ON読

最近でこそ人並みに本を読むようになったけれど、これが中学高校時代は全く本を読まない、典型的な読書離れの子供だった。図書室で本を借りたことなんて、数え切れるくらいしかなかった。だから何冊も何十冊も借りて読んでいる友達を見ては、どこか自分とは脳のつくりが違うんだろうな、と自分に劣等感を感じていた。そんな自分が「#bookstagram」なんて名前のハッシュタグに出会って面白さを感じ、インスタグラムに気に入っている本の写真を掲載するようになるのだから、きっと人間は成長するものなんだろう。だから、できないことは何一つない。想えば叶うのだとポジティブにとらえるのは、楽観的すぎるだろうか。

 

 

勉強としての読書も好きだし、仕事に関する情報収集の手段としての読書も好きだし、小説のようにストーリーを味わう読書も好きだ。だけど、いずれにしてもその内容がきちんと頭に定着するためには、読み方も大切なのだと思うようになった。楽な気分で読んで、読んでいる時間そのものを楽しむのも良いけれど、最近は、頭にきちんと残して、日常生活で必要な時にその言葉が口をついて出てくるような、そんな「言葉を記憶する」読書をしたいと思っている。その方法が、音読だ。

 

普段は黙読がほとんど。通勤中の電車内も、喫茶店でも、家でも。だけど、唯一音読をする環境がある。それは風呂。本を読みながら湯船に入ることが、しばらく前からの習慣になっている。もっと言うと、本棚から「今日はどれを読もうかな」と2~3分考えて(これが意外と時間がかかる。優柔不断だなぁとつくづく思う)その日の気分にあう本を選び、風呂に入る。で、音読をする。浴室だと声が響くから、より小さく発音しても大きな声で自分の耳に届く。自分の身体を伝って脳に言葉がしみこむ感覚が気持ち良い。そして、心なしか脳への言葉の定着率が良いように思う。

 

黙読は黙読で、必要。声に出すより早く読み進めることができるし、読めない字があってっもストレスはない。要するに気が楽だ。まるで静かにそこにたたずむ樹木のように、腰を落ち着けて、冷静に、流れるように読む。だから、木読。

 

一方、音読は、発声する力がいる。必然的に読むスピードがゆっくりになる。息継ぎの場所に気を遣う。そのかわり、自分の読み方の癖が分かる。なにより、きれいな文章の構成がすっと頭に入る。黙読が頭のスイッチをオフにした読書だとすると、音読は脳に刺激を与えるためにスイッチをオンにする。だから、オン読。ON読。ちょっと強引か。

 

 

尊敬する松浦弥太郎さんのエッセイを、それこそたくさん音読したら、人間として近づけるんじゃないかと思っている。氏の言葉を、暗唱できるくらい音読したら、日常生活での言葉遣いも、考え方も、行動も、変わるんじゃないかと本気で信じている。

 

「読ませるのが良い写真」そこに表現されている物語を読み取れるのが、良い写真だという。漠然と「こういう写真が撮れるようになりたいなぁ」と思っていたものの、どういう写真なのかをうまく伝える言葉が見つからずにいた。そのことをきれいな言葉で表した文章に、出会ったと思った。画像として見て終わりじゃなくて、ゆっくりと読んでもらい、そこに物語を感じ取れる写真。そんな写真を撮れるようになって、インスタグラムに掲載していけたら、最高だ。

 

自分で考えて生きよう

自分で考えて生きよう

 

 

