う。内装の仕上げを、置く家具をイメージしながら決めて、逆に新たに必要になりそうな家財をピックアップしていく。この際要らないんじゃないかというものも、あれば思い切って手放す。このところ自宅の平面図が手から離せない。いつもバッグに入れていて、通勤電車の中でことあるごとに広げて眺めている。本当に楽しい。

 

ひとりきりなら 食事も寂しい

でも噛みしめる孤独もオカズだよ

 

愛だけを支えにして

答えを探してドタバタ生きるよ

(THE YELLOW MONKEY/Changes Far Away)

 

「ダイニングに集う暮らし」を楽しみに、それまでは、ひとりきりの食事だって満喫しようじゃないか。孤独だからこそ、そうじゃないときの嬉しさが倍増する。THE YELLOW MONKEY の、ニュース番組の主題歌に選ばれた超メジャー認定のこの曲を、格別に優しく美しいこの曲を、聴きながら孤独を噛みしめる。

 

youtu.be

 

 

本と実体験とを結ぶエッセイ

吉祥寺に、本のセレクトが好きでよく行く小さな本屋がある。先日、その本屋の店主が自分のことを「常連さん」と認識していて、また来てくださいね、と言っていたということを人から聞き、胸にしみわたるものを感じた。「常連」その言葉から私はいつも、「俺さまだい」という上から目線で傲慢な態度をイメージするので、自分はそうはなりたくないという思いから一定の嫌悪感を持ちながら、一方で、よく来てくれるお客さん、と覚えられているということは、すなわちその本屋に対する好意が届いたような気がして、まるで片思いの女の子に告白して好意が伝わったときのように、嬉しい気持ちにもなる。自分の場合はその後者の気持ちが勝って、ますますその本屋のファンになり、そして今日もその本屋で本を買うために吉祥寺へ向かった。

 

instagramのポストを見て気になっていた本が、岡本仁「続々 果てしない本の話」だ。正直に白状すれば、「一般発売よりも少し早めの入荷です」という誘いにつられたのも事実。だけどそれ以上に、本が次から次へと登場するエッセイ、という構成に惹かれた。本に限らず、音楽でも、ドラマでも、雑貨でも、何でもいいのだけれど、そういうものと実体験とを結びつけるエッセイ形式の文章を、すらすらと書けるようになりたいとずっと思っている。日頃なにか体験したときに、「あれ、これ以前観たドラマと同じ状況じゃないか?」「この気持ち、誰かの曲の歌詞にあった気がするな」と思いを巡らせるその過程に、なにか快感をもたらす物質が含まれている気がする。

 

本屋に着き、店主に挨拶し、本棚を眺め、あったあったと目当ての本を手に取って、帯を読む。雑誌「アンドプレミアム」の連載をまとめたものであるということを知ったのは、その時だった。「アンドプレミアム」は、定期購読とまではいかないまでも、好きで比較的買って読んでいる雑誌だ。でも連載のことは知らなかった。目には入っていたかもしれないけれど、意識して読んでいなかった。「岡本仁さん、いいですよね」レジで本を渡した際に店主にこう言われてドキッとし、正直に「この方、知らないんです。アンドプレミアムは好きでよく買って読んでますけど」と言ったら、店主は「そうですか。私は逆に雑誌の方は読んでないんですけれど」と笑った。ひとつの本へのたどり着き方も、人それぞれなんだな。

 

第19話「好きな曲で踊る人々」を読んでいて、まさにいまの自分の境遇と重なった気がした。手に取った本が実は雑誌の連載をまとめたもので、その雑誌を現に自分は何冊も持っている。それでも「なんだ、連載をまとめただけか」と落胆することもなければ、ましてや、家に帰れば大半は読めるんだから買わない、とも思わず、むしろ買わないという選択肢に全く気付きもしなかった。きっとそれは、その本を単なる「文字情報の羅列」としてではなく、本と実体験とを結びつけたエッセイというコンセプトに基づいて編集された「モノ」として魅力を感じたからに他ならない。無名の人が踊っている写真集「DANCING PICTURES」や、テーマに基づいてinstagramにポストし続けた写真をまとめたアンディ・スペードの写真集が、明快なコンセプトを持っていて面白く感じるのと同じように。

 

