midtown

六本木へ。たまたま知ったマルシェが東京ミッドタウンでやっているということで。さらに、興味があって行こうと思っていた「AUDIO ARCHITECTURE展」がすぐ近くだったので。

 

コーネリアスの小山田圭吾さんの新曲にあわせてつくられた映像作品を鑑賞する。ひとつの曲に対して複数の解釈があって、まったく別の映像作品が並んでいる。映像が目いっぱいに広がる空間でループスする曲は、聴くごとにニュアンスが変わり、心地よいと感じるポイントが変わり、新しい発見を得る。聴くことで受ける刺激が見るという行為によって変わるのだということを、身体で感じた。

 

ビオマルシェでは、以前月島の太陽のマルシェで出会った柏のオーガニックコンビニに再会。気さくな主人?と会話を楽しんだ。味噌にブルーベリージャムに、また自分にとっての特別な食品が加わった。職人の靴下屋さんにオリーブオイル、チョコと、気になるモノもたくさんあった。そうそう、移動式本屋も、国連大学のファーマーズマーケット以来、久しぶりの再会だった。たびたび会う機会があるというのは、嬉しい。

 

読書という荒野

ここ最近、本屋に行くたびにこの表紙が目に飛び込んできて、鋭い視線でこちらをにらむ著者に「しっかりしろよ、自分」と言われているような気がしていた。刺激的なその装幀と、帯の秋元康さんのコメントに気圧されて、目を背けてきたけれど、こうも頻繁に目が合うのもきっと縁、と思い、手に取った。何事も中途半端ではダメで、極端に狂わなければならないということを、いつもこの著者から教えられる。

 

読書という荒野 (NewsPicks Book)

読書という荒野 (NewsPicks Book)

 

 

自己検証・自己嫌悪・自己否定。この三つを読書を通して繰り返すことで、自分の内面を深め、成長させる。読書をただの情報収集ツールだと思っている限り、多くを読んでも意味がない。情報を得るための読書も大事だけれど、読んで何を感じて、そしてそれを行動に移したかどうか、それこそが大事なのだと、思い知らされた。

 

自分の心揺らぐ瞬間を発見し、思考の軸とすること(P15)

 

いまの自分の読書の仕方に対して「これでいいんだ」と甘んじるんじゃなくて、とは言え、「もっとこうじゃなきゃダメだ」と必要以上に力むんじゃなくて、もっと深く本と付き合い、自分の思考の軸をつくっていきたい。

 

賛否両論

いつもの美容院でマスターとしゃべる。1か月に一度は会うのでそう豊富に話題があるわけではないけれど、それでも彼としゃべっていると話題が尽きることがない。

 

 

新潮45でLGBTに関する特別企画があり、その意見が度を越えた言葉の暴力であるとして、店頭から新潮社の本を当面置かないことを決めた本屋がある。その本屋さんの、きっとものすごく勇気を振り絞って決断したであろう行動に、賛否両論があって驚いた。和歌山県の小さな一書店が、特定の出版社の本を訳あって置きません、とただ言ったに過ぎないのに。

 

表現するのは自由、というのは分かる。それを読み手が取捨選択するのも自由、というのも分かる。そしてそれと同じように、本屋さんだって売る本を自由に選べる、と私は思っている。だから、本を提供する立場である本屋さんが、自分の考えに反する意見の本を排除するのはいかがなものか、そうやってさまざまな意見に触れる機会を奪う本屋だったらなくて結構、という意見を見ると、本当にそうか?と疑問に感じる。

 

そこまで自分は町の本屋さんに求めるだろうか?欲しい本があって、例えば行きつけの本屋さんで店員さんに聞いて「うちではそれは扱っていません」と言われたとして、「なんだよ、偏った本しか置かないなんて」と憤慨してその本屋には二度と行かない!となるかというと、そんなことはない。目指す本がなかったら、置いている本屋を探すし、楽天ブックスだってある。町の本屋に「極端な論調のものも含めて全て平等に売るべき」と期待するのは、過剰なサービスの要求ではないかと思ってしまう。本屋さんはそこまで読み手におもねらなくて良い。

