はたらくきほん

金曜の夜。帰り際、事務所近くの本屋で新刊を見つけ、手に取る。仕事に対する気持ちを引き締めてくれる、長々とつづられた文章ではなく、少なくもていねいに構成された言葉。その言葉ひとつひとつが、そうだよなぁ、そうあるべきだよなぁ、と思わせる。仕事が雑で情けない、と思うことが多い自分への戒めとして。

 

「ひとりで抱え込まない。」最近でこそいろいろなところで見かける言葉だし、そうだよなぁ、とグサッと来ることが多いのだけれど、チームで動くマナーとして守れているかと言うと、疑問だ。いつも「ひとりで抱え込むな」という言葉と「自分の頭でまずは考えろ」という言葉が頭の中で戦闘を繰り広げる。抱え込まずに仲間に振ったら、考えることを放棄したことになってしまうのではないか、と。そのさじ加減は、いつも、難しい。

 

はたらくきほん100 毎日がスタートアップ

はたらくきほん100 毎日がスタートアップ

 

 

夜の国のクーパー

伊坂幸太郎夜の国のクーパー」をいま読んでいる。

 

大好きな彼の小説の中で、これほど買って読むのをためらった作品はないと思う。最初に本屋で見かけて、裏表紙であらすじを読み、パラパラとページをめくったときに、まるで読み終えられる気がしなかったのだ。つまらなそう、というのとはもちろん違うのだけれど、大好きな作家さんで、面白い作品を期待してしまっているからこそ、なんかその期待とは違うんじゃないかという予感がずっとしていて、読んでいなかった。で、「ゴールデンスランバー」とか「マリアビートル」とか「死神の精度」とか、最近では「AX」とか、そういうのを読んできた。「魔王」と「モダンタイムス」を読了したことは、自分にとって少なからず自信につながった。彼の頭の中にある深い宇宙のようなものを体感できたから、次のステップへと跳べると思った。こうして、そろそろ読んでいいだろう、そろそろ読めるだろう、と思えたタイミングで、ようやく手に取ることができた。

  

読み始めて感じているのは、読む前に抱いていた印象そのままに、淡々と、不思議で非現実的な出来事が進んでいくなぁ、ということ。身体をツタに絡まれて動けない男。しゃべる猫。鉄国の兵士。そしてクーパー。これからどう話が進んでどう着地するのか、まるで想像できない。退屈、と言うと口が悪いけれど、そんな時間もありつつ、突拍子もない出来事や描写がさらりと出てくる。読み終えるのにいつにも増して時間がかかりそうな気がするけれど、それを悪いことととらえず、その時間をじっくり味わいたいと思う。

 

そんなことを考えながら、週末、いつものカフェで、少しだけ読んでは飽きて、本を置き、コーヒーと、店主との会話を楽しんだ。昼間に一度行ったら混んでいて入れなかったから、しばらく時間をつぶしていた。立ち寄った本屋で、彼の新刊を見つけてしまった。「あの泥棒も登場」てことは、彼か?また面白そうだ。だけど、いま頑張って読んでいるものがあるんだ。これを読み終えたら買うから、ちょっと待っててね。

 

夜の国のクーパー (創元推理文庫)
 

  

ホワイトラビット

ホワイトラビット

 

 

O:オロビアンコ -orobianco-

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20171001222057j:plain

 

そのイタリアのブランドを、バッグからではなく、腕時計から知ったというのは、たぶん私くらいではないだろうか。

 

実際、バッグが発祥のようだし、世間でこのブランドのものを見るときはたいてい、バッグだったりする。イタリアの国旗のストライプが入ったリボンがアクセントになっていて、しゃれている。そのバッグを持つ男性を街で見かけると、ハイセンスな人なんだなぁ、と勝手に想像を膨らませてしまう。

 

しかし、私がそのブランドに最初に惚れたのは、腕時計を見た時だった。たぶん「PANGOLO」が最初だ。シンプルな文字盤に、ナイロン製のベルト。そして、決して安くないブランド時計にはあまり見られない、カラフルなカラーバリエーション。ひと際存在感を放っていたように見えた。

 

それから「SPIRITO」や「ORAKLASSICA」、「NOBILE」など、特徴的でかつかっこよい腕時計をいくつも発見し、虜になった。光り輝いているんだけれど、決して「俺様は高級時計だい」と威張ったような印象はなく、ギラギラもしていない。素朴でストレートな印象を、持った。

 