帰宅して、本棚から「アンドプレミアム」を引っぱり出す。連載、あったあった。普通にここに同じことが書いてあるネ・・・なんてちょっと寂しくもなったけれど、読む媒体によってそのエッセイから得るインパクトも違うのだということを、身をもって感じた。

  

続々 果てしのない本の話 (アカツキプレス)

続々 果てしのない本の話 (アカツキプレス)

 

 

こだわりのマルシェ

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多摩センターの「こだわりのマルシェ」へ。去年初めて行ったから、二回目。

 

多摩センター駅前の広場、通路で出店やイベントが。こうして普段なにもないところに突然価値を発信するなにかが集まり、人が集まる、というプロセスが自分は好きなのだと改めて実感する。甲高い声で空気を沸かせるDJの音楽に乗って身体を揺らす人たち。ダンスを発表する女の子を見つめる人たち。昼間からビール!の勢いで、まだ暑さが残るなかベンチに座って休む人たち。サイレントパフォーマンスに驚く子供たち。小銭入れに可愛くお菓子が置いてあったり、、、。微笑ましい日曜日。

 

お目当ての作家さんとも久しぶりに会えて、嬉しかった。挨拶、よい報告もできた。

 

こういうイベントを、いつか企てる側に行きたいと思いながら、なかなか実現できていない。実現させようという勇気がない。きっかけはあるはずなのに、、、。

 

寓話に学ぶ、仕事への取り組み方

仕事に対する姿勢であったり、所内でのコミュニケーションのとりかただったり。働き方全般について、そろそろ冷静に、いまの状態でいいのか、良くなければどう改善すべきか、考えなければいけないと思っている。目の前の仕事に没頭するのもいいけれど、果たしてそれでいいの?と立ち止まって考える時間が、必要だと。

 

自分の働き方を考えるときに、ひとつの羅針盤となるのが、寓話だったりする。「このように行動したらどうなるか」「こう考えるということはつまりこういうことだ」といことを分かりやすく理解できる。所詮は寓話でしょう?とはねのけるんじゃなくて、そこから得られる教訓を、きちんと身に染み込ませることが大切だ。

 

特に私がいいなぁと思った寓話は「二人の商人」。江州の商人と他国の商人が重い商品を背負って峠道をのぼる。ひとりが「この山がもう少し低ければいいのだが」と愚痴をこぼすと、もうひとりが、「つらいのは私もあなたと一緒だ。だけど私は、この山がもっともっと、10倍も高くなってくれたらと思います。そうすればたいていの商人は途中で帰るでしょうが、私はひとりでのぼって、思うように商売をしてみたい。この山がまだまだ高くないのが、私には残念でならない」という、という話。競合が諦めるくらい困難なところにこそビジネスチャンスがある、といまなら解釈するだろうか。自分のような凡人以下の人間では他人と同じ土俵で戦って仕事できるわけがない。他人が嫌がることにこそ注目しましょうよ、と私は捉えている。それが、住まいづくりという分野での、既製品を多く供給する仕事ではないからこその企画の考え方につながっているのだと思う。

 

もうひとつ、有名な話だけれど、「三人のレンガ職人」の寓話も肝に銘じたい。建設現場で作業をしている三人のレンガ職人が「何をしているのか」と質問される。一人目は「レンガを積んでいる」と答え、二人目は「壁を造っている」と答え、三人目は「大聖堂を造っている。神を讃えるために」と答えた、という話。いまやっていることのその先まで見据えて、大聖堂をつくっていることを意識して動く三人目の職人でありたいと思う。

 

ものの見方が変わる 座右の寓話

ものの見方が変わる 座右の寓話

 

 

いいこと、を数える

「休日はこれをして有意義に過ごしました」という何か一つ突出したものがあるわけではなく、いろんなことをしながらなんとなく時間が過ぎていくことが多いので、夜、こうして一日を振り返ると、あまり達成感はない。今日は、午前中少し仕事をしたあと、事務処理をしようと思って事務所へ行くも、やる気が起きず、諦めた。帰りがけに寄ったサントリー美術館の展示では、鼠志野の美しさにうっとりした。いつものカフェでは隣に座った赤ちゃんがかわいくて、つい頬が緩んだ。帰宅後、河川敷を少しジョギング。水際を走るのはなぜだかすごく気持ちいい。戻って、ご飯を食べて、のんびりしていると、もうこの時間だ。これが有意義な休日だろうか、と疑問に思うこともあるのだけれど、自分の身体が自然にそうすることを選択しているという感じなので、きっと有意義なのだろう。好きなケーキ屋の焼き菓子を食べながら、この甘さも身体が欲しているんだから仕方ない、と思うことにしよう。

