エッセイ

いまでこそ人並みに本を読むようになったとは思うけれど、毎日、本からたくさんの情報を摂取して、自分の知識が増え続けているかというと、そうではない気がする。だいたいが、本を読んでいる時間そのものを快適に過ごすことが目的で、時間が経つと読んだ内容を忘れてしまうことも多々ある。しかもこのところ、読む本の分野が、専門書やビジネス書といったような「知識を得る」ようなものではなく、小説やエッセイが多い。意図的にそうしているというよりは、無意識に、そういう本に手が伸びてしまうといった方が近い。基本、頑張ってモノを覚えるにはそれなりの準備と環境が必要で、日々の読書でそういうことはしたくない。

 

エッセイは、書き手の心の中が垣間見れるようで、読んでいて楽しい。あ、自分もそう思う、とか、そういう考え方もあるのか、とか、他人が経験した事実から気づくことは多い。自分も、日々過ごしている中で気づいたこと、思ったこと、考えたことなどを、さらりとした文章でまとめられたら、どんなに楽しいだろうか、と思う。

 

でも・・・とも思う。エッセイを読んでいて楽しいな、心地よいな、と思うのは読んでいる数分、数十分のことであって、あとで何か余韻が残るかというと、それほどではない。なにか仕事で役に立つような知識、知恵、ノウハウが得られるかと言うと、それも少ないと思う。結局は、一瞬の快楽のために夜遅くに美味しいラーメンを食べてしまったり、甘いお菓子を食べたり、休日を昼過ぎまで寝て過ごしたり、といったような快楽におぼれているのと、そう変わらないのではないか。自分を形成する何かが後で残らないのだとすると・・・カッコつけてエッセイなんか読んでいるけれど、実は本当の意味で自分のためになる読書になっていないんじゃないか。ふと、そういう不安に襲われる時がある。というか、いまその不安に悩まされている。もっと読むべき大切な本が、いっぱいあるんじゃないだろうか、と。

 

「読書の目的は、そこから情報を得ることではなく、読む時間そのものを楽しむことだ」そんな言葉に出会ってから、気の向くままの読書を続けてきた。それが自分にとって良いことだと思い続けてきた。別に知識なんて得られなくたっていいや、あとで内容をほとんど覚えていなくたっていいや、というように、情報の蓄積を拒んできた。果たしてこの読書が自分にとって正しいのか、それは正直分からない。ただ、もし「いや、やっぱりエッセイばっかり読んでちゃだめだ。小説ばかり読んでちゃだめだ。もっと難しい本もたくさん読んで、知識を得て、仕事に直接いかすべきだ」という結論に至るには、まだ自分はエッセイや小説を読んでいなさすぎる。もっとたくさん、いろんな作家さんのいろんな本を読んでから、いやこれは違う、と言えるようでありたい。

 

彼のエッセイも大好きだし、彼が紹介するエッセイも読んでみたいものばかりだ。

 

 

ぼくのいい本こういう本 (朝日文庫)

ぼくのいい本こういう本 (朝日文庫)

 

 

くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集 (集英社文庫)

くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集 (集英社文庫)

 

 

独りの珈琲 (知的生きかた文庫)

独りの珈琲 (知的生きかた文庫)

 

 

旅先でビール

旅先でビール

 

 

1,001

先週末、前回の記事を書いたあと何気なく管理画面を見たら記事数欄に1,000とあり、目がテンになった。数の多さとキリのよさ、その両方に驚いて、だ。こんな突然、何の前触れもなく、訪れるものか?

 

記事数を増やすことを目的にしているわけではないし、〇周年記念とか祝〇回とかそういうことにはあんまり関心がないほうだと思っているので、そのときはちょっと驚いたくらいで、そのまま寝てしまった。けれど、あらためて今日、本当にちょうど1,000か?と思って、アーカイブの記事数を足し算してみる。89+124+124+135+・・・。やっぱり1,000だ。これが1,001になるのが惜しくて、このままブログ辞めたらどうかという誘惑に少しだけ駆られる。いやいや、そんなんじゃダメだ。Spotifyをインストールしたけどすぐに飽きてアンインストールした、というただの愚痴が最後の記事だなんて、むなしすぎる。さっさと1,001にしてしまいたい。

 