何年前だったか、池袋の百貨店で「RettangOra(レッタンゴラ)」を買った。orobiancoでは珍しい、四角形のフォルム。これでオトナの男に少しは近づけたんじゃないか、と自分を酔わせ、鼓舞した。まだそれほど仕事にも慣れず、テンパりながら日々を過ごしていた時期だったと思う。仕事がうまくいかないストレスを、こういうかっこいいものを買って、形から身を整えるという方法で発散させていたあたり、いま考えると短絡的だったなぁとも思う。けれど、まぁそうすることで自分の気持ちを高ぶらせて今に至るのだから、決して失敗ではなかったのだろう。

 

ある冬の日。営業で外を歩いていたら、道路に張った氷で足を滑らせ、思いっきり転んだ。左半身を下にして倒れた私の身体と道路との間に挟まれた左手首には、相棒。その顔のきれいなガラスが、思いっきりアスファルトにぶつかった。転んだ恥ずかしさはすぐに消えて、相棒を傷つけた罪悪感に変わった。あんな嫌な気持ち、二度と味わいたくない。

 

すぐに修理屋にかけこみ、ガラスを更新した。けっこうな時間を経て再会した相棒に、「もう二度と君を傷つけない」なんてラブソングの歌詞に出てきそうな言葉で誓いをたてたのも、忘れられない思い出だ。

 

仕事は終わらない

相変わらず自分の仕事の遅さ、要領の悪さに嫌気を感じる毎日だけれど、「どうせそんなもんだ。その程度だ、自分」と開き直っていては先へ進めない。これに関しては他人に負けない、というものはそのままに、ダメな点はそのことを認めつつ、じゃぁどうすればよいかを考える。

 

一時、「仕事術」みたいなビジネス書を頑張って読もうとしていた時期もあった。ビジネス書にはそれなりのノウハウが含まれていて、著者が経験を通して学んだことを1,500円程度で知ることができるのだから、それはそれでためになると思う。だけど、なんだか手に取る気分にならなくなってしばらく経つ。素直になって学べば良いのに、それができないということは、自分は素直になりきれていないということか?それもあるが、一方で、本に書いてあることを律義に真似したところで結果は変わらないんじゃないか、という諦めの気持ちもある。さらに、「それができたら苦労はしない。それができないから困ってるんだ」というようなアドバイスも多々あり、まるで前提条件すらクリアできないかのようで、自分に情けなくなってしまう。

 

「素直に」というのは、尊敬する松浦弥太郎さんの本から学び、そうであろうと誓ったことだ。ここで「どうせ」と諦めるんじゃなく、また、できない自分に凹むのでもなく、やってみたらいい。そんなことを、最近よく考える。

 

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

 

 

マイクロソフトWindows95の開発に携わった著者なりの、スピード仕事術。スピードを意識すること。いつも自分はダメだと指摘される部分だ。

 

つくる過程の楽しさ

ふいに腰痛が再発した。今年の初めに訪れた激痛とほぼ同じパターンだ。なにも前兆はなかった。なので予期することもできず、参った。日頃腰に蓄積された負担があるきっかけで爆発したような感じだ。つくづく体調管理は大切なのだと思った。体調は万全なのにも関わらず、腰が痛いというただそれだけの理由で歩くことすら満足にできず、心が沈んでいく、というのがつらい。元気なのに満足に動けない、歯がゆさ。

 

竣工済みのコーポラティブハウスにお邪魔して、住まい手の話を伺った。コーポラティブハウス建設中の思い出だとか、設計プロセスで楽しかったこと、また大変だったことなど。それぞれの、自由設計を通して何をどのように楽しんだか、何を知ろうとしていたかが聞けて、勉強になった。共通しているのは、やはりつくる過程を楽しんでいるということ。無数にある選択肢の中から素材を選び、決定する。その手順を、面倒くさがらず、面白がっている。そのことがなんだか嬉しかった。

 

腰が痛くて自宅でなるべく安静にしていなければいけない時であっても。その時間すら快適だと思える住まいだったら、どんなに楽しいだろう。もしかしたらコーポラティブハウスなら、そんな住まいができるんじゃないか?