 

私は、偏った本しか置いていない本屋さんが好きだ。店主の好き嫌いが書棚ににじみでているような本屋さんが好きだ。私にとって本屋さんは、本を通して知ってほしい言葉を伝える担い手であって、読みたいからください、と言われたものを「かしこまりました」と提供してくれる担い手では決してない。

 

 

そんなことを、とりとめもなく美容院のマスターとしゃべろうと思っていたけれど、「こんなことがあったみたいですね」とちょっと話したくらいで終わってしまった。それよりも、マスターの「確かに世の中のバッシングは度を越えたものもありますよね」エピソードが面白くて、そうそう、と膝をたたいた。あるテレビ番組で、CM前に出演者が「このあとコマーシャル。トイレにいくなら今かもよ」みたいなことを言ったらスポンサーの顰蹙を買ったという。「トイレに行きなさい」とは一言も言っていないのに。視聴者を期待させて番組を面白がってもらえて、結果としてたくさんの視聴者に観てもらえる番組になれば、ミクロではCMを観ないかもしれないけれどマクロではCMを観る機会は増えるはずなのに。

 

世にはいろいろな意見があって、いろいろな批判もある。一見、何の問題もないだろう、という出来事に対しても、賛否両論がある。否の意見に心がどんよりしてしまわないためには、そういうものだという開き直りが必要なんだろう。

 

アーキテクチャ展

社会人になるまでは全く興味を持てなかったのに、いまは行こうと思えるものに、美術や建築などの展示、イベントがある。ある時、まとまった給料を使って都内の美術館を片っ端から巡ったことがある。あの時は、これが観たい!というものがあったのではなく、ただ行って観たという既成事実をつくりたかっただけかもしれない。けれど、観たものが自分をじんわりと形成している実感が持てているから、無駄ではないと思っている。

 

森美術館の「建築の日本展」は、最終週は絶対に混んでゆっくり観られないだろうからと、前の週に頑張って行った。それでもものすごい人がいて、建築に対する社会の関心が自分の想像を遥かに超えていることを知った。こういうとき展示の一つ一つを観ると、自分にはその建築をつくりだす役割さえ与えられないのだと言われているようで、悔しくなる。では、自分の役割はなんだろう、自分はどういう建築を供給する力をもっているのだろう(力をつけるべきなのだろう)、と考える。そうして、もっと小さな建築を、という言葉だけが頭に浮かぶ自分は、ダメなのだろうか。建築の内部と外部とを統合することが、建築家が負うべき責任である、なんて考えるより、門扉に不具合が起きたからその原因を探らなければ、とか、建具が壊れてしまったから工務店に修理を依頼してあげなければ、とか、目先のことで精いっぱいの自分は、ポリシーがないのだろうか・・・。

 

いま興味があり、会期中に行きたいと思っているのが、AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展。コーネリアスの小山田圭吾さんの新曲にあわせて、9組のアーティストが映像作品をつくるというもの。音楽と映像とが同時に記憶に染み込む刺激を、体感したい。

 

サントリー美術館、根津美術館、東京都美術館、国立西洋美術館、国立新美術館、千葉だと、ホキ美術館・・・。「あれ観た?」と聞かれて「観てない。興味ない」なんて答えるのは嫌だから、こうした展示は、なるべく観て、吸収したいと思っている。とは言え、「どうだった?どう思った?」と聞かれてもきちんと感想を述べられないくらい、そこで得たものを言語化することがとにかく不得手で、億劫なものだから、行ったことを言いふらしたくもない。こういうものは、行ってて当然だから。観て、ほんのちょっと何かを感じて、それが「すごいなぁ~」なんて陳腐な言葉だけで終わっちゃうこともあって当然だから。肩ひじ張らず、いろいろ行ってみたらいい。

 

