誰かを幸せにするために

大人になりたい。大人の男になりたい。そう思いながらも、じゃぁ何をもってオトナって言うの?という問いにはこたえられない。なんとなく、オトナっぽい人になりたい。

 

いまの自分は、そのイメージする大人像とはほど遠い。今日だって、クライアントからのメールにびびって背筋が凍るようにおびえたり、プロジェクトの説明会での自分の説明が分かりづらくなかっただろうか、こちらから一方的にまくしたてるようにしゃべって相手を置き去りにしていなかっただろうか、と悔やんだり。世の大人はそんなことで動じたりしないだろうに。

 

そうか、そうだよな、こういう堂々とした大人を目指していたんだった、ということに改めて気づいたのは、いつもの書店でふとこの本が目に留まったから。「大人の流儀」シリーズの最新刊。こういう大人になりたくて、行きつけのお店をつくろうとしてみたり、親に敬語で話しかけたり。形ばっかり気にして、なにしてんだか。

 

過ぎてしまえば笑う時間も訪れる。それが人間の生き死にである。

 

それでも生き続ければ、それだけで誰かを救っているのかもしれない。

 

著者は自らのことをノンキだ、極楽とんぼだと言うけれど、むしろそう言い切ってしまう堂々としたふるまいに、自分にとっての大人を見つけ、あこがれる。

 

誰かを幸せにするために 大人の流儀8

誰かを幸せにするために 大人の流儀8

 

  

ストーリーに裏付けされた暮らし

小さい家に住み替える計画が進行中。待っているのは、30㎡台の賃貸マンション。そこで自分の好きなように、自由に設計をして暮らす。来春の引っ越しがいまから待ち遠しくてたまらない。

 

そんなだから、他人の「小さな家の暮らし」に興味があって、暮らしに関する雑誌をいろいろ見ている。いま繰り返し読んでいるのはアンドプレミアム。今月号の特集は「小さくて、心地のいい部屋」。小さいながらも快適に暮らす工夫がちりばめられていて面白い。ワンルームの中心にどかんと置かれたアアルトのダイニングテーブルがかっこいい。

 

翻って、では自分はどんな家にしようかと考える。家具のテイストは?どこに何を置く?それとも置かない方がいい?とあれこれ考えていたら、時間がいくらあっても足りない。仮に1年じっくり考えていいよと言われたとして、1年後に満足できるかというと、たぶんできない。悩みはきっと永遠に続く。

 

ただひとつ言えるであろうことは、こうした雑誌の写真として映えるような内装や家具が、自分が住んだ時の快適さに直結するかというと、そうではないんだろうなぁということ。自分が「これいいなぁ」と思っても、他の人はそうは思わないんじゃないかという気がする。それよりも、自分がいままで体験したストーリーに結びついたモノに囲まれた暮らし、つまり「自分にとってのストーリーに裏付けされた」暮らしができたら最高だと思う。そしてその豊かさは、雑誌の写真などでは伝えられないんじゃないかと思う。

 

例えば、大好きな家具屋さんが新作の家具をつくったから、そしてそのデザインが最高にかっこいいから、その家具を揃えよう、とか。職場の仲間に勧められて挑戦した「自転車」という趣味を自分にとって身近なものにするために、部屋に自転車を置くとか。手作り市で出会ったことがきっかけで、それまでの自分では考えられなかったことなのに、部屋にリースを飾るとか。モノとそれにまつわる出来事がセットで記憶に染み込むから日々余計に楽しめる、ということはあると思う。

 

いまは、小さな部屋にスツールをいくつか取り込むことを画策中。なくても問題ないけれど、あったらいいなぁと思うもの。さてどうやって置こう、と考えているとまた時間だけが過ぎていく。

 

&Premium(アンド プレミアム) 2019年 03 月号 [住まいを、整える。]

&Premium(アンド プレミアム) 2019年 03 月号 [住まいを、整える。]

 

 

 

I don't know


THE YELLOW MONKEY - I don't know

 

