滑走路

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【アイネクライネ】

 

伊坂幸太郎アイネクライネナハトムジーク」を読んだ。6つの別々の短編が、複雑に絡まり合っている。彼の作品ならではの練りこまれた世界を味わえるのはもちろん、ストーリー全体を支配している「出会うことの奇跡」感が、胸に心地よく響く。事実は小説よりも奇なり、と言う言葉がもし本当だとしたら、どんなに素敵だろう。こんな出会いがもしあったら、きっと嬉しいだろうなぁ、と思う。

 

「アイネクライネ」のオチは特に、沁みた。仕事は山ほどあるらしい。だから、また会えますように。そんなの、仕事に身がはいらないくらいワクワクするに決まってる。

 

アイネクライネナハトムジーク

アイネクライネナハトムジーク

 

 

【コーヒー】

 

昼間、少し仕事。3連休初日、ちょっと気を抜いたら事務所なんて行かずに無駄な時間を過ごすに決まっている。気持ちが高ぶっているうちに、やっつけてしまおう。

 

仕事帰りに、おなじみのカフェに立ち寄る。「おっ、今日は夕方ですね」その日によって行く時間帯がバラバラで、夕方に来たのは今日が初めてだった。店主のその一言に、いつも立ち寄る時間を覚えてくれているのだと感じ、嬉しくなる。

 

今夜は隣町で夏祭りがあるらしい。超絶かわいい店員さんが以前、人で賑わう祭りの雰囲気が好き、といったようなことを言っていた気がしたから、教えよう。そうだ、先週、自分が鎌倉に行くと言ったら「いいお店知ってますよ。ガーデンハウス。ぜひ行ってみてください」とオススメカフェを紹介してくれて、行ってみたら、待っている人がものすごく長い行列をつくっていて、すぐ萎えて、でもすごく人気のカフェだと分かって、また近いうちに行ってみようと思ったから、そのことを伝えなければ。だけど、今日に限ってなかなか話しかけるタイミングがない。こういうとき、普通に声をかければいいものを、臆病な自分はなかなかそうはできなくて、結局は、いつものアレ、つまりは置き手紙に頼ってしまう。カッコつけるつもりはなく、ただ面と向かって言葉で伝えるのが恥ずかしいだけなのだが。本当はただの自己満足だろ、と言われたら、そうかもしれないのだが。「アイネクライネナハトムジーク」の笹塚朱美も言っていた、相手に喜んでもらえると思っている時点で、ちょっと傲慢かもしれない、と。でも、伝わったらいいな、喜んでくれるんじゃないかな、くらいの軽い気持ちで、手持ちのカードにペンを走らせる。

 

【滑走路】

 

駅前の道路が歩行者天国になっている。テーブルが並び、出店が集まり、特設ステージが現れる。テーブルは食事する人たちで満席状態。道路も歩くのに一苦労、という賑わい。ゴールデンウィークに偶然出くわしてホコ天の存在を知り、今日で2回目。駅前の商店を中心に、暑い夜をさらに熱くしていた。

 

ふと、約2か月半前の、前回のホコ天を思い出す。こういうときくらいなんか買い食いしようか、と出店を物色し、目を付けた串焼き屋。注文したら「すみません、いまおつり切らしていて。小銭ありませんか?」ときれいなお姉さんに聞かれた。たまたま小銭を持っていたので、「へへ、ありますよ。なんなら十円玉もいれましょうか」「いやいや、大丈夫です」なんてやりとりをしつつ、買った。「ありがとうございます。助かりました」お姉さんの笑顔がまぶしくて、串焼きの美味しさも3倍増しくらいになった気がした。

 

あの串焼き屋、名前なんだったかな。また出店してるかな。あのお姉さん、ほとんど顔を覚えていないのが申し訳ないのだけれど、また会えたりしないだろうか。なんて期待を、した。出店が並ぶ道を端から端まで歩き、一軒一軒見てまわり、その串焼き屋にも、お姉さんにも、出会えなかった。まぁ、そう簡単に奇跡が起こるわけがない。

 

特設ステージ、最後に登場した男の人は、クラシックギターウクレレを操り、魂を吐き出すように、歌った。まじまじと見ていなくても、その歌声とギターの音色を聴きながら、賑わう夜道を歩いているだけで、なんか楽しく、気持ちよくなってくるんだ。なんでも地元出身のミュージシャンらしい。この街で、このステージで、歌うことを誇りに思っている、そんな感じがした。最後に歌ったオリジナル曲「滑走路」の、初めて聞くのにどこか懐かしいようなメロディが心地よい。クラシックギターのボディを打楽器のように使ったテクニックに、酔った。

 

