「いつもありがとう」と言える場所をつくる

これからも通いたいと思えるお店を発見したり、長く付き合っていきたいと思える人に会ったりしたとき、その出会いに感謝して、関係を大切に育てたいという気持ちになる。そう思える対象が少しづつでも増えていったら、楽しいだろうなぁと思う。

 

例えば、髪が伸びた時に行く美容院。行きつけの美容院のマスターとはもう10年以上の付き合いだ。1~2か月に一度は必ず会うから、話題もそんなにあるわけではないけれど、それでも他愛のない話をしている時間は楽しい。

 

例えば、週に1度必ず行く自宅近くの喫茶店。オープンして3か月が経とうとしているが、オープンして以来、立ち寄らなかった週末はいまのところない。毎日行くことはできないけれど、「しばらく来てないですね」なんて言われないくらいには、顔を出したいと勝手に思っている。自宅以外の自分の居場所だと勝手に思っている。

 

例えば、身体が疲れを感じてきたなぁと思うタイミングで行くマッサージ屋さん。施術士さんがちょうどよい力の入れ具合を覚えてくれているので、毎回気持ち良い気分を味わえる。身体がなんともないのに行きたいと思うくらいだ。

 

こうした自分にとってのかけがえのない時間や場所が、ところどころにあるというのは幸せだと思う。そしてその幸せが持続するための魔法の言葉が「いつもありがとう」だと思っている。自分は相手に対して「いつもありがとう」と言葉にする。相手も自分に対して「いつもありがとう」と言ってくれる。「いつも」というのがとにかく重要で、会う機会が多ければ多いほどありがたさを忘れがちになるけれど、そうじゃなくて、感謝してますよ、という気持ちを伝えることが、その関係を長持ちさせる秘訣なのだと最近つくづく思う。

 

美容院には月に1度必ず行く。喫茶店には毎週末必ず行く。マッサージ屋には2か月に一度必ず行く。このように、行く頻度を自分で決めてしまって、それを忠実に守るというのを最近自分ルールにしている。そうすれば、新しく出会った奇跡に興奮して最初のうちは頻繁に行くのだけれど、だんだん飽きてきていつの間にか疎遠になる、といったこともない。自分にとって大切な関係を長く続けていくには、何度も頻繁に会うことではなく、間隔はあってもいいから、等間隔で会い続けるということが、大事だと思う。

 

Season14‐9 秘密の家

シーズン14 第9話 「秘密の家」

 

誘拐事件が発生するも、実はその誘拐は狂言だった、というストーリーが過去にあった(※)。誘拐事件の裏に隠されていた背景にビックリ、なんて展開も、ドキドキして面白い。誘拐犯を追いかけるアクション的な要素、特に初期、亀山薫が身体を張って犯人を追うシーンのかっこよさが、相棒ならではの魅力だった。いまは、ちょっと抜けた一面を見せながらも冷静に敵を追い詰める冠城ならではのかっこよさがある。

 

廃工場で子供が描いた似顔絵を見つけた右京。持ち主に絵を返した、その時の母親の対応から、その家族に疑問を覚える。子供のひなたは友達と外で遊ぶのを避けるようになり、何かを隠しているような感じだ。右京は、ひなたが誘拐されて廃工場に監禁されたのではないかと推理するが、家族はそんなことはないと否定する。そんななか、ひなたの祖父が警備会社の社長であり警察OBでもあることが分かる。その警備会社が関わっている要人警護のスケジュールと、誘拐が起きたと思われる日が近いことから、その関連を調べると・・・。

 

狂言誘拐があったのか?ミスリードをさせておいて、ひっくり返る展開は、相棒ならでは。ラストに分かる事実は、家族とはなんなのかをちょっと考えるきっかけになりそう。

 

(※)Season2-17 同時多発誘拐 消えた16人の子供達

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手紙生活と手紙手帖

お気に入りの本屋で、一冊の本を買った。昨年のことだ。

 

もともと「手紙を書くということ」には無関心ではなかった。直筆で言葉を紡ぐ手紙には、メールでは表現できない力が宿っていると思っていて、頻繁ではないけれど、書くことがあった。恥ずかしがらずに書いていいんだ、と自分に自信をもった最初のきっかけは・・・。やはり尊敬する松浦弥太郎さんの影響だろう。ビジネスに限らず、言葉を伝えるツールとしてメールが大半を占めるいまだからこそ、手紙を受け取ったときの印象が強く残る。筆まめであれ。自分にそう言い聞かせた記憶がある。