THE YELLOW MONKEYがミュージックステーションのスーパーライブで「太陽が燃えている」を歌ったんだって。23年ぶりだって。しかもトップバッターだって。その出し惜しみしない感じがすごくかっこいい。最新の曲を歌うのもかっこいいけれど、過去の名曲を歌うのもほんとかっこいい。参った。

 

最新曲「I don't know」は、本当は19年ぶりのニューアルバムを我慢して待って、それで聴こうと最初は思っていたけれど、先だってデジタル配信され、こうしてyoutubeでもMVが配信され、どうしても聴かずに4月まで我慢することができず、あきらめた。ずるいよ。でも、聴いて正解だった。

 

イントロのギターフレーズがとにかく心地よくて、久しぶりにクラシックギター引っぱり出して耳コピしてたら、ギターを楽しんでいた大学時代にタイムスリップしたような感覚を味わった。メロディを再現できた瞬間の快感。できることなら仕事のことなど考えずただクラギを弾き続けたあの頃に戻りたい。戻ってまた社会人を始めるのは嫌だけれど。

 

見違える強さを手に入れたらあとはI don't know

(I don't know / THE YELLOW MONKEY)

 

見違えるほど立派になった、強くなった、とか言われるようになりたい。そうなれれば、あとのことは知らない。どうだっていい。

 

全身で感じること

「全身でものごとを感じ取ること。感受性を大事にしたらいいと思うよ」自分の足りないところをこうして指摘されたことが、悔しいのだけれど、半分は嬉しくもあり、複雑な気持ちだった。自分が嫌われていて、どうでもいいと思われているのだとしたら、面と向かって言ってもらうこともないだろうから、それだけでもありがたいと思う。ただそこで落ち込んでしまうのが、なかなか治らない自分の悪いところである。

 

関心を持つこと。気を遣うこと。興味をもつこと。当事者意識をもつこと。配慮すること・・・。言い方はいろいろあるけれど、それが意味するところはたぶん一緒。自分には関係ない、そう思っている以上は、関係ないまま終わる。自分事だと気づいた瞬間から、自分なりの考え方が生まれる。

 

これまでの自分の行いで認めてもらえたことについては素直に喜び、感謝しつつ、指摘されたことを少しづつ改善させていく。

 

いまのものを使う

自分がなんとなく心のなかで感じていて、だけどうまく言葉に現わせていなかったものを、誰かが的確に言葉にしているのを見て、「そうそう、それそれ」と納得するということがよくある。

 

家具屋さんに壁面本棚をつくってもらったことがきっかけで、手づくりの無垢家具が好きになった。いわゆるブランドものではなく、それをつくっている人に惹かれて家具を手にしたという順序。だから、いわゆるメーカーの量産品にあまり興味をもたなくなった。

 

そしてそれは、古くからその価値を発信し続けて、いまもヴィンテージ品として流通しているデザイナーの家具にもあてはまる。普遍性があってカッコいいし、飽きずにずっと使えそうで好きなのだけれど、では自分がそれを買って使いたいかというと、どうしてもちょっと違う気がしてしまう。いまを生きる自分はいまの時代に生まれた家具を使いたい、と思う。いま家具をつくる家具屋さんは、過去の名作の良いところを吸収しながら、でも決してその真似ではなくて、いまの時代にあったプラスアルファをもたらしてくれるはずだ、と思う。そして、いまつくられている家具を手にすることで、いまの価値をつくっている作家さんを応援したいという気持ちもある。

 

そんな漠然とした想いを、どんぴしゃで言葉にしている本があったことに、気づいた。

 

「今の時代を生きているなら、今の時代のいちばん新しいもの、いちばん今の時代らしいものを使うほうがいい。それが今を生きるというライフスタイルだというのです」(P90)

 