のれんをくぐると、佐藤二朗

今日は午前中から仕事だった。割と重要な、もちろん仕事はみんなそうだけれど、ちゃんとやらなければまずい打合せだった。緊張した。ちゃんとやろうと思った。だからその打合せのあと、休日は集中力がないから事務処理なんてできないと内心気づいているのに、事務所へ寄って、少しだけ事務処理をした。そのあとの飛び込みの案件を経て、もうさすがにだめだと思って、帰った。駅前の本屋をひとまわりして、なんにも買う気にならなかったから、すぐに店を出て、でもこのまま帰るのもつまらないと思い、もう一つの本屋に立ち寄った。そうしたら、ふとこの本が目に留まった。twitterのつぶやき集なんて、何の役にもたたないでしょう、わざわざ本にすることもないでしょう、なんて思ったけれど、氏のことは好きだし、その独特の存在感に強烈なインパクトを感じていたし、飾らないオトナの良い雰囲気を感じていたから、手に取った。他にも松浦弥太郎さんの新刊エッセイも買ったし、行きつけの美容院のマスターに勧められた吉田松陰の言葉集も買ったけれど、それらと並べてこの本を買ったのは、難しい本との対比で気軽に楽しみながら、ちょっと仕事を頑張る活力になる言葉に出会えるのではないかと期待したからだった。帰って風呂で読みながら、何度も声を出して笑った。ただのおかしなツイート集では決してなく、なかにはまったくもって意味不明なツイートもあるけれど、そのなかにポンポンと添えられている深いなぁと思える言葉だったり、オトナだなぁと感じる文章テクニックだったり、があって、面白かった。自分も肩ひじ張らず、余裕を感じさせるように、なおかつ一生懸命に、仕事をしたいと思った。親想い、妻想い、息子想いの一人のオトナの男である氏を、かっこいいと思った。あ、私はもちろん、シラフだ。酔って意味不明なツイートをするほど、そもそも飲めない。

  

のれんをくぐると、佐藤二朗

のれんをくぐると、佐藤二朗

 

  

孤独を生きる言葉

孤独を生きる言葉

 

  

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)

 

 

ロードバイク

マイ自転車をつくること。これが今年の自分の夢になった。

 

きっかけは、事務所の仲間にロードバイクを勧められたことだ。通勤で毎日ロードバイクに乗っている仲間がいて、どうだと誘われた。自分は中学高校と自転車通学で、それこそ飽きるくらい自転車に乗っていたから、といって最初は乗り気ではなかった。しかし、他の仲間もロードバイクを始めたり、事務所の新年会で「みんなでしまなみ海道を走るなんてどうだろう」なんて話が出たりして、徐々にそのムードが広がっていった。いやいや、と最初こそ断っていたものの、だんだん断りづらくなり、そのうちに、実は自分も颯爽と風を切りながら走りたいんだという想いがあることに気づいた。かたくなに「俺はのめりこまない。深追いしたら抜け出せなくなるし、すぐ飽きるんだったらやる意味がない」と思っている限り、新しい趣味には出会えない。何より心に響いたのは、飽きずに続けられるかどうかではなくて、その時の気持ちに従えばよい、後に気持ちが変わったら、変わった気持ちに従えばよい、というアドアイスだった。飽きたらもったいないじゃなくて、もっと柔軟に考えるべきということだ。

 

こうして自転車選びが始まるのだけれど、そもそも自分はどのようなサイクルライフを送りたいのか、付き合い方が定まっていない。通勤で使うことはないから、平日はほぼ乗らないだろう。とすると、休日、いままでより少し行動範囲が広がって、ちょっと遠くまで旅に出たい、ということだろう。江戸川の河川敷を、水を見ながら走るなんていいじゃないか。頑張って房総の方へ行って見るのも楽しそう。そうしたら行きたい美術館もある。というように目的が徐々に見えてきたところで、お店に行って見ることにした。行きつけのカフェ経由で知った自転車屋さんが隣町にあって気になっていたから、そこに相談してみよう。ということで今日、その自転車屋さんに行った。こうやって数珠繋ぎで出会いがつながるというのは本当に嬉しい。

 

メーカーの新車を買う場合。カスタムする場合。完全フルオーダーでつくる場合。それぞれのことについて教えてもらう。乗り方は?頻度は?予算は?答えながら、自分の新しい趣味と向き合う。特に予算は、もともと10万円くらいかなぁなんて思っていたのだけれど、話をするうちにどんどんと夢はふくらみ、あってないようなものになってしまった。10万円を予算にするということは、言い換えれば自分で「この新しい趣味によって得られる幸福度は対価10万円相当だ」と決めてしまうようなものだ。もちろん無尽蔵に上限を高くできるわけではないけれど、週末のサイクリングを心から楽しむことに20万円の価値があるのだとしたら、自分は喜んで20万円をかけられるようでありたい。何年も楽しめる相棒の対価が、毎月支払っている家賃とあまり変わらないのだとしたら(自転車と居住費は単純に比較するものではないだろうけれど)、バランスを欠いているとも思う。

 

