ちょっと遅めの初詣へと、自宅からすぐ近くの神社に向かった。こんなに近くに神社があることを、越してきて9か月経つのに気づかなかった。近くに神様がいてくれることに安心し、手を合わせ、心を鎮めて、今年一年の平穏を願う。どうか一年。
そのあと、買い物に行くために駅の方へ向かっていたら、途中にあるラーメン屋の前に行列ができていた。ロードサイドで駐車場完備。入りやすいラーメン屋ではあるし、長くそこにありつつも過度にカッコつけない普通の街のラーメン屋、という感じだ。閑古鳥が鳴いているなんてことはないけれど、かと言っていつ見ても満席、というほど繁盛している印象もない。三が日明けの今日からの営業だったのかもしれないけれど、それにしても「ラーメン初め」希望の方がこんなに多いのだろうか。ラーメンを無性に食べたくなる日は確かにあるからね。お雑煮ばかりで飽きたのかしら。そんなさまざまな想像をしながら、しかしこれといった結論は出ないまま、ラーメン屋を通り過ぎた。
ラーメン屋に限らず、行列ができているお店の前を通る時に胸に去来するものに、変化を感じるようになったのはここ最近のことだ。以前は、行列ができるくらい繁盛していることに嫉妬して、「はいはい、勝手にやってくださいな。私は行列に並んでまで入りたくないし、つまりは関わりたくありません」と距離をとっていた。自分以外にこんなにたくさんのお客さんがいるのだから、自分は招かれていないでしょう。そういう「並んででも入りたい人」を差し置いて自分もその列に加わり、「並んででも入りたい人」が入る時間を後ろ倒しにしたくはない。どうぞどうぞ。と、そもそも興味がないにも関わらず、勝手に席を譲っている人の気持ちで振舞っていた。
今は、自分でなくても他者がこうしてそのお店の繁盛に貢献していることに、(ほんのちょっとかもしれないけれど)感謝の感情が芽生えるようになった。だって、自分が関心を持たない大半の時間にも、こうしてラーメンを食べてくれてるのだ。そうやって売上が立ち、お店が存続してくれるから、何かの拍子にふとラーメンが食べたくなって、気が向くままそのお店に向かった時に、落ち着いてラーメンを食べることができるのだ。これは感謝すべきことだ。その店がいつまでもそこにあるのが当たり前、と感じることがあるのだとすれば、その傲慢さは捨て去ってしまわなければいけない。そのことを、まあまあ好きだったお店があっけなく閉店してしまった、という経験を何度かすることで学んだ。
たまに無性に食べたくなる質素なラーメン。思い返せば、良い記憶ばかりではない。まあまあ暑い日に行ったら店内はエアコンが故障しているのかと思うくらいの暑さで、ラーメン一杯食べるのに苦戦した。なるべくスープも飲むことを自分に課しているのだけれど、さすがにそこまでできずにそそくさと店を出てしまった。風に触れて、外の方が涼しいじゃないかと思った。そんなちょっと汗臭い思い出があっても、それでもそのラーメンは美味しい。店に連なる行列に嬉しさを感じるなんて自分でもどうかしていると思うけれど、その理由は、将来そのラーメンを食べることを可能にしてくれていると思うからである。