 

台風一過

台風一過の快晴。その暑さに驚くくらいだ。夜中、土砂降りの雨の音を聞いて気がめいっていたところでの分かりやすい晴天に、ほっとした。じんわりと湿気をまとった空気に休日を支配されるなんて、とんでもない。

 

いつも以上に遅いペースで走ってもなお汗が身体にまとわりついて「ずいぶん走った」という達成感を得られたのは、この気温のおかげだ。雨が降っていたら、もっと下がっていたテンションのまま走ることになっていた。

 

河川敷を走るのは、そこに水という資源があるからなのか、遠くまで見通せる景色があるからなのか、自分と同じように走っている同志をちらほら見かけるからなのか、理由はよく分からないけれど、とにかく気持ちが良い。近くに川があって、それに沿って走れるというだけでも、自宅がここにあってよかったと思う。

 

晴れていたからか、テントを張ってバーベキュー、なんて人も多かった。この3連休が最後かな?今月いっぱいはこうして楽しむ人が集まるのかな?盛り上がっている人たちを横目に、こうやって休日にアウトドアを楽しむ人で賑わうまちに住んでいることにほんの少し誇りを感じながら、息を整えて歩く。

身体の中に嵐を

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20170916112815j:plain

 

3連休初日の昨日は、気持ちよさげに走る仲間をSNSで知り、感化されて久しぶりに走った。走っている仲間の存在を知ると、励みになる。しかし、何かもっと強い動機づけがなければ、どんどんやる気は落ちていく。早く東京マラソンのエントリー受付を開始しないだろうか。当選するしないは別として、「エントリーした」という既成事実が、もっとちゃんと走れと自分を奮い立たせる。

 

(9/26追記 このときすでに東京マラソンのエントリー受付が終了していたということを、後に知った。恥ずかしい・・・)

 

「インスタ映え」なんて言葉も生まれ、その瞬間を切り取った写真にどれだけ自分の充実度を詰め込められるかを競い合ういまであっても、写真を撮るのが下手な自分は、スマホをもってジョギングするのが億劫でしかたない。だけど、手にすることでなにか生まれるかもしれないという期待を胸に、初めてスマホをもって走った。ポケットに入れても邪魔なので、リレーのバトンのように手で握って。スポッと手から抜けてぶん投げちゃわないよう気をつけながら。

 

台風が来るとのこと。雨が降り出す前に、そして暑くなる前に、と思って、午前中、起きてすぐ家を出たのが、結果としてまずかった。準備運動はしたとはいえ、寝ぼけた頭と身体に運動はよくない。走り始めてまもなくダルさに襲われ、ランナーズハイどころじゃなかった。別の意味で日常を忘れ、ひたすら走った。

 

ぽつぽつと降り出す。風はなく、静かだ。嵐の前のなんちゃらというやつか。そしてこのあと、自分の身体の中で苦痛と言う名の嵐が吹き荒れることになる。そうか、身体の中に台風を直撃させ、暴風雨を起こし、内臓をかきまわす。それこそが自分にとってのジョギングの目的なのかもしれない。何も考えることができない、を通り越して、胸が苦しいのを何か無理やり考えることで紛らわせるといった状態。そういう状態で頭に浮かんだことが、実はいまの自分にとって大切なことなのではないかと思えてくる。

 

走り終わった暁には、台風一過の晴れ晴れした気分が待っていた。これが気持ち良いから、甘んじて台風直撃を受け入れる。インスタ映えしない写真でその気持ち良さが伝わらなくても、自分にその晴れやかな気分が蓄積されればそれでいい。

 

 

どうせならこの3連休、毎日走ってやろう。昨日まではそう思っていた。思ったのだけれど、さっそく今日挫折した。また雨のせいだ。雨は強さを増し、自分の気分を反映するかのように、空気はジメーっとしている。明日は・・・土砂降りの中を走ってやろうか、とムキになりながら予報を見たら、晴れだった。そんなもんだ。

 

人生で大切なことは雨が教えてくれた

人生で大切なことは雨が教えてくれた

 

 

 


LUNA SEA - STORM

本をシェアする

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20170910161731j:plain

 

勝どきの「太陽のマルシェ」に行ってきた。以前一度行って楽しいイベントをやっているなぁ、と思いながらもなかなか二度目に行けていなかった。ちょうど天気も良かったし、他に行くところもあったのでそのついでに。

 

