医者と患者

冷静に、自分の仕事のしかたを、考える。

 

「仕事とは来た球を打ち返すこと」この言葉に感銘を受けて、そうだよなぁと共感したのは以前書いたけれど、さらに重要だと思えるような考え方にたどり着いた。

 

内田樹、池上六朗著「身体の言い分」に、医学部の学生のコミュニケーション能力が低下していて、そのことに嫌気がさして、という話があった。医者は患者と向き合う時に、どこが悪いのか、その原因を探るにあたって問診をする。きちんと話を聞いて、声に耳を傾けることで、悪いところを見つけ出す。その聞くためのコミュニケーションができず、データの羅列だけで症状とその対応を判断しようとする傾向にあるのだそう。大学の必修科目に「コミュニケーション論」なるものがあって、必修で学ばなければコミュニケーションができないのか、と著者は嘆いていた。そういう人が医者になるんだから恐ろしい、と。

 

身体の言い分(毎日文庫)

身体の言い分(毎日文庫)

 

 

自分は医者でもなければ医学生でもないけれど、コミュニケーションをとることが仕事を進めるうえで重要であるということは分かるし、自分にも十分当てはまることだと思う。じゃぁ自分の仕事に当てはめるとどうだろう、と考えた時に、自分はコーポラティブハウスを自発的に企画してプロジェクトとして世に出すことが一つの大きな使命でもあると思っている。これはクライアント(医者から見た患者)の声に耳を傾けて、彼が抱えている問題(患者からみた病気)を解決するためにどうしたらよいか、と考えることとは少し順番が違う。特定のクライアントがいて始まるのではなく、「こういうプロジェクトがあったらきっと気に入ってくれる人がいるのではないか」という期待から始まる。先の例で言えば、病気を訴える患者が目の前にいないのに、こういう病気の人がいるんじゃないかと先回りして薬を開発するようなものか。

 

でも、逆の順番で取り組むこともある。例えばクライアント(この時はまだクライアントじゃないけれど)から土地活用の相談を受けて、検討して、建物を建てるというパターン。これは先の医者と同じ仕事の進め方だ。クライアントの声に耳を傾けて、土地の個別的要因をしっかり見て、そこに何を建てたらもっとも効果的か(もしくは建てない方が良いのか)、といったことを考える。

 

「そうか、医者か」クライアントにとっての自分は、病に苦しむ患者にとっての頼もしい医者と同じであるべきなんじゃないかと思った瞬間に、すっと視界が開けた気がした。そしてその考えを後押ししたのが、たまたま久しぶりに観ていたテレビ番組だった。ビートたけしが司会を務める「たけしの家庭の医学」で、細かく問診を繰り返したセカンドオピニオンの医師が原因不明だった病気にたどり着いたという事例を放送していた。不調になるのに時間帯や気温などの共通点がないこと、問診をしている現在イライラしていること、空調が効いているのに汗をかいていること、など細かなことを積み重ねて、不調になるのは空腹時であるということに気づく。この放送を見て、最初の医者が気づかないようなことも、問診を繰り返すことで、つまりコミュニケーションをとることで発見できるということが分かった。自分は医者ではないけれど、クライアントが抱える問題を解決するという点においては、こうあるべきなんだと思った。

 

自分が動くことで他人から「ありがとう」と言ってもらうこと。これが自分にとっての仕事だと思っている。では「ありがとう」と言ってもらうためにはどうしたらよいか。相手の抱える問題を解決してあげればよい。言葉で言うと簡単なことだ。では解決するためには?何が問題なのか。それを問題視している理由は何か。対策は一つだけか。他にないのか。など、相手から話を聞きながら、ひとつひとつつぶしていく作業なのかもしれない。自ら企てる、そういう順序の仕事も自分の場合は大事。だけど、自分から「こういうプロジェクト、どうでしょう」と投げかけることが、時として自分よがりなんじゃないかと感じることが最近ある。そうじゃなくて、自分は他人の声に耳を傾ける医者なんだと思った瞬間に、仕事の進め方という一つの道ができたような気がした。