「ものづくり」をしたいから、手紙を書いた

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20200516225607j:plain

 

クリエイターにとって「ものづくり」は自分を表現する手段であり、現実的なことを言えば生活する糧である。つくることに誇りを持っているからこそ、哲学のある素敵なものができるのだと思う。自分の手を動かすことで、いままでになかった新しい「もの」を生み出す。それを楽しむ他人がいて、また新しい何かが生まれる。昨日より今日、今日より明日がほんの少し楽しくなる。そうやって進歩しているという実感が、ものを生み出すエネルギーになっているんじゃないかと思っている。自分の身近にもかっこいいものをつくるクリエイターさんがいて、「ものづくり」に対して疼いているのを感じる。つくれる人って、いいなぁと思う。

 

 

翻って自分は、「ものづくり」に憧れていたのはせいぜい中学高校生くらいまで。中学の授業に「技術・家庭」があって、「技術」が大好きだった。木材加工が一番楽しかった。金属加工もやった記憶があるけれど、それはそうでもなかった。硬く冷たい鉄を切るときの怖さはあっても、木材を切るときのそれはおどろくほどなかった。座面が蓋になっていて開けるとモノを入れることができるスツールをつくったのだけれど、それはいまも実家の部屋に置いてある。細部を見るととにかく雑で、手先が器用とはとても言えない生徒だったなぁと思う。でもそれなりに楽しく「ものづくり」を学んだ。その楽しさをそのまま学びのモチベーションへと変えて、何かちょっとしたきっかけがあったら、今頃大工さんになっていたかもしれない。小学生の時に抱いていた将来の夢だ。

 

残念ながら大工さんへの夢は潰えて、もっと川上の職業であり総合力を必要とする「建築家」になることも、大学生のときに自分の能力の低さにげんなりし、諦めた。どう頑張ってもダメだと思った。都市計画の授業に真剣に耳を傾けながら、いつしか「ものづくり」への憧れを忘れていった。

 

いま、建築設計事務所にて住宅の企画コーディネートをやりながら、ふと自分の「ものづくり」に対する想いを振り返る。自分は木を切ったり削ったりして家具をつくることもできなければ、革を縫って財布をつくることもできない。絵を描くこともできなければ、パソコン上でイラストを描くこともできない。建築をつくるいまの仕事こそ大きな「ものづくり」じゃないかと言われれば確かにそうだけれど、実際に設計しているのは設計スタッフだし、つくっているのは建設会社さんだ。大きな声では言えないが、自分が「つくってるんだぜぇ」と胸を張れるかというと、そこまでの実感は正直それほどない。何もできないじゃないか。「ものづくり」はできないのか自分は?

 

何もi Phoneのような世界中の人が使うスケールの大きいもののことを言っているのではない。家とか車とか、時間や労力を要するものを作りたいと言っているのでもない。小さなものでも、目の届く範囲を循環する程度でも良いから、いま世に無いものを、自分の手で新しく生み出すことはできないのか?・・・

 

なんて考えていたら、さっき、感謝を伝える「手紙」を書いていたことに気づいた。そうだ、手紙だって「もの」だ。自分の正直な気持ちをコトバに変えて、書いて、贈る。これだって「ものづくり」と言っていいんじゃないか。そう思った瞬間に、昔もっていた「ものづくりをしたい」という気持ちが、ふわっと自分の身体の中に舞い戻ってきたように感じた。

 

そして、本当は順番が逆なのかもしれない、手紙を書いたことで「ものづくり」への憧れを思い出したのではなく、実は「ものづくりをしたい」という気持ちが心の隅に残っていたから、手が動き、手紙を書いたのかもしれない。そう思った。