アールトのスツール60も大好き。ヤコブセンのドットスツールも大好き。ポールケアホルムのPK22も大好き。ハンス・ウェグナーのGE290も大好き。ピエール・ガーリッシュのチューリップチェアも大好き。だけどそれらよりも、壁面本棚をつくってくれた家具屋さんのオリジナルチェア、スツールが大好きで、それを愛用したい。最近は本気でそう思っている。

 

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド (PHP文庫)

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド (PHP文庫)

 

 

ふゆの陶器市

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夕方前、時間ができたので雑司ヶ谷の手創り市へ。今日は大鳥神社で「ふゆの陶器市」。いろいろな器作家さんの作品を見た。

 

昨年出会った作家さんにも久しぶりに再会。それでも話しかけることができなかったのが、我ながら恥ずかしい。

 

美しい色のもの、ザラザラゴツゴツしたもの、シンプルなもの、、、。それぞれに特徴があって、味があって、本当に面白い。どれもこれも手に取ることはできないけれど、これに食べ物を載せたら美味しいだろうな、とか考えるだけでも、面白い。

 

鬼子母神会場でも、以前チラ見した革職人さんの作品に再会した。その大人の雰囲気の革の風合いに惹かれ、文庫本カバーを買った。これで、これまで以上に外で本を読む時間が豊かになったらいいなぁ、なんて期待をする。

 

剣よりペンが欲しいよ 神より紙に証したい

THE YELLOW MONKEYの19年ぶりのニューアルバムの知らせを聞いて、ドキドキしている。特設サイトで曲順リストをみてまた興奮。1曲おきに既出曲が出てくるその斬新さが、約半分が既出曲であるという若干の不安を退ける。2曲目に「天道虫」、ラスト前に「ALRIGHT」だなんて、また泣ける。

 

tym9999.com

 

予約もしたし、あとは待つのみ。過去のアルバムを復習しよう。今日、久しぶりにCDで再生して聴いた「SICKS」。「RAINBOWMAN」の爆発的なスタートがものすごく刺激的。「紫の空」の色っぽい歌ときれいなアルペジオは圧巻。「見てないようで見てる」は何度聴いても腰を振りたくなる麻薬のような曲。そして「人生の終わり」。終わってしばらくの無音ののち、聞こえてくるのは不思議な感じの歌。隠し曲みたいなものが流れて、余韻たっぷりのまま終わるというのが、にくい。

 

では、ニューアルバムはどういう曲なんだろう。おそらく20年前のアルバムのような雰囲気の曲ではないのだろう。まるで新しい世界にひきこまれそうな予感がある。

 

 

剣よりペンが欲しいよ 神より紙に証したい

(RAINBOW MAN/THE YELLOW MONKEY)

 

19年ぶりの新しい命を待つこのドキドキ感は、こうしてきちんと記して、残したい。だから、剣よりペンの方が必要。神より紙の方が必要。

 

Q:クインテット -quintet-

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昔、NHKの教育番組をなんとなく観ていたおぼろげな記憶がある。「クインテット」その単語の意味はもちろん知らない。のちになって、五人組、五重奏という意味だったことを知り、センスのあるネーミングだとようやく気づいた。大学時代に三重奏のカッコよさに惹かれ、クラシックギターのアンサンブルサークルに入ろうと思うに至ったのは、もしかしたら小さいころにこの番組で音楽の素養を蓄えたからではないかと、半分こじつけだけれど、思っている。

 

そのピアノを連打するようなリズムが心地よくて、ずっと覚えていた曲がある。タイトルは何だ?しばらく悶々とする日が続き、ある時、何かの拍子に解決した。「チョップスティックス」曲名もなんとなく可愛らしい。同じ音階を複数刻む軽快なノリは、ラ・カンパネラを思わせる。

 

一方では地味ともいえるかもしれないけれど。こんな素敵な番組を昔からつくっていたのか、NHKは。

 

プロジェクトを成立させるということ

ずっと気になっていた新木場の複合施設「CASICA」に行ってきた。古くからある材木屋の倉庫のような建物をそのまま活用した商業施設の中には、物販やギャラリー、カフェが並んでいる。無機質な鉄骨柱がそのままむき出しになったラフな仕上げに冷たさを感じないのは、木の古家具や工芸品、セレクト雑貨がもつあたたかさのおかげだろうと思う。