ステージが終わり、出店も片づけ初め、さてどうしようか、とフラフラ歩いていたら、「あ」と後ろから声をかけられた。自分が振り返るより前に、目の前に姿を見せた、その超絶かわいい女性の笑顔に、全身の力が抜ける。「あぁ、間に合ったんだ」「いま着きました。もしかしたら、まだいるかな、と思って」「ちょうどいまステージ終わったところだよ。地元出身のミュージシャンなんだって。カッコよかった」「私も、歌声を少し聴きました」「そっか」「さっきは、ありがとうございます」「いえいえ・・・」

 

この偶然を、少しでも期待してはいなかったか?していたんだろうなぁ。


どんなに走らせても走らせてもあの日にはもう飛べないけど

(建吾/滑走路)


ギターをかきむしりながら歌う彼の声が心に響き、祭りが終わったあともその余韻が残って、おなか一杯になったから、もうそんな期待なんてどこかへ飛んでしまっていた。それが、最後の最後で現実になる。まるで「アイネクライネナハトムジーク」の世界が今日の自分の世界と合致したような、不思議でありつつも心地よい感覚を味わった。

 

そのあと、彼のCD販売会があるとのことで、その「滑走路」が入っているCDを、つい買ってしまった。こんなことは初めてだ。汗だくで、でも最高に気持ち良さそうな彼から直接サイン入りCDを買い、握手をした。その手はとてもあたたかかった。

 

「出会う奇跡」は決して特別なことではなく、いろいろなところに転がっている。その奇跡に気づくことが、大事だと思った。

 

鎌倉のコモレビ

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午前中、事務所の元仲間が設計した住宅のオープンハウスで鎌倉に行ってきた。この駅で降りて歩いた記憶がないので、もしかしたら初めてかもしれない。とても恥ずかしいのだけれど。

 

その住宅は、木をふんだんに使った、風情ある鎌倉の街にぴったりの建築で、刺激を受けた。レッドシダーと焼杉の使い方が、とてもきれい。時間を経て経年変化する素材をもっと使って、時間とともに変わっていく様子を楽しめるような建築を、自分もつくっていきたい。

 

 

鎌倉市には「佐助」という住所があって、それを初めて聞いたときは「かっこいい地名だなぁ」と思った。「サスケ」と聞いて思い浮かぶものといったら・・・あのアスリートがアスレチックに挑むテレビ番組か。いや、その前に、赤と白と黒のマスクが印象的なプロレスラー「ザ・グレート・サスケ」か。とにかく、サスケといったら強く、かっこいい。そんな地名の住宅地を歩くと、観光客を乗せた人力車が通ったり、若い学生らしき男の子数人が思い思いに歩いていたりと、休日だからかもしれないけれど、けっこう賑わっていた。こんなに皆から愛されている街だったんだ、といまさらながら思う。

 

その「佐助」の由来だが、臥した源頼朝を看病しながら幕府をつくるよう進言した翁が、佐殿(すけどの。源頼朝のこと)を助けたから、というようなことを(うろ覚えです)、オープンハウス後に立ち寄った佐助稲荷神社で知った。まだまだ知らない歴史がたくさんある、当たり前だけれど。由緒正しきこの街のことを何も知らず、おしゃれで、都内とはまた違った先進的なスポットがたくさんあって、最近特に盛り上がりを見せてるなぁ、程度にしか感じていなかった私は、なんて愚かなんだ。そんな自分を恥じ、せめてもと思って神社のハイキングコースを少しだけ歩いた。「少しだけ」なのは、あまりの暑さにギブアップしたからだ。夕方、人と会う約束があったから、汗だくの漢になるわけにはいかなかった。

 

佐助稲荷神社で大木の隙間からふりそそぐ日差しを浴びながら、これが鎌倉なんだ、と身体にしみこませた。そのあとに、雑誌で見て行きたいと思っていた小さな文具屋と、小さなごはん処に行けたから、満足だ。大仏も、たくさんあるおしゃれスポットも、観光客で賑わう街並みも、また別の機会に、一日かけて歩きまわりたいと思う。

激アツな二子玉川

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二子玉川に行ってきた。いま事務所で取り組んでいるプロジェクトが二子玉川にあって、そこは駅から10分以上歩くのだけれど、今日、駅からの道を歩いてみて、「徒歩何分」という数字だけでは判断できない価値っていうのがあるということを感じた。駅を出て、二子玉川ライズを通って、洗練された店舗が並ぶ路を歩き、子供たちが無邪気に遊びまわる公園を抜けて、大きな庭園の脇を通って、多摩川沿いの静かな住宅地へ。その間、目的地までの遠さと暑さで滅入ったかというと決してそんなことはなく、あれもこれもと眺めているうちにあっという間に着いてしまった、そんな感じだった。「徒歩何分」という数字では、距離は判断できても、そこを歩いているときの快適性は判断できない。

 