「1,000なんてたいしたことない。これが10,000になったら、お祝いしてもいいんじゃないか」とも思ったのだけれど、いまのペースで続けていって、記事数が10,000になるのは何年後かと計算したら、気が遠くなった。1,000記事書くのに約8年かかったんだから、10,000記事になるのは72年後。100歳を超えた自分が「週末を有意義に!」なんて言いながらブログを書いているわけがない。仮に生きていたとしても、平日と休日の境目なんてなく毎日動かず呼吸をしているだけだ、きっと。であれば、この1,000回はちょっと大切にしたい、とも思える。

 

1,001回目の記事では、今日までを振り返って、今日からの未来を想う。今日までブログを書いてなかったら、自分の考えをきちんと書いて保存しようという気持ちは芽生えなかったと思う。そして、いま仕事で文章を書く機会が多く、ブログを書いてきたことで蓄積された何かが、少なからず役に立っていると実感すると同時に、もっとスラスラと、ストレスなく書けるようになっていてもいいのになぁとも感じる。続けているからできること。ただ続けているだけではできないこと。その両方があるのだと知った。これからは、「続けているのに、こんなこともできないのか、お前は」を少しでもなくしていきたい。

 

記念にケーキでも買って食べるか?なんて一瞬頭に浮かんでしまったけれど、昨日だったか一昨日だったか、事務所の代表に腹の出具合をびっくりされたのを思い出して、やめた。その時は「ハハハ、そうなんですよ、困っちゃいますよねぇ」なんて笑ってごまかしたものの、結構落ち込んだ。その時の気持ちだけで、甘いものの快楽を求めてしまうのはやめようと思う。オトナなんだ。もっと、ストイックに。

 

Spotify

せっかくスマホで高品質の音楽を聴けるのだから、と思ってSpotifyをインストールした。4000万曲以上のデータの中から未知の曲を選んで自由に聴くことができる。音楽を聴くということへのハードルが、ものすごく低くなった。こんなこと、ほんの数年前までありえないと思っていた。

 

これまで音楽は、CDを買わなければ聴くことができないものだった。だからこそ、買ってまで聴く曲を慎重に選んでいた。結果、本当に好きなロックバンドの曲しか買わないという、偏食ぶりが身体にしみついてしまった。栄養失調でそのうち死ぬんじゃないだろうか。

 

スマホという小さな箱の中に入っている膨大なデータのなかから、聴いてみたい曲、好きなバンドの曲を検索してみる。ピンポイントで聴きたい曲がないのはまぁ仕方ないとして、あぁこれも、これもある、この人の曲が気になるんだよな、と次から次へと聴きたい曲がでてくる。7日間だけ体験できる無料トライアルにさっそく挑戦し、試しにアルバムを1つ、ダウンロードしてみる。これはすごい。

 

だがしかし・・・なんだろう、このワクワクしない感じは。良さそうな曲をいくらでもタダで聴けるこんな「ひゃっほー!」な体験、ほかにないはずなのに。なんで、心の底から嬉しくなって、片っ端からダウンロードしてすぐスマホの充電がなくなって困っちゃう・・・とならないんだろう。

 

そうか、タダだからか。身銭を払わずに音楽を自由に受け取ることができる状態では、その音楽のありがたみが伝わらない、ということなのではないか。例えば街中で聞こえる音楽とか、カフェで流れている音楽とか、事務所で仕事中に流れている音楽だとか、そういったものは、良い。それを聴くことが目的ではないから。意識して「この曲いい曲だなぁ」と聴いているわけではないから。それに対して、自らのスマホでダウンロードして、イヤホンをつけて、聴くことに集中しているときはどうか。やっぱり好きな曲を、興味のある曲を、お金を払ってでも聴きたいと思える曲を、全身全霊で、聴きたいと思うんだろう。定額食べ放題だとひとつひとつの料理のありがたみが薄く感じるけれど、それと一緒だ。

 

どうやら「好き嫌いなくいろんな曲を、さりげなく聴く」ことができないらしい。本当はそのくらいの距離感で音楽と付き合いたいという気持ちはあるのだけれど、なかなかそうはいかないらしい。好きなミュージシャンがいて、その人間に惚れて、彼、彼女の音楽を味わいたいと思って、お金を払って、音楽を手に入れたい。そうして、好きなミュージシャンにわずかながらも敬意を示したい。無料でダウンロードする=つくり手の苦労をないがしろにしている、とは思わない。別に買わなくても、聴いて、良かったら人に伝えて、それがどんどん伝われば、結果としてつくり手のためになると思う。だけど、私はどうしても、音楽を買って所有することでその想いを伝えたいと思ってしまう。もっと柔軟に考えられないのだろうか。