 

仕事では相変わらず自分の手際の悪さに眩暈がする毎日だけれど、不機嫌になっている限り自分自身成長がないし、周囲にもその不機嫌の波が伝播して、空気が悪くなるに決まっている。機嫌が悪い人を見ると機嫌が悪くなる自分が何よりの証拠だ。休日に、なにかこう、ほっとするような、癒されるような、落ち着くような、気分があがるような、そんな出来事を多く経験すれば、仕事で多少嫌なことがあっても、乗り越えられるんじゃないか、と本気で思っている。だから休日に起きた楽しい出来事を、できる限り覚えておこうと思う。

 

今日だって、駅のホームに着いたらちょうど乗る電車がやってきた。駅前の本屋では、店員さんに丁寧に接客してもらった夫婦のお客さんが「親切な人でよかったね」と言い合っていて、ほっこりした。いつものカフェでの赤ちゃんがかわいくて、ついにやけてしまったときは、こんなことで笑顔になれるんだったら、その気になればどんなことでもやり過ごせるんじゃないかという変な自信までついた。河川敷を走っていたら、地域猫がたくさんいて、それも全然動じずにボーっとしてたり寝てたりしている。猫は自由でいいなぁ、なんて無責任にもうらやましがったりする。そしてなによりかわいい。・・・なんだ、数えてみるとけっこういいことがあったじゃないか。

 

こうした「いいこと」を体感したときの気持ちのままで、ずっと過ごすことができないものだろうか。

 

今までにない職業をつくる

書店でタイトルを見かけるたびに気になっていたものの、見て見ぬふりをしていたその本を、勇気を出して手に取った。なぜ勇気を必要としたのか。読んでから、その手に取らなかった空白期間を後悔する。でも、その理由もなんとなく分かる。きっと、自分に「いままでにない職業をつくる」ということに向き合うこと、つまり言い換えればいまの自分の職業にきちんと向き合うということから、どこか逃げていたのだと思う。

 

今までにない職業をつくる

今までにない職業をつくる

 

 

この本から学ぶべきことは、タイトルにあるとおり「今までにない」職業をつくることそのものではないと思っている。今までにない職業をつくること自体にこだわる必要はない。自分をしっかり見つめて、自分を社会に対してどのように役立たせたらよいのかを考えた時に、既存の仕事を全うすることが妥当だと思えるのであれば、その仕事にまい進すべき。ただ、自分がこうすべき、を実現するための仕事の仕方が職業としてないから今の仕事をするしかない、と考えるのであれば、その考えは改めて、自分でいままでにない職業をつくったら良い。「自分は何がしたくて、どうしたら役立てるか」を考える過程こそが大事なのだと思った。その結果、行きつく先が前例のないものだとしたら、うろたえずに、自由な発想で進んで行けば良いのだと。

 

 

blast! the music of Disney

夕方、渋谷でエンターテイメント鑑賞。数年ぶりに「blast!」を観た。今回はディズニー音楽とのコラボ。有名な曲を交えつつ、全体で一つの物語が進行するように進んでいった。

 

正直、観る前は、ディズニー音楽に寄っていて本来のblast!のカッコよさが味わえないんじゃないかと不安だったけれど、全くの杞憂だった。音楽の良さもありつつ、いつものblast!らしさもバッチリ組み込まれていた。トランぺッターが暴走するくだりだったり、暗闇でパーカッション隊の身体の蛍光色が浮かび上がる演出だったり、ベルを用いた合唱だったり。

 

石川直さんの演奏も圧巻。トリッキーなパフォーマンスも、リズミカルかつ落ち着く連打も、コミカルな演技も。いろいろな表情を魅せてくれて、またファンになった。パイレーツオブカリビアンでの髪をほどいた鬼の形相には、しびれた。

 