最初はスタンダードな状態で、徐々に自分の好みに合わせてカスタマイズできる、要は足し算のバイクを、教えてもらった。完成品を買ってそれでおしまい、ではなくて、自分に合わせてどんどん成長させていく。その考え方に共感した。本当はフルオーダーできれば理想なのだろうけれど、まだ自分は、オーダーするほどの、自分なりの乗り方というものがない。

 

こうして、優柔不断のモノ探しが始まった。あっちもいいこっちもいい、どうしよう、と考える時間はあまり好きではなく、パッと決めて楽になりたいというのが本音なのだけれど、なかなかそうはいかない。まずは、相棒と一緒に自分はどうやって楽しみたいのか、そのイメージをもっと固めよう。

 

ワタリウム美術館の記憶

意識して美術館巡りをしようと思いたってから、また行かなくてはと気になっていた美術館がある。外苑前のワタリウム美術館だ。

 

大学1年の時だった。何の講義か正確には忘れてしまったけれど、入学してすぐだったから、たぶん建築史だろう。ワタリウム美術館での展示を見てレポートを提出する、という課題があった。その時にやっていたのが「バックミンスター・フラー展」。ダイマクションハウスやダイマクション地図を提唱した建築家について展示を見ながら調べ、レポートにした。ただ、「バックミンスター・フラー展=ワタリウム美術館」という方程式だけが記憶の片隅にあるだけで、実際に行った時のことは全く覚えていない。

 

だから今日、約16年ぶりに訪れたときも、「あぁ、懐かしい」という感覚はまるでなく、まるで初めての美術館に足を踏み入れたような感覚だった。シートがラフに剥がれた外壁が年季を醸し出している。地下の書棚には紙の強い匂いがただよう。建築の学生の知的好奇心を刺激する情報が小さい面積の空間内にひしめきあう様子は、さながら御茶ノ水のレモン画翠に来た時のようだ。

 

マイク・ケリー展が今日から。アメリカの現代美術家の映像作品は、まさにカウンターカルチャーとはこういうものだというようなもの。大衆文化から引っ張ってきた一つ一つの要素を「ひっくり返して」別の意味に変換して見せる。そこに新しい意味、抑圧された意味を見出す。刺激臭たっぷり。一瞬目を覆うようなものもあり。事前情報として見ていたぬいぐるみを用いたアートから可愛らしいイメージを抱いていたものだから、そのギャップに一瞬、戸惑った。

 

メインカルチャーとは。サブカルチャーとは。それに対抗するカウンターカルチャーとは。いろいろな立場を知ったうえでいまの文化を味わえるオトナでありたい。少し前までの自分だったら「はい、こんなの興味ありませーん」と言って背を向けていたかもしれない。けれど、そういうものも一旦は吸収し、久しぶりにワタリウム美術館に来て良かったと思えるまでには、自分も成長したのかもしれない。

 

バックミンスター・フラーからマイク・ケリーへと、ワタリウム美術館にまつわる記憶が上塗りされつつある。しかし、知的好奇心旺盛だった大学時代にフラーについて勉強した、言わば大学に入って最初に社会と接点を持った記念すべき美術館だ。これを機に、フラーの思考についても勉強しなおしたい。

 

バックミンスター・フラーの宇宙学校

バックミンスター・フラーの宇宙学校

 

 

いまは読めない本、いずれ自分を形成する本

昨日、いつもの美容室でマスターに新年の挨拶をした。今年もよろしくお願いします。社会人になり、この美容室の上の階の部屋に引っ越してきたあの日から、もうすぐ12年が経つ。本当に長い時間、そして定期的に会う、数少ない地域コミュニティだ。

 

そのマスターとまた本の話で盛り上がる。私が尊敬する松浦弥太郎さんのエッセイを紹介したら、興味があるからといって読んでくれるそう。こうやって、他人の意見を真摯に聴いて、素直にそれを取り入れようとする姿勢、本当にすごいと思っている。

 

マスターが読んでいるという本も教えてもらう。荻原浩の小説から、吉田松陰の教えまで、幅広い。特に、稲盛和夫の本は自分の経営のための教科書にしているようで、革のブックカバーをつけて大事に持っているそうだ。なんでも自分がダメになりそうなときに、読むのだとか。私もそういう、自分の仕事を進める方向へ導いてくれる教科書になるような本に、出会いたい。

 