 

そのとき手にした「手紙を書きたくなったら」という本が、手紙を書くのが好きだという気持ちを確信へと変えた。こんなに手紙を愛している人がいるんだ、と驚いた。そしてなにより嬉しかったのは、相手が返事をくれることを期待するワクワクを、素直に語っていたこと。自分はいままで、相手からの返事を期待するのはあまりかっこよくないことだ、手紙を書くのは書き手がただ書きたいからであり、返事(見返り)を求めるのはよくないと思っていた。だけど、贈る以上はリアクションが欲しい。当たり前のことだ。カッコ悪いことではなく、正直に返事を期待してワクワクしていていいんだ、と思えたのは、彼女の手紙に対する愛あるエピソードに触れたからだ。

 

手紙を書きたくなったら

手紙を書きたくなったら

 

 

 

「京都のこころA to Z 舞妓さんから喫茶店まで」という本を、数年前に手にしてから、いまでも大切に読んでいる。京都のことを頭文字AからZまで並べて紹介するもので、読んでいるだけでちょっとした京都旅行気分に浸れる。今京都を好きでいられる直接的な理由は、中学高校の修学旅行での思い出ではなく、この本ではないかと思っている。

 

「M:舞妓」では、著者の木村衣有子さんの花名刺が登場する。幾岡屋という小間物屋では、舞妓さんが使う花名刺を個人用につくることができるのだとか。その写真に写る木村さんの花名刺がとにかくきれいで、こういうオーダーメイドもいいなぁ、と思った。肩書の書き方、名前の文字の書体、色から、木村さんの姿を勝手に想像する。こうして分かりやすくて丁寧な文章を書くくらいだし、きっと純朴で、美しい方なんだろうなぁ、と。もしかして、本物の舞妓さんなんじゃないか、と。

 

京都のこころAtoZ―舞姑さんから喫茶店まで (ポプラ文庫)

京都のこころAtoZ―舞姑さんから喫茶店まで (ポプラ文庫)

 

 

 

先日、楽天ブックスで面白そうな本にたどり着いた。手紙好きな彼女の著作。「手紙を書きたくなったら」に続く、彼女の手紙ライフをもっと深く味わえる気がして、すぐにカートに入れる。

 

(文庫)ゆっくり、つながる 手紙生活 (サンマーク文庫)

(文庫)ゆっくり、つながる 手紙生活 (サンマーク文庫)

 

 

 

面白そうな本屋が田原町にできたことを雑誌で知り、行ってみた。古いビルを改装したその本屋は、壁一面に木で棚をつくり、ずらっと本を並べている。その迫力ある本棚にも惹かれたし、置いてある本もなかなか目にしないようなものが多く、楽しめた。

 

Readin’ Writin’ BOOKSTORE – Readin’ Writin’ BOOKSTORE

 

そこで見覚えのある著者名が目に留まる。「木村衣有子」。あぁ、京都のこころの方だ。でもその本は・・・「コーヒーゼリーの時間」。なぜコーヒーゼリー?帯に書かれた「あぁ、悔しい。こんな素敵な企画、dancyuでやりたかった」というdancyu編集長のコメントとは真逆で、そんなのに関心を持つ変わり者がいるのか?ターゲット狭すぎやしないか?なんて思ったけれど、著者の文章を味わいたいという気持ちもあり、結局は自分がその変わり者となった。レジで本を差し出したときに、主人が「君、見る目あるね」と心の中で思ってくれたかのような空気をほんの少し感じたのは、気のせいだろうか。たまにはホットコーヒーではなく、コーヒーゼリー目当てに喫茶店を巡るのも、面白そう。

 

コーヒーゼリーの時間

コーヒーゼリーの時間

 

 

 

「ゆっくり、つながる手紙生活」をカートに入れたあと、関連商品を見ていて、見覚えのある著者名が目に留まる。「木村衣有子」。あぁ、京都のこころの方だ。コーヒーゼリーの方だ。でもその本は・・・「手紙手帖 あのひとは、どんな手紙をくれるのかしら」。えっ手紙?そうか、この方も手紙好きなのか。私が勝手に思い描く彼女像もどんどん骨格ができてくる。直筆の手紙を愛する、木下綾乃さんのように純粋で可愛らしい心をもった女性なのだろう。ぜひ彼女からも、手紙を書くことの何たるかを教わりたい。こちらも迷わずカートに入れる。今回の買い物はこの2冊だ。

