首折り男のための協奏曲

彼の作品は、ひとまず全て読もうと決めた。つべこべ言わず、全て読んで、彼の世界を自分の中に入れてしまおう。

 

行きつけの本屋に立ち寄ったら、いままで単行本であったことが理由で見向きもしなかった作品が、文庫本になって並んでいたので、迷わず手にとった。あいかわらず、タイトルからストーリーが全く読めない、この不思議な感じが好きだ。

 

読みはじめたばかりだけれど、すごい面白い予感がする。一見なんの関係もなさそうな複数のストーリーが互い違いにやってくるスリリングな展開は、まるで「ラッシュライフ」のよう。そして、勧善懲悪という彼を象徴するテーマを早くも垣間見れる。さながら「フィッシュストーリー」のような雰囲気だ。

 

彼の作品は、全て読もうと決めた。すでに買っていて読み途中の別の作品があって、それがどれだけ中途半端だろうが、関係ない。だから一冊を読み終わるのが、買ってから数ヵ月後ということもざらにある。そういうときはだいたい、読み終わった時にストーリー全体を覚えていない。まぁそれでもいい。本を、特に娯楽で小説を読むことの良さは、あとで身になるとか知識を得るとかそういったことではなく、読んでいる時間そのものにある。その通りだ、と自分に言い聞かせている。

 

「死神の浮力」と、どっちが先に読み終わるだろう・・・。というか、「陽気なギャング」も全然読み進んでいない・・・

 

首折り男のための協奏曲 (新潮文庫)

首折り男のための協奏曲 (新潮文庫)

 

  

死神の浮力 (文春文庫)

死神の浮力 (文春文庫)

 

  

 

人との関わりで得られるもの

自宅のポストに「ご招待」と書かれた封筒が入っていた。ドキドキしながら開けたら、大家さんからの写真展のお誘いが。「デジカメ写真部」という小さなコミュニティの展示が自宅のすぐ前のホールであるらしい。

 

おそらくはこの招待状、自宅アパートの住人全員に投函しているのではなく、大家さん主催のイベントにちょこちょこ顔を出している私へのメッセージなのだと、勝手に受け取っている。

 

思えば今年は、大家さん主催のイベントがきっかけで、多くの素敵な出会いに恵まれた。一生ものの壁面本棚をつくってくれる相棒に出会えたのもそう。自宅近くに本当に美味しいコーヒーを飲める喫茶店がないと嘆いていた自分を救ってくれたコーヒー屋に出会えたのもそう。音大生ミニコンサートで聴いて「パリは燃えているか」という素敵な曲を知ったのもそう。こういった出会いを、これから大切に、途切れさせないように育てていくことが、自分に課せられた使命だ。

 

 

行きつけのパスタ屋で、店員さんから個人的にショックな報告を受けた。一瞬頭が真っ白になったけれど、しばらくして、それを一客にすぎない自分に教えてくれた、彼女の心遣いに感動した。ミニプレゼントまでもらってしまった。こんなの、もったいなくて食べられない。

 

よく食べに来る常連さんだと気付いて欲しい、という下心は確かにあった。だけど、結局は一客にすぎないのだと思っていた。この日、彼女が自分を気遣ってくれたことで、いままでの記憶がすべて積み重なって、それが花開いたような、言葉にすると何言ってるのかよくわからない感じだけれど、そんな気がした。その優しさに、なんとかして応えなければならない。

 

 

こうした出会い、人との関わりあいが、暮らしを楽しく、ワクワクドキドキするようなモノにしてくれるのだと思う。明日を生きる力を与えてくれるのは、モノでもお金でも情報でも仕事そのものでもなく、ヒトだ。

 

Nordic Lifestyle Market

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20161210154008j:plain

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20161210151403j:plain

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20161210152144j:plain

 

Nordic Lifestyle Marketに行ってきた。国連大学で毎週末(!)開催している「Farmaer's Market」という市があって、今週は北欧の家具や雑貨、コーヒーなどが集まるイベントが同時開催されていた。このところ、北欧の家具のあたたかさというか、普遍的で飽きのこないデザインに惚れて興味があったので、行ってみようと思い立った。

 

職場のすぐ近くにあることは知っていたが、行ったことがなかった家具屋「KONTRAST」の家具が、かっこよかった。サイドボードをつくってCDコンポを置くのが、いまの自分の目標。

 

www.kontrast.jp

 