自分は「マルシェ」の何が好きなんだろう、と考える。普段スーパーでしか買わないような野菜が都心で堂々と売られている様子が新鮮だから?いままで見たこともないような食べ物が売られているから?いろいろ理由はあるのだろうけれど、一番の面白さは「普段はなにもないのに、その日その時だけはモノを売る人が集まり、そこに買い手も集まる」というイベント感にあるのだと思う。スーパーとかデパートとか、常にあるお店で定期的にイベントをやってる、というのはあまり特別な面白さは感じない。だけど、普段は子供たちが遊びまわるような公園広場に、毎月第二土日だけテントが並び、市場ができる。その「ないところに売り場が生まれる」エネルギーに、そそられるんだ。売り手の、自分が扱っている商品を少しでもたくさんの人に知ってもらいたい、というエネルギーをものすごく感じるから、見て、試食して、話を聞くだけでも、面白い。

 

気さくなお兄さんとの会話が楽しいオリーブオイルのバターも。ご主人の熱意をものすごく感じる無農薬野菜も。日本の食をよりおいしくする、竹製まな板などキッチン道具も。自家焙煎珈琲も。そして、「ストローはいりません」といった私に「おっ男前ですね」と店員さんがほめてくれる(結局「かきまぜたほうが美味しいですよ」と言われストローを受け取った。お姉さんの前でカッコつけました)レモネードのキッチンカーも。どれも新鮮で興味深かったけれど、ちょっと別の視点で、印象に残ったのが、「J-WAVE BOOK SHARING」だ。

 

WOW!TOKYO - 2017.09 TOKYO SHARING GOOD || J-WAVE

 

読まなくなった本を次の誰かに伝える。本をシェアするという発想は、ありそうでなかったと思う。並んでいる本はどれも持って行っていい。それぞれの本には栞がはさまっていて、その栞には、本を預けた人のその本に対するコメントが書かれている。栞のコメントを読んで、前読者から次の人へとバトンタッチする、という感覚が、面白いと思った。

 

内田樹さんの見たことのない本が目に入り、いいですか?といって手に取った。裏表紙には、中央区立図書館の除籍済みシールが貼られている。図書館からはるばるやってきた本か・・・。そんな出会いも、素敵。

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20170911002838j:plain

 

そして、譲り受けるだけじゃシェアにならないので、たまたま持っていた本の中から1冊、他の人にも読んでほしいと思い、お譲りした。栞に自分の気持ちを添えて。これも一期一会。

 

あまり気負わず、エネルギーを使うことなく、新しい出会いを味わえる。そこから、また新しい出会いの芽が出る。それがマルシェの魅力だ。

 

negroni

その履き心地がとにかくよくて、ここ数年ずっと履き続けているスニーカーがある。カクテルの名前と同じドライビングシューズのメーカーを初めて知ったのは何年前か忘れてしまったけれど、それ以来、仕事でも、カジュアルでも、オールマイティーに活躍している。

 

negroni.jp

 

ドライビングシューズだから、ペダルの踏みやすさとか、足へのフィット感とかを大事にしている靴なのだけれど、車を運転しない自分にもぴったりだと思っている。そのコンセプトから考えると、自分はnegroniをnegroniらしく使っていないとも言えるけれど、まぁそんな使い方もありだろう、と開き直っている。カッコよくて、レザーの素材感があって、歩きやすい。靴にこんなフィット感を感じたのは初めてだった。

 

そんな靴も、ずっと履いていれば劣化してくる。あるとき、ラバーソールに穴が開いていることに気づいた。そんな強くない雨だったにもかかわらず、足に水を感じたからだ。どんなに愛して使い込んでも、むしろ使い込めば使い込むほど、その時は必ず訪れる。

 

もうだいぶ使い込んだから次のパートナーを探そうと思い、向かったのは前代からお世話になっている銀座三越。一番興味のあったカラーは残念ながらなかったけれど、それでもすぐタイプのものに出会い、手に取った。以前なら敬遠していたかもしれないカラーを、ちょっと勇気を出して選んだ。

 

前回買った時も確か対応してくれたベテランぽい店員さんに、これ履き心地良いですよね、と共感され、そして何気ない会話の中で、ラバーソールのみの交換修理もできるのだということを知った。そうか、その手があったか。というか、それくらい当たり前だよな、といまさらながら気づいた。そして、それこそが自分が本当に望んでいたことなんじゃないのか?とも思う。壊れてしまったから次の新しいものを買う、じゃなくて、壊れてしまった部分を直しながら、引き続き使っていこう、と。

 

新しい相棒との出会い、これは大切にしつつ、壊れてしまったことで半ば使うことをあきらめていた彼も、修理に出そう。ボディの革もだいぶ劣化しているけれど。経年劣化そのものを楽しめる寛容さを、持ち続けたいと思っている。

 

