問いかけに応じる

連休中、たいして身体を動かさなかったにもかかわらず、食べる量だけは多い。運動不足が気になり、夕方、涼しくなってから、河川敷を走った。

 

この、苦しいのだけれど清々しい感じが気持ち良いから、走れているようなものなのだと再認識。この気持ちをもっと大事にしよう。この気持ちを、ジョギングを続けるモチベーションにしよう。身体にいいからとかそういうことじゃなくて、ただ走りたいから走る、という感覚を。

 

走りながら、いろいろ考える。

 

 

これまでは、自分から主体的に情報を収集して、それをプロジェクトへと導くことが、仕事だと考えていた。ゼネコンの営業をしていた頃は、不動産業者を訪問して土地情報を集め、クライアントに「ここに建物を建てませんか」と提案する。向こうから「建ててくれませんか」と依頼されるのを待つのではなくて、こちらから仕掛ける。それこそが仕事だと。だから、営業が持ってきた案件に対して「これはできない。難しい」と言う工事部や積算部をどこか見下していた時期もあったし、「工事部や積算部は仕事が天から降ってくるもんだとしか思ってないからね」という営業部の先輩の言葉を真に受けたりもしていた。

 

でも、その考え方も徐々に変わってきて、それだけが仕事じゃないよなぁ、と今なら想える。差し出されたボールをどうやったら相手の望む形で返せるか。それを一生懸命考えることも仕事だろう。まさに「仕事とは、来た球を打ち返すこと」だ。

 

「向こうから来るのを待ってそれに飛びつくんじゃなくて、自分から企てて初めてゴール」そうやって自分の仕事に対するハードルを、無意識のうちに高く設定していたのかもしれない、とふと気づいた。100パーセント自分の力でつくらなければ仕事と呼ばないのだとすると、自分はもしかしたら今後一生満足のいく仕事ができないかもしれない。そもそも、100パーセント自分の力でつくるって、どういうことだ?そんなこと、できるのか?それを考えずして、何をしようとしていたのか、自分は。

 

こうしてふっと肩の力を抜くことができたのは、「強がらない」でいいんじゃないかという言葉に会ったから。仕事に対する「こうあるべき」という目標設定がそもそも「強がり」であったのかもしれない。別にそうじゃなくたっていいじゃないか。棚ぼた的に降ってきた話を、まるで自分の力で仕入れた情報であるかのように言い、我が物顔でふるまうつもりはないけれど、来たものに対して自分はどうふるまえるのかを真剣に考える過程も、面白いと最近気づいた。強がらず、どうしたら自分自身が喜べる仕事ができるか、という視点を大事にしたい。

 

「この仕事、やってくれませんか?」という問いかけは、相手が自分に対してその仕事を果たす力があると判断したから来るのであって、同意するかしないかを話を聞いてから吟味するような人には、この問いかけは来ない。そしてこの場合の外部評価は、自分が自分に対して行う自己評価よりも、客観性が高い。どうしてかは分からないけれど、そういうものなんだろうということを、本を読んで知った。私自身、不思議な縁の力ってあるんだなぁということを身をもって体験したと思っているので、「出会うべき人とは必ず出会う。そういうものだ」という氏の言葉にも、うんうんと大きくうなずくことができる。

 

強がらない。 (角川新書)

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身体の言い分(毎日文庫)

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