消費者的なふるまいを度外視した買い物

高い満足度を得られる買い物とはどういうものか。この問いに、いまならこう答える。「消費者的なふるまいを度外視した買い物」と。

 

自分にぴったりのものが見つからないから、オーダーメイドでつくってもらう。それは家具でもいいし、雑貨でもいいし、大きいものでは、家でもいい。ニーズを満たす一定の価値があって、それと価格とを比較して「このお金を払う価値がある」と思ったら買う「既製品」にはない楽しさが、そこにはある。この点で、私は既製品よりオーダーメイドのものを買う時に高い満足感を覚える。ただ、それだけでは高い満足感を得られる買い物の条件を満たしているとは言えない。

 

買い物をするとき、自分が「賢い消費者」であろうとすると、最低の対価で商品を得ようとするようになる。モノを買う時の対価はお金だ。対価を最低にしようとする姿勢とは、端的に言うと、値切ろうとする姿勢である。値切って、より安く買った方が賢いということであり、「あぁ、良い買い物をした」ということになる。

 

でもこの「賢い消費者」であろうと努めることに、何か息苦しさのようなものを感じる。本当は、「これはいい!これは自分の暮らしに必要だ!」と思ったときに、定価以上のお金を払いたいと思うようなことがあってもいいじゃないか。「よくそれにそんなお金払えるね」というように、他人には共感してもらえないかもしれないけれど、自分が納得したら、自分で決めた対価を、気持ちよく払いたい。そう思える商品に出会って、それを手に入れることが、最も満足度の高い買い物をすることなのではないかと思う。

 

いま、学校の先生はその権威を剥ぎ取られてしまった。学校はただ教育商品を提供するお店になり果ててしまった。だからその消費者である児童生徒は、消費者として賢いふるまいをする(対価を最小化させる=学習努力を怠る。つまりは授業中に騒ぐ、先生の話を聞かない、校則を破る、というように)。卒業証書をもらうために行った努力が少ない子供ほど賢い消費者だ、ということになる。このように内田樹は述べている。本来先生と教え子との関係は「サービスを提供する売り手とそのサービスを受け取る買い手」とは違うという意見に、自分も賛成する。だけどこうして子供が「消費者化」することが「学びからの逃走」ひいては「下流社会」「下流志向」の要因なのだとすると、自分が一社会においても、「消費者的合理性を度外視して行う消費行動」はもしかしたら有用であり、それでも良いと自分が判断した時点で最も快適な消費ができたと言えるのではないか。

 

そんなことを漠然と考えていたら、そうした考えを実践しているお店を知った。国分寺にある「クルミドコーヒー」だ。ポイントカードをやらない理由として店主である著者は「お店に来てくださる方の『消費者的な人格』を刺激したくないと考えたから」と言っている。「『できるだけ少ないコストで、できるだけ多くのものを手に入れようとする』人格。つまりは『おトクな買い物』を求める人間の性向」これが賢い消費者であろうとふるまう人格であり、それとは違う次元でのサービスの受け渡しこそ、長期的にも心地よい買い物なのだろうと思う。

 

街場の共同体論

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