蔦屋家電が刺激的だった。広い店内に点在するたくさんの本棚。その向こうではパソコン?を売っている。別のところでは音楽コーナーがあって、CDやレコード、イヤホンなどを売っている。さらには腕時計も。さまざまな商品が同じ店内にひしめきあう混沌。あれもこれも、といろいろな方向に目が向き、だんだんバテてくる。商品を一通り見て回るには、一日じゃ足りない。

 

・・・だからこそ、こういう街に住んで、日常的に通うのが、こういう街に暮らすことの楽しみなのだと思った。と同時に、自分はその楽しみ方はできないなぁ、とも思った。一日じゃ足りないから、何度か行ってみたいとは思う。だけど何度か行くと今度はその刺激にも慣れてきて、面白さを感じなくなってしまうのではないか。逆に混沌とした空間をうるさく感じてしまうのではないか。もし自分が住む街を選ぶとしたら・・・こういう刺激的なスポットに近いことは条件にしないかな。こういうスポットは、行きたいと思い立った時に、遠かろうが、行けばいい。そう思ってしまった。

 

TSUTAYAなんて、自分が子供のころは、便利で、安くCDやビデオをレンタルできて、日常的にふらっと行けて、良く言えば敷居が低いのだけれど、悪く言えばチープ、そんなイメージしかなかったのに。いまじゃ代官山や中目黒でも注目を浴びる「蔦屋書店」。不思議なものだ。

 

駅の反対側。その独創性に惚れて好きになったリネン専門店がある。リネン100%のカーテンを、オーダーメイドでつくれる。クロス、タオル、枕カバーなども、質素で、つい手に取りたくなる。こういうものがすんなりと馴染むような、優しい部屋をつくりたい。

 

二子玉川は、刺激が強い街。暮らしに対する欲求を満たす何かが、必ず見つかる。一方で、多摩川沿いの河川敷を歩いていると、自宅近くの河川敷を歩いているときもそうだけれど、微笑ましくなる。空と水と緑があって、要は自然があって、そこに走っている人や遊んでいる子供たちがいたりする。自分にとっての二子玉川は、「そこに居たくなる」ような空間と「わざわざでも行きたくなる」ような空間が混在している、多面性をもった街だ。

 

建築を楽しむ教科書

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昨日、事務所のスタッフと一緒に行った「社食堂」。いち設計事務所がここまでできるんだ、と驚かされた翌日の今日、手に取った雑誌に、「開く会社・開くオフィス」として掲載されていて、また驚いた。業界の最先端を行っている。私はと言えば、スタッフに誘われなかったら昨日行かなかったどころか、この先ずっと興味を持たずにいたかもしれない。

 

雑誌は、そこに載っている情報の速報性が強いというか、比較的早く情報が劣化して読み物として成り立たなくなるというイメージがあり、あまり好きではなかった。1年後に久しぶりにパラパラとページをめくって、「そんな時代だったのか~、いまじゃありえないな」と思っちゃうとしたら、情報でも何でもない、と。いや、情報じゃないわけではないのだけれど、毎日のニュースみたいに、すぐ過去のものになってどうでもよくなる情報だったら、得なくてもいいんじゃないか、と思っていた。でも、そうやって得る情報をふるいにかけてしまって、新鮮で刺激的な情報を受信できないとしたら、それはそれでもったいない。だから最近はあまりこだわらず、雑誌も読むようにしている。だいたい、たいして文字もないくせに、なんて思いながら買った雑誌の情報量が思いのほか多く、おなか一杯になることだってあるだろうに。

 

社会を深く観察して、問題点を浮き上がらせて、その解決方法を建築に見出す。専門分野や手法は違えど、自分だって、そうやって社会と関わりたいのではなかったか。コーポラティブハウスという、住まい手にとってこれ以上の喜びはないと思うような、オーダーメイドの住まいづくりができるしくみを扱っているじゃないか。どうせどんなに頑張って勉強したって建築設計なんてできやしないんだから。大学時代から漠然と考えていた「川上の仕事」をいましているのだという自覚を、もっともたなければ。

 

こんな雑誌を、知識を得るための教科書にしているなんて甘い、と言われるかもしれないが、それでもいい。知らないよりは。

 

社食堂

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昼間、事務所のスタッフと代々木上原の「社食堂」へ行ってきた。建築家の谷尻誠さんの設計事務所「サポーズデザインオフィス」が事務所として使う一方で、レストラン&カフェを運営し、一般開放している。そこでは、食事を楽しむ人もいれば、本を読む人もいれば、打ち合わせをするスタッフもいれば、というように、さまざまな使い方がされている。

 