いや、教科書はもう、近くにあるはずだ。問題はそれが自分の教科書になりえるということに気づくか気づかないか、だと思う。いま持っている、すでに読んでいる本の中にこそ、本当の教科書があるかもしれない。だからこれからはなるべく本を手放さず、大事に読んでいきたい。

 

自分なりの、持っている本への愛着を強くする工夫がある。それが蔵書票。以前紙文具屋さんにつくってもらったオリジナル蔵書票(※)を、気に入っている本に貼る。持っている本全てに貼るわけにはいかないから、必然的に蔵書票を貼るに値する本を選ぶことになる。大好きな作家さんの、好きなエピソードのある本。自分を励ましてくれる文章に出会える本。仲の良い友達が一部を書いた思い出の本。これだ、と思って蔵書票を貼った本には、たいてい自分なりのストーリーがある。そうやって、本と自分の物語とをひもづけることが、本に愛着を持たせるうえで大切なことなのだと思った。

 

(※) 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

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 一方、なかなか読めない、読み進められない本もある。それが、和辻哲郎「風土」「古寺巡礼」。尊敬する建築家の安藤忠雄さんが大切に読んだ本だと知って興味をもったことが、手にしたきっかけだった。同じく尊敬する建築家の光嶋裕介さんも著書の中で、繰り返し読んだと言っていた。自分も読めば尊敬する建築家に近づけるかもしれないと思ったのだけれど、これがなかなか頭に入らない。まだまだ自分は脳が幼稚なのか?そういう本もある。それなのに今日、この二冊に蔵書票を貼り、「永遠に自分の本だ」という刻印をつけた。きっと心の中に、いずれこの本の面白さが味わえる時が来る、そう思える時まで自分の本として懐に入れ続けよう、という想いがあるのだろう。いまは読み進められないけれど、いずれ「自分を形成する本」になる漠然とした予感がある。そんな本もある。

 

マスターが持っているような、素直に経営哲学を教えてくれる本。そういった本をなかなか読み進められない自分は、まだまだ「株式会社自分」という経営者視点が足りないのかもしれない。肩ひじ張らずに読む小説等ももちろん大事。ただ、自分という一人のオトナを動かす経営者としての心得を授けてくれる本も、ちゃんと読まなければ。

 

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

 

  

古寺巡礼 (岩波文庫)

古寺巡礼 (岩波文庫)

 

  

建築という対話: 僕はこうして家をつくる (ちくまプリマー新書)

建築という対話: 僕はこうして家をつくる (ちくまプリマー新書)

 

 

前を向いて走る

今年も、走る。走ることを習慣にする。毎日はとても無理だけれど、1週間に1回は走る。そうしたら体調が悪いということが少なくなるんじゃないかと思っている。

 

久しぶりに下駄箱からスニーカーを引っぱり出してきて、履く。アキレス腱を念入りに伸ばしてから、走り始める。寒くて嫌なのだけれど、走り始めてしばらく経てば、寒さも感じなくなってくる。その代わりに、胸の苦しみがやってくる。

 

江戸川の河川敷にはこの季節でもジョギングをしている人が結構いて、それもだいぶ年を召した方が自分よりも速いペースで走っていたりする。草むらに座ってサンドイッチを食べる子供とその家族もいる。のどかな光景だ。

 

箱根駅伝で力走した後輩を思い描きながら、走る。そう言えば、彼らは走るとき、必ず前を向いていた。自分は走っていてつらくなってくると、下を向く癖がある。だいたい斜め45度くらい。向かってくる道路を見ていれば、自分が進んでいる気になるからだ。遠くを見ていたら、自分が進んでいる実感がわかない、そんな気がするからだ。だけど駅伝選手は、前を向いている。誰も下を向いていなかった。それならば、と自分も正面を、先の景色を見ながら走ってみる。景色は変わらず確かに先に進んでいる感じはしないけれど、その代わり気分が上向きになったというか、重心が身体の中心に移ったというか、とにかく、心なしか気持ちも高まり、ペースが速くなった気がした。

 

走り終わって、あまり汗をかかず一気に冷えていく身体を落ち着かせながら、家まで歩く。アキレス腱は問題ないが、とにかく太ももが痛い。少し運動不足になると、すぐこうなる。これからはこうならないように、週1ペースのジョギングを継続させていきたい。

 