 

インストールしたものの結局ワクワクできず、新しい音楽を発見するという楽しみ方は自分には不向きだと捉え、無料トライアル期間中であるにも関わらず、最終的にはアンインストールするに至った。ほんと意味ない。選び放題、食べ放題は自分には合わないという気づきだけ得られた。


まわりの不機嫌を感じた時は

「不機嫌が許されるのは、赤ん坊か天才だけ」この言葉に出会って以降、不機嫌は悪だ、上機嫌に行こう、と自分に言い聞かせながら、今日に至る。それでも、上機嫌男にはなれずにいる。正確に言うと、「上機嫌を技化する」ことができずにいる。

 

自分がぶすっとした対応をとられたりすると、当たり前だけれど、イラっとする。相手の機嫌が悪そうだと気づくと、つられて自分も暗くなる。で、あまり話しかけないようにしよう、そっとしとこう、と思う。そういうときの空気が、心地よいはずがない。不機嫌の波は、伝播する。

 

これは、自分にも言えることではないか?機嫌の悪い人の近くにいると自分も機嫌が悪くなるのだとしたら・・・いま目の前の人の機嫌が悪いのは、自分の機嫌の悪さが伝わっているからではないか?じゃぁ、少なくとも自分は上機嫌でいなければ。別に難しいことじゃない。24時間365日いつもニコニコしていろと言っているのではない。他人と空間をともにしているときに、上機嫌を装って、というとちょっとニュアンスが違って聞こえるけれど、要は上機嫌になるための自分スイッチを入れさえすれば良い。難しいことじゃない。

 

「不機嫌が許されるのは、赤ん坊か天才だけ」この言葉が頭の中に入っていれば、とてもじゃないけど恥ずかしくて、みっともなくて、不機嫌なんてやっていられないはずだ。「怒っちゃだめ。怒って良いことなんてひとつもない」「オトナの!」でかつてこう言った押井守さんの笑顔を、思い出す。怒っちゃだめ。不機嫌はだめ。上機嫌で行こう。仕事中に「あぁ、いま自分の不機嫌が空気を伝わっちゃってるなぁ」と思うことが多い、自分への戒め。「不機嫌なオレ、近寄りがたい雰囲気を出しているオレ、ちょっとカッコいいかも」なんてほんの少しでも思ってしまっている、自分への戒め。

 

上機嫌の作法 (角川oneテーマ21)

上機嫌の作法 (角川oneテーマ21)

 

 

 

午前0時の忘れもの

美容院のマスターにすすめられたのがきっかけで、手に取った。初めてのファンタジーだった。それまでファンタジーという分野そのものを意識していなかったから、新鮮な気持ちで読むことができた。

 

不思議なことが、まるで当たり前のようにさらっと起きる。サラサラと話が進んでいく、その流れに乗るのが心地よい。昨日読み始めて、今日読了。自分にとってはびっくりする速さだ。

 

愛する人を待つ登場人物、特に女性が、強くてかっこよかった。素人を危険から守ろうとするヤクザの親分を想う恵。同じ名前のライバルを立てようとする沙由利。そして、久しぶりに再会した幼馴染に命の大切さを伝える法子。その法子をそっと見守るルミ。

 

びっくりするようなことがさりげなく起きる不思議な世界を通して、人を愛すること、人から愛されることの、尊さというと大げさだけれど、そんなようなものを発見したような気がした。20年以上前の話なのだと最後に知ってびっくり。時間が経っても尊いものって変わらないんだと思った。ありがとう、マスター。

 

午前0時の忘れもの (集英社文庫)

午前0時の忘れもの (集英社文庫)

 

 

せまい家

狭い家で広く住む。この面白さに、気づいた。

 

地方の一軒家で生まれ育った自分の実家は、世間でいうところの広い家に属するんだと思う。近所もみんなそうだったし(だいたいマンションなんてない場所だし)、家とはこういうものだ、と思って育った。就職して独り暮らしを始めた最初のマンションの小ささと言ったら、なかった。布団を広げて、ちゃぶ台を置いたら、もうなにもできないような5畳の1K。いま思い出してもほんとに小さい。これじゃ人間も小さくなってしまいそうだ、なんて思いながらも、最初は独り暮らしができるというワクワク感が勝っていたから、苦ではなかった。