とにかくすごいなぁ、自分にはない考え方だなぁ、と思ったのは、「『建築の仕事ってこんな感じでしているんですよ』というのを多くの人に知ってほしい」というもの。自分の仕事を広くたくさんの人に伝えたい。自分の仕事に透明性を持たせて、公開する。そういう意図が感じられて、すごいと思った。そういう発想は、自分にはなかった。新しい価値を創造する人は、自分の知恵を独り占めしない。自分が得たもの、自分がつくりだすものを、皆で共有する。だから喜びは何百倍にもなり、悲しさ・つらさは何百分の一にもなる。きっと、そういうことなんだろう。


入った途端目に入るスチールの壁面本棚に、建築関連の本がたくさん並んでいる。その本棚を眺めながら、手作りのご飯を食べる。これが普段の仕事になじんだら、どれだけ身体に良いだろう。パソコンの画面を見ながら菓子パンをかじってる自分を想像して、その不健康さにおぞましくなる。普段食べているものが、自分の身体をつくっている。その身体がきちんと動かなかったら、脳も動かないし、良い仕事もできない。本当にそうだと思う。食について、真剣に考えるきっかけにもなった。

 

Caffe Nil

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多動を目指そう。思い悩んでいる時間なんてないくらい、休日だろうとあっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返したらいいんだ。そう思いながらも、どうしても身体がいうことを聞かず、起きたら昼過ぎだった、ということがある。まさに今日がそれだった。どんなに頭で考えていても、行動が伴わなければ何の意味もない。つくづくそう感じる。

 

 

二日連続はなんか違うんだよなぁ。常連ヅラするのも嫌だし。なんて思いながらも、自然と足が向かうカフェがある。他のどこにも行く気が起きず、結局立ち寄ってしまった。特にすることがなくても、行くことで何かが生まれる予感がするから。なんか言葉では表現できない、特別ではないにせよ快適な時間を過ごせるという予感がするから。

 

もう自分とこのカフェとの関係は一線を越えてしまっている、と本気で思っている。オープンする前から、そのカフェをつくろうと奮闘する人に惚れ、そのコーヒーを好きになった。こんな体験は初めてだ。だから、オープンしたときは本当にうれしかったし、ここが自分にとっての新しい地域コミュニティだ、新しい場所だ、なんて自分本位のことも確かに考えたけれど、それ以上に、ここが居心地の良い場所としてこの街にあり続けるために、これから全身全霊で応援していこう、と思った。こんな気持ちになったのは初めてだ。

 

 

席に座り、コーヒーと一緒にクロワッサンを頼んだら、「今日はこのデニッシュがオススメなんです。それにしてください」と言われた。私があなたの提案なら受けることを知ってくれていて、絶品のデニッシュをくれる。

 

エチオピアモカはまだ飲んでないですよね」私がネットショップで過去に何度かオーダーした豆の産地を当たり前のように覚えている。自分でさえ飲んだか飲んでないか覚えていないのに。

 

「『oz magazine』、好きなんですか?私、好きでいつも読んでます」たまたま本屋特集が面白そうだったので今日手に取った雑誌を読んでいたら、気さくに話しかけてくれて、街カフェの話で盛り上がる。

 

そのカフェを好きになるかどうかの決定打は、コーヒーや食べ物の味でも内装デザインでも立地でもなんでもなく、人にある。私はこんな仮説を持っている。ただ、それは少数派なんだろうなぁ、とも思っていた。だけど今日、その仮説が正しいということを立証できたような気がした。二日連続はさすがにナシだなぁ、という気持ちも数時間後には粉々になくなってしまっていたから。

 

caffè nil - コネクトコーヒーカンパニー

https://www.facebook.com/CaffeNil/

 

ロザーナ

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問題ない そう問題ないよ 太陽もうなずいたよ 行こうよ ロザーナ

(ロザーナ/THE YELLOW MONKEY

 

17年前の彼らに対するイメージからは想像できないくらい、軽快でサッパリした曲。というふうに私は感じている。ロザーナはバラのように美しい女性がモチーフか?CDジャケットの真っ赤な唇はぶ厚くて、色っぽい。きっとさわやかで清楚な黒髪美女、というよりは、コテコテでセクシーで、ちょっと危険な香りのする女性なのだろうと思う。

 

そんな女性をぼんやりと頭に思い描きながら、ふと口ずさむ。つい声に出して歌いたくなる、中毒性のある曲なんだ。最近はこれをヘビーローテーション。問題ない、そう問題ないよ、と自分に言い聞かせるように。

 

ミュージックビデオの間奏明け、徐々にモノクロからカラーに変わっていくシーン。ワンツースリーフォーと口を動かしながら身体を揺らすヒーセ。そして大サビへ。この一連の流れ、約15秒がとにかくかっこいい。

 


ロザーナ / THE YELLOW MONKEY

雨とホキ美術館

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16:00

 