特にパーカッションのパフォーマンスのすごさを数年前に味わってしまったので、正直なところこれがないと物足りないくらい。でも今日久しぶりにその迫力あるパーカッションを再び体感することができて、本当に涙が出たし、感動した。ここ数年離れていたけれど、身体に興奮がよみがえった。これからも続けてほしい。

 

新聞のコラムを読む

要約力を鍛える訓練として、新聞の「コラム」を短くまとめるということを、小学生の時だったか、中学生の時だったか、やった記憶がある。コラムには短い文章の中に起承転結が詰め込まれていて、無駄な情報がない。その内容を踏まえたうえで、さらに文字数を少なく、要点をかいつまむ。いま考えると結構高レベルで、社会人になってからも活用できる力をつけることができる内容だと思う。

 

当時、実家では朝日新聞を取っていたので、「天声人語」。第一面の下段、限られた枠内に詰め込まれた情報を読みながら、要約する訓練をしたのがなつかしい。そして時間は経ち、社会人になったいまも、新聞を手に取ってまず目にするのは、一面よりむしろ、コラムだったりする。いまは日経新聞だから、春秋。最初の数行で展開される情報が、時事ネタを経た結論への伏線になっていて、ショートエッセイを読んでいるかのよう。だから要約力を鍛えるためのテキスト、というよりは、それ自体が要約された小さなエッセイとしていまは楽しんでいる。

 

オチを読んで思わず「うまいな」と唸ってしまうような展開は、小説を読んでいても本当に楽しい。そういう言葉の展開を自分自身でも生み出すことができたら、文章を書くことがもっと好きになるだろう。このブログで書き続けることが、コラムのようなまとまった文章を書くための訓練となれば、続ける甲斐がある。

 

安心できる場所

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自分にとって「あっ、ここまた来たいな」という場所を、それは喫茶店でもレストランでも、本屋でも雑貨屋でも、はたまたイベントでも、まぁなんでもいいのだけれど、そういう場所をできれば多くつくって、そこへ行くことを楽しむことが、自分の心を喜ばせるために必要なのだと思う。そして、究極はその場所がたったひとつであっても、そこへ行くことが無上の喜びだと思えるような場所であれば何も言うことはない。その境地にはまだたどり着けそうにないけれど。

 

久しぶりに行ったカフェで、扉を開けた時に店主と目が合って、何とも言えない安心感を感じた時に、そう思った。この安心感が快感だから、その快感を味わいたいがために、また来たいと思うに違いない。

 

そう頻繁には行かないようなところでも、安心できる場所があると嬉しい。表の豊かな緑が、久しぶりに来た自分を歓迎してくれているようで、余計に嬉しい。

 

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問いかけに応じる

連休中、たいして身体を動かさなかったにもかかわらず、食べる量だけは多い。運動不足が気になり、夕方、涼しくなってから、河川敷を走った。

 

この、苦しいのだけれど清々しい感じが気持ち良いから、走れているようなものなのだと再認識。この気持ちをもっと大事にしよう。この気持ちを、ジョギングを続けるモチベーションにしよう。身体にいいからとかそういうことじゃなくて、ただ走りたいから走る、という感覚を。

 

走りながら、いろいろ考える。

 

 

これまでは、自分から主体的に情報を収集して、それをプロジェクトへと導くことが、仕事だと考えていた。ゼネコンの営業をしていた頃は、不動産業者を訪問して土地情報を集め、クライアントに「ここに建物を建てませんか」と提案する。向こうから「建ててくれませんか」と依頼されるのを待つのではなくて、こちらから仕掛ける。それこそが仕事だと。だから、営業が持ってきた案件に対して「これはできない。難しい」と言う工事部や積算部をどこか見下していた時期もあったし、「工事部や積算部は仕事が天から降ってくるもんだとしか思ってないからね」という営業部の先輩の言葉を真に受けたりもしていた。

 

でも、その考え方も徐々に変わってきて、それだけが仕事じゃないよなぁ、と今なら想える。差し出されたボールをどうやったら相手の望む形で返せるか。それを一生懸命考えることも仕事だろう。まさに「仕事とは、来た球を打ち返すこと」だ。

 

「向こうから来るのを待ってそれに飛びつくんじゃなくて、自分から企てて初めてゴール」そうやって自分の仕事に対するハードルを、無意識のうちに高く設定していたのかもしれない、とふと気づいた。100パーセント自分の力でつくらなければ仕事と呼ばないのだとすると、自分はもしかしたら今後一生満足のいく仕事ができないかもしれない。そもそも、100パーセント自分の力でつくるって、どういうことだ?そんなこと、できるのか?それを考えずして、何をしようとしていたのか、自分は。

