ON読

最近でこそ人並みに本を読むようになったけれど、これが中学高校時代は全く本を読まない、典型的な読書離れの子供だった。図書室で本を借りたことなんて、数え切れるくらいしかなかった。だから何冊も何十冊も借りて読んでいる友達を見ては、どこか自分とは脳のつくりが違うんだろうな、と自分に劣等感を感じていた。そんな自分が「#bookstagram」なんて名前のハッシュタグに出会って面白さを感じ、インスタグラムに気に入っている本の写真を掲載するようになるのだから、きっと人間は成長するものなんだろう。だから、できないことは何一つない。想えば叶うのだとポジティブにとらえるのは、楽観的すぎるだろうか。

 

 

勉強としての読書も好きだし、仕事に関する情報収集の手段としての読書も好きだし、小説のようにストーリーを味わう読書も好きだ。だけど、いずれにしてもその内容がきちんと頭に定着するためには、読み方も大切なのだと思うようになった。楽な気分で読んで、読んでいる時間そのものを楽しむのも良いけれど、最近は、頭にきちんと残して、日常生活で必要な時にその言葉が口をついて出てくるような、そんな「言葉を記憶する」読書をしたいと思っている。その方法が、音読だ。

 

普段は黙読がほとんど。通勤中の電車内も、喫茶店でも、家でも。だけど、唯一音読をする環境がある。それは風呂。本を読みながら湯船に入ることが、しばらく前からの習慣になっている。もっと言うと、本棚から「今日はどれを読もうかな」と2~3分考えて(これが意外と時間がかかる。優柔不断だなぁとつくづく思う)その日の気分にあう本を選び、風呂に入る。で、音読をする。浴室だと声が響くから、より小さく発音しても大きな声で自分の耳に届く。自分の身体を伝って脳に言葉がしみこむ感覚が気持ち良い。そして、心なしか脳への言葉の定着率が良いように思う。

 

黙読は黙読で、必要。声に出すより早く読み進めることができるし、読めない字があってっもストレスはない。要するに気が楽だ。まるで静かにそこにたたずむ樹木のように、腰を落ち着けて、冷静に、流れるように読む。だから、木読。

 

一方、音読は、発声する力がいる。必然的に読むスピードがゆっくりになる。息継ぎの場所に気を遣う。そのかわり、自分の読み方の癖が分かる。なにより、きれいな文章の構成がすっと頭に入る。黙読が頭のスイッチをオフにした読書だとすると、音読は脳に刺激を与えるためにスイッチをオンにする。だから、オン読。ON読。ちょっと強引か。

 

 

尊敬する松浦弥太郎さんのエッセイを、それこそたくさん音読したら、人間として近づけるんじゃないかと思っている。氏の言葉を、暗唱できるくらい音読したら、日常生活での言葉遣いも、考え方も、行動も、変わるんじゃないかと本気で信じている。

 

「読ませるのが良い写真」そこに表現されている物語を読み取れるのが、良い写真だという。漠然と「こういう写真が撮れるようになりたいなぁ」と思っていたものの、どういう写真なのかをうまく伝える言葉が見つからずにいた。そのことをきれいな言葉で表した文章に、出会ったと思った。画像として見て終わりじゃなくて、ゆっくりと読んでもらい、そこに物語を感じ取れる写真。そんな写真を撮れるようになって、インスタグラムに掲載していけたら、最高だ。

 

自分で考えて生きよう

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