 

手紙手帖―あの人は、どんな手紙をくれるかしら

手紙手帖―あの人は、どんな手紙をくれるかしら

 

 

 

本日、届いた本を受け取り、さっそく読む。まずは木下綾乃さん。手紙は友達だという彼女の手紙への接し方が微笑ましく、マネしたいことがたくさんある。ファンレターか、いいなぁ、そういうの。よし、自分も恥ずかしがらずに、ファンレターを贈ろう。

 

次に、木村衣有子さん。手紙の書き方の基本レクチャーから、ホストカードのお店、手紙についての本の紹介・・・。とここで、見覚えのある名前、それもつい最近見た名前が目に留まる。「木下綾乃」。あぁ、今読んだ手紙生活の・・・て、ここで繋がるのか!

 

文中では、木村さんが木下さんに宛てた手紙と木下さんからの返事、そして「手紙が書きたくなったら」の紹介までも。手紙好きの二人の女性が、それも私の中では別々の、きれいな文章を書かれる二人の文筆家さんが、こうして一冊の本の中で繋がった。別々の好きの対象が最終的に一か所に収束するという、なんとも不思議な感覚を味わった。こういうことがあるから、読書って面白い。

 

 

手紙を書くという行為を、もっと気軽に。肩に力を入れず、なにより恥ずかしがらずに。だけど、ただ自分の「伝えたい!」を押し付けるんじゃなくて、読み手である相手を考えながら。ただ送るだけでそれなりにびっくりもされ、印象に残る手紙だからこそ、攻撃力のある手紙だからこそ、最低限のマナーをわきまえつつ、大切につきあっていきたい。

 

納涼祭

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地元の納涼祭で、盛り上がる。小さいころにあこがれていた消防団で活躍しながら、地元を盛り上げようと頑張る仲間がいる。それこそ10年くらい前まではなかったけれど、こうやって帰省している若い人も集まれる機会をつくっている。こういう取り組みを見るたび、地方も捨てたものじゃないなあと思う。

 

自分が小学生、中学生の頃となるともう20年以上前になるのだけれど、当時の記憶が鮮明によみがえる。仲間も皆、あのころのまま身体だけ大人になった、そんな感じだ。久しぶりに会った同級生は、地元を盛り上げる意気込みに満ちている。かっこいいなぁ。

 

 

給水所

夏の暑い日。学校からの帰り道、カラカラの喉を潤すために、通学路の途中の家に寄り道しては水をもらって休憩していた。そんなことを、久しぶりに親戚に会って話をしているなかで思い出した。小学生の頃の話だ。

 

合言葉は「水くださーい」。「開けゴマ」じゃないんだから、と今は思うのだけれど、当時はその合言葉にものすごい効果があって、ほんとに魔法だったんじゃないかとすら思う。「はい、どうぞー」庭の水道の水を飲ませてくれる方もいれば、コップに水をいれて持ってきてくれる方もいた。いまでも鮮明に覚えているのは、駄菓子屋のおばあちゃんが、やかんに入れた水をていねいに湯飲みについで出してくれたことだ。普通の水のはずなのに、とにかくおいしかった。

 

いま、小学生に勝手に(?)家に入られる大人の立場もようやくわかるようになって、あのころはよく水をくれたなぁ、と思う。子供の中にその家の子がいるというわけでもないのに。きっと「うっとうしいなぁ」と思ってたことだろう。うちは給水所か、と。それでも水をくれたのは、そして子供も安心して「水くださーい」と呪文を唱え続けることができたのは、お互いに信頼関係があったからなのだと思っている。子供には、甘えとかそういう意味じゃなく、頼んだら水をくれるんじゃないか、という期待感があって、大人のほうも、「暑くて大変ねぇ」という子供を想う気持ちがきっとあったんだと思う。これがお互い信頼関係がなく、つまり、子供は見ず知らずの大人を警戒して近づこうとせず、大人が子供をうっとうしく思っていたら、こういう関係は築かれなかっただろう。つくづく、自分は恵まれていたなぁ、と思う。と同時に、それにしても自分勝手な、傲慢なガキでもあったなぁ、と。