 

移動式本屋に初めて入った。狭い車内いっぱいに立つ本棚には、そこでしか売っていなさそうなレアな本がたくさん。わくわくしながら見繕い、いまの自分の気分に合致した一冊を、迷わず手にとった。目的意識、テーマをもった旅。したいなぁ。

 

自分の仕事をつくる旅

自分の仕事をつくる旅

 

 

中国以外の海外に行ったことがない、極端に海外旅行音痴な自分。究極の出不精は、生まれつきか。身体に染み込まれたもので、今後価値観が変わることはないか。それでも、こうやって本を読むと旅に出たい、という気にはなる。なにも海外に行って、現地の人に出会って、自分にとっての常識は世界の非常識で、世界の常識が自分にとっての非常識、ということがあるのだということを知るだけが、旅ではない。今日だって、こうして家具屋や移動式本屋に出会えたんだから、表参道に来たこと自体が、旅のようなものだ。

 

今日はコーヒーが飲めなかった。見るものが多すぎて、ゆっくり座ってコーヒーを飲むような状態ではなかった。今度は、北欧のコーヒーにも触れたい。

 

J:アルネヤコブセン -ARNE JACOBSEN-

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20161211000232j:plain

 

ハンス・J・ウェグナーの家具に惚れた。GE290の一人がけソファからは、最高級の贅沢な時間を自宅で過ごせるのではないか、と思うほどの心地よさが伝わってくる。そしてサイドボードのRY25やRY26も圧巻。なにひとつ無駄なものがなくて、何年たってもデザインが古びないとはこういうものを指すのだと心から思う。

 

そこからスタートして、興味の対象は北欧のデザインへと広がった。いままで何の気なしに見ていて「かっこいいなぁ」と思っていた程度のものが、実は北欧の国で生まれたものだと最近気づいた、というものがたくさんある。北欧のデザインにピンとくるアンテナが、昔からあったのだろうか。

 

デンマークのデザイナー、アルネ・ヤコブセンを最初に知ったのは、いつのころか忘れてしまったけれど、最初はそれほど気にならなかった。デンマークの人であることもしらなかった。「バンカーズウォッチ」を見た時だって、12個の小さな四角形のうちの一つが黒く塗りつぶされたデザインを、シンプルだなぁくらいにしか思っていなかった。しかし、ハンス・J・ウェグナーからアルヴァ・アアルト、ヤコブ・イェンセンと興味が広がっていくうちに、ようやく注目するようになる。そうか、アントチェアやセブンチェアをデザインした人なのか、といまさら言ったら、大学で建築を勉強したということを笑われるだろう。

 

黒く塗りつぶされた四角形の並びを遠くから眺めると、らせんを描くように、スーっと時間が流れていく感覚を味わえる。時間を確認するたびに、この不思議な感覚を意識できるなんて、素敵なことだ。

 

自分にとって良いデザインとは、第一印象で「これはかっこいい!」とビックリし、その魅力に一瞬でのめり込んでしまうようなものよりも、最初はそれほど印象に残るものではなかったのだけれど、何度か見るうちに「あれっ、これ、好きかも」と思うようになり、だんだんその魅力にハマっていく、というものにあるのかもしれない。10年20年、そしてそれ以上、と永く使うことができるものとの出会いは、きっと衝撃的な一目惚れではなく、時間を経て徐々に好きになっていく、その時間経過がもたらしてくれるのだと思った。

 

幡ヶ谷のパン屋

管理組合運営のサポートをしているコーポラティブハウスが、渋谷区西原にある。最寄駅は京王線の幡ヶ谷駅。駅を降りて真っ先に意識が向かうのが、かっこいいコーポラでも、緑豊かな緑道でもなく、ドトールでもなく、ましてや大通り沿いの喧騒でもなく、駅前の小さなパン屋だったりする。

 

アルファベットだけでは読みづらい店名のこの店は、至って普通のパン屋で、ここにしかない個人店でもない。京王グループの会社が運営しているパン屋なのだということを、今日調べて初めて知った。

 

仕事で訪れることがほとんどであるこの街。コーポラに寄った帰りや寄る前の休憩、管理組合総会前の準備と、その用途はことのほか多い。シンプルなパンを食べながら、憧れていたコーポラティブハウスの仕事に携われているということを噛み締める、貴重な時間を過ごしている。

 

