ハンコ

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少し遅めの誕生日プレゼントにと、オリジナルゴム印をもらった。ハンコ作家さんのワークショップに参加する機会があったようで、自分の名前を図案にしてくれたのだ。「図案がなかなか決まらない。絵心がない」そう言って困っていたようだったけれど、自分からしたら、手作りでゴム印をつくれるせっかくの機会、その図案に自分の名前を選んでくれたこと自体が嬉しくて、こう言っては変だけれど、絵の上手い上手くないは正直どうだっていい。図案に名前を選んでもらえたこと、図案を選ぶときに自分を思い浮かべる人が身近にいるということ自体が、プレゼントだと思った。

 

どこを探しても売っていないこのゴム印を、さてどう使おう。手紙への署名はもちろん、大切な本に刻む蔵書印としてもよさそう。これで筆まめになり、さらに本に愛着をもつきっかけになればいい。

 

今日、手にした消しゴムハンコは、手作業とは思えないきれいな仕上がりで、見ているだけでうっとりする。カッターって、こんなに繊細に使うことができるのか。その技術に驚くと同時に、自分がいかに雑であるかを思い知らされた。


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T:TAKURO

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日本を代表するロックバンドのリーダーとしての彼も好きだけれど、一人のギタリスト、一人の男として、本当にかっこいいと思う。高校大学くらいのときに、こういう優しさというか、器の大きさというか、そういったものを持つ大人の男になりたいと思った。メンバーをきちんと見守り、支え、良さを伸ばす。いつだって笑顔で、いつだって謙虚。理想のリーダー像だとも思った。

 

自分は彼のことを勝手に、「GLAYがすべて」な人なのだろうと思っていた。最近でこそ違ってきたけれど、以前はGLAYの曲のほぼすべてが彼の作詞作曲だった。彼が力を発揮するのはGLAYというバンドであり、TERUが歌い、HISASHIがトリッキーなギターを弾き、JIROがベースを弾く中でギターを弾くからこそカッコいいのだと思っていた。だから、彼がソロアルバムを発表したときは正直、「えっ、GLAYじゃない環境でやるの?」と驚いた。しかしその収録曲を聴いて、彼がひとりでやろうとしたことがGLAYで表現するものとは大きく異なっていたにも関わらず、それを表現することこそが、これからのGLAYの成長に直結するんだろうなぁという期待を持つことができた。

 

地図のない旅。明確な行先は決まっていないのかもしれないし、ものすごい回り道をしているのかもしれないけれど、そんな旅を経ることで得られる勲章が、いまの自分には必要なのだ。自分も、そういう旅をして成長しなければ、と思う。

 

moto.8

神保町の東京堂書店で行われた紙と本のイベントへ。紙モノを扱う作家さんの作品を見て楽しんだ。新しい作家さんにも出会い、刺激になった。

 

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「紙と本をたのしむ会」活版印刷や手製本の魅力を肌で感じられるイベントだったけれど、ここではそのあとの話。

 

東京堂書店を出た後時間があったので、新宿線で本八幡へ。東京堂書店で見た「散歩の達人」がたまたま市川特集で、本八幡の新しい商業施設をクローズアップしていた。OKストアの裏?こんなところにあるんだ、知らなかった。で面白そうだと思ったので、行ってきた。

 

散歩の達人 19年8月号

散歩の達人 19年8月号

 

 

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木造2階建て。板張りの外壁があたたかい印象。ここにカフェや蕎麦レストラン、雑貨屋等が並んでいる。イベントスペースもあるようだ。こうやって建築によってヒト、モノ、コトがつながるというのが面白い。市川でも、こういうものがもっと増えたらいいと思う。

 

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2階へあがって「三毛猫雑貨店」へ。猫関連の雑貨と本、お菓子が並んでいる。いままではネットショップを運営していて、今回実店舗をオープンさせたのだとか。こうしたテーマを絞ったお店も、もっと増えてほしいし、もっと情報発信してほしい。小さい店内だけれど、本の品揃えはかなり良かった。

 

都内や神奈川だけに目を向けるのではなく、自分がいま住んでいるまちにもっと注目しなければ、と今さらながら思った。

 

moto8.jp

 

シュークリーム2個

自分がこうしてブログを書き続けることにどんな意味があるのか。そのひとつの答えを得られた気がした。誰かが読んで面白がってくれるだろうか、とか、共感してくれるか、とか、そういうことはあまり重要ではない。そもそも、自分が期待するほど読まれていない。それよりも自分自身が、書いているいま、もしくはしばらく時間が経ってから、読んで楽しいかどうか、自分の気持ちに素直な言葉かどうか。それが一番大事であり、楽しさからくる快感こそが書く動機なんじゃないかと思った。誰か他の人が書いていることだったら、自分が書く必要はない。読み手に徹すればいい。自分が書く文章を最初に読むのは、自分だ。読んで楽しいことを、書けばいい。