 

ちょっと大げさかもしれないけれど、熱中症になることなく、いまこうして元気でいられるのは、給水所があったおかげだ。小学校を卒業し、通学路を歩かなくなってから20年以上経つのに、給水所の場所はだいたい覚えている。これからも、忘れちゃいけないんだと思う。そしていま、中学生で部活にいそしむ親戚の子供に、この時期、部活に精を出すのもいいけれど、熱中症で倒れるなよ、水を飲めよ、と言いたい。

 

塩一トンの読書

「塩一トン」と「読書」とが結びつかなかったけれど、そういうことか。塩は普段そんなに大量に使うものではない。それを一トン消費するくらい、長い時間をかけて本と向き合って、初めて理解できることがある。本一冊と触れ合う、対話する濃度を、もっと濃くしていくということを考えても良いのではないか。数多く読むことばかりに気を遣うのではなくて。

 

どうしても、たくさん読むことをよしとしてしまいがちだ。私はたくさん本を読む人間ですよ、ということを他人に誇示したくなりがちだ。だけど、本との付き合い方がひとそれぞれ違うのと同じように、量と質のどちらを大事にするかも人によって違う。量ばかりを追いかけて、ともすれば読書量マウンティングしているように見られてしまうのだとしたら、一冊と長い時間付き合って、そうすることで何度も新しい発見が得られるような、そんな読書を味わう方がいい。

 

大手町。ここへ来たときはいつも立ち寄る、雰囲気の良い文房具屋でこの本に出会い、自分にとっての読書を、考える。

 

塩一トンの読書 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

 

 

AX

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いまこれを、読んでいる。発売したのを見計らって急いで楽天ブックで買って。だってほら、買おうと思って本屋に行っても店頭になかったら、困るでしょう?

 

グラスホッパー」「マリアビートル」に続く殺し屋小説第三弾。と、それを聞いただけでも買う理由としては十分なのに。今度の殺し屋「兜」は家庭をもつ恐妻家。その突拍子もないキャラ設定が面白く、読み始めてもいないのに勝手に面白い結末であると思い込んでいる。抜けてるんだけど、依頼をこなすときは淡々と。そのギャップがほんとに面白い。

 

ちょっと大きい単行本を手に、電車に乗る。文庫本のときのようにスマートには読めないけれど、これもまたいい。もうおれ、買っちゃったぜ、と言いたいところだったけれど、自宅前のいきつけの本屋にも、夕方立ち寄った有楽町の三省堂書店にも、たくさん平積みされていて、拍子抜けした。彼の新刊だし、当たり前か。

 

 

お風呂に本を

風呂で本を読みます。湿気の多いところに紙を持っていくなんて、火を通した油に水をかけるのと同じくらいやっちゃいけないことだと思うのだけれど、その危機感すらなくなりました。一度、完全に文庫本を浴槽に落とした経験が、感覚をマヒさせたのかもしれません。危ないというよりも、湯船につかりながらぼーっと本を読む時間が有意義で、その日にあった嫌なことだとかいろんなことを忘れさせてくれる、至福な時間であるという気持ちの方が大きい。

 

とはいえ、風呂場に本を常に置いておく、ということはしていません。風呂に入るときに、部屋の本棚から読む本を1冊選び、持っていく。そして風呂から出るときに、その本も持って出る。たまに浴室に置いたままの時もあるけれど、それは湿気で表紙の紙がしなっても別になんとも思わない文庫や新書だったりと、決して多くはありません(私には、紙が汚れようが濡れようが何とも思わない本と、汚したり濡らしたりしたくない本があります)。こうして、基本的には「本と湯気が共存していない」状態を保っています。

 

このことを、つまりは、風呂に入るたびに部屋から本を持っていって、風呂から出るときに本を持って出る、という手順を、面倒だと思ったことはなかったか。これを当たり前だと思っていて、その手順を省いた、より快適な読書ライフはできないものか、というように考えたことはなかったか。それがなかったことに、この本を読んで気づきました。

 

夢の本棚のあるインテリア (エクスナレッジムック)

夢の本棚のあるインテリア (エクスナレッジムック)

 

 

