どっちだっていい

ぶつかり合う二つの意見があったとして、自分はどちらの意見を支持するのか。どちらが正しくて、どちらが間違えていると思うのか。そう尋ねられることがある。自分から自分に問うこともある。そういうときの今の自分なりの暫定的な答えは、「どちらでもよい」。まるで無責任に突き放しているように聞こえるかもしれない。無関心でぶっきらぼうな態度のように見えるかもしれない。でも、あまりカッカせず冷静に、じっくり考えると、そんな答えになる。ちょっと言い方を変えるならば、「どちらもありえる」「どちらも分かる」といったところだろうか。

 

自分だったらそうしない。そう思うことは確かにある。自分だったら嫌だから、共感しない。そう思うことは誰にでもあると思う。しかしだからと言って、「相手が間違っている」と断言はできない。相手が言っていることに共感はできなくても、少なくとも相手は正しいと思って言っていて、そのように相手が言っているということは疑いようのない事実だからだ。「俺は君のことは嫌いだけれど、君という存在は認める」いとうせいこうさんが昔「オトナの!」という番組で誰かの言葉を引用して言っていたのを聞いて、その通りだと感じたのだけれど、この言葉が言わんとしていることに近いのかもしれない。

 

「ぼくはどちらかというと中立でしたね。どちらの意見も分かるし、どちらの意見もたぶん自分は持っていたんだと思います」これまた昔、中村正人が司会を務める音楽番組にLUNA SEAが出演したときの話。活動休止というバンドの決断について賛成だったか反対だったか、と聞かれてときのINORANの答えが、そのときの言葉が示す範囲を超えて自分の身体にしみ込んだような気がした。どちらかに賛成、どちらかに反対、と二者択一でぴしっと選ぶのではなく、どちらでもない(もしくはどちらでもある)という中立的な考えをためらわずに表明する。それを「どっちつかずで、優柔不断な態度」と決めつけない。そういう姿勢を、自分も持っていたいと思う。

 

どのような意見であっても、否定・批判するのではなく一度は受け止める。そして「なぜ相手はこのようなことを言うのだろう」と考える。その人にその意見を言わしめているのは確かだからだ。その人も「それが正しい」「そう思った」から言っている。ならなぜそう思うのだろうか、もしかしたら自分にもあてはまる何かがあるのかもしれない、と考えてみる。内田樹「複雑化の教育論」を読み返して、そうやって考えることができる人間こそが、「自分の中にさまざまな異物を取り込んでいて、そのどれもが排除されることなく、折り合っている状態=同期が達成している」人間なのだろうと思った。自分の中で対立する意見を、一方を却下したりせず同時並行させる。それができる人間だけが、相手の意見を真っ先に否定したりすることなく、そこから学びを得ることができる。例えば、誰かが攻撃的な言葉を言った時に、本来何の関係もない第三者が「それは論点がズレてる」「〇〇に対して失礼だ」「そういうことじゃないんだよなー」とSNSで反論するのを見かけることがあるが、自分の体内で「そう言うこともありえなくはない」という態度の自分を同居させることができる人は、一時の感情に任せて反論するようなことはきっとしないだろう。

 

自分の中に、両立しがたいものを受け入れて、それと何とかして折り合いをつけようとじたばたしているのが「自分の中で対話している人」です。そういう人は、外からのどんな呼びかけ、どんな提案に対しても、言下に拒絶するということがない。だって、自分の中でさえさまざまな異論がすでに争論しているわけですから。だから、どんなことを言われても、「そんなことはあり得ない」というふうに退けない。「そういうことって、あるかも知れない」というリアクションになる。別に努力して、開放的になろうとか、他者に宥和的になろうとかしなくても、自然にそうなる。自分の中に他者を抱え込んでいる人は、自分の外側にいる他者に対しても対話的に開かれている。

 

 

そのような態度で接することができる頭のいい人として、内田樹は感染症の専門家である岩田健太郎を挙げている。患者の泣訴に冷静に対処する。得てして間違えることもある訴えを前にしても、「そんなわけないだろう」と突き放さずに、「患者がそう言っているからにはそう思う何かがある」と考える。どんなヘンテコな意見でも一旦は聞き入れる。「コロナと生きる」(朝日新書)のあとがきを読んで、あ、感染症に限らず、現実の問題に対峙する医師のこの姿勢を、もっと見習うべきだと思った。

 

 ふつうは岩田先生くらいにシャープだと、ことの正否についてすぐに断言しそうな気がしますけれど、そうじゃないんです。少なくとも僕が相手の場合には、僕がどんな変てこなことを言い出しても、岩田先生は最後まで黙って聴いてくれます。いったんは「なるほど」と受け入れる。そして、それを吟味してから、追加の質問をする。その場では簡単にことの黒白の決着をつけない。

 でも、これは臨床医としての基本的なマナーなんだと思います。 

岩田先生は今回のような問題についても、終始臨床医的なマナーで対応していたのだと思います。コロナについては、実にいろいろな「非現実的な言明」がなされました。でも、岩田先生はそれを「間違い」と一刀両断にすることを自制して、そのような「非現実的な言明」が生成してくる「現実的な文脈」を探り当てようとする。こういうのをその語の正しい意味で「科学的」な態度だと呼ぶのだと僕は思います。

 

 

「どっちだっていい」。決断から逃げるための便利でずるい言葉だな、と思うことも確かにあるけれど、最近はこの言葉を、目の前の出来事を宥和的に捉えるために活用している。意図に反する結果が返ってきたとして、自分にふりかかる不利益なんてたかが知れている。例えはちょっとずれるけれど、そば屋で「そば」と「うどん」から選べるようになっていて、今日はうどんが食べたいかな、と思って「うどん」の食券を買って注文したはずなのに、出てきたのがそばだったとき、昔だったら自分の権利を堂々と主張して「すみません、うどんを注文したんですけど」なんて言っていただろうけれど、今は「まあそばも美味しいし、いいや」と思うようになった(時と場合があるかもしれません)。そう、どっちだっていい。