 

読みたいことを、書けばいい。

読みたいことを、書けばいい。

 

 

 

しばらく行けていなかったセレクトショップに、昼間時間があったので久しぶりに行ってきた。自転車をこいで。そうしたらちょうどそのお店がオープン2周年だったみたいで、記念のシュークリームをいただいた。2シューネンだからシュークリームです。「シュー」がかかっています。だから3周年でも5周年でも使えます。先に来ていたお客さんに店主がそう説明しているのを聞いて、笑いそうになった。絶妙なシャレが効いている。見たら、2個も入っているじゃないか。その2個が2年にかかっていることに気づいたのは、帰宅後にSNSを見てからだ。絶妙なシャレが効いている。

 

買ったマヨネーズがまた、べらぼうに美味しい。マヨラーにとっての麻薬だ。汗をかいて自転車をこいで行ったことで消費したカロリーを、夕食で回収してしまった感は正直否めないけれど、行ってよかった。なにより、今日がちょうど2年という記念すべき日だったことが面白い。シュークリームとマヨネーズがセットで記憶に深く刻まれた。

 

ちょっと気になるのは、買ったマヨネーズの利益よりも絶対シュークリーム2個の原価の方が高いだろう、ということ。それだったらラー油も買っておくべきだったか、と後で後悔したものの、手ぶらで千円札1枚をポケットに入れただけだったから、いずれにせよ買えなかった。

 

それともう一つ。シュークリームに驚きすぎて、そして嬉しすぎて、「2周年おめでとうございます」その一言が言えなかったのが、恥ずかしい。これから継続して買っていくことで、その気持ちを伝えられたら。

 

30日のパスタ

吉祥寺にあるお気に入りのセレクト本屋で出会ったパスタレシピ本は、パスタをつくるハードルを限りなく低くしてくれる。日本人が毎日ご飯を食べるのと同じように、イタリアではまた毎日のようにパスタを食べるのだそう。1か月30日、いろいろな素材を使ってつくるパスタには無限のレシピがあり、気負わずつくったらいいのだということを教えてくれる。今日はこの野菜とこのおかずがあるから、それを使ってこういう味付けにしよう、なんて考えるのも面白いかもしれない。

 

炭水化物過多で身体が気になる自分だが、なかなか抑えられない。米と麺とを両方食べた時の罪悪感にも最近は慣れつつあって怖い。米自体が悪いのではなく、それをたくさん摂取するから問題なのだ。そうやって炭水化物を減らそう減らそうとするけれど、気持ちと現実との差は開くばかり。そこへきて30日のパスタ。あくまでもパスタが悪いのではない。つくること自体を楽しみながら、そして味を楽しみながら、少しづつ食べればよい。

 

30日のパスタ

30日のパスタ

 

 

一輪挿し

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壁面本棚をつくってもらって以来贔屓にしている家具屋さん(nikom)が、東京で今日まで個展を開いているというので、行ってきた。誠実という名のオーラが肉眼で見えるんじゃないかっていうような空気をまとった二人に会い、英気を養う。その人柄が新作家具にも現れていて、恐れ入る。華々しさを感じる仕事のように見えるけれど、きっと気苦労も多いんだろうなぁとも思う。家具屋さんほど、それを産むために費やす時間や労力と、それに対する対価が見合っておらず、継続的に利益を得続けるのが難しい商売も、ないんじゃないか。

 

個展などでつくってくれる一輪挿しを、ようやく手に取ることができた。オトナの佇まいをみせてくれるウォールナット。無垢家具の部屋に、よく似合う。挿すものを、さてどうしようと考えるのもまた面白い。

 

雑貨化する社会

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「世界がじわじわと雑貨化している気がする」という一文を見て、頭の中にぼんやりと描かれていたイメージが言語化されていることに気づいた。あらゆるものが「その他」に類する「雑」のもの。これまで「雑」でなかったものも「雑」になりつつある(「雑」だと捉えることもできる)。

 