 

この本を読んで、別に独り暮らしでなく家族暮らしであっても、狭い家でいくらでも楽しく過ごせることに、気づいた。30㎡のワンルームに夫婦二人で暮らしているのに比べたら、自分は広く住んでいる方だ。この工夫、参考にしたい。

 

狭い家で工夫して暮らす、といったら、まったくモノがないホテルのようなところなのかと思うけれど、実はそうでもない。生活感はにじみ出てるし、好きなもの、欲しいものを我慢しない。ただあれもこれもと手を出すんじゃなくて、なくてもいいものは排除しつつ、自分に必要なものは大胆に取り入れる。そういう明確な取捨選択が大切なんだと思う。

 

10.5畳のスペースにクイーンサイズのベッド、直径152センチのローテーブル、ソファ、棚、テレビまで。それぞれの家具は小さくしたいと思いがちだけど、そうではない逆の発想。でかいテーブルがどんとあれば、そこがリビングにもダイニングにも仕事場にもなるという、用途別に空間を分けない考え方が、重要なんだ。

 

私も、知らず知らずのうちに、実践していることがあった。いわゆるリビングは、ない。テレビもない。ダイニングテーブルでご飯も食べるし、パソコンだってやるし、手紙を書いたりもする。壁面本棚が結構なスペースを陣取っているけれど、これが理由で部屋が狭くなったと嘆くことは、ない。ほんとに欲しいものは我慢しない。ただし、なくてもいいかな、とか、買おうか迷うな、というようなものは、買わない。これを徹底したらよいのだと思う。

 

 

あえて選んだせまい家 (正しく暮らすシリーズ)

あえて選んだせまい家 (正しく暮らすシリーズ)

 

 

 

 

パリは燃えているか

自宅前のホールで大家さんが企画するミニコンサートがあり、聴きに行ってきた。バイオリン、ヴィオラ、チェロの4重奏。桜の花は満開、とまではまだ行かなかったけれど、桜の木の下、心地よい時間を過ごすことができた。

 

パリは燃えているか」という曲を、しばらく前に同じくここで開かれたミニコンサートで初めて聴いて、虜になった。第二次大戦時代、パリを破壊せよとヒトラーが指令を出す。焼け野原の映像が脳をかすめるような、そんなもの悲しい雰囲気を、美しい4人が丁寧に表現していて、しびれた。よりいっそう好きな曲になった。

 

 

市川出身とか、市川在住とか、そういった方で、自分よりはるかに若かったりするのに、ポリシーをもって、夢をもって、活躍している人がたくさんいる。そういう人に、このところ触れる機会が多い。自分も負けていられない、頑張らなければ、と思わずにはいられない。

 

 

こういう素晴らしい力をもっている方の発表の場を、力を伝播させて他の人へとつなげられるような場を、自分もつくれないだろうか。ひょっとして、アイデアと、ちょっとした勇気、行動力、熱意があれば、自分も企画できるのではないか。そう思えるようになった。さらに、自分も「これをやってみたい」「これを誰かに伝えたい」というものを、実現できるかもしれない。自分で勝手にハードルを高く設定していたけれど、それはただ単に自分で自分を抑えつけていただけに過ぎず、本当は簡単なことなのかもしれない。「難しいことは考えず、とりあえずやったらいいじゃん」そんな言葉が頭に浮かぶ。

 

FOREVER&EVER

何処まで翔べるのか確かめたくて

(LUNA SEA/FOREVER&EVER)

  

 

「趣味は何ですか?」と聞かれたときにスパッと答えられるような、そんな楽しみがあればいいなぁと思いながら、割と長いこと自分にとっての趣味は何かを考えている。音楽鑑賞?いやいや、そんなに聴くわけではないし、好きで聴く音楽の範囲が狭すぎて恥ずかしいくらいだ。映画鑑賞?相棒の劇場版を除いて、ここ最近全然観てない。ランニング?言えるものなら、言ってみたい。続かないから、困っているんだ。

 