 

こうしてふっと肩の力を抜くことができたのは、「強がらない」でいいんじゃないかという言葉に会ったから。仕事に対する「こうあるべき」という目標設定がそもそも「強がり」であったのかもしれない。別にそうじゃなくたっていいじゃないか。棚ぼた的に降ってきた話を、まるで自分の力で仕入れた情報であるかのように言い、我が物顔でふるまうつもりはないけれど、来たものに対して自分はどうふるまえるのかを真剣に考える過程も、面白いと最近気づいた。強がらず、どうしたら自分自身が喜べる仕事ができるか、という視点を大事にしたい。

 

「この仕事、やってくれませんか?」という問いかけは、相手が自分に対してその仕事を果たす力があると判断したから来るのであって、同意するかしないかを話を聞いてから吟味するような人には、この問いかけは来ない。そしてこの場合の外部評価は、自分が自分に対して行う自己評価よりも、客観性が高い。どうしてかは分からないけれど、そういうものなんだろうということを、本を読んで知った。私自身、不思議な縁の力ってあるんだなぁということを身をもって体験したと思っているので、「出会うべき人とは必ず出会う。そういうものだ」という氏の言葉にも、うんうんと大きくうなずくことができる。

 

強がらない。 (角川新書)

強がらない。 (角川新書)

 

  

身体の言い分(毎日文庫)

身体の言い分(毎日文庫)

 

 

医者と患者

冷静に、自分の仕事のしかたを、考える。

 

「仕事とは来た球を打ち返すこと」この言葉に感銘を受けて、そうだよなぁと共感したのは以前書いたけれど、さらに重要だと思えるような考え方にたどり着いた。

 

内田樹、池上六朗著「身体の言い分」に、医学部の学生のコミュニケーション能力が低下していて、そのことに嫌気がさして、という話があった。医者は患者と向き合う時に、どこが悪いのか、その原因を探るにあたって問診をする。きちんと話を聞いて、声に耳を傾けることで、悪いところを見つけ出す。その聞くためのコミュニケーションができず、データの羅列だけで症状とその対応を判断しようとする傾向にあるのだそう。大学の必修科目に「コミュニケーション論」なるものがあって、必修で学ばなければコミュニケーションができないのか、と著者は嘆いていた。そういう人が医者になるんだから恐ろしい、と。

 

身体の言い分(毎日文庫)

身体の言い分(毎日文庫)

 

 

自分は医者でもなければ医学生でもないけれど、コミュニケーションをとることが仕事を進めるうえで重要であるということは分かるし、自分にも十分当てはまることだと思う。じゃぁ自分の仕事に当てはめるとどうだろう、と考えた時に、自分はコーポラティブハウスを自発的に企画してプロジェクトとして世に出すことが一つの大きな使命でもあると思っている。これはクライアント(医者から見た患者)の声に耳を傾けて、彼が抱えている問題(患者からみた病気)を解決するためにどうしたらよいか、と考えることとは少し順番が違う。特定のクライアントがいて始まるのではなく、「こういうプロジェクトがあったらきっと気に入ってくれる人がいるのではないか」という期待から始まる。先の例で言えば、病気を訴える患者が目の前にいないのに、こういう病気の人がいるんじゃないかと先回りして薬を開発するようなものか。

 

でも、逆の順番で取り組むこともある。例えばクライアント(この時はまだクライアントじゃないけれど)から土地活用の相談を受けて、検討して、建物を建てるというパターン。これは先の医者と同じ仕事の進め方だ。クライアントの声に耳を傾けて、土地の個別的要因をしっかり見て、そこに何を建てたらもっとも効果的か(もしくは建てない方が良いのか)、といったことを考える。

 