食べたものが身体をつくる

食べたものが、明日の自分をつくる。いまの自分の身体は、いままで食べてきたものの栄養素の蓄積なのだと思うと、おのずと食べるものにも慎重になってくる。以前はさほど気にしなった。何食べたって死にはしないし、たくさん食べれば身体も大きくなる、と。そして、食べるものを気にしている他人に、そんなこと気にしたって仕方ないだろうに、と偏見の目を向けていた。その偏見の目が今、自分にブーメランになって返ってきた。

 

食べたものがその日の体調に影響するのだと実感したのは、ここ数年でのことだと思う。きっかけは、たっぷりラーメンを食べた翌日に気分が悪くなったことだ。100パーセントラーメンのせいというわけではないのだろうけれど、体調不良の原因のひとつであるのは間違いない。ファストフードを避けるようになったのも、このころからだ。マクドナルドには、もう1年単位で行っていない。以前は大好きでよく食べていたけれど、いまは食べたいと思えない。牛丼屋にしても、チキンにしても、そば屋にしても、注文した30秒後に出てくる食べ物とはいま、距離を置いている。

 

それで自分の身体がどうなるかは、分からない。でも、いままでの身体の不調の原因が、そうしたファストフードにあるのだとしたら、それを改善して、人がつくったものを食べて、力を発揮できる身体をもちたい。食べたものと体調が密接にかかわっていることを肌で感じる今だからこそ、気にしすぎだよ、とか、死にはしないよ、とか、我慢する方が身体に悪いよ、とか言われようとも、気にするようでありたい。

 

 

しばらく静まっていた腰の痛みが、またやってきた。あの時と同じ、いやな感じだ。完治までの期間を思うとそれだけで気が重くなる。なにか身体によくないことをしたか?最近は食べ物にだって、その量にだって、注意していたじゃないか。注意力が足りないってことか。食べ物だけじゃなく、姿勢だとか、適度な運動だとか、ストレッチだとか、そういうことも大切なんだろう。神様がくれたであろうこの試練を、身体をこれまで以上にいたわってあげることで、乗り越えたい。

 

センセイの鞄

自宅近くの本屋で、書店員さんのオススメ本コーナーがあり、この本があったので手に取った。美しい文体に心が落ち着く、という書店員さんのコメントのとおり、 パラパラとページをめくってなんとなく漂ってきた雰囲気が気持ちよく、その書店員さんの言葉を信じることにした。こうして意図せぬ出会いが生まれるんだ、きっと。

 

センセイが、優しい人なのか、清らかな人なのか、抜けた人なのか、ちょっと悪いところもある人なのか。まだ読み途中だけれどいろいろな捉え方ができるようで、読み終わるのが楽しみ。

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

あたたかい飲み物を、これと決めて飲む

あたたかい飲み物が好きだと思うようになった。それはコーヒーだったり、お茶だったり、紅茶だったり、最近は白湯だったりする。特に家では、夏であろうとあたたかい飲み物ばかり飲んでいる。

 

冷たい飲み物は身体が冷えるからよくない。誰かから聞いたのか本で読んだのか忘れてしまったけれど、そんな言葉が頭にあって、そんなこと気にする質じゃないだろう自分は、と思いながらも、なるべく避けている。昼間仕事中、気温が高くて、蒸して、喉が渇くときは水を飲むときもある。全く飲まないのはそれはそれでよくない気がする(数年前に尿路結石をつくって激痛に侵されてからは、なるべく水分を取ろうと意識はしている)。それでも、最小限にしたいと思っている。

 

あたたかい飲み物が好きで、コーヒーはこれ、紅茶はこれ、と決めると良いというのを本で読んで、なるほどと思った。好きな飲み物を決めて、それを飲んでいる時間をじっくり楽しむ。そんな暮らし、良いと思う。

 

自分だったら・・・。コーヒーは、行徳のカフェニルのストレート。いまはタンザニアとグアテマラがお気に入りで、そればかり買っている。紅茶や緑茶は、まだこれというものに出会っていないので、いま手元にある大井川茶園の静岡茶と不思議の国の紅茶を交互に飲みながら、いろいろ探している。

 

丁寧に暮らしている暇はないけれど 時間をかけずに日々を豊かに楽しむ知恵

丁寧に暮らしている暇はないけれど 時間をかけずに日々を豊かに楽しむ知恵

 