管理組合に快適を届ける仕事は、もちろんうまくいくことばかりではなく、時には入居者からキツイ言葉をもらったりして凹むこともある。もっと建築を勉強しなければ。勉強して、問題に対する解決法を自分の力で提示できるようにならない限りは、クライアントから信頼してもらえないではないか。といつも不安を感じながら、それでも専門書を開いて勉強に時間を割くという実行を伴わないのが、私のダメなところだ。どこかで、「自分には知識がなくたって、事務所の仲間に聞けばいいんだ」と甘えているんじゃないのか。

 

今日も、仕事があまりうまくいかないことの鬱憤を、甘いパンを食べることで晴らそうとした。ただ今日は、駅を降りてまっすぐ目的地へ向かったため、立ち寄らなかった。危ない危ない。仕事上の不安や危機感を、パンで帳消しにしようとするのがいけない。幡ヶ谷は、自分を現実逃避させようと誘惑してくる街だ。

 

旅と寸法

ホテルに行ったら、その部屋の寸法を測って間取り図を書く。その間取り図を集めた旅の記録。パラパラとページをめくったら、その手書きの間取り図がとても美しくて、手書きできれいに図面を書けるっていいなぁと思った。フリーハンドの図には、味がある。色もついているから、その部屋の温度感も伝わってくるような気さえする。

 

スケール片手に、とにかく測る。著者はそれを仕事としてでも義務としてでもなくこなしていて、まるで趣味のようだ。そうやって得た間取り図の蓄積が、そのまま自分の頭の中への寸法の蓄積につながっているのだろう。

 

こうして、仕事における体力づくりや情報収集のために、人があまりやらないことを趣味のように、黙々と、熱中してやる。なにかこういうことをしている人が、すごい仕事をする人になるのだと思った。

 

この本を読んだ途端、自分が身のまわりのモノの寸法や動作寸法をよく知らないことに気づかされた。自分だっていつもカバンにスケールを入れて歩いているんだから、もっと活用しないと。

 

旅はゲストルーム (知恵の森文庫)

旅はゲストルーム (知恵の森文庫)

 

 

リアル本屋

本屋と自分との関わりについて、考える。

 

リアル本屋にどれくらいの頻度で行きますか?というアンケートをどこかで見た。その選択肢の一番が「週に複数回」というものだった。それに「週に1回くらい」「月に数回」「月に1回くらい」「3~4ヶ月に1回くらい」「1年に1回くらい」と続いて、最後が「ここ数年行ったことがない」だったと記憶している。自分の場合は・・・週に一度は必ず行くし、週末は土日とも立ち寄るというようなこともあるから、週に複数回ということになる。そうすると、世間一般で言うところの、よくリアル本屋に行く部類に入るのだろう。そういう実感はまるでないけれど。

 

ネットショップにとってかわって、リアル本屋が近い将来消えてなくなってしまうか?という議論がある。それはないんじゃないか、というのが今の自分の考えだ。確かに、例えばスマホは急に増殖して、まわりにガラケーを持つ人なんて見ないくらいだけれど、街を歩いていて「本屋がないなぁ~」と思ったことは、あまりない。事実として、街から小さな書店はどんどん少なくなっているというニュースはあっても、自分が生活する範囲において、少なくなったことを身にしみたという記憶はない。

 

ネットショップを否定はしない。私も楽天ブックスで本を買うことだってある。コンビニに送ってもらって、好きな日に取りに行けばいいんだから、楽だ。だけど、じゃぁそうやってネットショップの活用が増えることに反比例してリアル本屋に行く頻度が減るかというと、そんな感じはしない。少し前は結構楽天ブックスを使っていたけれど、いまは9割がたリアル本屋で買う。特定の欲しい本がない時でも、ふらっと立ち寄って何かおもしろいものはないかと見て回れる、その時間そのものを楽しめるのが、リアル本屋の良いところだ。

 

読書というのはひとつの文化であり、仮にその文字が書かれている媒体が紙からデータに移ったとしても、リアル本屋からネットショップに移ったとしても、本を読む行為そのものは絶対に廃れることはないんだなぁと思う。紙の本から電子書籍に変わったり、リアル本屋からネットショップに変わったりする一連の流れも、本を読むための方法やアクセスするためのプロセスがただ変化したに過ぎず、本を読む時間を楽しむ点においては何の変化もないのだという認識にようやくたどり着いた。みんながみんな、各々好きな方法で、自由に本に触れたらいい。

