夏休みに突入。例年以上にこれといった外出予定のない、ゆとりのある休暇だ。無駄にすることなく、しかし、何かを得るための有意義な時間にしなければと気負うこともせず、英気を養いたい。
昨日は日帰りで帰省していた。夕食前、近所の公園に散歩。子どものころ、毎日遊びまわっていた公園に久しぶりに足を踏み入れて、懐かしさより先にショックに近い感情がやってきた。雑草が無造作にのび、およそ子どもたちが遊んでいる痕跡がなかったからだ。大半の遊具は数年前に取り外されて今はもうない。残っていた鉄棒とブランコが、わずかに記憶の中の画像と合致した。
ふと、内田樹の著書に度々登場する「歩哨」という言葉が頭に浮かんだ。最近の私の脳裏を離れないキーワードだ。地方の無人の家屋において、無人の状態が続くと柱は折れ、屋根が崩れ、樹木が床を突き抜ける。つまり自然が人間の領域に侵入し始める。このことは自然の力のすさまじさを示す一方で、自然をせき止める人間の力の強さも同時にあらわしている。(※)
例えば過疎化が進む地方で、住む人が本当にいなくなったらどうなるか。無人の街がそこにあり続けると考えるのは早計だろう。木々が道を覆い、野生の動物がやってきて、街は文字通り食いつくされてしまうに違いない。そして、地方移住への関心が高まっていることの本質は、「住み手が少なくなった場所へ率先して移住し、自然による侵略から人間の領域を守ろうとする」若者の使命感なのではないか、というのが内田樹の指摘である。
ここで内田樹は、人間の領域を守ろうとする人のことを「歩哨」と呼んでいる。ここから先は人間の世界なのでどうか立ち入らないで、と自然の侵入を食い止める門番の役割だ。無人の家屋を例にとれば、「そこで寝泊まりする」だけで、自然による家屋の急激な老朽化を防ぐことができる。タケノコは人の生命力を感知し、バリアを察知し、床を突き破るということができなくなる。そういう事なのだろうと思う。
では公園ではどうか。子どもが遊ばなくなった無人の公園では、靴で地面を踏みしめて走りまわる存在がないことを良いことに、自由に雑草がのびる。そのときに、定期的に草むしりをするなど管理する大人が必要なのではないか、その管理者の不在こそが問題ではないか、と一瞬思い浮かんだ私は、ちょっと安易であったとすぐに反省した。問題はそこではなく、子どもが周囲にいないということの方だろう。公園を使う人間がいなかったら、草むしりをしたところですぐに雑草はのび、同じことの繰り返しになるからだ。
少子化、といういささか聞き飽きたキーワードが目の前に現実として現れたような気がした。ただそれは、必ずしも憂うべきことではないと思っている。何十年(自分が生きている時間に限らなければ何百年)という時間の中で、そこで暮らす人間の数に波があるのは当然のことだ。むしろずっと同じ数の子どもが暮らし続ける街の方が不自然である。考えるべきは、そうした人間の増減を前提にして、どのように公園などの資源を管理するのが良いかということだ。それは難しい問題だと思う。少なくとも、つい私がそうしようとしたように、誰か一人が「私が草むしりをします」と手を挙げて、歩哨の役割を買って出るだけでは解決しない。
(※)
無住の家が傷む話はp192
「歩哨」についてはp135