 

喫茶店でアイスコーヒーを飲まなくなったのはいつからだろう。営業で外まわりをしていた時は、とにかく喉が渇いて休憩中にアイスコーヒーに手を出していたけれど、最近はほとんどない。アイスコーヒーは喉を潤す飲み物であってコーヒーじゃない。コーヒーはあたたかいものだ。そんな自意識過剰な自分の声が聞こえてくる。別に美味しければなんだっていいだろうに。でもそれ以上に、あたたかいコーヒーの味が好きなのだ。家で一人で孤独であろうと、コーヒー飲んでのんびりしていたら、まぁどうだっていいやって思えてくる。

 

朝起きたらまず白湯を飲む。この本を読んで実践してみようと思ったことの一つだ。確かに気持ちが良い。目も覚める気がする。だけど、起きてからヤカンに火をかけてお湯を沸かすというそれだけのことが、なかなかできず苦労している。いい加減、朝に強くなったらどうだ、自分。

 

四歩

吉祥寺の食堂兼古道具屋(?)の四歩へ。四歩と書いてしっぽと読む。アパートの地下にあるようなフロアーに行くために車路を降りていく。先日の豪雨の時、大丈夫だったのだろうか、浸水しなかっただろうか、といらぬ心配をしてしまう。

 

ふだんの食事にちょうどいいようなごく普通の定食で、それが良かった。吉祥寺にこういう食堂があるのがなぜだか嬉しい。混んでいたけれど、古道具や雑貨のお店が隣にあるので待ち時間も苦にならなかった。

 

なにがすごいと言葉で表現するのが難しいのだけれど、インテリアだったり、食器だったり、流れている空気だったり、それぞれに、ちゃんと考えてるんだろうなぁと思わせる何かがあって、だからこそ、また来たいなぁと思えるのだと思う。

 

www.sippo-4.com

 

ナナメの夕暮れ

仕事終わり。駅前の本屋に寄り道したら、彼の本が目に留まり、そういえば、と聡明な彼のイメージとエッセイとが結びつき、手に取った。帰りの電車の中で読んで、物事を斜めに見ていたこと、それに飽きて物事を肯定するように意識し始める過程を知り、共感できることが多くて嬉しかった。そして翌日のヤフーニュースで、手に取ったのがまさにその新刊の発売日であったことを知る。過去の連載と書きおろしという構成であるも、ちょうどまさに今の彼を知ることができるエッセイだと思った。

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

「表参道や六本木を歩くと吐き気がする」自分は吐き気ほどはないけれど、言わんとすることは分かる。自分が関わるような場所じゃないと思ってしまう。

 

「スタバでグランデが注文できない」その自意識も、分からなくはない。私はそもそもショートサイズで充分だからグランデなんて頼まないけれど。

 

「ひとりでいてもあまり寂しくないのは、自分と話しているからなのだ」そうだったんだ、どおりで!と思わず膝を叩いた。そんな時間をたぶん他人より多く過ごしている自分には、当たり前のことすぎて気づかなかった。

 

仕事はもちろん一生懸命。周囲に感謝しながら。そのうえで、仕事以外で自分と会話する時間、場所をきちんと確保しながら過ごすこと。それを大切にしていれば、「自分探し」なんて言わなくてもだいたい自分のことは分かり、生きづらさに押しつぶされずにやっていけるのだと思う。

 

P:ポリスアカデミー -Police Academy-

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洋画をほとんど観ない自分にとっての、数少ないレパートリー。出会いはレンタルだったと記憶しているから、好きな映画、というとちょっとニュアンスが違うけれど。

 

中学生くらいの時だっただろうか。当時実家になぜかTSUTAYAの「シネマハンドブック」があって、それこそ擦り切れるくらいページをめくっていた。タイトルのシンプルさと解説文から読み取れる面白そうな予感から、借りて観ようと思った。それが時を経たいまの自分にとってもナンバーワンの作品であるので、子供の嗅覚ってあなどれない。TSUTAYAの力も半端じゃない。