多様な価値があふれていて、そのなかから自分に適したものを自由に取捨選択できるという点では、こんな豊かな社会はないと言えるのだろうけれど、逆に選択肢が多すぎるというのは、供給する側からすると選ばれない可能性が高いことにほかならず、健全ではない。これまで雑貨の購入者であった者が作り手の方にまわり、需要が供給を大きく下回る。結果、雑貨屋の薄利に拍車がかかる。そういう循環があるのだとすると、作り手はたくさんいるにもかかわらず、それを紹介する立場がビジネスとして成り立たなくなり、良い作品も世に出なくなってしまう。本当に、シビアな世界だと思う。

 

だからこそ、雑貨屋で生計を立てている身近な人を、心から尊敬する。消費者側の視点ではぜったいに見えない景色があるんだろうなぁと思う。どんなに選択肢が増えても、ひとつひとつの単価が低くて利潤が微々たるものであっても、きちんと成立する商いであり続けてほしいと思う。

 

そのために自分にできることは・・・良いと思ったモノに対して、「私はこれが好きです」という意思を表明すること。そしてそれを自身の生活になじませること。それだけなんだと思う。

 

すべての雑貨

すべての雑貨

 

 

七夕の奇跡

今週のお題「わたしの好きな歌」

 

THE YELLOW MONKEYが復活するきっかけとなったエピソードを聞くたび、奇跡の力を感じる。ローリングストーンズのライブを観て「バンドは宝だな」と思った吉井和哉が、2013年7月7日にメンバーに「また一緒にバンドをやってくれませんか」とメールを送ったのだという。小学生の拙い感想みたいだけれど、願い事って叶うんだなぁ、と思った。7月7日。短冊に願い事を書いたって、何を書いたか覚えていないんだったら、そりゃあ叶うわけがない。彼みたいに、ちゃんと目的をもって、真剣に願わないといけない。

 

それが7月7日であったことが偶然か必然かは置いておいて、いま彼らの音楽がこうして届いているのだから、その奇跡の力に感謝しなければならない。高校時代にその活動の幕を一旦降ろして以降、自分自身再起を願っていたかと聞かれれば、首を横に振らざるを得ない。きっとないんだろうなぁ、と諦めていた。だからこそ、七夕の夜に送ったメールがきっかけで起きた奇跡に、人一倍喜びを感じている。願い事は叶う。シンプルなことを、真実として伝えてくれる存在だ、彼らは。

 

オフィシャルに解散となった2004年7月7日から、明日でちょうど15年。今日と明日は、さいたまスーパーアリーナでライブだ。参加できないけれど、七夕の夜にまた何か奇跡が起きるんじゃないかと思い、少し離れた千葉から見守っている。

 

運命のタイマーを回したから準備オーライ。いまの自分の好きな歌。


THE YELLOW MONKEY / ALRIGHT

S:シェーファーのボールペン -SHEAFFER-

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前職を退職するときに、職場の仲間からプレゼントをいただいた。7年前のことだ。

 

給料ドロボーであった自分に対する後ろめたさから、受け取るのをためらうくらいの立派なボールペンだ。ちゃんとこのボールペンを持つものとして恥ずかしくないよう、次の仕事を頑張らなければ、と思った。この重たいボールペンが、自分に「決して軽々しく生きるんじゃないよ」と言っているような気がした。

 

その後、今日まで7年間。少なくとも月に1回必ず署名する場面で使い続けている。また契約書への署名や打合せでクライアントに貸すときなどにも、重宝している。このインクの生命力はいったいどこから来ているのか。

 

SHEAFFER(シェーファー)は万年筆店からスタートしたアメリカの筆記具メーカー。ペリカンやモンブラン、パーカーなど、海外ブランドがたくさんあるなかで、このふくよかで重たいボディのボールペンにこうして出会えたのが、幸運だと思っている。ギラギラしすぎた印象がなく、でもちょっと緊張した場面で使うのにちょうどよい。他と比べたことがないので偉そうなことはいえないが、滑らかな書き味は本当に気持ちよく、インクが続く限りずっと使い続けていたいと本気で思っている。

 

こんなストーリーがあったものだから、SHEAFFERを気に入り、もう一歩大人の男に近づきたいと思い、万年筆も手にした。しかしこちらはほとんど使う機会がなく、箱の中でゆっくり眠っている。うまく文字が書けないのがその理由だ。インクの強弱をつけられる分、本来きれいな文字を書くことができるはずなのに、慣れないとなかなか難しい。最初のうちこそ慣れるようにと書く練習をしたけれど、最近はなかなか手が伸びなくなってしまった。ボールペンの書き心地に慣れてしまった弊害がこんなところに現れた。

 

そうご覧 夜の帷が落ちてゆく

完璧な夜に 悪魔が囁く

音もなくそれは 心揺さぶって

 

深い夜の淵に 天使が灯した

星々の詩は 何故か切なくて

 

