給水所

夏の暑い日。学校からの帰り道、カラカラの喉を潤すために、通学路の途中の家に寄り道しては水をもらって休憩していた。そんなことを、久しぶりに親戚に会って話をしているなかで思い出した。小学生の頃の話だ。

 

合言葉は「水くださーい」。「開けゴマ」じゃないんだから、と今は思うのだけれど、当時はその合言葉にものすごい効果があって、ほんとに魔法だったんじゃないかとすら思う。「はい、どうぞー」庭の水道の水を飲ませてくれる方もいれば、コップに水をいれて持ってきてくれる方もいた。いまでも鮮明に覚えているのは、駄菓子屋のおばあちゃんが、やかんに入れた水をていねいに湯飲みについで出してくれたことだ。普通の水のはずなのに、とにかくおいしかった。

 

いま、小学生に勝手に(?)家に入られる大人の立場もようやくわかるようになって、あのころはよく水をくれたなぁ、と思う。子供の中にその家の子がいるというわけでもないのに。きっと「うっとうしいなぁ」と思ってたことだろう。うちは給水所か、と。それでも水をくれたのは、そして子供も安心して「水くださーい」と呪文を唱え続けることができたのは、お互いに信頼関係があったからなのだと思っている。子供には、甘えとかそういう意味じゃなく、頼んだら水をくれるんじゃないか、という期待感があって、大人のほうも、「暑くて大変ねぇ」という子供を想う気持ちがきっとあったんだと思う。これがお互い信頼関係がなく、つまり、子供は見ず知らずの大人を警戒して近づこうとせず、大人が子供をうっとうしく思っていたら、こういう関係は築かれなかっただろう。つくづく、自分は恵まれていたなぁ、と思う。と同時に、それにしても自分勝手な、傲慢なガキでもあったなぁ、と。

 

ちょっと大げさかもしれないけれど、熱中症になることなく、いまこうして元気でいられるのは、給水所があったおかげだ。小学校を卒業し、通学路を歩かなくなってから20年以上経つのに、給水所の場所はだいたい覚えている。これからも、忘れちゃいけないんだと思う。そしていま、中学生で部活にいそしむ親戚の子供に、この時期、部活に精を出すのもいいけれど、熱中症で倒れるなよ、水を飲めよ、と言いたい。