篠崎のデニーズの記憶

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自転車に乗ってちょっとそこまで。いつもはジョギングで通っていた道も、自転車だとまた少し違った風景に見える。速く走っているからかな。胸が苦しくないからかな。

 

前職で足しげく通っていた篠崎という街も、区画整理で様変わりしていた。久しぶりに行ったら、いつの間にか公園や駐車場が生まれていて、違う街に来たような感覚を覚えた。打合せでよく使ったデニーズが、当時の、がむしゃらでかつ幼稚な営業マンたる自分を思い出させてくれる。

 

川を渡ったすぐ隣なのに、そこには都と千葉という境目があるからか、どこか異国感すら感じる、篠崎。これからはその境目を、心臓を苦しめることなくサラッと飛び越えることができるのだ。

 

行動範囲が広がった。今度はもっと、遠くへ。行きたいところは、いろいろある。

 

他人から学ぶこと

仕事終わりにいつものカフェでコーヒーを飲む。閉店ギリギリでほとんど居られなかったけれど、それでも、ちょっと人と話をしたい、話をすることで、心の中のもやもやした煙のようなものを、取り払いたかったのだと思う。そう、自分にとって行きつけの喫茶店は、コーヒーを飲むところである以前に、そこで過ごすことで気持ちをリセットさせて自分を次へと向かわせる、そのための居場所なのだ。

 

カフェを開業するという夢を叶えた店主も、一時期社会人をやっていたころがあったという。やりたいことをやるために、技術を得るために、必死に勉強していた頃。仕事で成果を上げることと勉強との両立がうまくいかず、身体も悪くし、結局はすぐにやめてしまったけれど、なんて当時のことを笑って話すけれど、そういうひとつひとつのストーリーに、自分も頑張らなきゃ、と奮い立たせてくれる種がある。短い時間であったとはいえ、営業成績のことを考え、朝早くから夜遅くまで仕事に励む。言葉にすると簡単で、自分もそうありたいといつも思っているけれど、なかなかできることじゃないし、社会人13年目になるいまもできていない自分に、情けなさを通り越して腹立たしさすら感じる。そうじゃないだろう、自分よ、と。

 

 

「世界に通用する会社の入社試験くらいパスできなくて、なにがフリーランスだ」イラストレーターの安西水丸さんの言葉を本で読んで、なるほどなぁと思った。本人はそういう自分のことをへそ曲がりと言うけれど、そうは思わない。その志がある人が、フリーランスでも食べていけるのだとすると、すごく自然な考え方にも思える。

 

プロ論。

プロ論。

 

 

 

「その時その時をね、全力で生きていれば大丈夫。問題ない」ミュージシャンの土屋昌巳さんがLUNA SEAのSUGIZOに言っている映像を観て、刺激を受けたことを思い出す。きっと自分の想像の遥か上を行く努力をして、こだわって、生きているのだと思う。それに比べたら自分なんて頑張っているうちに入らない。例えば、今日一日、全力で生きましたよ、と胸を張って言える日がここ最近あっただろうか。ないねぇ。「その時その時を全力で」それを、仕事に。

 


LUNATIC FEST. KA.F.KA

 

 

今日久しぶりに会った仕事相手から、彼がどうやって仕事をつくっていこうかと考えているかを聞いて、背筋が伸びる思いがした。自分で仕事をつくっている彼は、同時に営業マンでもある。仕事は待っていたって来るもんじゃないんだから、自分から取りに行かないとダメだろう。そのための、クライアントに面白がってもらうための努力は、たとえ成約に結びつかなくて無駄骨になったとしても、する。その姿勢が、以前から自分がそうありたいと憧れていた姿と重なった。ひきかえいまの自分はどうだろう。ちょっとしたサボタージュが「それは無駄なんじゃないか」という疑問を敏感に察知し、そこまでやらなくていいだろう、と思ってしまう。ちょっとサボったって、それが直接の原因になって成約するものも成約しなくなる、なんてことはないだろう、と思ってしまう。ずっと気を張っているのは無理だけれど、その怠け癖をちょっとでもなくさないと、進歩はないだろう。他人から学ぶことは本当に多い。