 

雑誌とかウェブとかいろいろ見ていると、ネットショップに負けじと生き残るための戦略をつくり、唯一無二の価値を作り出しているリアル本屋がたくさんあることに気づく。一冊しか置かない本屋。毎日トークイベントを企画して読み手と著者とをつなげる本屋。読んだ人の声を次の人に伝える本屋。展示してある古道具を一緒に買うことができる本屋など。リアル本屋が消滅する危機、という言葉を見るけれど、自分は全く心配していない。なぜなら、このように生き残るために知恵を出し、頑張っている本屋がいっぱいあることを知っているから。そういう本屋を、応援できる存在でいたい。

 

わたしの小さな古本屋 (ちくま文庫)

わたしの小さな古本屋 (ちくま文庫)

 

  

CasaBRUTUS(カ-サブル-タス) 2016年 12月号 [居心地のいい本屋さん]

CasaBRUTUS(カ-サブル-タス) 2016年 12月号 [居心地のいい本屋さん]

 

 

起死回生

あなたは今日、接客をして歩きながら、自分がしゃべることに精一杯で、相手の話を聞いてなかったのではないですか。

 

あなたは今日、相手がしゃべっていることを、どこか上の空で、聞き逃していませんでしたか。

 

あなたは今日、ぱっと思いついたことを、よく吟味もせず、すぐに口にして、相手を混乱させはしませんでしたか。

 

あなたは今日、休日なのに仕方なしに仕事しているんだ、というどこか心の奥底にあるちょっとした気持ちを、表に出してしまってはいませんでしたか。

 

あなたは今日、相手が何を評価してくれていて、何を必要としていて、何がネックであったかを、真剣に考えなかったのではないですか。

 

であるならば、もう少し、ゆっくりと、丁寧に、よく考えて、真面目に、仕事をしましょう。

 

 

オトナになったら、続けることができれば、こうやってカッコ良くなれるんだ。昔の曲をいま演奏しているのを聴いて、そのバンドの進化を感じることがこのところ多い。自分もそうでありますように。今日の失敗に学び、起死回生を。全身全霊を、俺にくれよ。

 

北欧家具の部屋から、生きがいを

疲れはてた僕は今死にゆく日を思い なお
あなたの心いやそうと今日も叫ぶ
満ちたりてゆく事のない人の世は
命くち果ててゆくまでの 喜劇 そのものだろう

(GLAY/生きがい)

 

 

11月23日。勤労感謝の日。

 

自分が勤労できていることを感謝しながら・・・とは行かず、この記事を書くいまのいままで、今日が勤労感謝の日であることに気づかなかった。はい、感謝します。こうして働けている環境に、ありがとう。

 

 

昼間、仕事。オーナーの転勤にともなって賃貸入居者を募集していたコーポラティブハウスがあって、先日入居者が決まり、引越しを終えた。今日、その住戸にお邪魔する機会があり、入ったら、北欧の素敵な家具で室内が彩られていた。

 

ここ最近、サイドボードが特に気になっていて、いろいろ画像検索をしてしまうのが癖になっている。ハンス・ウェグナーかな?聞いたら、アルヴァ・アアルトだった。時間が経っても褪せない感じがすごく良い。部屋が引き締まって感じられた。

 

 

自分がその入居者と住まいを結びつける役目として携わることができ、そしてその入居者が、素敵な家具に囲まれて快適に暮らしているということを知る。この積み重ねが生きがいなんだなぁ、と思った。こうして生きがいをもてる環境に、ありがとう。

 

コーヒーを飲みながら

コーヒーを飲みながら有意義な時間を過ごすことの楽しさを、教えてもらえました。

 

正直、コーヒーの味の違いなんてわかりません。目の前に二杯別のコーヒーがあったとして、それを交互に飲めば、どっちが苦いとか、酸味があるとかはかろうじて分かるだろうという程度です。行きつけのパスタ屋でいつも飲むアメリカンだって、ブレンドですと言われたら信じて飲むに違いないです。「コーヒー好き」ではあるけれど「コーヒー通」ではない自分は、果たして「コーヒー好き」なんて言っていいのだろうか。

 

そんな味音痴、というか味無頓着な自分でも、美味しいコーヒーをきちんとつくって飲みたいと思うし、違いがわかるようになりたいと思います。そのきっかけを、かなり身近な場所で丁寧にコーヒーをつくっているあなたに、もらいました。大家さんが企画する手作り市で偶然出会ったのがきっかけです。