(LUNA SEA/BLACK AND BLUE)

  

静かな夜。

終電も過ぎ、外を歩く人もいない。

寝る前、そんな時間にふと思い立ち、窓を開けて暗い空を眺めることがある。

やや冷たい風が心地よい。

無音の空間が、寝る前の、今日一日の情報や経験が詰まった身体を

きれいすっきりリセットしてくれるような気がする。

こういうとき、昼間の悩みなんてたいしたことないじゃないか、

なんでこんな小さなことでくよくよしなきゃならないんだよ自分は、と思う。

でも朝になると、また悩みもくよくよもやってくる。

 

意識して月を見上げるなんてことをしなくなった。

だからふと目に入ったときの月の輝きが、無性に美しく感じる。

自分にとって月は、中学時代から愛し続けているロックバンドの象徴。

 

月のきれいな静かな夜をぼんやりと過ごすことが、いまの自分にとっての贅沢だ。

 

 

私は認知されたい

「他人に認知されたくないんです」そういった意見を本で読んで、そういう考え方もあるのかと驚いたことがある。例えば何回か行くお店で店員さんに、「いつもありがとね」と言われると、自分という個を認識されているようで急に恥ずかしくなり、そのお店への足が遠のく、というもの。説明されれば分からなくはないかなぁ、とも思うけれど、でも少なくとも自分にはない感覚だった。

  

自分はというとまったく逆で、「いつもありがとうございます」なんて客を酔わす魔法の一言だと本気で思っている。 自分が前来たことを覚えてくれている。たくさんいる客のうちの一人だったら記憶に残らないだろうけれど、覚えているということは、自分がたくさんいる大勢の客から個人として認められた客になれたような気がして、嬉しくなる。要は、好きなお店であればあるほど、そのお店の人とも知り合いになりたいのだ。

 

 

吉祥寺に行ったときはなるべく立ち寄ろうと決めている本屋がある。本のセレクトが良くて、小さな店内でいつも長居してしまう。そして今日、その店主が自分を個として認識しているのだということを他経由で知り、嬉しくなった。日曜日、事務所へ行って進めようと思っていた仕事もはかどらず、悶々としていたのだが、明日からまた頑張れる!と思えたのだから、なんて自分は単純なのだろう。

 

 

「そして、どうか「いつもありがとうございます」だけはやめていただきたい。いや、やめてくださいお願いします後生ですから。

そう言われた途端、もうそこには行き辛くなってしまう。」

 

この本の中で著者ははっきりと言う。少数派かもしれないとはいえ(もしかしてそれが大半の意見なのか?)、こういう意見もあるのだとすると、逆にサービスを提供する側の自分も、むやみに「私はあなたのことを覚えていますよ」と言ってはいけないのかもしれない。気をつけなければ。

 

探してるものはそう遠くはないのかもしれない

探してるものはそう遠くはないのかもしれない

 

 

神様俺は今人生のどのあたり

Easy Easy 転んだらそのままで胸を張れ

涙に滲んだ過去と未来 Oh baby 俺は今日もメシ喰って出かけるぜ

(エレファントカシマシ/Easy Go)

  

休日に事務仕事をする気力がでなくて結局無為な時間を過ごしてしまうなんて、

何回も経験しているんだから分かるだろうに。

それなのに「いいや、休日事務所来て片付けよう」なんて思ってしまうから不思議だ。

平日は、自分が休日にできることを過大評価してしまうらしい。

 

相変わらず自分の行動力のなさに眩暈がする毎日だけれど、

転んだ時にそのまま力を落として寝転がっているんじゃなくて、

胸を張ってピンと背筋を伸ばして寝そべろう。

いやむしろ身体を反らして。イメージは「伏臥上体そらし」か?

Easyではない。なにせ身体は人一倍硬い。

 

この歌を。

息継ぎポイントのあまりの少なさに口ずさむ気力さえ失うこの歌を。

ちゃんと息継ぎ少なく叫び通す肺活量を身につけたいという意気込みを与えてくれるこの歌を。

歌いながら、明日はちゃんとメシ喰って出かけよう。

 

 

なんとなく好き

いつものカフェでコーヒーを飲む。タンザニアの、苦くて舌に沁みこむような味に、中毒になりつつある。特に用事はなくとも、いや、特に何も用事がないからこそ、立ち寄って、ただのんびりと空虚な時間を費やすことで、休日を消費しているのかもしれない。土曜日の話。これが浪費でなけば良いのだけれど。

 

 