終末のフール

伊坂幸太郎「終末のフール」を読んだ。1つの話がだいたい片道通勤時間で読み切れるボリュームだったので、すらすらと読めた。「8年後に隕石が地球に衝突して人類は滅亡する」そんな衝撃的なニュースが流れてから5年。人類滅亡を3年後に控え、街の混乱も徐々になくなりつつある中、仙台の団地「ヒルズタウン」の住人にさまざまな人生が訪れる。主人公である住人がそれぞれ異なる8つの短編集だが、Aの話の主人公がBの話で出てきたり、Bの話で出てくる人がCの主人公だったり、というように、登場人物が絡まり合っているのが、彼の小説の面白いところ。「あれ、この話、どこかで出てきたな」なんて気づくのも、読んでいて楽しい。

 

終末のフール (集英社文庫)

終末のフール (集英社文庫)

 

 

人生の終わりが3年後に。そんな状況で、自分はどんな精神状態でいられるのだろうか。なりふり構わず、他人を蹴落としてでも、自分だけは生き残ろうと必死に櫓にのぼるのか?それとも、「隕石に感謝しているんです」なんて言える人の言葉に感銘を受けて、静かに受け入れる決心をするのか?「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか」「できることをやるしかないですから」なんて言いながらいつも通り、いまやるべきことに目を向けることができるか?きっと、その時の自分の置かれた状況によって違うし、いろいろなパターンが考えられるのだと思う。それを考えるきっかけになった。

 

 

「終末のフール」「太陽のシール」「冬眠のガール」・・・というように、それぞれの話は「〇〇の●ール」という名前で統一されている。この決まりにのっとって、自分も何か一つ、終末を迎える団地の住人のストーリーが創作出来たら面白いなぁ、なんて考えたり、した。例えば・・・

 

システムエンジニア渡辺拓海は、ソフトウェア開発の会社に転職して間もなく、上司からパワハラにあう。仕事はいつも夜中まで。残業が続き、終電に間に合わない日々。心身ともに疲弊し、辞めてやろうと思うも、辞める勇気がない。

 

そんな中、隕石が8年後にやってくるというニュースを聞く。最初は驚いたものの、そのうち、「これでしんどい仕事ともおさらばだ。自分だけじゃなく、世界全体が消滅するんだから、ラッキーだ」と思うようになる。しかし、最初こそ暴動も起きていた世の中も徐々に平穏を取り戻し、会社は何事もないかのように業務を続けている。上司のパワハラは続く。「3年も待てない」そう思った渡辺拓海は、隕石が衝突することをまるで信じていない会社の仲間にその事実を証明してみせ、仕事なんてやってる場合じゃない、と会社を投げ出すように仕向けようと、隕石が地球に衝突することを示す精密計算ツールを開発しようとする。

 

クライアントからの仕事はそっちのけで、毎日夜遅くまで、終電なんて気にせず没頭した。そしてその精密計算ツールが完成する直前。渡辺拓海は、上司が実は隕石が地球に衝突するのを防ぐための(軌道をそらすための)電波を発信するソフトを開発していることを知る。自分のプロジェクトが完成して、会社を混乱させ、上司のパワハラから逃れられれば、楽しい人生が戻ってくるけれど、余生は3年しかない。一方、上司のプロジェクトが成功すれば、もっと生きることができる。葛藤しつつも、上司のプロジェクトへの情熱に触れた渡辺拓海は、上司のパワハラをうまくかわしながら、上司のそのプロジェクトを手伝う決心をする・・・

 

そんなストーリーを、勝手に頭の中で思い描いたりする。「モダンタイムス」の渡辺拓海がここで出てくる、なんてことはありえないだろうか。

 

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

 

  

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

 

  

タイトルは・・・「精密のエール」とか?計算を使って隕石の衝突を食い止める上司のプロジェクトにエールを。ちと強引すぎか。

 

いいよ

「つよくなりたい やさしくなりたい」ミュージシャンの歌詞から刺激を受けて、そうだ、自分はそうありたいと思っているのだ、と気持ちを新たにすることがある。自分のあこがれている自分像を誰かが高らかに歌っているのを聴くと、他人と想いが共鳴しているのだと感じ、嬉しくなる。

 


斉藤和義 - やさしくなりたい Live at 日本武道館2012.2.11 【MUSIC VIDEO Short.】

 

 

このブログのタイトルの由来にもなっているこの曲はいまも、休日を生きるエネルギーを与えてくれる。いつか、遠回りしても良かったと言える日まで、休日を中心に、充実させていきたい。