読書?うーん、まぁ好きだし、最近でこそ人並みには読むほうだと思うけれど、趣味かと言われるとちょっと違う気がする。ほんとに読むのが楽しくて仕方なくて、時間を忘れるくらい読みふけってしまうというほどの本好きでは、決してない。「本を読む人間である」と他人に思われたいから、とか、「よく本を読んでいるだけあって、文章を書くのがうまいですね」と他人に言われたいから(本をたくさん読む=文章を書くのがうまい、とは一概には言えないでしょうけれど)、とか、そういった他人からの視線ありきの理由で読んでいる気がする。趣味でも娯楽でもなく、ましてや呼吸をするのと同じように自然にしてしまうものでもない。本に手が伸びる原動力は何かと冷静に考えると、義務感と焦燥感だ。

 

そうこう考えているうちに、もしかして「自分の趣味は何かを考えること」が趣味なのではないか、とまで思うようになってきた。趣味なんて、あれこれ考えて、これにしようと決断して、のめりこむようなものじゃないだろう。なければないで別にいいんだし、無理にこれだと決めることでもない。他人から「いいかげんやめなさいよ」と言われたってついやりたくなってしまうこと。明日までに完成させなければならない仕事があったとして、一夜漬けでつくらなければならいものがあるのに、仕事そっちのけでつい手を出してしまうようなもの。それが自分にとって無駄だと分かっていてもつい没頭してしまうこと。それが、趣味だ。

 

 

「没頭すること」「のめりこむこと」「熱狂すること」これらの重要性を説く人は多い。周りをみても、すごいと思う人は皆、なにかに熱中している。時間を忘れて、夜遅くなろうが関係なく、深く世界に入り込む。結局、仕事とプライベートを明確に分けるものはなく、仕事の外で熱中していることが仕事に生かされたり、もっと言うとそのまま仕事になったりするのだと思う。

 

たった一人の熱狂-仕事と人生に効く51の言葉-

たった一人の熱狂-仕事と人生に効く51の言葉-

 

  

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

 

 

 

大学時代、ほぼ毎日触っていたクラシックギターがまだ手元にある。社会人になってから、一時期距離を置いていたこともあったけれど、このところ意識して触るようになった。新しい曲にチャレンジしようという意気込みは、あまりない。もっと高度なテクニックを覚えてレパートリーをどんどん増やしたいという欲望も、ない。一通り弾けるなじみのある曲を、もっと丁寧に、もっと美しく弾きたいと思い、同じフレーズを何度も弾いたりしている。

 

いわゆる「弾き語り」には、あまり興味がない。フォークギターをジャカジャカ弾きながら歌うということを、できるようになりたいという気持ちがない(できる人を見るのは好きだし、かっこいいと思うけれど)。これは、大学時代に軽音楽部ではなくギターアンサンブルを選んだ自分の性格が影響しているのだろう。コードを押さえてストローク、よりも、アルペジオの方ができるようになりたい。SUGIZOパートよりINORANパートが好き、と言ったような。この価値観、昔から変わらないなぁ。

 

 

趣味は、クラシックギターを弾くこと。いまは「SHINE」を世界一上手に弾けるように練習しながら、「FOREVER&EVER」に挑戦しようと企んでいる。Aメロから、難しすぎる。毎日イントロばかり弾いて、満足してしまっている。

 

LUNA SEA GUITAR SOLO INSTRUMENTS 2

LUNA SEA GUITAR SOLO INSTRUMENTS 2

  • アーティスト: MICHIWO TASHIMA
  • 出版社/メーカー: Universal Music LLC
  • 発売日: 2005/07/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る
 

 

人とコミュニティ

昨日。竣工済コーポラティブハウスの管理組合総会に出席してきた。総会の後、子供たちと一緒に遊ぶ入居者を見て、入居者同士のコミュニティが築年数とともに熟成されているように感じた。なんでも休日はこうして遊び相手を買って出てくれているそう。子供たちの笑顔の原因のほんの一端でも自分が担っているのだと思うと、気が引き締まる。

 

 

今日。自宅隣で大家さんが定期的に開催している手作り市に立ち寄った。絶品のコーヒー屋さんと話をして、ブレンドを買って、ホールを見てまわった。休日はほとんどやっていなくて入れない幻(?)のカフェの桜蒸しパンを買って、家でコーヒーを飲みながら食べた。こういうささいな瞬間に、手作り市っていいなぁと思う。

 