「そうか、医者か」クライアントにとっての自分は、病に苦しむ患者にとっての頼もしい医者と同じであるべきなんじゃないかと思った瞬間に、すっと視界が開けた気がした。そしてその考えを後押ししたのが、たまたま久しぶりに観ていたテレビ番組だった。ビートたけしが司会を務める「たけしの家庭の医学」で、細かく問診を繰り返したセカンドオピニオンの医師が原因不明だった病気にたどり着いたという事例を放送していた。不調になるのに時間帯や気温などの共通点がないこと、問診をしている現在イライラしていること、空調が効いているのに汗をかいていること、など細かなことを積み重ねて、不調になるのは空腹時であるということに気づく。この放送を見て、最初の医者が気づかないようなことも、問診を繰り返すことで、つまりコミュニケーションをとることで発見できるということが分かった。自分は医者ではないけれど、クライアントが抱える問題を解決するという点においては、こうあるべきなんだと思った。

 

自分が動くことで他人から「ありがとう」と言ってもらうこと。これが自分にとっての仕事だと思っている。では「ありがとう」と言ってもらうためにはどうしたらよいか。相手の抱える問題を解決してあげればよい。言葉で言うと簡単なことだ。では解決するためには?何が問題なのか。それを問題視している理由は何か。対策は一つだけか。他にないのか。など、相手から話を聞きながら、ひとつひとつつぶしていく作業なのかもしれない。自ら企てる、そういう順序の仕事も自分の場合は大事。だけど、自分から「こういうプロジェクト、どうでしょう」と投げかけることが、時として自分よがりなんじゃないかと感じることが最近ある。そうじゃなくて、自分は他人の声に耳を傾ける医者なんだと思った瞬間に、仕事の進め方という一つの道ができたような気がした。

 

猛暑

夏休み。新しい住まいでキッチン壁のタイルを検討していて、その色を確かめるために新宿にあるショールームへ行ってきた。いくつかサンプルをみて、色を決める。打ち放し部分とも調和するように、マットな仕上げのものが良いだろう。複数の色を混ぜるのもやめて、単色にしよう。

 

降りた駅が初台だったので、であれば気になっていた本屋「fuzkue」へ行こうとも思ったのだけれど、暑さで気力がなくなって、また次にしようと思い、辞めた。私語厳禁、静かに過ごすことを強制させられるその本屋さんは、逆に言えば集中して本を読むための空間が約束されている本屋。食べたいものを食べて、時間を気にせずずっと読書にふけることができる場所。そんな場所があったらいいな、なんて誰だって一度は思ったことがあるんじゃないかな。だからこそ、汗をぬぐいながら頑張って行こう、という場所ではなく、気が向いたときにふらっと立ち寄りたい、そんな場所だ。

 

そのあと駒沢に用事があって、駒澤大学、駒沢公園あたりをしばらく歩いた。そうなると今度は深沢にある「SNOW SHOVELING」にも寄りたくなる。封筒に入った、中に何が入っているか分からない闇鍋的な本を売るスタイルに、天王洲ハーバーマーケットで出会った。自分は本を愛している、だから本を紹介する。そんなシンプルな方程式に導かれて動いているようなお兄さんの笑顔が印象的で、行こう行こうと思いながら、場所が場所だけに、なかなか足が向かわなかった。あと10分歩けば着くだろうか・・・。でもその10分を歩く気力がどうにも残っていない。だからまた次の楽しみにとっておこう、と意気地がない自分を正当化する。なにせ猛暑。熱中症で倒れたらせっかくの休みが台無しだ(というか下手したら人生が終わってしまう)。ということで皆さんも、強がらず、気をつけましょう。

 

夏祭り

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自治会で夏祭りがあるというので、あのへんに神社あったかな、行ったことなかったな、なんて今さら思いながらも、夕方立ち寄った。自分もその集まりの一部になりたかったから、というのは後付けの理由で、ピザが目当てであったというのは、ここだけの話だ。終了直前にもかかわらず、まだまだたくさんの人で賑わっていて、地域の力を感じた。自分が地域コミュニティを知らな過ぎただけだ。

 

子育て世代も、若者も、ご年配の方も。いろいろな世代が集まって賑わう。こういう姿を見るときにいつも夏を実感する。今日から連休。仕事では相変わらず自分の不甲斐なさに眩暈がする毎日だけれど、地域に想いを馳せながら、楽しもうと思う。確かに倒れそうと思うくらいの猛暑日もあるけれど、これも好きだったりする。寒さが原因で身体が動かなかったり、不機嫌になったりすることはあるだろうけれど、暑さが原因でそうなることは、自分の場合、ない。