いままで美術館というものにあまり縁がなかった。美術館巡りで美とは何かを知ることも必要だろうと思い、そして、千葉県民でありながら行ったことがなかったことに急に恥ずかしさを感じ、急に思い立って、ホキ美術館へ行ってきた。昼過ぎに雨が降ってきて、やっぱやめようか、来週行けばいいんだ、なんて思ったけれど、すぐやんだし、雨に濡れたコンクリート打ち放し建築を観るのも良いのではないかと思い、行くことにした。

 

長く細い曲線状の道を歩きながら、美しい写実画を味わう。写実画専門の美術館だけあって、風景の持つ自然の壮大な力、被写体の人の目力といったものが、リアルに伝わってくる。展示されている絵に一点集中できるような展示空間が、心地よかった。

 

写実画に興味をもつきっかけになった。そして、美術館は、一度行って観たからもうおしまい、じゃなくて、何度か行って複数回観ることで、同じ絵でもまた違った楽しみ方ができるのではないか、と思った。美しいものを見る回数を増やせば、センスが磨けてオトナの男に近づけるか。

 

11:30

 

日頃の不摂生が気になっていた。たまにでもいいから走らなければならないと思い、久しぶりに河川敷をジョギングした。雲行きは怪しかったけれどまだ雨が降る前で、涼しいくらいで、走るのには快適だった。

 

ちょっとサボるとすぐバテてしまう。自分でもびっくりするくらいゆっくりしか走れなかったが、走っている間はいろんなことを考えることができる。貴重な時間だ。河川敷でアウトドアを楽しむ人たちを見てうらやましがったり、ホキ美術館、どんな絵があるんだろうなぁ、楽しめるかなぁ、なんてちょっと不安になったり、仕事がうまくいかないけれど、どうしたらいいかなぁ、なんて漠然と悩んだり。いろんなことが頭に浮かんでは消える。後で振り返るとさほど建設的でない気もするけれど、走っている間はとにかく心地よい。こうやって汗と一緒に老廃物を出して身も心もリフレッシュしたら、体調管理をきちんとできる、オトナの男に一歩近づけるか。

 

9:30

 

自分の住む街での自分の居場所と思えるカフェに出会い、朝食をとりに立ち寄る。ここにはオープン日から通っている。とはいえ平日は基本行けないから、休日限定。行こうと意気込んでいくというより、特になにがなくてもフラッと立ち寄ってそこでの時間を楽しむ、といったことが、この先できたらいいなと思っている。

 

店主は私より年下の女性。女の子、といったら失礼だと思うくらいしっかりしていて、テキパキしていて、夢を実現させるためのみなぎるパワーを持っている。それでいて、めちゃめちゃかわいい。そして、つくるコーヒーがとてもうまい。私にとって特別な存在のカフェだ。「昨日は暑かったけれど、今日は涼しいくらいですね」そんな何でもない会話も、気兼ねなく楽しめる。

 

しばらくすると、徐々に混んできてほぼ満席になった。今日はホキ美術館に行かなきゃだし、その前にジョギングもしなきゃだし、長居するのもマズいから帰ろうかと思い始めたころ。忙しさにテンパるのではなく、逆に楽しそうに見えるのが、彼女のすごいところ。忙しくなるほど余裕がなくなり、機嫌が悪くなり、慌てふためいてしまう自分とは雲泥の差だ。「すごいですね」素直に思ったことを伝えると、「いやいや、逆にお客様とゆっくりしゃべれなくなるからつらいんですけどね」と謙遜する。すごすぎる。心から尊敬する。

 

彼女の姿を見ていれば、私ももっと仕事に余裕をもち、楽しみながら(楽しい部分を見つけながら)、パワフルに動くことができるだろうか。キャパシティを超えることがあっても不機嫌にならず、サクサクさばいていけるオトナになれるだろうか。

 

松陰神社前散歩

コンサルをしている管理組合の総会で弦巻に行ったあと、せっかくだからと、世田谷線に乗って上町から松陰神社前へ。法務局へ行くときに歩く駅前の商店街は、賑やかで、かつアットホームな雰囲気が漂っている。気になってはいたものの、謄本を取りにいかなければ、と頭が仕事モードの時に歩くことがほとんどだったため、ゆっくりと歩いてまわる機会がなかった。今日、一軒の喫茶店を目指して、散歩しようと思った。きっかけは、「東京カフェ散歩」という本の「日常編 10章 三軒茶屋から世田谷線に乗って」だった。

 

東京カフェ散歩 観光と日常 (祥伝社黄金文庫)

東京カフェ散歩 観光と日常 (祥伝社黄金文庫)

 

 

松陰神社前の商店街にいくつか小ぢんまりした雰囲気の良さそうな喫茶店があり、その中で特に「カフェロッタ」が気になった。「お店への愛情を綴った小さな置き手紙を、テーブルにそっと残していくお客さまも少なくないそうだ」 だって。うん、素敵すぎる。そんなお店を知って、そんなお店に置き手紙をそっと残して愛情を表現できる男になりたいと思い、趣のある木扉を開いた。あまりの小ささに、びっくりした。すぐ満席になって人が入れなくなるのが気になって、とてもじゃないけどちょっと長居なんてできそうにない。