 

そのプロジェクトが完成し、実際に価値を発信するに至るまでの背景に、興味がある。CASICAで言えば、新木場という場所で、どうしてこの建築が成り立つのか、というところ。少なくとも自分にとって新木場は、京葉線から東京メトロやりんかい線に乗り換えるための場所であっても、降りる場所ではなかった。名前が示す通り木材の集積場であることから「木」がテーマであることはよく分かるけれど、それでもあまり人が集まる場所とはいえないこの場所で、建物の古さを残しながら古くからある家具等を売っている。今日来ていたお客さんも、きっとほとんどが「ここに来るためにわざわざ新木場に来た」のだと思う。SNSの情報発信範囲に距離は関係ないとはいえ、こうしてたくさんの人が集まって成り立っているのだから、ほんとうにすごいと思う。そしてまた自分も、「また来たい」と思えるような素敵なモノにたくさん出会えた。雑然と掛けられた見るからに古そうなスツールの集積が、まるで宝の山のように見えた。ここに漂う空気は何十年前の空気だ?

 

人が集まるような価値を生み出し、きちんと成立させる。どこにその要因があるのか。それを感じ取って、自分の仕事にも生かしたい。

 

casica.tokyo

 

ゲルニカ

ふと立ち寄ったいつもの本屋で手に取った本がきっかけで、また別の新しい本に目が留まることになった。

 

事務所内でフィンランドやスイスの建築の話題があり、聞いているなかで、バーゼル美術館やバイエラー財団美術館でのアート作品の話になった。絵画など芸術作品にはまだまだ疎く、知らないと恥ずかしいこともあるなぁと思いながらなかなか勉強できていない。だから名画と言われるものを多少なりとも知っていることがまず重要で、だからそれに関する本を探そうと思った。

 

いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画 (集英社新書)

いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画 (集英社新書)

 

 

26枚の名画について書かれた本書。少しづつ読んで、その絵の背景や込められた想いを味わいたい。

 

真っ先に見たのがピカソの「ゲルニカ」。小学生のときだったか、中学生の時だったか、授業でその絵を観て衝撃を受けたのを憶えている。ただこの絵の何が自分の心を締めつけるのか、その理由は分からなかった。そしてこの本で、イラクが大量破壊兵器をつくっていることを示すための国連安保理の記者会見で、パウエル国務長官の背後にあるはずの「ゲルニカ」に暗幕が掛けられ、姿を消したという事件のことを知る。スペインの内戦で空爆を受け、泣き叫ぶ人や馬。ピカソが反戦のメッセージを込めた「ゲルニカ」を隠し、戦争を正当化しようとする。そこまでするアメリカに恐れを感じた。

 

その後、別の本屋で小説コーナーの棚を眺めていたら、インパクトのあるタイトルが目に飛び込んできた。「暗幕のゲルニカ」あっ、これはさっきの本の作者だ。そう気づいてから、まさにその「ゲルニカ」に暗幕が掛けられた事件にまつわるストーリーだと知る。「いちまいの絵」を先に手に取っていなかったら、目に留まらなかったかもしれない。

 

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

 

 

ずいぶん昔に見ていながら、その絵のことを少しも知らなかった自分。これまで無頓着だったのは、きっと心の中に「絵を観て『カッコいい』とか『きれい』とか感動することはあるかもしれないけれど、それ以上のモノはない」といった諦めを感じていたからだと思う。しかしこの2冊がきっかけで、(反戦の象徴を覆い隠して戦争を正当化する、人間のあざとさと一緒に)アートに人を動かす力があることを知った。そういう力を備えているのだと信じていいのだと思った。だから、もっとアートを知って、アートに動かされる人間であろうと思った。

 