本棚に囲まれたいろいろな住まい写真が載っていて、刺激を受けるものばかり。こういう読書ライフ、いいなぁ、と思わせるインテリアがたっぷり入っています。そんななかで特に目をひいたのが、バスルームに本棚、というものです。なんだ、「住まいづくりは、もっと自由でいい」なんて自分は仕事でクライアントに言っていながら、自分自身住まいづくりの自由度を認識していないじゃないか、と思いました。住まいはもっと、自由でいい。浴室に本棚があったって、いいじゃないか。浴室で本を読む、という自分にとっての需要が現にあるのに、どうしてそのことに気づかなかったのでしょうか。

 

浴室に本棚を。きっと、いままで以上に快適な時間を過ごせると思います。

 

走ったあとにアイス

今週のお題「好きなアイス」

 

明治エッセルスーパーカップ クッキーバニラ味

 

 

これをいま食べながら、この記事を書いている。夕方、涼しくなってきたころを見計らってジョギングをして、カロリーを消費したというのに、帰りがけにコンビニでこれを買ってしまって・・・。まぁそれでもいいや。走ったあとにこれを食べたら意味がない、と思うからいけない。きっと走るのをサボったとしても食べてたんだ。走らずに食べるのに比べたら、走って食べた方が良いに決まっている。だからいいんだ。そう自分に言い聞かせて、カップをほじくる。それにしてもアイスって、なんでこう中毒性があるんだろう。

 

好きなアイスと聞かれて思い浮かぶのは、やっぱりこれかなぁ。自分にとっての定番の味。

 

M:マルシェ -marche-

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きっかけは、勝どきで開催している「太陽のマルシェ」だったのだと思う。公園にテントを立てて、野菜やジャムなどを売る。そこにたくさんの人が集まって賑わう様子がすさまじくて、こういうのがまちづくりなんだ、こういう場所をつくることがまちづくりなんだ、と思った。失礼な話、勝どきといったら埋め立て地で、昔からあったまちではなく、ということはそこに昔から住宅地があったわけではなく、比較的新しいまちに地域コミュニティなんてないんじゃないか、と思っていた。でもそうじゃないんだということを、このマルシェに出くわしたことがきっかけで、知った。

 

timealive.jp

 

いま事務所で進めているプロジェクトが二子玉川にある。再開発エリア「二子玉川ライズ」の賑わいはすごい。駅前にはもともと高島屋があり、裏には風情のある石畳の店舗街がある。二子玉川ライズにはショッピングセンターがあり、蔦屋家電があり、と、休日はその周辺をみてまわるだけで一日が終わってしまうくらい刺激的なお店が集まっている。公園の緑や土を感じるのも気持ちよい。ただ、そうしたお店、公園といった「そこにありつづけるもの」よりも、むしろ自分の興味の対象は「そこに現れるもの」にある。「オリーブマルシェ」と遭遇して、そのことに気づいた。

 

olivejapan.com

 

オリーブオイルを売るマルシェなんて、どんだけターゲットが絞られるんだよ、と思うのだけれど、これが賑わっていて面白い。オリーブオイルにそんなに選択肢があるのか、そんなに深い世界があるのか、なんならちょっとその世界をのぞいてみようか、と思わずにはいられない。二子玉川でやるから成り立つんだ、と言い切ってしまえばそれまでだ。しかし、例えターゲットが限定されていたとしても、なにもない空間に売り手と商品が現れて場所ができ、人が集まり、賑わい、交流が生まれるというのは面白い。それがなぜなのかは自分自身よく分からないけれど。

 

そこに行きたい、と思わせる価値をつけて、何もないところが「市場化」する。売り手は自慢の商品を持ち寄り、紹介する。買い手は新しいもの、いままでにないものを求めて、そこを訪れる。売り買いが仮に成立しなくても、売り手と買い手との会話から新しいストーリーが生まれる。売り手同士、買い手同士でもありえるだろう。こうした新しい発見、新しいストーリーが生まれるような場所を、自分はつくりたかったのだ。その手法の一つが、自分にとってはコーポラティブハウスだったのだ。という、自分の夢の根源的なことを、マルシェきっかけで思い出した。

 

人間と動物の違い

このところ、なんか嫌な気分になるような事件や事故がほんとに多いなぁと思う。きっとそれは最近に限ったことではなく、以前からもあったに違いないのだけれど、なぜか最近、ひとつひとつのニュースが、胸に突き刺さるように感じる。孫が祖父母を殺したとか、妻が旦那を殺したとか、飲食店で女の子を殴り殺したとか。そうなるような精神状態がまるで理解できない、そんなのありえない、と思って嫌な気分になってハイ終わり、加害者の背景に関心を持たない私は、思考停止なのか?