おこめのいえ手創り市

手創り市があると知り、午後、松戸へ。旧米屋の中庭で行われるという作家さん企画の手作り品限定マーケットが、自宅からそう遠くない松戸にあるということで、興味を持った。しかし天気はあいにくの雨。午前中は晴れていたのに、昼過ぎから雨が降り始め、駅に着くころには本降りに。着いた瞬間、「終了しました」の立て看板が目に入り、脚の力が抜ける。「降ってきちゃったので・・・すみませぇん」表にいた方にそう言われ、もっと早く家を出ればよかったのに、と午前中の時間の過ごし方を悔やんだけれど、もう遅い。

 

しかもそのあとは土砂降りで、気分は下がる一方。それでも、久しぶりに松戸の街を歩けたし、良しとしよう。手創り市も2か月に1度やってるみたいだし、また来ようと思った。

 

www.comeichi.com

 

大学生とサグラダファミリア

仕事終わりにコーヒーを飲みに喫茶店に入った。新しいスタッフだという彼女は建築学科で勉強中。将来は店舗設計の仕事をしたいのだとか。一応自分も大学で建築を勉強してきた(いまも勉強中)から、なんとなく話がはずんだ。留学するだとか、友達と海外旅行へ行っただとか、そういう話を聞くたびに、大学生の行動力はすごいと思う。14年前。大学3年生だった自分にそのような気力があっただろうか、と思い返すと、首を横に振らないといけない。あの頃は食って寝てギター弾いて、といった感じのぐうたら学生だった(ギターを弾く練習をしていた、ということに関してはぐうたらしてなかったと胸を張って言えるけれど)。

 

ヨーロッパ建築旅行。フランスへ行って、イタリアへ行って、スペインへ行って。スペインでは、サグラダファミリア、と普通に言うものだから、つい身を乗り出して「それでそれで?」となった。サグラダファミリアも、カサミラも、グエル公園も。すべてが比較的近いところにあったから、全部観て回りました。なんて、その小さい身体からは想像できないバイタリティ溢れることを平気で言う。大学生って、すごいね。

 

当時の自分にその気力はなかった。勉強して知識を吸収したいという欲求はあったはずだけれど、海外の見知らぬ土地に身を置いて、五感で刺激を受けようだなんて、自分には重すぎたんだと思う。その結果として、今がある。就職して1年目の社員旅行が初海外だなんて、恥ずかしくてあまり他人には言えない。

 

サグラダファミリアを生で見ること。それも、竣工する前に。これがちょっとした自分の夢だ。まぁ自分が生きている間は竣工しないだろうと思っていたけれど、結構すぐみたいですよ、と彼女に言われ、ぎょっとした。そうなの?

 

ガウディの独り言 (京都書院アーツコレクション―建築関係シリーズ)

ガウディの独り言 (京都書院アーツコレクション―建築関係シリーズ)

 

 

BIRD MARKER

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帰省時には必ず立ち寄ろうと思っている古本屋とセレクト雑貨屋がある。今日もそこで良さそうな本、雑貨を見繕う。

 

前から目にしてはいたものの、あまり心に響いていなかった栞が、なぜか今日、心の琴線に触れた。本の間から鳥が顔や尾を出す。小鳥が飛び回る様子が、本を読む優雅な時間と、なんとなく重なった。スウェーデンのデザイナー、フンミン氏についての「短いお話し」にも、ぐっときた。「鳥達が陽気にさえずりながら頭上を飛び交う光景」それと栞のデザインとの関連が、すごく良い。

 

 

「bird」鳥を想像するとなぜか心が躍るというか、高揚する気がする。なんかよさそうだなぁ、好きだなぁ、と思うものに、鳥という名前を冠したものが比較的多いからかもしれない。日産の「ブルーバード」。代々木公園のカフェ「Fuglen Tokyo」(行ったことないけど、憧れ。Fuglenが鳥という意味だそう)。活版印刷の「BirdDog Press」、「Blackbird Letterpress」。吉井和哉さんのちょっと異質なソロアルバムは「Hummingbird in Forest of Space」・・・。