種をまくということ

1月2日と3日は箱根駅伝。毎年テレビの前で母校の活躍を見守っている。スタートの時間にたいてい起きられないのがつらいのだが・・・。

 

東洋大学は今年も往路優勝。一年生が中心の若いチームがだんとつのたすきリレー。年初から勇気をもらった。復路では青山学院大学に抜かれてしまったけれど、堂々の2位でそのままゴール。10年連続3位以内という快挙は、今年一年自分も頑張ろうと思わせるのに十分すぎる。母校がこんなに汗を流して日々努力しているのに、自分は、というように。この高ぶる気持ちを忘れないように。

 

 

種をまいているのだという意識をもとう。自分がいま取り組んでいることひとつひとつが、将来花咲くための種まきであるのだと知ろう。それから、時間はかかるかもしれないけれど、まいた種は必ず成長し、花が咲くのだと信じる。そうすれば、毎日のひとつひとつを、その時は成果を実感できなくてつまらなくても、大切なことだと思って積み上げていくことができる。で、咲いた花を、存分に楽しむことができる。

 

そんなことを、正月休み最終日、自宅前の本屋で尊敬する松浦弥太郎さんの新刊を手に取って読みながら、思った。

 

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド (PHP文庫)

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド (PHP文庫)

 

 

 

高校を卒業して以来、部活の練習という「自分を鍛えてくれるもの」から離れた。大学を卒業して以来、自分の行動を決めてくれる「時間割」から離れた。だらけようと思えばいくらでもだらけることができてしまう。自己管理は自己責任。誰からもとやかく言われない代わりに、自分で自分を動かさなければいけない。だからこそ、自分で自分を鍛えて、いまの自分に適した時間割を組む。そうやって過ごそう。それを自分の暮らしのベーシックにしよう。それを新しい習慣にしよう。それを自分らしさにしよう。それが種になって、きれいな花が咲きはしないだろうか。

 

身体を軽くする

去年、1年間で体重を15キロ減らすことを目標にしていた。年明け、久しぶりに体重計に乗ってみてみたら、クリアしていて驚いた。このところ、年単位で目標を立てて達成したという達成感を得られたことがなかったから、素直に嬉しかった。と同時に、去年までの自分に余分な肉がついていたのかと思うと、ぞっとする。

 

今年はもう少し頑張って、もう10キロ減らして、身体を軽くしたい。去年、少しづつ再開したジョギングを今年も続けながら。がっついて食べ過ぎると、その時は気持ち良くても、そのあとたいてい体調が悪くなる。だから、やめる。

 

 

名言集と失敗集

「こうしたら仕事が進むかもしれない」とか「こうやって考えたらうまくいくかもしれない」と気づいたとき、参考にするのはいつも、誰かほかの人の考え方だ。彼だったらどう考えるだろう。こんな結論を出すんじゃないか。だからこうやって動いてみようか。というように。自分一人で考えつくことには限界があるんだから、他人の意見をとことんとりいれてみようよ。とりあえず真似してみようよ。そう思うようになった。そしてそれはれっきとした「力」なのだということを、この本を読んで確信した。やるからには、中途半端に真似するんじゃなくて、真面目に真似する。それが創造なんだ。

 

「スマホにマイ名言集を」スマホだったら常に持っているんだから、気づいたときにメモをしやすい。「あっこの言葉、いいなぁ」と思った時にすぐメモをして、自分なりの名言集をつくる。そうすれば「なんかあのときいいことを言った気がするんだけど、思い出せない」といったことがなくなる。自分の行動を支える「芯」ができる。

 

それに加えて、今年はこれを実行してみよう、と思っているものがある。それが「失敗ノート」だ。失敗して悔しい思いをしたとき、その失敗の内容と、どうすればよかったかを記しておく。そうすると、次にくだらない同じ失敗をしないで済む。

 

スマホに、自分なりの「名言集」と「失敗集」を。スマホを持つからには、もっと活用しなければ。

 

まねる力 模倣こそが創造である (朝日新書)

まねる力 模倣こそが創造である (朝日新書)

 

 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

2018

年明け、いつも紅白歌合戦を観終わった後、ゆく年くる年を観ながら清らかな気持ちでいる。年が明けた瞬間、家族内で拍手が起きる。幸せな光景だ。

 

「今年の抱負は?」そう唐突に家族に言われ、たじろいだ。その場で答えられず、そうか、抱負がないのか、と思った。いつものことながら、情けない。

 

