ジョギングと静寂

今日、しばらくできていなかったジョギングを再開した。18日までの夏休み期間中は、意識して毎日走ろうと思う。

 

走ることの何が自分に快楽をもたらしているのか。それは自分でもよく分かっていない。1年半前、日課として走らなければいけないという焦燥感に駆られたのは、「体調管理」という大きな理由があったからだと思う。出た腹を引っ込めたい。体力をつけて、ちょっとやそっとではバテない体をつくりたい。体調が良くなく、仕事に支障が出るといった事態を極力なくしたい。そう思って走り始めた。そしてそれが習慣になるにつれて、走ることによる「リフレッシュ」「気分転換」が自分に良い効果をもたらしてくれることに気づいた。さらに、一日、また一日と習慣が続くと、「物事を続けるための忍耐力をつける」ことが、仕事の質を高めるために必要だと感じるようになった。

 

「気分転換」「体調管理」「忍耐力向上」この3つを目的として、走り続けてきた。それがここ数か月は、二日に1回になり、週に1回になり、と徐々に減ってきていた。より長期的な視点に立って走ることを続けるためには、「毎日」走ることにこだわり過ぎてはいけないと思ったので、多少の怠慢は許してきた。ただ、怠慢も続くとそれがまた習慣になり、いずれ走れなくなる。暑いけれど、この夏休みを使ってかつての習慣を取り戻そうと思った。

 

いま、走ることの目的は、「自分自身に向き合うときの『静けさ』を得るため」に変わりつつある。きっかけは、愛読書であるアーリング・カッゲ「静寂とは」だった。

 

心にとめておいてほしい。あなたが経験する静けさは、ほかの誰かが経験する静けさとはちがう。誰もが自分だけの静けさを持っている。

 

大事なのは、考えすぎるより経験すること。それぞれの時間を充実させること。ほかのヒトやモノを通して生きないこと。走ったり、料理をしたり、セックスをしたり、勉強をしたり、おしゃべりしたり、仕事をしたり、読書をしたり、ダンスをしたりしているときに、外の世界を締めだし、自分ひとりの静けさをつくりだすこと。

 

この文章を読んで、ジョギングを習慣化することに使命感に近い感情を持っていた理由が分かった気がした。私の場合は「走ること」で、私だけの「静けさ」を受け取ろうとしていたのだと思う。