 

 

何か自分で価値のあるモノをつくるとしたら。そのモノに「心地よい暮らし」を意味する言葉を託すとすれば。陽気にさえずりながら頭上を飛び交う「鳥」がいいなぁ、と思う。

人を中心とした何か

実家に戻ると、時間軸が変わる、気がする。退屈と言ったら言葉は悪いけれど、それに近い。そのはずなのに、出来事ひとつひとつが刺激的で、面白い。米寿になる伯父(長男)は、電車とバスを使いこなし、突然やってくる。その伯父を送る途中、これまた超元気な伯父(次男)に会い、兄弟の会話に加わる。八丈島にまで釣りに行っちゃうような伯父(次男)は、今日もロードバイクで颯爽と走る。伯父(次男)と一緒に伯父(長男)を見送った帰り、近所で、庭でバーベキューを楽しむ家族に出くわし、お邪魔する。肉や赤飯を食べながら、今時の高校生と話したり、小さい子と遊んだり、10年以上振りにまちのおばちゃんと話したり。夜は、妹夫婦と一緒にご飯食べたり。とにかくいろいろあった。


人と人とがつながるきっかけを、つくりたいと思っている。その想いの根源は、実家で「人」を中心とした何かを体感しながらずっと過ごしてきたことに、あるんじゃないかと思った。

西荻窪

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西荻窪へ。仕事で一度来たことがあるくらいで、ほとんど知らない街だった。こんなに面白い街だとは思わなかった。

 

商店街があり、新しい、そして小さなお店がたくさんあり、昼間からお酒をひっかけているおじさんが集う飲み屋路地がある。一日歩き回っても飽きなさそうだし、何度も来ることでその味をもっと感じることができる街だと思った。

 

古民家を再生してつくったレストラン「Re:gendo」へ行った。予約をしないと入れないんじゃないかと思うくらいの人気ぶり。11時の開店前から行列ができている。人を呼ぶ力があるって、すごいと思う。

 

日本家屋の良いところを残した内装で、手料理を食べる。おにぎりに味噌汁、蕗味噌のコロッケ。特別な日だから奮発して食べるというようなものではなく、日常的に食べるようなものを美味しく食べるって、改めていいことだなと思った。

 

街に人を呼ぶアイデアを。企画はそうあるべきなんだと思う。

 

自転車とクラシックギターと、熱

好きで、たくさん乗りたくて買ったはずの新しい自転車に一度もまたがらずに、この3連休を終えてしまった。そうか、そんなもんなのか、と自分が自分に問いかける。新しいものへの愛は、熱中度合いは、その程度でしかないのか、と。そうか、買うまではものすごく熱をもって接していたのに、いざ買ったらその事実に満足してしまい、大半の熱は冷める、というやつか。本当は、こうして文章に書くとその気持ちが客観的な事実として残るようで嫌な気もしたのだけれど、でも隠すものでもないし、そう感じたのならむしろ残しておくべきであろうと思った。

 

自転車に乗って、行きたい場所はある。電車ではちょっと行きづらい、小さな美術館だ。もうちょっと遠い場所にある目標も、ある。そのためにはそれなりの装備も必要だけれど。その目標に向かって最短距離を進もう、というよりは、いまはそのための相棒を手にしたことにまず、満足したい。そして、ゆっくりと、目標までの道のりを味わいたい。5年後10年後に、「自転車?あぁ、あれね、飽きたし、もう捨てちゃったよ」なんてことには間違ってもならないように。

 

museum as it is/美術館 as it is

 

 

ひとつ手にしたらひとつ手放す。その考えに共感してクラシックギターを手放すと先日宣言したのだが、まだ手元にある。ケースがなくてなかなか売りに持ち出せないという物理的な問題もあるが、それよりも、思った以上に「未練」が邪魔をする。