 

小学校の教師が児童に手を出したとか、そういうのも聞く。こういうニュースを聞くと、自分が子供のころは本当に恵まれていたなぁ、と思う。いや、怒られてぶたれるくらいのことはもしかしたらあったかもしれないけれど、それほど騒がれるようなことではなかった。小学校の時の男の担任の先生が当時とにかく怖かった。体罰という体罰はなかったと思うけれど、怒り方がとにかく怖くて、日々おびえていた記憶がある。その担任にも、数年前に久しぶりに小学校の同窓会で再会し、当時は自分も若くて血の気が多くて、なんて反省の弁を述べていたくらいだから、ただ感情的になっていたのではなく、試行錯誤をしながら頑張って指導方法を模索していたのだと今になって思う。

 

その担任の先生に教えてもらったんだったかな。人間と動物の違いを知っているか、と聞かれたことをなぜか覚えている。「それはな、理性だ」先生は堂々と、子供である自分に教えてくれた。例えばお前は、授業中に教室で突然小便をしたりしないだろ。したら恥ずかしいと思うだろ。それはお前に理性が働くからだ。だけど動物にはそれがない。そういうことだ。・・・それからいまに至るまで、「人間と動物の違いは、理性の有無だ」と頭に刻んでいる。でも、ほんとにそうかぁ?といまはちょっと疑いの気持ちもある。先生の教えを素直に受け入れるだけでなく、果たして本当にそうか、そこに誤りはないだろうか、と考えるくらいまでに、自分はオトナになったということなのだろう。

 

人間と動物の違いは・・・悩むか悩まないか、じゃないだろうか。自分は悩む。いつも、くよくようじうじしている。朝になると、今日は仕事でクライアントに嫌味を言われるかもしれない、終わらせなければならない仕事が終わってないことで仲間から見放されるかもしれない、どうしよう、と悩み、なぜか咳が出る。咳と悩みとの因果関係は不明だけれど、朝や仕事中に多く、休日は少ないということを考えると、まるで無関係とも思えない。それくらい悩みが尽きない。きっと、自分に限らずみんなそうだ。だけど、犬や猫、馬を見てどうだ、おおよそ悩みを抱えて放心状態に陥っているようにはまるで見えない。うらやましい。

「選ぶ」ことと「出会う」こと

都内で食事をする機会があり、そのお店を探すことになった。場所をまず決めて、それから店をどうしよう、ということになる。もともと知っているお店があるわけではなかったので、これから任意に選ぶことにある。こういうとき頼りになるのは、食べログだったり、ホットペッパーだったり、ぐるなびだったりする。「街の名前」「ディナー」とかで検索して、ひっかかったものを片っ端から見ていって、これかな、これは違うかな、と、あとは自分の感覚でしかないんだけど、見ていって選ぶ。なじみのお店の一つでもあれば、そこへ連れて行って、なんてことができるのだけど、そうでないから、結局こうした検索に頼らざるをえない。

 

こうしてお店を選んで、そこで食事をした結果、「ここじゃなかったな」「別のところにすればよかったな」と後悔したことが、ない。だいたいが、「ここを選んでよかった」と満足する。それは、決して自分に良い店を選ぶ審美眼がある、とか、運が良い、とか、そういうことではないと思う。たぶん他人が「いまいちだなぁ、他にもっと良い店があるよなぁ」と思うようなところであっても、そのお店の良いところをなんとかみつけようとして、結果その良いところに満足することができる、ということなんじゃないかと思う。いいなぁと思うハードルが、他人より低いというか。むしろ、後悔しないようになんとかして良いところをみつけよう、と頑張るんだと思う。

 

今日も、結果は大満足だった。ビルの比較的高い階にある飲食店で、大丈夫なのかな、と心配してしまったのだけれど、それはほんとに無用な心配だったとあとで思った。高層階だから通りがかりでの来店はほぼ期待できないだろうけれど、そのお店の常連さん、ファンをきちんとつくることができれば、そんなことはあまり関係ないのだと、気づいた。そして、その常連さん、ファンをつくるために必要なのは、人なんだな、と改めて思った。