 

角にあるテーブル(机といった方が近そう)と椅子。座り心地が抜群に良い。腹の部分に引き出しがあり、つい開けてしまいたくなる。無垢の木のやわらかさと、白湯のあたたかさと、でっかいスコーンの甘さが、日常を忘れさせてくれる。

 

本にも写真で出ていた店主のまた優しそうなこと。ご近所さんから親しまれているというのが、一発で分かるような優しさを感じた。

 

うっかり長居、はできそうにないけれど、ちょっと異空間に行きたいとき、ひとり孤独を味わいたいとき(といいながら実は周囲を完全に遮断しているわけではないのだけれど)、また行きたい。

 

 

ガラ声のおじさんが大声で叫ぶ昔ながらの八百屋。ポルトガルの手仕事を紹介するギャラリー。モダンな店構えが印象的な煎餅屋。並んでいる本や音楽が放つ刺激があまりにも強すぎて、何も買わずに店を出るのにものすごい罪悪感を感じてしまう小さな古本屋。古い建物がひしめきあうなかでぽっかりと現れる更地・・・。いつも仕事でしか通らない街の、いままで知らなかった面白さに触れた。

 

多動力

休日を何もせずのんびりと過ごし、あとで後悔するんだったら、たくさん動いて疲れた方が良い。最近、そう思えるようになった。

 

いままでは、自分の時間の中で一定の休み時間、何もせずのんびりしている時間、何もしなくてもよいと思っている時間が必要で、そういう時間を大切にしていた。週末に仕事を持ち込まないように、と意識していた。だから、金曜日の夜中に寝て、土曜日の朝起きられなくて、目を覚ましたら正午、なんてときも、「これが休日」とばかりに受け入れていた。だけどいまは違う。そのきっかけをつくってくれた人が、二人いる。

 

 

彼の言うことは100%正しい、と思ってその考え方を取り入れるには、彼の言うことは突拍子もないことを含んでいて、だからそのまま真似できるものでは決してない。だけど、いくつものプロジェクトを動かし、やりたいことはためらわずにすべてやる、そういう生き方をするためには、自分にとって無駄なことはせず、ワクワクしないことはやらないと決めて、ありとあらゆることに手を出してみる。それが大事なんだと思った。私は無意識のうちに自分が一定時間内にできる行動に勝手に限界をつくっていて、それ以上はやらないということが習慣になってしまっているのだ、きっと。限界をつくるのをやめて、できることはやってみよう。やりたいんだったら自信をもって詰め込もう。

 

彼の本を読んで、確かにそうだと思えることが一つある。それは、動いていないとき(休んでいるとき)よりも、多少テンパっていてもせわしなく動いているときの方が、気持ちが良いということだ。その身体感覚に正直にしたがって、動こうと思った。

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

 

 

憧れのロックバンドのギタリストが多忙で疲弊している、なんて記事がyahooニュースに出ていて、話題がないとこんな些細なことでも記事にしてしまうのか、と思わずにいられない。正直、どうだっていい。彼はかつて「寝る時間がもったいない」と堂々と言うくらい、寝る間を惜しんで音をつくることができるミュージシャンだ。LUNA SEAX JAPANを掛け持っているというだけでも、その忙しさは想像以上なんだろうなぁと思うけれど、私はあまりそれを心配していない。身体は大切にしてほしいし、人間である以上無理はしないでほしい。でも、彼がそんな心配は無用なスーパーマンであることを、私は知っている。私は、彼が「寝る時間がもったいない」と言うくらい音楽に対して使命感をもっているということを、彼の全身全霊の音楽を聴いて感じた。だからこそ、自分もそうでありたい。寝る時間がもったいなくて、睡眠時間を削りたくなるくらい何かに没頭したいと思えるようになった。休んでいる場合じゃない、という焦燥感を感じるようになったのは、彼のおかげだ。

 

 

自分で仕事をつくるということ

6月10日。土曜日。

 

事務所の元スタッフと久しぶりに会い、渋谷で食事。自分で仕事をつくっている二人からは、刺激を受ける。人脈を駆使し、持ち前の努力家精神を評価されてクライアントを紹介されたりといったように、自らの力で仕事を生み出している。そこへきて自分は、、、何年やっても自分でプロジェクトひとつ立ち上げることができていないじゃないか、と思うと泣けてくる。

 