自分のちょっとした目標ができた。自宅アパートの中庭でも、こうした面白いことができないだろうか。立派なカリンの木がそびえる居心地の良い中庭で、何かできたら面白そう。新しいコミュニティ、人と人とのつながりを生み出せるかもしれない。それを大家さんに持ち掛けてはどうだろう・・・

 

 

午後はまた別の竣工済みコーポラティブハウス。海外転勤される入居者の壮行会におじゃました。世帯数はやや多いが団結力、仲の良さはぴかいち。入居者手づくりのピザを食べながら、親睦を深めた。

 

こうしたコミュニティをより深めていって、より住まいが快適になるために、外からの立場で自分は何ができるのか。何を求められているのか。それを考えるキッカケになった。大切に住んでくれているからこそ、生半可なことはできない。そう思った。

 

abemaTV

自宅からテレビを排除して、もう何年もたつ。今日までに、「あぁ、テレビがあればよかったな」とか「捨てなきゃよかったな」と思うことがほとんどないから、結果オーライだと思っている。小さい部屋でも広く使えるというメリットもある。テレビがなければおのずと、ソファがあってコーヒーテーブルがあって、といういわゆる「リビング」空間が必要なくなる。よって自宅にはリビングがない。いたって普通の1Kだけれど、部屋には本棚と机、ダイニングテーブル、あとはベッド。かなりシンプルな部屋で毎日を過ごすことができていると思う。

 

そんな自分がテレビの代わりについ観てしまうのが、youtube。以前「オトナの!」という大好きな番組があって、それが終わってしまったのだけれど、ユースケ・サンタマリアいとうせいこうがオトナとは何かを引き出すトーク番組が、abemaTVでやっていると知り、youtube版を楽しんでいる。ゲストの話が強烈で面白いというのもあるのだけれど、なんといってもユースケさんとせいこうさんの話の引き出し方のうまいこと。勉強になる。

 

TVがここまで進化したか、とびっくりする。「abemaTV」の「アベマ」を「アメーバ」と誤読していた自分が恥ずかしい。スマホを持っていたら手軽に外出先でもテレビが観られる。すごいなぁ。自分もアプリをダウンロードしてしまった。たぶん「オトナに!」しか観ないのに。

 

これがきっかけでフラワーカンパニーズの「深夜高速」を聴いて、心臓を撃ち抜かれた。「感情七号線」のMVを観て自分も何か行動しなきゃ!と胸が高鳴った。「4人が新曲を楽しみにできる状況がいい」次はこうしよう、こういう曲つくらない?とワクワクしながら楽しんでいる彼らのように、自分もワクワクしながら企画をつくるようでありたい。

 

大宮エリーさんの電通時代の話を聞いて他人事と思えず、力不足で前職をリタイヤした自分と重なった。「自分がいなくても組織は機能する」そう気づけることで、どんだけ心が楽になるだろう。それに気づけるだけでも、過労死は、なくならないにせよ、少なくなると思う。逃げ場所はあるし、逃げればいい。

 


結成28周年のフラワーカンパニーズ"人生のつまずき"を語る|脚本家 大宮エリーが親友フラカンを連れて登場!せいこう×ユースケ オトナに!前編|AbemaSPECIAL2【AbemaTV】

春分の日

三連休最終日は春分の日。今日を境にコートはいらないなぁと思うくらいのあたたかさで、走るのにはちょうどよい天気。毎日とはいかないまでも定期的に走ることを目標としていたのだが、なかなか身体が動かず気づけば3月。今年初めてのランは寝起きのぼーっとした気持ちのまま、準備運動もそこそこに。そりゃぁ、長く走れるわけがない。

 

読書の、後でその内容を覚えているかどうかよりも、勉強になったかどうかよりも、読んでいる時間そのものが快適であればそれで良いと思うのと同じように、走ることも、体力がついたとか習慣になったとかそういう結果よりも、走っている時間そのものが心地よくハイの状態を味わえればそれで良いのだと思えるようになってきた。そして楽しむためには、頑張りすぎて苦しくなった記憶が残ってはよくない。だから無理せず、少しづつ・・・なんて言いながら、毎週取り組めていないナマケモノの自分を正当化する。

 

江戸川の河川敷。テントを張ってバーベキューを楽しむ人たちがいた。草むらに腰かけてアコギを弾く若者がいた。自分を後ろからすっと追い抜かすランナーがいた。外を歩くのも、外にいるのも、楽しい時期がこうしてやってくる。ようやく冬が終わる。