知的生産のためのメモ

以前は意識して実践していたのにも関わらず、いまはそれほど意識しなくなってしまったものに、「メモ」がある。いわゆる「メモ魔」にあこがれ、本来はそうであるべきだ、自分の頭で記憶できる容量なんてたかがしれているのだから、と思っていた。メモ術に関する本もよく読んだ。その中のいくつかは実際にいまも頭の中にあって活用しているから、無駄ではないことだけは確かだ。だけどいまは、メモをとることに集中まではしていない。無意識に、それなりにとるようになった、と言えば聞こえはいいけれど、飽きたと言った方が実態に即している気がする。

 

ノートは、普通のもので良い。ずっとキャンパスノートを使っていたけれど、いまはツバメノートが好きで、使っている。罫線はなし。行とかを気にせずラフに自由に書ける感覚が好きである。

 

1枚のページに、違う内容のものはあまり書かない。余白が余っていても、次のページに書く。

 

おおよそのルールは、これくらい。あとは「これは書いておくべきか」とかあまり深く考えず、書くようにしている。このメモの書き方がずっと定着しているから、きっとこれが自分に適しているんだろうと思う。

 

しかし、単なる情報(事実)の備忘録としてだけでなく、クリエイティブなアイデアを出すための、あるいは自分の考えを整理するための、より積極的な意味でのメモを書くまでには、まだ至っていない。そのことに最近気づかされた。飽きている場合ではない。

 

「知的生産のためのメモ」という言葉が書いてあって、そうだ、本来メモはそれを意識して書くべきだ、いまの自分に足りないことはまさにそれじゃないか、と思った。誰もが自分の表現を見せる「演者」になれて、誰もがそれを応援する「観客」になれるSHOW ROOMは、画期的なエンターテイメントのツールだと思う。その設計の源は、おびただしい量のメモであることが分かる。

 

メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)

メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)

 

 

健全に働くために

正月休み、母がたの実家に挨拶に行ったときのこと。

 

実家は昔から農家をやっていて、そこでできる野菜は格別にうまい(自分がトマトが大好きなのは、おそらく小さいころからおいしいトマトを味わってきていたからだと思う)。そんな農家は、当然のことながら年末年始だからといって野菜が成長を待ってくれるわけもなく、暦に関係なく作業は続く。むんと熱気を帯びたビニルハウスの中で、冬もトマトを育て続ける。

 

仕事が続くとすぐ休みを欲しがり、やれ働き方改革だ、仕事とプライベートの区分けを自分で考えなければ、なんて心の中でぶつぶつつぶやいてしまう自分だけれど、一方で、定年を過ぎた年の男(母の兄)が休みなんて関係ないといわんばかりのノリで野菜を育てている。思わず口をついて出た「すごいね、休みなしで働いて。俺なんてすぐ休みたくなっちゃうのに」という私の言葉に、彼はさらっと言う。「人に使われてたら、こんな働かないから。この仕事は、自分で仕事をつくらなきゃいけない。今日何もしないこともできるけど、そうしたら明日2倍のことをしなきゃいけなくなるから」

 

その言葉を聞いて、いままで自分にとって当たり前すぎて、真剣に、かつ深く考えていなかったことが、改めて大切なんだと気づいた。自分が仕事をさせられているという感覚で動いている限りは自分主体の仕事はできず、誰から指示されるでもなく自分の意志、判断で行動するのが正しい姿だ、と。で、その正しい仕事さえしていれば、(休むことを否定するわけではないけれど)仮に人より休日が少なくても、暦上の休みが休みでなくても、健全でいられるんじゃないか、と。

 

もう休日の日数の多い少ないで休まなきゃ、とか、働きすぎだ、とか言うのはやめて(そもそも休まなきゃ、と無理にブレーキをかけるほど休日返上で働いてない)、心身が疲弊しない働き方を意識しようよ自分、と思った。

 