 


WEEKENDER - Yoshii Kazuya Dec-2014@Budokan

 

 

自分の生き方を良い方に導いてくれる言葉に出会えるのは、なにも歌だけじゃない。本、といっても、小説だったり、ノンフィクションだったり、エッセイだったり、ビジネス書だったり、いろいろジャンルはあれど、自分の生きる糧となる言葉はたくさんある。演劇だっていい。きっと心を揺さぶるセリフに出会えるはずだ。

 

しかしそれがまさか、喜劇で、それも何の事前準備もなくただぼーっとyoutubeサーフィンをしているときに出会えるとは思わなかった。無防備だった分、それが自分にとっての指針になると気づいた瞬間の驚きも大きかった。

 

「いいよ」「謝ってるんだから」文字にすると普通だけれど、これをさらっと言えるようでありたい。まるでコントのように、クイ気味で言えたら、他人に「いいんですか?」と言われても許せる器が自分にあったら、どんなに素敵だろうか、と。極めつけの「戦争なんて起きないよ」にはどひゃーってなったけれど。ほんとそうだ、とも思う。

 


よしもと新喜劇 恋する茂造 アキの「い~よ~」が炸裂ww

 

N:カフェニル -Caffe Nil-

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20170827150445j:plain

 

5月にオープンしてから、毎週末必ず立ち寄っているカフェがある。かねてから、自宅近くでの自分の居場所みたいなものがあったらいいなぁと思っていた。そんななかでの奇跡の出会い。発端は、去年の大家さん企画の手作り市までさかのぼる。

 

 

自宅のすぐ隣のマンションの共用部分を使って、大家さんが定期的に手づくり市を開催する。いろいろなところに足を運び、作家さんを探し、交渉し、集める。雑貨や工芸品、焼き菓子など、様々な作品が集まる手づくり市は、オーダーメイド、ハンドメイドのものが好きな自分にとっては宝の山のよう。そんな企画に参加した際に出会ったのが、Connect coffee campany だった。ネットショップ限定のコーヒー屋さんが、イベント出店をしていた。

 

www.connect-coffee-company.com

 

そこで飲んだコーヒーが美味しくて、話をするようになった。聞いたら、行徳で近い将来カフェを開業したいのだとか。それだったら行きますよ、妙典にはそういうカフェが少なくて、なんて話をした。そんな彼女の夢が、まさかその7か月後には実現されるなんて、その時は思ってもいなかった。

 

「ゼロ」を意味する「Nil」という店名からは、いままでの経験、技術を踏まえつつゼロから挑戦する、という意気込みが感じられる。ワインレッドの壁とちょっと高めのカウンター、それから来る人みんなウェルカムと言わんばかりに開放されたオープンな店構えが素敵で、すぐにハマった。とまぁこれらの褒め言葉は後付けに過ぎない。私は店主に出会って彼女の情熱を知って刺激を受け、屈託のない笑顔にノックアウトされた、つまりは「人」から入っていったから、店の雰囲気だとか、出されるメニューだとか、そういったものは正直どうでもよかった。どうでもよかった、というと聞こえが悪いか。どうであっても、それが原因で嫌いになることはないと思うくらい、良い人と出会えたと思った。

 

この出会いをつくってくれた大家さんはオープンにあたって店主に「とりあえず目指すのは30周年だな」とエールを送ったらしい。いや、50年って言ったかな?それくらいスケールの大きいことを言う(それを言えるということは、それが実現できるとたぶん期待しているんだと思う)大家さんもかっこいいけれど、そのエールを力に変えて、毎日毎分毎秒、屈託のない笑顔を絶やさずお店に立つ店主がかっこいい。平日はほぼ行けないけれど、週末は必ず顔を出す。これがいまの自分ルール。このルールを守ることで、自分もこの店と一緒に成長し、永く価値を提供できる存在でいられたら。

 

caffe nil - コネクトコーヒーカンパニー

 

フェイドアウトしないように

事務所近くのガレット屋さんに別れを告げて(※)、そこで「いくら気になっているお店でも、それがずっとあるということはない」ということに気づいた。当たり前なのだけれど。

 

(※) 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

だから、いま好きでいられるお店は大切にしよう。自分が閉店の一助となることのないよう、貢献しよう、と思うようになった。古本屋が好きなら、古本屋に行ったら必ず本を買う。シェフの手料理がおいしいダイニングには、月に一度でもいいから、あまり間をあけずに行こう。

