ひとを上機嫌化させる道具

4月15日。日曜日。


午前中仕事。


帰宅。


寝るタイミングを誤るとひどい目に合う。


すこし眠気を我慢して夜まで過ごせば、あとはゆっくりねるだけでいいのに。


中途半端な時間に寝てしまうから、この時間になっても寝られずどうしようもない。


これを書いているいま現在、オチが見つかっていない、どこへ向かっていくのかもわかっていない駄文。


大学時代の学科フレンドがブログで政治のこととかを話してたり、知り合いの設計士がツイッターで消費税増税について意見発信していたり。


ブログ、mixi、ツイッター、facebookgoogle+・・・


いま自分なりの意見を発信するための道具がいっぱいあるから、ぼくみたいなド素人でも簡単に発信者になれる。


それはそれでいいことだと思うけれど、そこから学べることは、それらの情報の重要性と言うか信憑性と言うか、そういったものが徐々に薄れてきているのではないか、ということだと思います。


ぼく自身、何の根拠もないウソみたいなことでもこうして字にして誰でも見られる状況にできてしまうわけだし。


昔、笑点の大喜利でこん平師匠が言っていたおなじみの言葉。


「アタシにはそういう難しいことはよく分かんないんですけれども」


見えてないんじゃないか、と思うくらい目を細めてカァっと笑いながらこう言うと、隣で先ほど論理的なことを言った楽太郎師匠がズッコケる。



あえて難しいことをネチネチ言ってそれで笑わせる楽太郎師匠と、それに対して「難しいことは分かんない」と言って笑い飛ばすこん平師匠。


その対比があってこその面白さで、難しいことが分からないことなんてどうでもいいと当時は思っていた。


こん平師匠のように口では「難しいことは分かんなくて・・・」なんて言っていながら、いざ意見を求められた時に楽太郎師匠のように、淡々と論理的に意見する。


そんなのが理想です。


前述のように意見発信する道具が増えたことによって、社会がどう変わってきたか。


はっきりと昔と比較しているわけではないけれど、ぼくはみんなが「上機嫌化」してきたのではないかと思う。


あまりブログとかで不愉快だったことを言う人っていないでしょう。嫌なことがあった、と報告する人もいるけれど、たいていの人は文中上機嫌であることが多い。


そういう文だけをみてそう判断するのは安易かもしれないけれど、少なくとも「不機嫌であるより上機嫌であることが望ましい(読んでて楽しい)」と思われるブログなどの日記を書くことが多くなったことによって、人々が上機嫌化してきているのは確かなのではないかと。


だいたい不愉快な気持ちの時にわざわざブログなんて書かないでしょうから。


こういった意見発信の道具が、間接的にでも、徐々に人間を愛想よくしているのだとしたら、結構いい仕事していると思うんだけどな。