今年は・・・抱負と言うほど仰々しいものじゃないと思うけれど、昨日の紅白歌合戦で竹原ピストルとエレファントカシマシが全部教えてくれたんじゃないかと思っている。がむしゃらに生き、これじゃいけないと頭を抱える自分を認めてあげること。そうすれば、今宵の月のように輝くんじゃないかと思っている。当事者意識、主導権をもって仕事を進める。「ここはまぁ俺に任せておけや」と言えるように。そういう仕事の進め方ができれば、きっと成果はあとからついてくるんじゃないかと思っている。いつだってミュージシャン頼みだ。

 

夢を歌う

紅白歌合戦を観ながら大晦日を満喫中。

 

「こんな自分のままじゃいけないって頭を抱えてるそんな自分のままで行けよ」竹原ピストルのがむしゃらな歌に、自分はまず、こんな自分のままじゃいけないって頭を抱えないといけないと思った。そうしないとスタート地点にすら立てない。

 

「いつの日か輝くだろう今宵の月のように」首からさげたギターが逆になろうが気にせずパフォーマンスをするエレカシの宮本さんがかっこよくて、こんなきれいな月はないなぁと思った。自分なりに輝くにはどうしたらよいか、真剣に考えないといけない。

 

いつだって、歌に元気づけられ、歌に背中を押されてきた。今年もそんな一年だった。

ミライザカ

年末年始、実家に戻ったときに必ず会う仲間と今年も。東松山。どんどん変貌してく街は、駅前の居酒屋も様変わりしていてびっくりする。去年は確かワタミだった気がする、駅前の角地のビルの2階。それが斬新な名前の居酒屋に変わっていて、迷わずそこへ入った。「ただいまご予約客で満席です」一度は断られたものの、すぐに「すみません、二名様でしたらご案内できます」。助かった、と思った。

 

オープンで庶民的な居酒屋で、居心地がよかった。久しぶりに会う彼からは、いつも会うたびに刺激をもらえる。一級建築士をもっていて、一級建築施工管理技士ももっていて、そのうえ一級土木施工管理技士の資格もとったのだとか。すごすぎる。負けていられない、といつも思う。

 

若者が集まるようなイタリアンバルもあり、3年前にお世話になった飲み屋からリニューアルしたバーがあり、とどんどん進化しているのを感じる。駅前の再開発で商業ビルとホテルもできるらしい。楽しみだ。

 

Season12-6 右京の腕時計

シーズン12 第6話「右京の腕時計」

 

右京の腕時計が狂ってしまい、公認高級時計師の津田に修理を依頼する。その後、津田が勤務する会社の社長、藤井の遺体が発見される。藤井はアパレル会社社長の関から、津田の技術を利用した安価な腕時計の開発を持ち掛けられており、それに反対していた。遺書が見つかったことから当初は自殺と考えられたが、右京と亨は、エアコンの不自然なタイマー設定などの現場の状況から、他殺の可能性を見つける。

 

自殺と思われたのが実は他殺で、そこから最後にまた一転して、視点が変わる。その転換があざやかで、最後に悲しい事実が明らかになる。

 

ラスト、真相が明らかになっとき。思い出と一緒に流れる「カノン」が、事件の悲しさを一層強くさせる。音楽と映像との組み合わせで感情を揺さぶられるところは、例えば小説を読むのでは味わえない、ドラマならではの面白さだなぁ、と久しぶりに再放送をを観て思った。真相を知ってしまったがために、殺人を実行させるまでに思い詰めてしまう男。悲しすぎる。

 

Horizon

もう一度触れられるのなら 

ずっと離れはしないさ 

あの夏の夕立ぐらい泣いていいから

(THE YELLOW MONKEY/Horizon)

 

世間より少し早めに仕事納め。今日から休み。少しゆっくり過ごしながら、帰省する途中の電車内。車窓からの景色をぼんやり眺めながら、頭にはこの曲が鳴り響く。そうか、今日は福岡でメカラウロコをやってるんだ。今年も本当に彼らに助けられ、感動と興奮を教えてもらった。

 

ハローハロー今の自分 望み通りかい?