 

毎日コーヒーを飲むくらいだったら、ドリッパーなんて数百円で買えるんだから、それでつくったほうがいいに決まっている。今日、イベントで直接淹れてもらった、そのフィルターの中のコーヒー粉にゆっくりとお湯を入れて、時間をかけて一杯のコーヒーをつくる、その過程を見ながら、こうやって丁寧につくって飲むのもいいなぁ、と思いました。

 

いまこの記事を、スーパーで買ったインスタントコーヒーを飲みながら書いています。あなたのコーヒーをさっそく切らしてしまったからです。インスタントはこれはこれで、美味しい。ただ、多少なりとも味の違いが分かり、自分のお気に入りの一杯はこれだ、というものに出会いたい。出会えたら、もっと有意義な時間を過ごせるのではないかと思うのです。

ひらかれる建築

「近代社会が蓄積してきた技術と建築のストックを、自分たちの志向する生活に合わせて、人々が編集し始めた」この言葉を読んで、まさに自分が漠然とイメージしていたことを言語化したものに出会った、と思った。

 

大学時代、いわゆる建築家にあこがれて、設計演習に力をいれていた。徹夜だって、苦手ながら何回かした。徹夜明けの課題提出日早朝、図面を出力するために車で帰るその途中、何度事故を起こしそうになったことか。そんな、死と隣り合わせの状況で建築を味わい勉強していく中で、まわりの仲間と自分のセンスの差を見せつけられ、建築家という夢は、確か2年生の終わり頃には消え去っていたように思う。この挫折感は、サークル活動が楽しかったことによる高揚感で相殺され、今思うと結果オーライみたいな感じだけれど、その挫折にだけ目を向けると、結構落ち込んだと思う。

 

そんな自分が、建築学科で何を学んで、何を得て、社会に何を還元できるだろうかと考えたときに、漠然と思い描いていたこと。それはきっとこの本で言語化されているのではないかと思う。

 

このところ、グッドデザイン賞を受賞した作品(※)を見たり、雑誌やSNSで建築を街に対して開いた事例を見たりする。もはや、内にこもった、クライアントの生活の拠点としての住宅を供給するだけでなく(もちろんそれも必要なのだけれど)、その役割を終えつつある既存のストックをいまの社会に馴染むように「編集する」という役割が、求められているのだと思う。そして現にその役割を担っている人は、建築を勉強している人だけに限らない。様々な分野の知恵を持っている人が、建築と社会とをつなげるハブの役割を担っているのだと思う。そういう現状を見ると、大学時代にセンスのなさに落ち込んだ自分は、こういった仕掛けづくりの仕事に居場所があるのではないかと期待したりする。

 

ひらかれる建築: 「民主化」の作法 (ちくま新書 1214)

ひらかれる建築: 「民主化」の作法 (ちくま新書 1214)

 

 

(※) 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

 

これからの建築

昼間、仕事。竣工済みコーポラの管理組合総会に出席。議案は滞りなく、どんどんと可決されて進むなか、最後に自分から説明することとなっていた案件については、滞りなくとはいかず、課題を残すこととなった。どうしたらいまある問題を解決できるか。話はとてもシンプルで分かりやすいはずなのだけれど、そこには現実問題として、コストであったり、見栄えであったり、メンテナンスの可否であったりと、いろいろな制約がある。そうした制約を踏まえつつ、最適な解決案をきちんと提示できるか。そこに自分の存在意義がある。いつも思う、いつだって責任重大だ。

 

 

その後、建築家の光嶋裕介さんの著書出版記念イベントに行ってきた。こういうイベントにはほとんど行ったことがなかったのだけれど、ミシマ社のメルマガで知り、尊敬する建築家でもあり、関心があった。自分とそれほど年齢も変わらないのに、信念をもって丁寧に仕事をしている方だという印象があって、話を聞きたいと思った。

 

思想家の若松英輔さんとの対談という形で始まったイベント。その話のすべてが刺激的で、自分の仕事にも変換可能で、勉強になった。

 

「文章を書くことは、特定の相手に手紙を書くことと一緒。宛先を意識することが大事」自分が書いているこのブログでは、誰に向けて書いているかをほとんど意識していなかった。それって読みづらいことなんだな、と痛感した。

 