 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

そんなとき、ふと「手放さなくていいんじゃない」と言われ、我に返った、ような気がした。新しいことに熱中することでその熱が散漫になるほど、いまもクラシックギターに熱をもって接しているのか?と言われると、首を横に振らないといけない。二股なんてかけられない、なんてカッコつけていたけれど、今現在、熱中しているゾ!というほどではないのであれば、いままでと同じつきあいでいいじゃないか。なるほどそう思い、今日も彼を抱えては、優しい音色に、酔った。新しい曲に挑戦する気力がなくたって、こうしていればいいじゃないか。やっぱり他人の意見は複数聞かなきゃだめだと思った。

 

川越のフレブル店長

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街は連休モード。最大9連休の人はいま天国だろう。自分はと言えば、ちょっと自分の仕事の時間配分を誤り、暦通りではあるものの、まぁそれでも十分すぎる休みだ。1日2日も休みにしちゃったら、ダメ人間になるに決まっている。

 

今日は川越に遊びに行ってきた。他人から聞いて興味を持っていた和ろうそくやさんと、古民家ギャラリーが目的だ。

 

古民家ギャラリーは、自宅隣の手づくり市で出会った消しゴムハンコ屋さんの作品を扱っているということで知り、行った。白山の、紅茶の美味しい喫茶店「喫茶おとら」で個展をやったこともあるとプロフィールで知り、どこで繋がっているか分からないものだなぁ、と実感する。

 

「Hamano-ya」看板犬のフレンチブルがとにかくかわいく、実家の愛犬を見ているようだ。フレンチブルはみんなおんなじなんだなぁ、と思うほど、同じ態勢でくつろぎ、見つめてくる。かわいすぎる。

 

本当に民家を雑貨屋にしました、といったさりげない雰囲気が良く、長居したくなる。このように、派手でなくても、確実に価値のあるものを発信できるようでありたいといつも思う。

 

陶器も。木のカトラリーも。消しゴムハンコも。ポストカードも。最近こういったものに触れる機会が多く、いいなぁ、とまじまじと眺めてしまうものが多い。本当に、知ろうとしなければ一生出会うことのない世界だけれど、面白いものがたくさんあり、そういうものだけに囲まれた暮らし、もっと言うと、自分だけの何らかのストーリー、エピソードのあるものだけに囲まれた暮らしに、近づいていきたい。

 

経堂と紙文具とパン

午前中、仕事で経堂へ。経堂に行くと必ず立ち寄りたい、と思う場所がいくつかある。

 

「ハルカゼ舎」はすずらん通りにある小さな文具屋で、置いている商品のセンスがすごく良い。大好きな久奈屋さんの紙文具を扱っている数少ないお店のひとつで、ついあれもこれもと手を出してしまうのを、抑えるのが大変だ。

 

ハルカゼ舎

 

久奈屋さんの新作ミニカードを買い、昼ご飯を食べに駅の方へ。途中、美味しそうなラーメン屋さんがあったけれど、スルー。食べる場所は、HOKUOと決めている。なぜかと言われると、うまく答えられないのだけれど。

 

www.hokuo-tokyo.jp

 

チョコが手について食べづらいパンも、フォークで食べるのなんだかなぁと思うマフィンも。その不便さあってこその美味しさだ思うと、また愛おしくも感じる。そうか、このパン屋に興味をもったのは、別の管理組合のお花見イベントに呼んでもらって行った時の手土産に、新宿駅でドーナツを買ったのがきっかけだった。

 

「『いらっしゃいませ』が『エアロスミス』に聞こえる、経堂駅前のコンビニの店員」芸人が細かすぎるモノマネを披露した、そのコンビニは果たしてどこのことなんだろう、とふと思う。でもまぁ、仮に分かったとしても、その店員さんはもういないんだろうなぁ。なんて思いながら、経堂を後にする。「アランドロン不在でしたー。村おこし来るスタンハンセーン」じゃなかった、「ありがとうございましたー。またお越しくださいませー」と街が言ってくれているような、そうでないような。

 

 

一つを手に入れたら一つを手放す

新しい自転車に乗って、どこへ行くでもなく走ってみる。サドルが固いのか、触るとそうでもないのだけれど、座ると尻がやや痛くなる。座り方が悪いのか?でもスピードが出て、気持ちが良い。行動範囲が一瞬にして広まったような、大げさに言うと万能感があって、嬉しい。