(THE YELLOW MONKEY/Horizon)

 

望み通りかと言われたら、まだまだ望み通りじゃなくて、望み通りになるためにどうしたらよいかもよくわからない。なりたい自分になるための努力を、外のせいにして怠ってはいないか。

 

東京ドームでのライブ。暗転したステージに浮かぶ映像。導火線についた火がじりじりと進む。スーツを着た4人の鹿(?)は、強い絆で結ばれた彼らの象徴か。

 

自分は仕事人としてこれからどんな景色をつくれるのだろうか。その漠然とした疑問が、目の前の車窓からの景色とどこかリンクする。今年、たくさんの新曲を届けてくれた彼らからのプレゼント。いい曲だなぁ。

 


Horizon (Center Screen Version) / THE YELLOW MONKEY

電車と音楽とイヤホン

通勤やそのほかの移動などで電車に乗ることが多い。通勤に片道1時間、往復2時間とすると1週間で10時間。1か月で40時間。年間にすると・・・と考えていくと、決して無視できるレベルの時間ではない。その時間を無駄に過ごすか有意義に過ごすかは、大きな差となって現れる。そうは思いながらも、現実的にはなかなか有意義と言える時間は過ごせていない。

 

スマホをいじるのはなんか好きじゃないのだけれど、かといってずっと本を読んでいられるかと言うと、そうもいかない。眠い時も多いし、その日手元にある本に関心がわかない時だってある。ではどうするか。イヤホンをつけて音楽を聴く、ということに逃げがちである。隣で同じく音楽を聴いている人の音漏れが気になってそれを紛らわせるため、ということもある。でもそれ以上に、音楽を聴きながら目を閉じてさえいれば、そう短くもない時間を退屈せず過ごすことができるから、そうしている。ただこれも問題があって、最近やめようと思うようになった。

 

 

以前、乗っている車両のトラブルで急遽途中の駅で車両交換をすることになり、途中駅で全員一旦降りなければならないことがあった。それをアナウンスする車内放送を、その音量を上回る音楽を聴いていた自分は聞くことができず、降りなさいよ、と見ず知らずの方に肩を叩かれて気づいて慌てた。それ以来、車内放送が聞こえないような音量で音楽は聴くべきでないと思った。

 

その教訓も忘れかけてきた昨日。電車内で目を閉じて立っていて、ふと目を開けたら、目の前に座っている方が自分を見て口を動かしていた。慌ててイヤホンをとったら、「後ろの席、空きましたよ」と、丁寧に教えてくれていたのだった。「あぁ、ありがとうございます、大丈夫です」なんてやりとりをしてその場は終わったけれど、多分あの時自分は音楽を聴きながら目を閉じていたから、彼女の厚意にしばらく気づかなかったのだと思う。もしイヤホンで耳がふさがっていなかったら、すぐその声を聞くことができたはずだった。

 

そのあと、別の電車に乗り換えて帰宅する直前。目の前の座席が二席分空いた。もうすぐ降りるからと座らずにいたら、隣に立っていた女性二人組がこっちを気にしながら座ろうとする。空席のひとつが立っている自分の目の前だったから、二人で座るのをちょっとためらったのだと思う。私が「どうぞどうぞ」と言ったのだけれど、その時聴いていた音楽がサビで佳境だったこともあり、女性の丁寧な「ありがとうございます」がちょっと視界に入っただけで、その声も聞かず、無視して目を閉じてしまった。電車を降りて、ずいぶん不愛想なふるまいだったなぁと気づいたときには、電車は行ってしまっていてもう遅かった。

 

 

だいたい、街中でイヤホンつけて音楽を聴いている人を見て良い印象を抱くことなんてない。6~7割くらいの確率で音漏れは聞こえるし。でも、自分もそう思われても当然なことをしているのだと気づいた途端、無性に恥ずかしくなった。音楽は好きだし、通勤時間以外でアルバム1曲分の音楽をゆっくり聴く時間が一日のうちあるかというとあまりないから、通勤時間は貴重だったりする。それでも、イヤホンをつけていたがために外からのアプローチに対する反応がにぶくなってしまうのだとすると、それは避けたい。

 

ひとまず、イヤホン持ち出し禁止にしてみようか。やってみて、禁断症状が出るようだったら、音楽との付き合い方を見直すべきだ。大好きなロックバンドのライブを2本立て続けに観た、幸せすぎるくらい幸せな年末に、音楽との付き合い方を改めて考える。