「設計をすること=『作品をつくる』という感覚が徐々に少なくなっていった。クライアントにどれだけ寄り添って考えるかが大切である」「仕事とは、自分のもつ限界を超えていくこと。そうやって頑張って作ったものに対して『自分の作品だ』といっていいのか、という違和感がある」自分が良いと思うものを作れば良いだろう、という自分目線で考えるのではなく、クライアントの目線にどれだけ近づけるかを意識したい。

 

「自分の名前はどうだっていい。自分が発した言葉だけが残ったら最高」本来、本という媒体を通して伝えたいことがあるというのは、そういうことなのだと思う。本を出すこと自体が目的化するのではなくて、伝えたい言葉があるからそれを伝えるために本を書く、という順番。自分も、ただ漫然と続けていればいいや、と思いながらブログを書くのではなく、特定の誰か(それは別に他者でなくても、自分でもいいと思う)に伝えたい言葉はなんだろう、と考えて、それをストレートに伝えることに徹したい。要はラブレターと一緒なんだ。

 

背伸びして大きな問題について考えるのではなく、大きなプロジェクトの実現ばかり夢見るのでもなく、目の前のクライアントの幸福の最大化のために自分がなにをすべきかを考える。顔の見えるクライアントのために自分のできることで最善を尽くす。それが仕事なのだと改めて思った。

 

光嶋さんにとってのドローイング。自分には果たしてあるだろうか・・・

 

これからの建築 スケッチしながら考えた

これからの建築 スケッチしながら考えた

 

 

死神の精度

昼ご飯を食べによく行くハンバーグ屋さんが駅前にある。笑顔が素敵で、気さくに話しかけてくれる店員さんが印象的だ。もちろんハンバーグも美味しいのだけれど、店に行こうというとき、どちらかというとハンバーグよりも店員さんの方が頭に浮かぶ。結局、行きつけの店は人間で決まるのだなぁと改めて思う。

 

その日もいつもの店員さんが、はち切れんばかりの笑顔で出迎えてくれた。行った時にその店員さんがいなかったことがあまりないので、ほぼ毎日出勤しているのではないかと思う。特に飲食業界は重労働で勤務日数が多くて大変というイメージがあるので、この明るさの裏では結構つらい思いをしているのではないかと勝手に心配している。それを彼女に口にしたら、きっと「仕事ですから」なんてサラッとごまかされるんだろうなぁ。「仕事だから」といって、普段できないことでも頑張ってやっちゃうというのは、私からしたらすごいことだ。仕事だからって、できないものはできない。

 

仕事が「もう憂鬱です。死にたいくらいです」と思うようなことの連続だとしても、仕事だからと割り切って振る舞っている中になにか光るものがあって、それを見ている人がいるかもしれない。そうして、光るものがもっと光り輝き、将来が明るくなることだってある。気さくに話しかけてくれる笑顔の眩しい店員さんと話をするたび、それを見ている人がきっといますよ、その明るさに触れて元気をもらっている人間が、少なくともここにひとりいますよ、ということを伝えたくなる。

 

その時、「死神の精度」を読んでいた。ミュージックを愛し、CDショップに入り浸りながら、人の死の可否を判定する死神「千葉」が出会う話。死をなんとも思わない死神が、実は生きていることに価値があるのだということをそっとささやいてくれている。そんな気がする。藤木一恵の境遇と、ハンバーグ屋における自分の目の前の状況がわずかに重なった。いいことがきっとありますよ、あたなの光を見ている人がいるんですよ、と藤木一恵に伝えたい。

 

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

 

待ってないで、行け

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20161106162040j:plain

 

地域との接点がもてる機会というのは本当に必要だと思う。自分からアクションを起こさなければ、どこまでも独りで孤独。自分から近づこうとしない限り、相手から近づいてくることはない。

 

たまの休み。日曜日の午前中を寝て過ごして、昼過ぎ、窓の外から聴こえてくるさわやかな歌声で、ようやく思い出した。あやうく忘れたまま一日を終えるところだった。毎年恒例のお祭りは、自分が他者と街を共有しているという事実を実感させてくれる。自分は独りではあっても、孤独ではないのかもしれない、と思わせてくれる日だ。「待ってないで、行け」聞き飽きたその言葉を、また自分に言い聞かせる。

 