 

仕事の進め方を考える

休日を有意義に!なんて思いながら始めたブログなのに、土曜日に放心状態のまま帰ってきて、もしくはぼーっとしてやる気が起きなくて、書くことができないなんてことが続いている。これではいけない。今日だって、昼間事務所へ早めに行って仕事を片付けようと思っていたのに、起きたら昼前。目は覚めているのだけれど、身体が起きようとしなかった。エイヤと起きてしまえば楽だということを知っているのにも関わらず。こういうときはたいてい、昼間にやりたいと思っていたことが時間オーバーでできなくなり、もっと早く起きればよかったと後悔するのだ。

 

休日だからといってぐずぐず寝ているのは、罪だと知った。いや、本当は知っていたけれど、改めて思い知らされたといったほうが正確だ。別に運動をするとか、どこかへ出かけるとか、そういうことが全てではない。何か、それは仕事のことでももちろん良いのだけれど、一生懸命考えて、熱中する。そういう時に感じる高揚感。いま時間を忘れて集中しているなぁと気づいたときに感じる快感。その気持ち良さを、もっと大切にしたらいいんだ。その気持ち良さを、味わうことに対してもっとがめつくなっていいんだ。そう思った。

 

 

仕事の本質とは?自分なりの答えを書くと、「自分が動くことで他人を喜ばせて『ありがとう』と言ってもらうこと」。そのためには、他人が抱えている問題点を「解決する」というプロセスが必要。そこでふと、「『請負型』から『企画提案型』へのシフト」というテーマが頭に思い浮かんだ。前職でのことだ。

 

以前ゼネコンで建設営業の仕事をしていた。請負工事を受注する営業。クライアントに対して「うちで建てませんか?」と営業する。その過程には、売地情報を紹介したり、概算見積を出したり、自社プランを提案したり、といった積極的なプロセスがもちろんあるのだけれど、基本的にはクライアントの「建物を建てますよ」という目的があって、「おたくにお願いします」と依頼を受けることで初めて成り立つ。そこを「受け身型の仕事」=「受け負け」と以前の自分は捉えがちであった。だからこそ、自分で「社会にはこういうニーズがあるのではないか?」と先回りして考えて企画を立てて、「こんなのどうですか?」と紹介する企画提案型の販売業、つまりは自社ブランドマンション分譲というプロセスに、受注型にない積極性・自主性を感じていた。それこそが社会に対して価値を提供する仕事なのだと思っていた。

 

だけど、ここへきてその考えも変わりつつある。180度変わるというよりは、もっと柔軟に考えられるようになった、といった方が近いかもしれない。仕事は、自分から先回りして価値を見つけて、これどうでしょう、と紹介することだけではもちろんない。まず「こういう問題点があるのだけれど、どうにか解決できないでしょうか」というクライアントの発意があって、それに対して自分はどうやったら解決してあげることができるだろうか、と考える。そういう順番。まずクライアントありき、不満・不安ありき。それを十分にヒアリングしたうえで、解決策を一生懸命考える。それこそが本当は仕事であり、だからこそ真剣に考える動機になるんじゃないかと思えてきた。

 

誰か(確か糸井重里さんだったと思う)がどこかで言っていたと思う。「仕事とは来た球を打ち返すこと」。この言葉が本当にしっくりくる。ボールが来るから、それを打ち返すことができる。ボールが来ないのに振っても空振り。もちろん「こういう需要があるんじゃないか」という予感(それは仕事においては確信なのだろうけれど)があって、「これ、いいでしょう?素敵でしょう?いかがですか?」と提案する積極性も大事なのだけれど、それだとリアクションが全くない可能性だってある。「あなたにとってはいいものかもしれないけれど、それを欲しがっている他人は実際にはいません」という可能性もある。仕事にならないことを惜しまずに動くことも必要だとは思いつつ、でもできれば無駄は少なくしたい。相談をしてくれた相手に対して、自分はどう寄り添うことができるかと考えた時に、スムーズに身体や頭が動く気がする。

 

もちろん、相談してもらうためには、ただ待っているだけじゃダメだし、それまでの実績をアピールすることが大事。だから「自分から積極的にボールを放つこと」と「来たボールをよく吟味して、それに対して打ち返す」の二つを両翼に、仕事をしていきたいと思った。