 

 

仕事終わりに、駅前の本屋に立ち寄った。自分は本屋が好きで、街から本屋が消えてほしくないと本気で思っている一人なので、こうして微力でも売り上げに貢献して、閉店なんてことのないように頑張ろうと思う。

 

同時に、好きな作家さんの本でまだ読んでいないものが目に入り、好きな作家さんの本はとりあえず読んでみようよ、という自分ルールに基づき、手に取った。どちらかというと疾走感あるアクション、コミカルな会話がサクサク進むストーリーというよりは、ゆっくりと時間が流れ、考えさせれられるような、壮大な話なのではないかと予感している。

 

終末のフール (集英社文庫)

終末のフール (集英社文庫)

 

 

 

本を買って、本屋を出て。いつもならそのまま正面のパスタ屋に行くところだけど、このところ行っておらず、今日も足が向かわなかった。パッと見混んでいそうだったからという理由もあるが、それよりも、やぁ久しぶり、今日もお疲れさまです、みたいに話ができる店員さんがもしいなかったらどうしよう、と不安になってしまったからだ。

 

以前、自分が置き手紙を置いたそのお礼にと、ハート型のピザ(!)を焼いてくれた超絶かわいい店員さんも辞めてしまい、最近は顔なじみの店員さんにほとんど会えていない。これは、どんどんフェイドアウトしていってしまう、悪いパターンだ。そんな嫌な予感がしている。でも、そうはしたくない。

 

ガレットとハーブティと真面目な女性

その貼り紙を見たのは、昼休み、食事をしたあとで電話をしながら歩いていて、事務所に戻る前に電話を終えたかったからちょっと街をふらふらして、ふとその店の前にたどり着いた時だった。「まことに勝手ながら」形式的な文字がすっと目に入る。嫌な予感がした。電話で話をしながら、閉店を知らせる貼り紙を読む。失礼だとは思いつつ、電話相手の話がぜんぜん頭に入ってこなかった。

 

 

洗練されたお店が立ち並ぶ街路、そのビルの2階にあるガレット屋さんに初めて入ったときのことは、なんとなくだけど覚えている。仕事が夜遅くまでかかりそうで、息抜きに事務所を出て、夜風を浴びながら歩いていたら、たどり着いた。クレープなんて主食でも何でもなく腹の足しにもならない、と思いながらも、それでもなにかひきつけられるものを感じ、扉を開けて階段をのぼった。落ち着いた店内で食べたガレットは、主食として十分な食べでがあり、またあたたかいハーブティに癒された。

 

 

「また来てくださいましたね」そう女性に優しく話しかけられたのは、二度目に、これもまた仕事が終わらず一服しに事務所を抜け出してお店に入った時だった。こういうとき、心臓が爆発しそうになるくらい嬉しい気持ちになるのは、私だけなのか?前回来た時に出会ったその真面目な印象の店員さんは、帰り際、私がケータイと財布しか持たず、手ぶらであったことを不思議に思ったのか、「お近くの方ですか?」と聞いてきた。えぇ、近くに事務所があって、いま仕事中なんです。もうちょっとかかりそうなんで、ご飯を食べに。こうして一言二言会話を交わすことができたので、「気さくな店員さんだな」とは思ったものの、正直それ以上の印象はなかった。それが二回目、相手が自分のことを覚えてくれていて、優しく話しかけてくれたことがとにかく嬉しく、その時点でこのお店は自分にとっての好きな店だ、と勝手に思うようになった。

  

 

その後も、本を読んでいたら「何読んでるんですか?」と聞いてくれて、伊坂幸太郎さんの「ラッシュライフ」の表紙を見せて、これ面白いよ、と好きな小説の話をしたり、逆に「私は彼の小説が好きなんです。天童荒太さん。『家族狩り』って、暗くてジメーっとした話なんだけど、人間の本質みたいなのが見えるようで、おススメです。いや、おススメはしないですかね。嫌な気分になっちゃうかも」なんて言いながら小説を勧めてくれたり、した。そうだ、近くの文具屋で買った「こころふせん」を使いたくて仕方なくて、帰り際、水のコップに「ありがとう」のこころふせんをそっと貼って帰ったのは、このお店が初めてだったかもしれない。あのドキドキは、忘れられない。

 

 