「自分が事務所の社長だと思って仕事すればいいんだよ。私だったら、自分が社長だ、と思いながら主体的に働いてくれる人に来てほしいと思うよ」そう言われ、自分では分かってるつもりだったんだけれど、実は分かってなかったということに、気づいた。そうだ、自分が本当に当事者の気持ちで、がけっぷちに立っているような気持ちで仕事をしたら、もっと動き方が違ってくるんじゃないか?と思う。それがいままでできていなかった。だから明日から、何の節目でもないけれど、気持ちを切り替えて。

 

自分の思い通りにならないことを、自分の企画が事務所を動かせない歯がゆさを、まわりの環境のせいにするな。そこをなんとか踏ん張って、頭を使って、仕事をつくるのが、自分の仕事だ。

 

理想はハイタワー

心優しき怪力大男、モーゼス・ハイタワー。昔観て感動し、大笑いし、自分にとっての大好き映画ベスト3に入る「ポリスアカデミー」に登場する彼に、あこがれている。こういう優しさと強さを兼ね備えた男になりたい、なんて。

 

女好きでいたずら大好きなマホニー。拳銃をもつと興奮し暴れだすタックルベリー。人間効果音ジョーンズ。可愛らしくもキメの場面で強気になるフックスちゃん・・・。新市長が警察官採用基準をガラリと変えてしまったばかりに、さまざまな個性をもった人たちが警察学校に押し寄せる。頭を抱える警察学校教官ハリスの前で、彼らが抱腹絶倒のドタバタ劇を見せる。

 

そのなかでひと際、私の心をとらえたのがハイタワーだった。あの巨体、あの風貌で、実家が花屋だというのだからそれがまたすごい。ギャップ萌えとはこのことを言うのだ、と知った。フックスに罵声を浴びせた男に腹を立て、車をひっくり返したシーンは、男心に響くものがあった。

 

強くなりたい。やさしくなりたい。斉藤和義「やさしくなりたい」が頭の中を流れる。清らかな気持ちにさせてくれるのが、ハイタワーという男なのだ。だからというべきなのか、いつか私も、花を売りたい。本を売りたい。コーヒーを売りたい。要は小さな店を持って誰かに価値あるモノを提供したい、といったほんの小さな夢がある。

 

そんなことを、カフェをオープンするという夢を叶え、キッチンでテキパキと動きながら、それでも超絶かわいい笑顔を絶やすことなく、美味しいコーヒーをつくってくれる女性とそのカフェに出会えた奇跡をかみしめながら、考えていた。

 

僕の好きな男のタイプ 58通りのパートナー選び

僕の好きな男のタイプ 58通りのパートナー選び

 

 

すてきな素敵論 (講談社+α文庫)

すてきな素敵論 (講談社+α文庫)

 

 

フランスの血

二晩連続でワインを飲むという、自分にとってほとんどありえないような二日が終わり、酔いが残った頭をなんとか動かしながらこれを書いている。フランスの血が、体中を巡っている。

 

 

「フランス」という言葉から、ふとフランス映画を連想する。自分にとってのフランス映画は、二つしかない。だいぶ古いけれど、「ヤマカシ」と「ル・ブレ」だ。

 

 

犯罪を犯したいと思ったことはありますか、と聞かれると、小さい声で「実はあります」と答える。しかし実際にやるかというと別の話で、やる勇気もないし、やろうとも思わない。ここでいう犯罪は、その人にとっては正義を貫くための行い、であって、一般的には犯罪なのだけれど、結果オーライに見える、というもの。人を殺す恐れのある殺人鬼を始末するとか、現金輸送車を襲撃して得た大金でホームレスの居場所を守るとか(相棒であったな、そんな話)。そういう、当事者がポリシーを持っている犯罪を、なぜかかっこいいと思ってしまう。

 

「ヤマカシ」を観て、そのかっこよさに震えた。キッカケは、リュックベッソン監督の名前を「TAXI」かなにかで知って、その監督の作品を探している中で出会ったのだと記憶している。ビルから飛び降りる7人の超人が、当時ヒーローに見えた。音楽バカ、遠投の達人、超速男、器械体操の達人・・・それぞれ特技のある7人が、木から落ちて意識を失った少年ジャメルを救うために、心臓移植に必要なお金を富豪から盗む。子供を救うという目的が、盗むという行為を正当化させ、最後に彼らは勝つ。もちろん犯罪はダメ、と前置きしつつ、こういう正義もあるんだ、という善悪の多面性を教えられたような気がした。ジャメルと同じように、正義のために力を合わせて縦横無尽に走り回る7人の超人にあこがれた。これがフランス映画のかっこよさなんだ、と思った。

 

 