以前、手作り市で出会った消しゴムはんこの作家さんが個展をやっているということで、最終日、恵比寿に行ってきた。自分より少し年下。そんな彼女は社会人になってすぐに会社を辞めて、自分が本当にやりたいことを探してはんこをつくる作家になった。会社での仕事が続かなかったこと、そのことにコンプレックスを感じているのかどうか本当のことは分からないけれど、おそらくはネガティブな感情を次の自分の情熱へと変えて、ひとりで作品をつくり続けている。そのパワーを、個展でもらえた気がした。

 

オリジナルの蔵書票がかわいらしい。蔵書票を知っている人がそもそも少ないですよね。ただでさえ知らない人が多いのに、オーダーでつくっちゃうんですか。そんな方には初めて会いました。蔵書票を通じて心が通い合った気がして、なんだか嬉しかった。蔵書票ってチェコが発祥なの?そんな話をうっすら聞いてウィキペディアで見てみたら、プラハ出身の画家によって紹介されたのだと書いてありビックリ。チェコ好きのはんこ作家さんと蔵書票にこうした繋がりがあったとは。

 

自分にとっての「なんとなく好き」を、ただなんとなくで終わらせるんじゃなくて、突き詰めて考えていくことが大事なんだろうなぁと思った。美術の大学教育を受けていたわけでも何でもない。それでも絵を描くことが好きで、文章を書くことも好きだった。だからその「好き」を組み合わせて、自分らしい作品をつくる。彼女の蔵書票を自分の本に貼り、それを大切に読み続けることで、彼女のようなパワーを身に着けることができはしないだろうか。

 

 

このカフェのコーヒーが本当に好きなんだな。そう思えるコーヒーに出会えて本当によかったと思う。他のコーヒーを知らないくせに。世の中もっと美味しいコーヒーがあるかもしれないのに。そう言われるとも思うけれど、でも他の、もっと美味しいコーヒーに出会うためにいろいろ飲み歩く、といことはあまりしたいとは思わない。こうして家で言葉を書きながら、脇には美味しいタンザニアコーヒーがある。なんて贅沢な時間。自分の「なんとなく好き」の一つがコーヒーを飲みながら文章を書く時間だということに、改めて気づいた。この時間を、もっと濃密に。

 

背中のシュレッダーにかけ

神様にあったらこんな風に言うんだ

「どんな目にあっても生きていたいです」

誰も皆やっぱり同じように辛いって

この街の緑は キレイだね

(吉井和哉/シュレッダー)

  

電車が走ってくる線路に身を投げて命を絶ったり、

何の罪もない子供の命を奪った後で自ら後を追ったり。

このところ、こういうニュースを立て続けに聞いて、

なんだかやるせない気持ちになって困る。

どう頑張っても自分の力ではどうすることもできないのに

自分はそもそも被害者でもないのに。

 

ただ、この歌詞のような言葉が頭の中にあるからこそ、

自分はそうではないのだ、

自分はそれでも命を絶つという結論に至らずに生きるんだ、

と思い、踏みとどまることができているのだと思う。

こういう言葉を皆が皆頭の中に描いていて、

一線を超えようとしたときの自分にブレーキをかけるようであれば、

こういう暗いニュースも減るんじゃないかと思う。

 

THE YELLOW MONKEYの中でも特に大好きな曲に「球根」がある。

ドカーンとはじけるように、そして脳に突き刺さるサビのメロディが心地よい。

その「球根」を聴くときと同じような種類の電流が体内を流れるのが、

「シュレッダー」という吉井和哉のソロ曲だ。

かつて会社の上司といったカラオケで調子に乗ってこの曲を歌い、

ポカーンとされたことをなんとなく覚えている。

大切な曲だ。

この曲にまつわる嫌な思い出は、背中のシュレッダーにかけて忘れ去りたい。

 

愛と平和の呪文だよ

長い長い縄を飛んだ 大きな大きな輪を描いた 

高く高くジャンプしたら

愛と平和の呪文だよ

ラーマ シータシータ ラーマラーマ

チッタチッタ

(THE YELLOW MONKEY/Titta Titta)

  

自分の中にある限られた語彙を組み合わせて

なにか意義のある言葉を紡ぐことができるのなら、

それをこうして文字に残すことで

そんなことも考えていたなぁ、なんて振り返るきっかけになったらいい。

 

イメージするのは、子供が長縄跳びを跳んでいるのを外から眺めている景色。

愛と平和。Love and Peace.

いまのイエローモンキーのなかでも最もはっちゃけた「お気楽ソング」を

口ずさみながら今夜も自分の中に眠っている言葉を掘り起こす。