 

新しいことに挑戦したり、何かを手に入れたりしたら、代わりに、いままで持っていたものを一つ手放す。そうするのが良いという意見に触れ、感動した。そうやって一つ一つに真摯に向き合い、熱中できるようでありたい。だから、大学入学と同時に始めて、抱え続けてきたクラシックギターを、今回手放そうと決めた。

 

16年間私の音楽ライフを支えてくれた相棒だ。寂しくないわけがない。それに、決して飽きたからとかそういうことではない。しかし、大学を卒業し、社会人になってからの12年間、引き続き上達し続けてきているのかというと、そんなことはない。手持ち無沙汰のときに抱えては、優しい音色に酔っていた。それだけ。向上心は、確かになくなってしまったかもしれない。

 

これから自転車という新しい趣味を真面目に味わうための、前向きなお別れだ。両方を同じように愛するなんてできない、と言ったらカッコつけてるみたいだけれど、そんな不器用な自分を許してほしい。と言いながら今日、買取店に持っていこうとしたら、ソフトケースがないことに気づき、戸惑った。これじゃまずお店まで持っていけない。出張買取に問い合わせをしたら、「クラシックギターは、店頭にお持ちいただいての査定となります」とのこと。世の中、なかなかうまくいかないようにできていらっしゃる。

 

I and bicycle

注文していた自転車が届いた。当初の予定から納期が遅れたけれど、別に急ぐものでもないし、のんびりと待つことができた。これから暖かくなってきて、サイクリングを楽しめそう。

 

南行徳の自転車屋(これもまた奇跡だと思えるような素敵な出会いなのだ・・・)でおおよその説明を受けて、乗る。思ったより前傾姿勢がキツイ。でも、走り始めたら心地よい。南行徳から自宅まで、あっという間に着いてしまった。いままでは、面倒だなぁこの距離で、と思いながらも電車を使うしかなかったのに。これで行動範囲が格段に広がりそう。

 

かねてから、ジョギングをしながらまとまらないことを考える時間が好きだったけれど、これに新しい趣味が加わることになりそう。身体に加わる負担が少ない分、ジョギングより気軽に。そしてジョギングより遠くへ。

 

ふと、昔、実家から数十分かけて自転車で自動車教習所に通っていたことを思い出す。当時、その教習所には送迎車があって、自宅のすぐ近くまでやってきてくれて、それに乗れば教習所に行けた。だけど自分は送迎車には乗らず、自分で自転車をこいで教習所に行きたいと思っていた。それくらい、まぁ当時は普通の自転車だけれど、自転車に乗って走るという時間が好きだったのだ。中学高校と6年間、毎日自転車をこいで学校に行っていたくらいだから、好きを通り越して飽きるくらいじゃないかと思うのだけれど、あの風を切って走る感覚が、好きなのだ。ただその向かい風が強すぎると逆にイライラするのだけれど。

 

社会人になり、最初の職場までは自転車で通勤していたが、不運にも自転車を紛失してしまい、それ以降、自転車とは縁のない生活を10年以上送ることになる。だから今日、久しぶりに自転車にまたがるとき、そのたどたどしさに自分自身が驚いた。でも、そんな空白期間をすぐに埋めてくれる心地よさが、自転車屋から自宅までの道のりにはあった。

 

出会いと、そこからつながる縁の力ってすごい。そう思った。

 

andbicycle.blogspot.jp

走りながら、出会いと別れを考える

土曜日は久しぶりに近くの河川敷を走った。意識しないと不摂生が続き、身体にもよくない。これから挑戦しようと思って買った自転車は納品待ち。急がないが、もうすぐやってくるので楽しみ。でもそれはそれとして、道具を使わず、自分の足だけで自分を振り返る「走る」という時間も、必要。

 

 