 

単行本と文庫本と

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昨日、至福の時間を過ごした古民家カフェには、これまた素敵な本棚があった。側板がゆるやかなカーブを描く曲線になっていて、和室になじんでいる。誰の部屋にでも、どこの本屋でも置けるようなものではないと思う。この空間だからこそ似合うんじゃないかと思うような、唯一無二感がそこにはあった。

 

そして並んでいる本のセレクトも、良い。詩集だったり、ギャラリーの事例集だったり、エッセイだったり。古民家でゆっくりと時間を過ごすお供に、ぴったり。思わず「これ借りていいですか?次回来た時に返しますから」と本気で言いたくなったくらいだ。

 

そのなかに、松浦弥太郎さんのエッセイを見つけた。自分の好きな方の本がこうしてセレクトの中にあるのを見ると、自分が好きだと思っている作家さんを同じように好きだと思っている他者が、しかも身近に(いま目の前に)いるのだと分かり、無性に嬉しくなる。しかも「初エッセイ集」とある。エムカンを運営されているときの、本当に初期のエッセイ集じゃないか。これは、本当に恥を忍んで「貸してください」と言うっきゃないか?と思いながら、ページをパラパラとめくっていたら、自分も持っていることに、ようやく気付いた。本業失格。単行本で装丁も違うから、分からなかった。自分がもっている文庫本とは、妙に印象が異なる。

 

本はできるだけ単行本ではなく文庫で買いたい、と常々思っていた。文庫か新書。そのほうが持ち運びやすいし、読みやすい。単行本はかさばるし、ハードカバーだったりすると持っていて重い。なかの文章に興味があって買うんだから、新刊に飛びつくとき以外は、文庫化したものを買いたい。そう思っていた。

 

しかし、こうして文庫との表紙のイメージの違いを見てしまうと、単行本で読みたい本もあるのだ、と思える。好きなミュージシャンの曲は、ダウンロードして聴くだけじゃなくて、CDで買って、ジャケットや歌詞カードのデザインまでひっくるめて味わいたい、と思うのと一緒だ。ハードとしての本のデザインをひっくるめて、本なんだなぁということを、実感した。

 

本業失格

本業失格

 

  

本業失格 (集英社文庫)

本業失格 (集英社文庫)

 

 

K:亀山薫 -Kameyama Kaoru-

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いまでこそ国民的刑事ドラマとなった「相棒」だけれど、シリーズとしてスタートした当初から、そのストーリーは格別に面白かったと思う。好きな俳優さんが出演しているから、とか、男二人が互いに協力しながら、弱点を補いながら事件を解決していくというテーマが自分の好みに合致したから、とかそういった偏見を抜きにしても、他に敵はないんじゃないか。一番最初は、昔大好きだった刑事ドラマ「はみだし刑事」が終わってしまって、「高見兵吾ロス」に陥っていた時に、新しく始まったドラマとして観はじめたと記憶している(注:調べたら、はみだし刑事が終わってから相棒がスタートしたのではなかった。シリーズ末期に相棒が始まって、交互に放送していた)。だから、「はみだし刑事」の面白さに匹敵するドラマであるはずがないというのが、正直な気持ちだったと思う。しかし不思議なもので、観始めたらどんどんはまり、特に亀山薫の熱血ぶりが、心を打った。

 

「王様のブランチ」にレギュラー出演しているかっこいい俳優さん、というのが最初のスタートだったと思うけれど、寺脇康文さんの魅力は、相棒でなければ観られないのではないかとさえ今は思う。頭脳明晰の天才、正義を追求する杉下右京の相棒として、右京にはできないことで事件を解決していく。間が抜けているところがあるから、完璧人間じゃないから、「雲の上の存在」ではない「自分もこういう男でありたい、という目標」になりうるのだと思う。

 

シーズン2(2003年)の「クイズ王」の冒頭、3問間違えると誰かを無差別に撃ちます、という犯人と戦うシーンは私にとって、シーズン15まで続いている相棒の歴史の中でも一二を争う名場面だ。一つの携帯電話に顔を寄せ合う右京と薫が、「相棒」の魅力を的確に表していると思う。

 