 

自分が選んだところに対して、そうじゃなかったと後悔するのは簡単だし、実際、他にもっと良い店はいくらでもあるのだろうけれど、でも、なんとかして結果オーライにもっていこう、と思うことって、大事なんだと思う。そうして少しづつ出会いが増えていけば、そのうち自然とレパートリーが増えてくるだろう。そうすると、最終的には食べログとかホットペッパーとかぐるなびとか、そういったツールは不要になるのだろう。でも、最初に選ぶきっかけになるという点では、食べログホットペッパーぐるなびも、なくてはならないすばらしいツールだと思う。

 

「がさつ」をなくす

事務所の実績ファイルをつくる作業をしていたときのことです。プリントした紙を整理していたら、事務所の仲間に「紙を持つ力が強いから気を付けた方がいいですよ」と言われ、はっとしました。複数枚ある紙を漫然と整理するうちに手の動きが雑になっていき、徐々に紙を持つ手に力が入り、紙がかすかに折れるくらいにつかんでいたようでした。「あぁ、ごめん」そんなに雑に扱ったりしないよ、と少し気分が落ちたものの、すぐ、いやまてよ、と気づきました。あんまり意識していなかったけれど、きっと人一倍こういう手作業が「がさつ」であり、おおざっぱなのではないか、と。

 

紙の扱いに限らず、とちょっと自分の動きを振り返ってみると、他にもありました。パソコンのキーボードを打つ力が強くてスタッフから「すごい音だね」「怒ってるの?」と言われたりします。自分では強く叩いているという意識はなく、特別機嫌が悪いわけではないけれど、なんか力が強いようです。ペンで字を書く時だってそう。よく人に「筆圧強いね」と言われます。もちろん筆圧が強い=がさつ、というわけではないけれど、用紙に文字がめり込んでいるのを見て、優しい気分になる人はそうはいないでしょう。さらっと、滑らかに書かれた字のほうが安心感があって、読みやすそうです。

 

そっと、静かに。雑にしてはいけない。そうやって意識していることだってあるんです。例えば電車で座席に座るとき。すでに座っている人の隣に座るときは特に、そっと、静かに座ることを心がけています。もし自分が座っている隣にドスッと飛び降りるように座る人がいたら、すぐに立って車両を変えたくなるくらい嫌な気分になるからです。あと、ドアの開け閉めとかは注意するかな。ドアから手を放して閉めたり、ましてや力を入れてバタンとしたりせず、閉まるところまで手を添えるとか。でも、この注意力が、すべての行動に行き届いているかと言うと、なかなかそうはいかないのが実際です。

 

何をするにしても、雑はダメ。ぼーっとして心ここにあらずの状態だと、ついモノに対しても雑にあたってしまいます。特に自分の場合、たいして急いだところで変わらないだろうというところでもせっかちで、一挙手一投足が早いんだけど、力んでいるので、きっと人の目にはがさつに映ると思います。すべてにおいてスローモーションであるべき、とは思わないけれど、少なくとも無意識に雑な動きをするのを減らして、ソフトな行動を心がけたいと思います。いつも、ていねいに。

 

世界の夢の本屋さん

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本棚がビシッと引き締まるような、そんな本棚の本を一冊は置きたいなぁと思い、手に取った。世界の「本屋さんの本」だ。海を越えた、はるか向こうの世界にある本屋の本棚を眺めながら、家にいながら旅をしているような気分を味わう。

 

こうしてみると、スウェーデンデンマークフィンランドといった北欧の国は、いいなぁと思う。家具にしても、腕時計にしても、落ち着いていて、ずっと飽きずに使えそうな、そんなプロダクトが本当に多い。

 

そして、この本に掲載されている書店員さんからの直筆の手紙も、そのメッセージも、あたたかく、優しい。本の世界に一気に引きずり込んでくれるし、「難しいことなんて考えずに、本を読んでいる時間そのものを楽しもうよ」と語りかけてくれる。明日明後日の自分の仕事のスキルアップに直結しなくても、腹をかかえて笑ってしまうほど面白いものでなくても、将来何の役にも立たないと思ってしまうようなものであっても、読んでいるその時間、その瞬間がなんか快適で、心地よいものであれば、すでに価値があるんですよ、ということを教えてくれた。

 