 

シリーズで7まであるけれど、私はとにかく1が好き。ハリス教官じゃなくてマウザーが出てくる2と3も好きだけれど、1の面白さには敵わないと思っている。いたずら好きだがいざという時頼りになるマホニーも、拳銃狂のタックルベリーも、人間効果音ジョーンズも、最後に良いところをかっさらうフックスちゃんも好きだけれど、特にハイタワーが大好きで、彼のような大きくて優しい男にあこがれる。これで花屋だというのだから、しびれる。

 

一癖も二癖もある仲間たちが、弱い点は補いながら、訓練を通じて成長していき、クライマックスの事件を解決へと導く。何度見ても、笑えて、泣ける。

I'm Here for you

大学時代の研究室の仲間が集まる機会があった。卒業以来会っていない友達もいたから、彼とは12年ぶりということになる。それぞれ近況を聞きながら、刺激をもらう。

 

今回の集まりの立案者は自分で会社を経営していて、家族を養いながら、目的意識をもって仕事をしていた。どんどんと湧いて出てくる言葉は熱を帯びていて、聞いているこちらがたじろぐほどだ。その目的意識、やってやろうという意欲があるかないかが仕事のやりがいを左右しているのだということを、直接仲間から教えられた気がした。

 

大学時代。彼は研究室にほとんど顔を出さず、自分のやるべきことを自分自身で決めて、教授に直談判し、受け入れてもらい、貫いた。傍から聞いただけでは、なんだ、講義も研究もサボって何してるんだ、とひがみたくなるかもしれないけれど、目的意識もあまりなく、ただ環境に身をゆだねているだけの人と比較すれば、彼の方が正しいに決まっている。彼は、今聞いてもびっくりするくらいの目的意識を当時から持っていた。それなりの覚悟があったはずだ。その彼の覚悟に当時気づいていなかった自分が、恥ずかしい。

 

人生に、目標を。仕事に、やりがいを。常に、当事者意識を。久しぶりに会った仲間からふいに、とても大事なことを教えてもらった。

 

 

I'm here for you

 

自分はいま、確かにここにいる。時間が経過したら、ここにいるいまは過去になってしまうけれど、ここにいたという事実は、消えない。ただ、他人の記憶からなくなってしまうことはある。だから、いま自分が誰かのために動いていることを、周囲の記憶から消されないように、こうして文字を記す。仲間が目的意識をもってがむしゃらに生きているように、自分も。

 


INORAN「I'm Here for you」Music Video

言葉の贈り物

通勤の電車内で周囲を見まわすと、ほぼ9割の乗客がスマホを手にしている。スマホには罪はないのだけれど、そういう光景を見るたび、それと同じ行動をとるのがどうも嫌で、スマホをカバンの底にしまう。ここ最近は、電車内でスマホは一切見ない、と決めている。ただ通信費用をケチしていると言われればその通りでもあるが。

 

よって、必然的にやることは本を読むことくらいしかない。最近はこの本を繰り返し、ゆっくり、噛むように読んでいる。

 

言葉の贈り物

言葉の贈り物

 

 

この本に出会って、「自分にとって読書とは何か」という問いに対する自分なりの答えが得られたと思った。と同時に、この本こそが、自分にとっての読書の目的を達成しうる本だと思った。

 

私たちが手にしなければならないのは、世に広く知られた本ではない。「私」だけが読み解くことのできる世界にただ一冊の本なのである(p138)

 

 

給料を何に使うか

番組MCのアナウンサーがある芸人に「最近CMだとか、たくさんお仕事されてますよね。変な話、お給料って何に使ってるんですか?」と聞く。その芸人は照れながら「何にって・・・いまはゴルフ関連がほとんどですよ」と言っている。それだって、たかが知れてるじゃないですか、とアナウンサーに返され、まぁ、確かに使ってないかもね、と締めていたけれど、そのやりとりを見て不意に、じゃぁ自分は何に使っているんだろう、と疑問に思った(ちなみにこの芸人さん、私にとっては読書家というイメージが強く、あの時はゴルフ関連と言っていたけれど、きっとそれと同じくらい本にお金を費やしていて、知恵を得ている結果、いまの地位があるんじゃないかとひそかに思っている。自分も頑張らなければ・・・)。

 

家賃や光熱費、通信費、外食以外の食費など、必ずかかるものを加えると、だいたい給料の56%くらいになる。では、残りの約44%の自由費は何に使っているのか?