数々の思い出のあるお店だったが、ここしばらくは行けていなかった。それには理由がある。しばらく前に、そこでガレットを食べてハーブティを飲む以上の楽しみを与えてくれたその女性が辞めてしまったのだと別の店員さんから聞いたからだ。それが原因で行かなくなるほど自分は無礼じゃないだろう、と自分では思うものの、それでもどうしても足が向かわなかった。そんな折に、突然貼り紙を見たものだから、驚いた。なにより寂しかったのは、〇月×日をもって、という閉店日の日付が、ここ最近ではなく、しばらく前だったからだ。

 

 

尊敬する松浦弥太郎さんがどこかで言っていた。自分は古本屋さんが大好きだから、古本屋に立ち寄ったら必ず一冊は本を買う。その古本屋の売り上げに貢献したい、という気持ちの表れだ。そのこともあり、自分も閉店の原因のひとつなのではないかと思えてしまい、悲しくなった。

 

 

彼女はいま、どこで、なにをしているだろうか。「家族狩り」読んだよ、と言ったら、喜んでくれるだろうか。ダメだ、自分にはそう報告する資格はない。彼女の言う通り、あまりにもジメーっとしたストーリーなので、まだ読み終わっていない。

 

METEORAを久しぶりに聴く

スマホハイレゾの音楽をダウンロードして、聴く。これが最近のmusic life。電車の中でスマホの画面をいじるのは周りと一緒でなんか嫌だから、ひたすら音楽を聴きながら目を閉じ、目的地にたどり着くのを待つ。

 

ミュージックストアで楽曲をいろいろ見ていたら、そうだ、彼らの曲を最近聴いていなかったな、ということに気づいた。大学時代の私の思い出を彩ってくれた大切なバンドであり、当時爆発的にヒットした大切なアルバムだ。自分で興味を持って買い、いまでもその音楽を大事に胸にしまっている、最初で最後の洋楽なんじゃないかと思う。最後、とここで言ったのは、これから先、彼らの音楽以上にハマる洋楽に出会える気がまるでしないからだ。

 

Meteora

Meteora

 

 

 

音楽に関してはかなり偏食な自分。大学に入るまでは「洋楽なんて誰が聴くか。なんて言ってるのか分かんないし、どこが良いのかまるで分からない」と思っていた。そんな偏った考えの自分をわずかに矯正してくれたのが、思えば「METEORA」だった。懐かしい。

 

 

ただ、胸を張って「彼らの音楽が大好きだ」と言える資格が自分にないことは分かっている。なぜなら、2007年の「Minutes To Midnight」を聴いていたころから、ちょうど1か月前の今日、フロントマンが自殺したというニュースを聞いて衝撃を受けるまでの約10年間、彼らの音楽からしばらく離れていたからだ。

 

 

その「METEORA」のハイレゾ音源をダウンロードし、久しぶりに聴く。チェスターのかっこよさは、例えば「Don’t Stay」や「Faint」、「Figure.09」の最後のサビ直前のシャウトだったり、分かりやすいのは(アルバムは違うが)「Given up」のそれだったりする。いつも聴きながらつい力んでしまうし、シャウトする彼の頭の血管が切れやしないかとヒヤヒヤするのだけれど、これがとにかくかっこいい。

 

だけど、それだけじゃなくて、むしろ別のところに、彼の魅力があるのだということを再認識した。それは「From The Inside」や「Numb」のAメロのなめらかに歌う声だ。この声が美しいからこそ、そのあとのシャウトが際立って力を帯びるのだと思う。

 

 

彼の声をもう聴くことができないのだと思うと悲しいのだけれど、じゃぁなぜこれまでお前は彼らの音楽から離れていたのだ、と自分の中の悪魔が言う。そんなこと言われたって・・・ただ、いまになって冷静に過去をふりかえり、そうか、と気づいた。スポンジのようにあらゆる興味の対象を吸収していった大学時代に聴いた「METEORA」や「Hybrid Theory」の曲が完璧すぎたから、そのあとに出る新曲、ニューアルバムを聴いて「あれ、そうでもないな」と幻滅するのが怖かった。それくらい、あの時の曲がかっこよすぎたんだ。それを超えるかっこいいアルバムなんてどうせ出ないだろう、と心のどこかで思っていたのだから、やはり彼らを好きだと言う資格はない。

 

 

久しぶりに聴いた「METEORA」で大学時代への小旅行を楽しみつつ、チェスターの起伏ある歌声を味わう。まさか彼がこんな形で旅立っていくとは思いもせず、まるでそうなったことがきっかけで「METEORA」を改めて聴いている自分が、ちょっと恥ずかしい。