本屋さんが堂々と本の魅力を紹介するのと同じように。自分も、自分の本棚を充実させて自分の脳も充実させて、そのうえで、人にその時間の快適さ、心地よさをちらっとでも紹介できるようでありたいと思う。

 

世界の夢の本屋さん3

世界の夢の本屋さん3

 

 

 

血が循環する

3年に一度のイベントと言えば、何がある?オリンピックは、4年に一度。盆暮れ正月は、1年に1度。宅地建物取引士の資格更新は5年。といろいろ考えていって、他に思い浮かばず、架空クイズも終わる。3年に一度。それは、自動車運転免許の更新だ。安全運転をきちんとやっていれば5年に1度だが、一度ポカをしてしまったので、3年。というわけで昨日、運転免許センターへ行った。「アイネクライネナハトムジーク」とまたしても同じ状況で、不思議な感じがする。

 

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日曜日だから結構人が多く、予想通り時間がかかったけれど、苦痛ではなかった。あたりを見渡して、3年前に会ったあの人に再会・・・なんて展開は、なかった。そこは「アイネクライネナハトムジーク」の「ドクメンタ」のようにはいかなかった。3年前のこの場で出会った人なんて、講習員を含め、まるで覚えていない。そして、5年後にまた再会したら素敵だな、という出会いが今回あったかというと、それもない。現実なんて、そんなものだ。

 

 

いつもの美容院でマスターに、献血をいままでしたことがなかったことを、怒られた。まさかあなたが献血を断るような人だとは思わなかった、と半分冗談、半分真面目のような口調で言われ、たじろいだ。別に断固として断っていたわけではなく、若干面倒だと思っていたこともあるが、それよりもタイミングがなかった、といったほうが近い。

 

「僕はね、自分の、まぁ汚い血かもしれないけれど、この血が少しでも誰かの役に立つのであればね、提供しようと思っているんですよ」その言葉には彼の強い意思が漲っていて、いままで献血をしたことがなかった自分を、恥じた。なぜこんなところで、いつもの行きつけの美容院で、完全にリラックスしているところで、反省しなければならないのだ、と思ったのだけれど、事実なんだから仕方がない。最後にマスターから言われた「血って、ある程度出して、またつくって、というように循環させることが大事なんだって」という言葉が、自分の背中をそっと押したのだと思う。免許センターに行ったら、必ず献血する場所があるから、と肩をたたかれ、献血ねぇ、と半分は右耳から左耳へと聞き流しつつも、まぁ結局は行くんだろうなぁ、自分、と思った。いつだって、マスターの言うことはだいたい、正しい。

 

 

免許更新を終え、新しい免許証を丁寧にしまい、免許センターを出る。すると目の前に「献血」と書かれた大きなプラカードをもったおじさんが「献血お願いします」と声を出していた。自然と、おじさんと目が合う。「ありがとうございます。あちらです。よろしくお願いします」暑い中、立ち続けているおじさんの声がひと際明るくなったことで、自分の心にまだ少しだけ残っていた不安は、消え去った。なんだ、簡単じゃないか。タイミングがないわけ、ないじゃないか。

 

初めてだからといろいろ聞かれ、動画を見て、問診、血液検査を経て、なんとか自分の血が提供に値するということが分かった。よかった、人様に提供できないようなどす黒い血でなくて。

 

400ミリリットル、と簡単に言うけれど、350ミリリットルの缶ジュースよりも多いんだぜ、結構な量だな、と急に不安になる。でも、「では400ミリリットルいただきますね」とさらりと言われ、拒否のタイミングを失った。まぁ、せっかくの機会だから、いくらでも持って行ってくれ。このあと貧血で倒れない程度に、せめて海浜幕張駅まで眩暈なしに歩ける程度であれば、いいよ。

 

献血は、やはりあっという間に、あっけなく、終わった。目の前のテレビで放送していた競馬を見ていたら、いつの間にか終わっていた、といった感じだ。これをいままで拒否していたのかと思うと、やはり恥ずかしさが残る。これで微力でも世の困っている人を救う力になったという誇らしい気持ちを胸に、そして、新しくてきれいな400ミリリットルの血が生まれて身体を循環するのをイメージしながら、免許センターを後にした。ちょうどバスが来たし、万が一貧血で倒れたら嫌だから、海浜幕張駅まで歩くのは、やめた。