 

何にいくら使ったかをきちんと記録していれば分かるのだろうけれど、それをしていないので、おおよそのことしか分からない。それに、美容院、カードでの買い物、本、遊びに行く交通費、外食、気になった雑貨、毎週立ち寄るカフェでのコーヒー代、たまに服、というように、たくさん項目があるため、明確にこれにお金を使っている、というものがない。お酒やたばこ、ギャンブルなど、ある特定のものには一切お金を使わないけれど、それでも意識しない限り、メリハリのない使い方をしてしまう。

 

ただ、自分が何に重点的にお金を使っているか、ということは常に意識していたい。じゃないと、いつのまにかお金を浪費していて自己の形成に役立っていない、なんてことになりかねない。じゃぁ何に使うのがいいのだろう・・・と考えた時に、やはり頭に浮かぶのは、本だ。

 

本をたくさん読む人間だ。ただそう他人に思われたいだけだと言われれば、そうだ。動機が「他人からどう思われたいか」ということであっても、いい。大学時代まではほとんど本を読まない頭の悪い子供だったから、その分を取り返したい。そう自分に言い聞かせたくて、このところ背伸びして本屋で本を買っている。本を買うことで財布からお金がなくなる心理的不快感を感じたくないから、ちゃっかりカードで。

 

給料の使いみち、その多くを本に使うような生活を続けていたら、あの照れながらも謙虚に返事する芸人が安定した笑いを提供するように、仕事でも確実に成果が出るんじゃないか。そう本気で思っている。

 

iijima coffee

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以前から行きたいと思っていたものの、なかなか腰を上げることができたかったお店に、今日行くことができた。千葉は柏井町の「iijima coffee」。最寄り駅だと京成の八千代台。車を手放して久しい身のため、駅から15~20分くらいか?歩く。なかなか手軽にさぁ行こう、と行ける場所ではないけれど、今日は過ごしやすい天気で、よかった。

 

コーヒーゼリーの本で知り、その写真から、内装の雰囲気の良さが伝わってきていた。倉庫のような質素な建物。古い木材の本棚。木サッシ。カウンターで窓の外の景色を見ながらコーヒーを飲むというのもいいじゃないか。

 

10時オープンのお店に10時半前に行ったらすでに数組食事をしていて、滞在中も出入りが何組か。人気のカフェだということを見せつけられた気がした。野菜カレーが、いい具合に辛くて、美味しかった。旬のストレートはグアテマラ。大好きな味。

 

お店のお手伝いを1時間するbossaという取り組みをHPで知る。面白いことを考えるなぁ。自分の開業のためという直接的な勉強になることもあれば、1時間掃除などに没頭することで普段とは違う自分に出会えるという効果もありそう。おもてなしの心をもった掃除を学んで実際に掃除を行うことができる。どおりできれいな店内だと思った。

 

心の片隅にあった、知るきっかけとなったコーヒーゼリーは期間限定(6月のみ?)とのことで、食べることはできなかったけれど、また長い目で見た楽しみも増えた。来年は、コーヒーゼリーに会える。

 

www.iijimacoffee000.com

 

コーヒーゼリーの時間

コーヒーゼリーの時間

 

 

魔法

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夏休み。いつも快適な時間を過ごせる、相模湖の古民家カフェへ。超絶美味しいランチを食べることができたり、会えたらいいなぁと思ってた家具屋さんに偶然会えたり。どうやらこの場所では魔法が使えるらしい。テレパシーが、通じた。たぶんこのご飯も、素材の良さはもちろん、美味しくつくる呪文みたいなものがあるに違いない。

縁側からの、風鈴越しの、サルスベリ。日本の夏。もう秋なのか、、、。