巨大な観覧車が空から落ちてきて、地面に衝突し、ゴロゴロと転がってくる。そのシーンに、けっこう衝撃を受けた。フランス語で「弾丸」を意味する言葉をタイトルに冠した「ル・ブレ」。それをテレビで観たものだから、これはすごそうと思い、当時TSUTAYAで借りてはりきって観た。フランスの匂い、色気がプンプン漂ってきて、かつアクションシーンは迫力がある。カーチェイスとか、走って逃げるとか、そいうものはたくさんあるけれど、迫りくる観覧車を避けながら車で駆け抜けるシーンは、当時かなり斬新なものだったと思う。預けられたあたりくじを失くしてしまう主人公の間抜け具合と、迫力あるシーンとのギャップが大きく、興奮した。

 

 

それ以降、自分の記憶に残るようなフランス映画には出会っていない。もともと洋画は観ない方だから知らないだけで、面白い作品はたくさんあるのだろうけれど、この二つの作品以降、自分に入ってこなかったのは、この二つの作品が、自分の男心に火をつけて、消えずにいたからだと思う。お酒に弱く、すぐつぶれる自分は、ワインではなく、二つの映画からフランスの血を取り入れ、肉に変える。

 

11+1

竣工後まる2年を迎えたコーポラティブハウスの管理組合総会に出席してきた。こうして組合員皆さんにお会いする機会は決して多くなく、刺激を受ける。

 

世帯数は比較的多いものの、プロジェクト進行中からその入居者同士の仲が良く、その密度がより濃くなっている印象を受けた。会話の端々に、普段から密にコミュニケーションをとっていることが分かる。これがコーポラならでは良いところだと思う。

 

もちろん楽しいことばかりではなく、みんなで議論する話題が出たりと、課題はなくならない。その課題ひとつひとつに対して、逃げずに、適当にやりすごさずに、向き合っていくことが、地味ながらも大事であり、いまの自分の役割なのだと実感した。

 

運営サポートをしている管理組合がいま11棟。そして先週から1棟加わった。12棟のコーポラティブハウスを、他人に「こんな立派な管理組合があるんだぜ」と自慢できるように、入居者がそこに住んでいることを誇りに思ってくれるようにしたい。

コーヒーと京都と友の話

本と、音楽と、木と、コーヒー。これらがすべてそろった喫茶店があったら、素敵だと思っている。大きな樹がある喫茶店で、きれいな音楽を聴きながら、好きな作家さんの本を読みながら、コーヒーを飲む。そんなの、楽しいに決まっている。自分の理想のカフェに必要な四大要素だ。これに人が加われば、完璧。機械が淹れてくれるコーヒーなんて飲みたくない。自分が喫茶店に行く理由の大半は、そこで人に会いたいから、であるからだ。

 

 

コーヒーといえば喫茶店。喫茶店と言えば京都。ということで、ふと、大学時代の友と、彼が取材で携わった一冊の本のことを思い出した。彼と、もし私が彼と出会わなかったら手に取っていなかったであろう本の話。

 

おじさんの京都

おじさんの京都

 

 

彼は大学時代、私と同じように、建築設計そのものにあまり関心を持たず、どちらかというとまちづくり、都市計画の分野に傾倒していた。既存ストックを活用したまちの再生を卒論のテーマに、まわりの学生にない視点で研究をしていた。がたいもよく、社交的そうで、第一印象こそ「自分は彼とは友達になれないだろうな」と思うような、つまりはあっち側の人間だと思っていた。しかし、同じ研究室に所属したことがきっかけで話をすると、想像以上にソフトで、決してチャラチャラしていなくて、すぐに仲良くなった。一緒に谷根千に散歩に行ったことを、思い出す。

 

彼が取材スタッフの一人として関わった「おじさんの京都」という本がある。京都にある喫茶店、本屋、飲食店などを、それぞれ独特の視点で紹介している。東京にいながらして、京都の独特のにおいを感じることができる、不思議な本だ。

 

この本がきっかけで、自分にとっての居場所のようなカフェがある暮らしがしたいと思うようになった。 だって、テーブルに眼鏡が置いてあって、これ何?と聞いたら、「あ、それ常連さんの。いつもそこに座るから」なんて、素敵じゃないですか。注文してからコーヒーが出てくるのに1時間は当たり前、筆者が知る限り最長記録は友人がフルーツジュースを頼んだ時の3時間半だった、なんて、素敵じゃないですか。そういう文化、もっと味わいたいなぁ。

 

そんな文化を私以上に嬉々として味わい、自らの人生のゆとりへと変換させてしまうであろうおおらかさを持っているのが、彼の良いところ。そんな彼は大学卒業後、突然「これから農業従事者になります」なんて言って北海道へ行った。それ以来、連絡しても返事は来ず、研究室の教授の死別にも立ち会わず、要するに何してるのかよく分からない状態がいまも続いている。きっと、北海道の広大な大地の上で、注文したコーヒーが出てくるのに3時間かかろうとも屁でもない京都のような時間感覚の世界で、自分なりのゆとりある人生を謳歌しているに違いない。