島根県の県庁所在地を聞かれ、堂々と「松山」と言っちゃうようであっても、いいじゃないか。江戸幕府を開いた征夷大将軍徳川家康だと分かるんだから。それよりももっと大事な、男としてかっこいいなぁと思わずにはいられない、正義を貫く姿勢を見せてくれるんだから。そのかっこよさは、円周率小数点以下第151位の数字を3秒で答えてしまう右京さんにも、ない。

 

たねまめランチ

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相模原にある古民家カフェ「たねまめ」に行ってきた。壁面本棚をつくってくれたnikomさんとの出会いがきっかけで知ったこの古民家カフェでは、月替わりの手作りランチを食べることができる。人数限定のこのランチ、いつも予約でいっぱいになるのだとか。その理由が、今日ランチを食べて分かった。美味しすぎる。

 

平屋の木造住宅を改装して、といっても雰囲気はそのままにしながら、和室を広げてちゃぶ台を置いて、座ってご飯を食べる。梅や杉、そしてサルスベリと、たくさんの木々が並ぶ庭を眺めながら、ものすごいゆったりとした時間が流れる昼間を、のんびりと過ごした。久しぶりに会った家具屋さんとの会話も弾む。

 

蔵書票をつくってくれた「久奈屋」さんが10周年を前にいままでを振り返る個展があった。ていねいにつくられた手作りの紙文具は、見ているだけでも心が落ち着く。さまざまな言葉をモチーフにしてちりばめた小説を、じっくり読む。言葉の選び方が丁寧で、頭に不思議な雰囲気の世界が広がるイメージ。この独特の雰囲気が、久奈屋さんを的確にあらわしていると感じた。

 

後半はDJ HaYaKaWaが加わり、レコード鑑賞タイムへ。こうしてDJ演奏を生で聴いたのは、初めてではないか?その選曲のセンス、幅の広さに驚いた。レコードなので、当然リアルタイムで聴いていない昔の曲がすべてなのだけれど、普段例えばテレビで流れているのを聴いても特に何も思わない曲でも、こうして意識して聴くと、いい曲だなぁと気づく。これも、場の力なのか。

 

人が集まる場所。クリエイターが自らを発表し、それを受け取る場所。特に何も考えずに自分だけの時間を過ごす場所。自分にとってのそんな場所はここだ、と言えるとは、なんて贅沢。定期的に行きたいと思える場所がまたできた。ちょっと遠いけれど。

 

tanemame.bitter.jp

 

www.hisanaya.net

 

オレンジ色の

特別お題「おもいでのケータイ」

 

ケータイに奇抜さを、といったらちょっと語弊があるけれど、どこか人と違うものが良いと昔から思っていた。白とか黒とか、そういうポピュラーな色の、シンプルなケータイに魅力をあまり感じなかった。だから、オレンジ色の、かなり厚みのある、流線型のケータイ(以下、DRAPE君)を手にしていた時は、おれは他人とは一味違いますよ、という優越感に近い感情を持っていた。いまとなっては、過去の恥ずかしい感情の一つにすぎないけれど。

 

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真ん中のオレンジのやつ

 

当時、私は車をもっていて、それもまた、いま思い出すと天邪鬼の自分の性格を表しているのだけれど、オレンジ色のbBに乗っていた。どんだけオレンジが好きなんだって感じだ。でも、実際、好きな色なのだ。いまもそうだ。

 

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これ。いまみると、ほんとチャラい・・・

 

で当時、愛車の運転席に乗ると同時にDRAPE君をダッシュボード上に置いていた。運転しながら、ごついオレンジ色のDRAPE君が視界に映る。そして正面には、同じくオレンジ色の車体のボンネット。この色の見事な一致が、満足感をもたらせてくれた。今思い出すとまったくもって、意味不明だ。ダッシュボードは黒なんだから。

 

 

今日、仕事で久しぶりに車に乗り(車に乗せてもらい)、高速道路をびゅんびゅん走った。首都高を走ったのなんて何年ぶりだろう。ふと、数年前を思い出す。あの頃は車で移動することも多く、高速道路の経路がなかなか覚えられずに苦労した。上司を乗せて、道を間違えたらどうしようとドキドキしながら、また沈黙にどうやって耐えようかとハラハラしながら、運転したことも何度あっただろう。いま思うと、車の運転という一定の緊張を伴う行動を少しでも楽にしてくれる大事な役割を、DRAPE君は担ってくれていたのかもしれない。

 

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