走りながら、仕事のこととか、プライベートのこととかを、考える・・・。よく行くカフェの看板娘とは、おそらく今日でお別れ。思えば、いまの住まいに引っ越してきたことがすべての引き金になって、たくさんの素敵な出会いに恵まれた。その一つである行徳のカフェには、今後も毎週末コーヒーを飲みに行くのだろうと思うものの、彼女の若いエネルギーを浴びることが行く理由の一つであったことは確かなので、とにかく寂しい。別に今後一生会えないわけじゃないんだし、と思うのだけれど、最後の「さよなら」の一言をどう言ったらいいのかが分からない。相変わらず「さよなら」が下手な自分だ。

 

手作り市で素敵な作家さんを知る楽しさに目覚めたのも、雑司ヶ谷の手創り市まで足を運ぶようになったのも、いまの家の大家さんの働きかけがあるからだ。一生モノの壁面本棚をつくってくれた家具屋さんも、「手紙を書く」という行為に対する心理的ハードルをぐんと下げてくれた紙文具屋さんも、みんなそうだ。

 

仕事では、いままで取り組んだことのない事業手法を模索中。コーポラティブハウスを、ただ集合住宅としてつくるんじゃなくて、プラスアルファの付加価値を。それはずっと前から考えていたんだけれど、なかなかできず、あるクライアントからの相談がきっかけで、提案をすることになった。正解のないプロジェクト。道にそって歩くんじゃなくて、新しい道をつくるようなプロジェクト。ターゲットは誰になる?クライアントは損しないか?そのプロジェクトに参加するメリットは?建築的アプローチはどうしたら面白いか?頭の中を、いろいろな情報やアイデアが、ぐるぐるまわる。考えはまとまらないが、それでもそうやって考えている時間そのものが楽しいと思えるのが、走ることの良さだ。

 

手作り市

自宅のすぐ近くで大家さんが主催する手作り市があった。今回久しぶりに会う作家さんもいたり、移転してしまったカフェが一日限定で帰ってきたりしていたので、楽しみにしていた。

 

昨日から雨の予報。雑司ヶ谷の手創り市は荒天のため中止。行こうと思っていただけに残念だったが、昼間には雨もやみ、こっちの手作り市は予定通り。新しい作品に出会ったり、久しぶりに会ったり、楽しかった。

 

ていねいに、手作りでつくられている作品を見て、そのデザインやこめられた想いに共感すると、その作り手を応援したくなる。この気持ちは、言うなればパトロンのようなものか。偉そうに言うつもりはないけれど、そういう感覚に近いと思う。それは、金銭援助をするとかそういうことではない。素敵な作品をつくる作家さんを、作品を買うことで応援したい。作家さんが作品をこれからも作り続けて他の人にその価値を広めるための原動力にしてほしい。そんなささやかな気持ちだ。

 

つい買いすぎてしまうのが悪い癖。消費のバランスが崩れる気がして、「まてまて、これ以上はやめた方がいい」と気づく。でも、作家さんを応援して喜ぶこと、作品を暮らしに取り込んで味わうことを趣味にできて、良かった。

 

m-nakanaka-komachi.com

 

孤独の詩人

 尊敬する紙文具屋さんの作品に猫が出てくる。それはこの詩人の作品がモチーフになっているらしい。そういった経緯で名前を知り、書店でその詩集をみつけ、思わず手に取った。「生活者としては孤独な生涯を送ったが」「孤独を求めて都市の群衆の中をうろつき」そんな孤独な詩人の内面を、知りたいと思った。自分は孤独である、それを受け入れることが生きる上で必要だということを、尊敬する文筆家から教わったからだ。

 

自らをみじめな存在とし、その自らを優しく抱いてくれと女に請う。その情景が、ひたすら気分を重くさせる。と同時に、自分もみじめな存在であることに変わりないんだと気づかせ、だからこそいまの自分が置かれている環境は、貴重で、幸福で、丁寧に扱うべきなんだと気づかせてくれる。

 

萩原朔太郎詩集 (ハルキ文庫)

萩原朔太郎詩集 (ハルキ文庫)

 

 

孤独であること。そのことを受け入れるからこそ、他人との出会いを大切にすることができる。そう思った。