たちどまる時間

コロナ禍であっても、自分はそれほど働き方が変わっていないと思っている。事務所の近くに引っ越したおかげもあって、在宅勤務が増えているいまでも毎日事務所に歩いて行って仕事をしている。自宅で過ごす時間も緊急事態宣言中こそ多かったものの、いまは気をつけながら徐々に外出も増えているから、おうち時間が長くなったと感じることもあまりない。緊張感は持ちながら、でもずっと自粛していたら身体がもたないので、適度に遊びにも行く。

 

そんななか、確実に増えたと思うことがある。本屋に行き、本を買うことだ。「本が好き」と言うよりも、「本屋で本を買うのが好き」と言った方が実態に近いのではないかとすら最近は思う。そして買った本の大半はすべて読み終えることなく自宅の本棚に置かれる。全然読んでいない本もたくさんある。いわゆる「積ん読」だ。自分は積ん読なんてしない、読みたいから買うんじゃないか、と以前は思っていたけれど、いまは違う。買ったこと自体に満足し、そのまま本棚に置いておくなんてことも多い。

 

本を買うという行為の何に自分の身体はひかれるのか。それはきっと、「たちどまって考える」時間にあるのではないだろうか。本を読むことで、自分の内面を読む。他人の考えを知ることで、自分の考えに自信を持つ。もしくは、自分の考えの甘さに気づく。そういう「気づきの時間」を、自分の身体は求めているのではないか。だから今日、行きつけの本屋で直球のタイトルの本を手に取った。人生が劇的に変わってしまった人もいるなかで自分は変わらずに淡々と生きている感じだけれど、いま自分には「たちどまって考える」ことが必要なのだと思う。このままでいいのか?ちょっと引き返した方がいいんじゃないのか?進むにしても、どこを目指しているのか、もっと鳥の目で見た方がいいんじゃないか?そう自分に問う時間が必要だ。

 

知性は鍛えたからと言って100%という到達点があるものとも思えませんが、それにしてもあまりにもこの世には自らの思考力という機能を甘やかし、怠惰にし、そんな中途半端な状態でも、自負や虚栄で自分を固めて生きている人が多すぎるんじゃないかと多々思うのです。

 

家族や友人など他者と過ごす時間が少なくなれば、自分の考えを他者の言葉に置き換えたり、すり換えたりしてしまうことは減り、「自分の考えを自分の言葉で言語化する」という技がいつにも増して鍛えられていく。こんなことも、今みたいな状況でなければなかなかできないことだと思います。

 

自分で考えること。考えたことを自分の言葉で言語化すること。それこそがいまやるべきことだと、社会が教えてくれている。

 

たちどまって考える (中公新書ラクレ)

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