メディアへの向き合い方を考える

自宅にテレビを持っていないので、普段テレビを観ていない。ニュースなど主な情報の入手先は、ネットがほとんど。新聞の購読は一時期していたけど、しなくなった。その反動か、正月休みで実家にいると、ずっとテレビを観ていたくなる。新聞も読みたくなる。考えてみたら、昔からテレビっ子だったんだ。いまだって、観なくてもなんとかなる、受け身でダラダラ観る時間を他のことに費やした方が良い、と思っているけれど、本当は観たいと思っているんだ。

 

テレビという超巨大なメディア。コマーシャルという広告を観る代わりに無料で面白い番組を観ることができるという仕組みは、小さいころから当たり前のように味わってきたけれど、よくよく考えると画期的だと思う。その「メディア」を、小さいころから何気なく観ているのと同じようにではなく、真剣に、あるときは本当にそうかと疑いながら、観ることが大事だと思った。報道されていることは全てウソだと思え、というわけではない。ただ、報道されていないウラがあるのではないか、そのウラはメディア側の事情で操作され、意図的かつ選択的に伝えられていないのではないか、と気づくことが大事なのだと思った。

 

 

自分が無知であること、無能であることをさらすことで利益を得ようとする「クレーマー」の存在について。弱者と強者との利害対立において「とりあえず」弱者を推定正義とするメディアが果たすべき役割について。など、メディアへの向き合い方を考えさせられる講義録。ただ受け身で情報を飲み込むだけの思考停止に陥らないために。正月休み、自宅から持ってきた文庫本を読んでいる。

 

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

 

 

無知を恥ずかしいと思うこと

夜、高校大学時代からの友人と松山で食事。毎年節目ごとに会って刺激を受け合う、貴重な友人だ。勉強熱心で仕事熱心な彼は、一級建築士、一級建築施工管理技士、一級土木施工管理技士、宅建と、複数の資格を勉強して取得し、使いこなす。そんな彼のパワーを毎年分けてもらって、自分も仕事を頑張らなければ、と思う。

 

と、いつも思うのだけれど、振り返って「自分はしっかり勉強したなぁ」と満足できるような行動を起こしているかというと全くできていないことに気づく。なぜできないんだろう。理由は一つしかない。無知である自分を恥ずかしいと思う、その気持ちが足りないのだ。無知であることによるデメリットを心の中で小さく見積もっていて、「まぁいいや」と思ってしまう。それよりも勉強を続けることによるコスト(面倒だと思う気持ち)が大きいと感じてしまう。それがいけない。

 

充分勉強しているでしょうと思われる彼が、「最近勉強してないなぁ、まずいなぁ」と言っている。自分も、「最近勉強してないなぁ」で終わらせるんじゃなくて、まず危機感をもって、その危機感を持続させて、実際の行動に移す。無知であることを恥と思って、知るための努力を惜しまない、それを意識したい。

 

毎週必ず走る

運動不足が身に染みる。これではよくないと思い、年明けのこの節目に、ジョギングを再開しようと思った。ゆるくでもいいから、ちゃんと続けようと。

 

まぐれで当選し、東京マラソンを走ったのが9年前。それ以来、エントリーしてもことごとく落選するものだから、本番があるという最大のモチベーションがなくなった気がして、走る習慣を失った。たまに走ったとしても、気が向いた程度。だから、ちょっとしか走っていないのに苦しくなり、楽しくなくなる。訓練して力をつけるには時間がかかるのに、衰えるのは一瞬。だから、少しづつでも続けることが大事なんだと身をもって感じた。

 

実家の近所を少し走る。小さいころ、毎日歩いていた道。遊びまわっていた道。実はよく知らない家。懐かしさと、新しい発見による新鮮さが、身体が浄化されていくような感覚とあわさって、独特の心地よさが生まれた。

 

だからこそ、すぐ息が切れて胸が痛くなり、足がとまってしまったことが悔しくて、続けなきゃだめだと思った。

 

目標は、毎週必ず。無理せず、続ける。ハイを味わう。そうやって走っている時間に頭に描いていることが、自分の仕事を進めるための潤滑剤になったら、良い。