空き家がすぐに傷むという話

内田樹の「日本習合論」(ミシマ社)に大好きな話がある。住まなくなると家は途端に傷みだす、という話だ。少し長いけれど、重要だと思うので引用する。

 

家というのは、人が住まなくなるとすぐに荒れてしまう。これは経験的に確かです。他人が住んでいるほうが家の傷みは早いということはないのです。逆なんです。他人が住まなくなると、家は急に傷みだす。壁が崩れ、屋根瓦が落ち、柱が歪む。不思議です。たぶん家というのも、そこに住んでいる人間から何らかの「生命力」のようなものを受け取って、それで生きているのではないかと思います。

 

そこに人が住んでいるというだけで、自然の力を押し戻す何らかの力が働いているということがあるんじゃないでしょうか。里山というのは文明と自然の緩衝帯だという話を前にしました。たしかに里山の住人たちは、山に入ったときには、蔓を切り払ったり、下草を刈ったり、水路や道路を整備したり・・・という「不払い労働」をしています。けれども、その程度の軽作業で自然の圧倒的な繁殖力を抑制できるということ自体、僕のような都市住民からすると、にわかには信じられないのです。

 

大学で建築を学び、建物をつくる仕事から社会人生活をスタートさせ、住む人にとって本当の意味で快適な住まいを丁寧に供給したいと願いながら建築設計事務所での仕事を続けてきた私にとって、住まなくなると途端に家が傷む、というのは興味深い。それに、実感に近い何かがあって、共感する。竹が床や壁を突き破る、といったほどのことではないけれど、入居者が退去してしばらく経った無人の住戸に立ち入った時の、ひんやりとした空気と、ベランダに生い茂る雑草の多さに、驚いたことが確か、あった。

 

人間には、自然の大いなる力、例えば強大な繁殖力を、ある一定程度のところで食い止めることができる。だから人間の力をもう少し信じても良いのだろうと思う。

 

私が家を新しく買うこと、建てることにあまり興味がなく、それよりも生家を守ることに関心があるのは、端的にこれが理由なのではないかと、最近は感じている。私は社会人になると同時に生家を出たけれど、いずれ住む者がなくなった家が荒廃していくことに関して「自分は出ていった身だし、そんなことどうだっていい」なんて思ったことはただの一度もない。自分の人生の中で関わった建物が生命力を失っていく様を見るのは、かなりつらい。なので、その時に自分が住むかどうかは正直分からないけれど、何らかの形で家としての役割は持たせ続けたいと思っている。いっそのこと解体してしまえば荒廃することはない、という話でもない。