電車に乗って妙典へ行く。社会人になってから16年間通っている美容院に行くためだ。今も1~2か月に一度、ここで髪を切ってもらっている。妙典に住んでいた頃は家からすぐ近くだったので楽だったけれど、都内に越してきてからは、ちょっとしたお出かけ気分だ。だったら都内の自宅近くで新しい美容院を開拓すればいいんじゃない?そう思われるだろう。それが、そう簡単にはいかないのが自分なのだ。これまで16年間通ってきた美容院から去り、また新しいところで一から挨拶をし、こんな感じで切ってほしいと説明し、たどたどしい関係から始めるだけの勇気が、ない。勇気なんていらないだろう、と言われるかもしれない。それこそ今の美容院だって、初めて行った日は一から挨拶をし、こんな感じで切ってほしいと説明し、たどたどしい関係から始めたのではなかったか。それと同じことをもう一度するだけだろう、と。そう言われればそうだ。しかし、これが難しい。なんでなんだろう。長くお世話になっている今の美容院に申し訳ないから?しかし、例えば今後20年30年ずっと通うかというと、そうでない可能性が高い。離れる日は早かれ遅かれ来るのだ。なのに、なぜ?自分でもよく分からない。
暑いので、美容院でいつもより短めに髪を切ってもらった。その後、駅前のVIE DE FRANCEでクリームパンを食べ、コーヒーを飲みながら、このエッセイを書いている。今日はこれしか予定がない。もう帰ってもいいし、このままふらっと遊びに行ったっていい。ここでコーヒーをお代わりして居座るというのも良いかもしれない。こういう「あとの予定に支配されない自由時間」が自分は好きなのだと思う。こんなとき、勢い余ってスマホに手を出し、SNSの扉を開けたくなるけれど、そうしてはいけない。沼に足をとられ、沈んでいくのが分かる。こういうときにはノートとペンを取り出して、思いつく限りのことを書き連ねていく。外から情報を取り込むのではなく、自分から情報を吐き出す感覚だ。そんな時間の使い方が好きなのだとつくづく思う。
一杯目のコーヒーがなくなり、お代わり100円のサービスをせっかくだから受け取り、もう少しこの作家のような創作時間を楽しもうかと思った矢先、急に自宅で留守番をしている猫が気になり始めた。猫は気まぐれで、人間なんていなくても楽しい暮らしを自分で模索できる動物。一匹なら一匹で、気楽に過ごしているだろう。そもそもが、大半を寝て過ごしている。しかし気になってしまうのが飼い主の性。暑くてぐったりしていないか、とか、実は人間がいなくて構ってもらえず寂しくしているのではないか、とか、心配し出したらキリがない。こうして結局、予定よりはるかに早くこの自由時間を切り上げ、妙典をあとにすることになる。美容院で髪を切ってもらう、それだけの目的で来て、すぐ帰るということに対しては、何とも思っていない。今は仕事で頻繁に来る街だ。それよりも、猫を迎え入れる時に「猫は愛しても、猫に縛られ翻弄される生活はしない」と決めたはずなのに、結局は猫にこだわり、猫を気遣って行動するようになってしまった自分に、少しだけがっかりしているのだ。まぁ、その分帰ったら出迎えてくれる猫の可愛さがたまらないのだけれど。