妙典出身のクラリネットアーティスト、micinaさんの出演も、恒例。彼女の演奏を聴くことが大きな目的の一つになりつつある。その演奏は、決して「すごいテクニックだぁ」と驚きを与えるものではなく、きれいな音色で安心感を与えてくれる。いつもの生活の片隅にさりげなく鳴っている音にふさわしい。こういう方が音楽業界で頑張ってるんだから、自分も仕事を頑張らなきゃなぁ、といつも思う。

 

中高生を中心としたブラスバンド、観ていて楽しかった。演奏者が楽しそうにやっているのが、良い。自分自身、楽しかった大学サークル時代を思い出す。

 

美しいクラリネットの音色も。ブラスバンドの揃った音も。子供たちを喜ばせようと風船と格闘するピエロも。平日限定営業のため普段行けない自宅目の前のカフェが出店をしていた、そこでの焼きたてマフィンも。それぞれが、自分が地域というつながりの中にいるのだということを教えてくれる。

 

本屋での本の買い方

本屋での本の買い方が、定まっていない。「一回に一冊しか買わない」と心に決めて本屋に入り、その一冊を入念に選ぶこともあれば、気になる本を数冊同時に買うこともある。周期があるというよりは、そのときの気分、気まぐれで変わる。

 

今日はたくさん買いたい気分だった。いつもの本屋で、気になった本を4冊手にとった。文庫版小説、ビジネス書、新書というように、書式もジャンルもバラバラ。そのうちの一冊、「なぜ、あなたの仕事は終わらないのか」を、行きつけのパン屋でコーヒーを飲みながら、読んだ。

 

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

 

 

ここしばらく、ビジネス書とは距離を置いていた。「そこから学ぶべきものなんてない」なんて上から目線で言っているのではない。自分が仕事ができないということは自分が一番良く分かっているから、仕事術という名の説教をされると気分が悪くなる。それに、例えば本棚に「スピード仕事術」という文字を見たら、自分がスピードのない仕事をしている人間だと思い知らされるようだし、「論理的に話す方法」という文字を見たら、自分の喋り方が支離滅裂であると思い知らされるようだから、嫌だ。しかし、その考えも一周して、仕事に役立つこともあろうから、そこから一つでも吸収して実践できたらいいな、と思うようになった。

 

仕事をきちんと終わらせるには、締切を意識してスタートダッシュをかける。締切直前に焦って徹夜して目を真っ赤にしながら「すみません、もう一日ください」というのではなくて、6割7割の出来でもひとまずすぐ終わらせて出してしまう。それから、10割を目指して調整する。当たり前のことだ。当たり前のことを、当たり前のようにできるようにしなければと思った。

 

 

昨日。たまたま財布を見たら、小銭が432円だった。よし、仕事帰りの駅前の本屋、ここで432円以内で本を買おう、と思った。定価400円の本なら、税込でちょうど432円だ。そう思って文庫コーナーに行って棚を見てまわったら、意外と400円以下の本が少ない。10分ほどうろうろして、ようやくこれだ、と決めて手にとったのが、川上未映子「乳と卵」だった。432円也。ちょうど持っている小銭ぴったり支払った時の、この達成感はなんだ?

 

乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)

 

 

著者は名前は知っていたけれど、作品は初めてだったので、好奇心で。豊胸手術に取りつかれてた女性と、しゃべらずノートに言葉を書いて伝える娘の話だって。

 

電車内で読み始めて、2ページ目ですぐ違和感を感じた。一文一文がとっにかく長い。「~であるから」「~のであって」「~のだけれど」と、丸がなかなかやってこない。私はいままでずっと「一文が長いのは分かりにくい悪い文章」と思っていたから、 これにはびっくりした。最初だけかと思ってページをパラパラめくったら、どのページもほとんど改行がない。薄い本だから一気に読めるぞ、という心意気が、みるみるしぼんでいった。

 

のちに、この作品はこの文体が特徴なのだと知る。流れるような、語りかけるような、なめらかな言葉の羅列が良いのだとか。芥川賞までとっている。それなのに、私にはなにかズシっと重たいものを感じる。

 

この本がきっかけで、「一文が長いのは分かりにくい悪い文章」というのは自分がそう思っていただけで、常識でもなんでもなく、固定観念に過ぎないのだと知った。評価される作品が必ず快適に読めるとは限らないということも知った。豊胸について語る母の話と口をきかない娘の日記が交互に登場し興味深く、先が気になるから読みたいのだけれど、読み終わるのにものすごい時間がかかりそうだ。